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[マレーシア]ろうけつ染め実習、撮影年月:2002年10月13日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(1)中学部の家庭科の実習です。マレーシアの民族衣装に使われる、ろうけつ染めの実習です。蝋を溶かしたもので、線をかいているところです。(2)蝋が塗られていない部分を、染色しているところです。この後、熱して蝋を溶かします。そうすると、蝋の部分が白く残ります。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]イスタナ日本庭園、撮影年月:2002年8月21日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。ジョホールの王様が持っている庭園です。(1)一般に無料で公開されています。昭和天皇から贈られた日本庭園の鳥居です。(2)池には、錦鯉が泳いでいます。そして茶室があります。まわりの木々を見なければ、日本のようです。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]キャメロン高原にあるホテル「レイクハウス」、撮影年月:2002年8月12日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:キャメロン高原。世界的な避暑地であるキャメロン高原。イギリス統治時代に建てられた古く格式の高いホテルです。マレーシアでは、クーラーのない数少ないホテルです(必要がないからです。安いホテルでは暑くてもクーラーがないところもありますから)。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]キャメロン高原の紅茶畑、撮影年月:2002年8月11日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:キャメロン高原。マレーシア中央部にあるキャメロン高原のお茶畑です。見渡す限り一面の茶畑です。ここでは、主にインド系の人が働いています。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]コタティンギの滝、撮影年月:2002年9月28日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル郊外。ジョホール郊外のコタティンギの滝の様子です。プールのように水があるところでは泳ぐ姿が見られますが、これは珍しい光景です。現地の人は、あまり泳がないようです。ジョホール郊外のコタティンギの滝壺の部分です。暑いので水浴びをしています。気持ちが良いようです。コタティンギの滝は3段になっていて、その最上部の滝壺です。若いアベックや家族連れが多いようです。水着を着て泳いでいたのは、中国系の子ども2、3名だけで、他は写真のようにTシャツのままで泳いでいました。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]コーラル・ツリー(デイゴ)、撮影年月:2002年10月13日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。シンガポールでもよく植えられている木です。花の形が蝋燭の炎のようで紅色です。一度にたくさん咲くのでよく目立ちます。デイゴという名で沖縄県の県花です。マメ科。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール動物園へ写生(ジョホール日本人学校生徒の活動)、撮影年月:2002年7月19日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール動物園。小学部の1、2年生が、写生に出かけました。動物園の大サービスでニシキヘビに触らせていただきました。日曜日には、ニシキヘビに触ることや、象に乗ることも有料になるそうです。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校のプール、撮影年月:2002年6月4日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。2年前(2002年)にプールを造りました。25m×10mです。熱帯の国ですから1年中泳ぐことができます。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校の全景、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(1)学校の南にあるコンドミニアム(日本でいうマンション)は、18階建てです。そこに上って学校の写真を撮りました。(撮影日2001年11月)、(2)本校の西にある公園から、池越えに学校を見たところです。大きな建物が体育館です。(撮影日2002年11月29日)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校の前庭、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(1)ジョホール日本人学校の前庭です。正面に見える植え込みは、2001年度に常陸宮様が来校されたときのお手植えの椰子の木です。(撮影日2002年3月21日)(2)児童の全員が登校にスクールバスを使っています。ジョホールのあちこちから来るため、6台のバスを使っています。一番遠い子どもは、朝7時に出発になります。8時には全員がそろいます。(撮影日2002年5月15日)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校の図書館、撮影年月:2002年6月4日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。本校の図書室です。ジョホールには、ここと日本人会の図書室にしか日本語の本はありません。当地では、日本の本はとても貴重です(シンガポールには紀伊国屋書店があり、日本の本を購入できます。本によって違いますが、大体日本の1.3倍程度の値段です)。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校の運動場、撮影年月:2002年6月4日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。マレーシアの学校の運動場は、芝生を敷いています。100mの直線がとれる運動場です。運動会のときは、芝生に除草剤を使って線を引き、その上に石灰をまきます。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校正門前の朝焼け、撮影年月:2002年10月29日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。マレーシアは、1年中サマータイム制を取っているので、夜明けが遅いのです。通勤する時間はまだ暗く、学校に着くころに朝焼けが見えてきます。学校の前の道で撮りました。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ドリアンの木、撮影年月:2002年8月10日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:キャメロン高原。果物の王様「ドリアン」の木です。道沿いにたくさんあります。とても固く、とげのある実が頭の上に落ちると死ぬこともあるそうです。明け方に落ちるそうですが、このとき1つだけ落ちて転がってきました。寝坊のドリアンだったのでしょうか。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]パパイア、撮影年月:2003年3月8日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル日本人墓地。パパイアは、熱帯の代表的な果物です。木の形が珍しいのですぐに分かります。実は、熟すと黄色やオレンジ色になります。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ブルーウエーブホテル前の郵便ポスト、撮影年月:2002年3月17日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。マレーシアの郵便ポスト。町の所々で見かけます。日本より数は少ないようです。確実な方法は、郵便局の中で入れることです。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]マサイの町、撮影年月:2003年6月27日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。ジョホールの旧中心部、マサイ地区のバスセンターの前です。建物は、3階建てで、1階が商店になっているのは、ここジョホールでは典型的な商店街です。車は、路上に駐車クーポン券を使って駐車しています。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ユーラシア最南端の碑 タンジュンビエン(タンジョン岬)、撮影年月:2002年7月28日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:タンジュンビエン(タンジョン岬)。マレーシアは、ユーラシア大陸の最南端地域があります。ジョホールより車で2時間ほどで着きます。現在観光地として整備しているところです。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]交通標識(警笛禁止と時速70Km制限)、撮影年月:2002年8月20日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。(1)日本ではあまり見ない標識、警笛(クラクション)禁止です。これは、王様のPOLO倶楽部の近くで撮りました。POLO用の馬を飼っている関係で、馬を怯えさせないためのようです。(2)市街地で普通に見る速度制限です。こちらでは、日本に比べて制限速度は高めに設定しています。別に道が整備されているわけではないのですが。したがって、事故も・・・。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]交通警察の白バイ(時計台広場にある軍事エクスポにて)、撮影年月:2003年1月26日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。ジョホールでの軍事エキスポです。戦闘機や装甲車に混じって、交通警察の白バイがありました。HONDAの750ccで、日本の赤色灯を青色に変えただけのように見えました。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]国境コーズウエイ(シンガポール側より)、撮影年月:2003年3月29日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:シンガポールのウッドランド。シンガポール側から見た、国境の道「コーズウエイ」です。もうすぐ橋の建設にマレーシア側だけ取りかかります。この風景も、あと2、3年で終わりでしょうか。ここを、毎日5万人以上の人が行き来しています。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]時計台広場でのスポーツ(バスケット)、撮影年月:2002年5月11日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル。常夏の国でも、炎天下でスポーツは行われています。主に土曜日に集まって大会をしているようです。写真は女子のバスケットボールです。マレーシアでトゥドゥンと呼ぶベールは、運動のときも被っています。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]椰子のプランテーション、撮影年月:2002年9月13日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:デサル近郊。マレーシアで一番よく見かける風景です。パームオイルを採るための椰子のプランテーションです。25年で植え替えるそうです。これは、かなり大きくなったものの様子です。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]ジョホール日本人学校の秋の遠足、撮影年月:2002年11月22日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市郊外にあるブキット・ラヤン・ラヤン公園。ジョホール郊外の公園へ秋の遠足のときの写真です。ここでは毎年、国際凧フェスティバルが開かれ、日本からの参加者(参加凧)も見られます。今持っているのは、自分で作ったマレー凧です。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]秋分の日の影のかたち、撮影年月:2002年9月17日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(1)北緯1度のジョホールバルでは、1年に2度、影がなくなります。日本の春分の日と秋分の日の前後です。この日、影がなくなりました。人間だとこのような影になります。(2)影がなくなる日の南中時刻は、ここマレーシアでは午後1時です。太陽の動きより1時間、時間の方が早いのです。バスケットのゴールの真下の写真です。柱の影がなくなっています。このころ、よく曇るので、今まで4回のチャンスの中で、うまく写真が撮れたのはこのときだけでした。(3)これは、バスケットのゴールの全景を写したものです。柱の影がありません。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]運動会(練習風景・徒競走・マレーダンス)、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(1)練習風景:運動会の練習風景です。黒いラインは、除草剤をまいたところです。後ろのテントは、運動会当日用のものです。暑いので、見学者も児童生徒もテントの下で休んだり見学したりしています。(撮影日2002年6月4日)(2)徒競走:運動会の当日です。芝生のところが石灰で白線になっています。これは小学部高学年の徒競走です。一番先頭は、交流校の女の子です。裸足の子どもが多いのですが、とても速く走ります。(撮影日2002年6月9日)(3)マレーダンス:交流校の小学生によるマレーダンスです。マレーダンスは、ゆったりとした踊りが多いようです。(撮影日2002年6月9日)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
ニャチャン川の河口に面したポー・ナガル寺院は、チャムパー王国の時代、8世紀から13世紀にかけて造られた、ヒンドゥー教寺院の遺構。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ハノイの聖ジョゼフ教会は、1886年に創建されたカトリック教会。1900年に改築され、現在のようなネオ・ゴシック様式の建物になった。別名、ハノイ大教会。その名の通り、今でもハノイ最大の教会として、国内外の信者や、観光客を惹きつけている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ロンビエン橋は、ホン川にかかる、長さ約1700mの鉄製の橋。フランス植民地政府によって、1902年に完成された。ベトナム戦争中は、アメリカ軍による爆撃を何度も受けたが、その度に補修され、創建当時の原型を留めてきた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
インドシナ戦争およびベトナム戦争に関する資料が豊富な、ハノイの軍事博物館。館内には、戦車をはじめ、両戦争で実際に使用された武器が数多く展示されている。博物館前の飛行機は、ソ連からの援助(お下がり)でもらったミグ21型戦闘機。奥の国旗掲揚台は、高さ33.4mで、展望台にもなっている。もともとはハノイ王宮の物見櫓として、1812年、阮(グエン)朝初代皇帝ザーロン帝の命により建てられた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
アヤ・ソフィア(ギリシャ語名ハギア・ソフィア)聖堂は、時の東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命で建立され、537年に完成した、いわゆるビザンティン様式の代表的建築である。その後、ギリシャ正教の総本山として君臨し続けたが、1453年、オスマン帝国にコンスタンティノープル(現イスタンブール)が占領されると、イスラムのモスクに改築された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
くるくる回る旋回舞踊の教団として有名なメブラーナ教の始祖メブラーナが祀られている。現在は博物館として一般に公開されている。メブラーナは、イスラム神秘主義の13世紀の宗教家。コンヤは、イスラム国家セルジューク朝(12~13世紀)の首都で、シルクロードの重要な交易拠点としても発達した。
岐阜県各務原市 宮脇實也
イスタンブールを代表するモスクで、世界遺産の歴史的建造物である。6本のミナレットと大ドームをもち、内部は青いタイルとステンドグラスで彩られ、一般的にブルーモスクと呼ばれている。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1616年に完成。
岐阜県各務原市 宮脇實也
文廟とは儒教の開祖、孔子を祀る廟のこと。1070年、当時ハノイを都にベトナム北部を支配していた李朝政権によって建立され、1076年にはベトナムで最初の大学が併設された。李朝以来の歴代ベトナム王朝は、中国に倣い、儒教と大乗仏教を国教とし、1075年以来、科挙も実施していた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
トビリシは、4世紀にはその名が書物に登場する、歴史の古い町だ。5世紀末にグルジアの首都になった後も、アラブ、モンゴル、トルコ、ペルシャ(後のイラン)、ロシアといった大国の侵略を受けたが、一方では、様々な民族がこの町に流入し、南カフカスの交易拠点として重要な役割を果たすことにもなった。トビリシ市内には、そんな歴史の積み重ねを感じさせる建物が、今もたくさん残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
南シナ海に面した町、ニャチャンは、古くから良質の漁港として栄え、現在もベトナム南部で最大の漁港だ。また、フランス植民地時代からビーチリゾートとしても知られていた。ドイモイ(刷新)政策以降は観光事業も自由化され、外資も導入されて、今やベトナムを代表するリゾート地の一つになった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
狭い通りがいくつも錯綜する、ハノイの旧市街。19世紀末、フランス統治下での再開発以来、ほとんど変わることのない街並みが今も残る。もっとも最近では、バイクと外国人観光客が急増し、以前とはかなり雰囲気を異にしている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
週末の金土日の夜、ハノイの旧市街のドンスアン市場からホアンキエム湖までの大通りは歩行者天国となり、大勢の人々で賑わう。いつもは早くに店仕舞いする通り沿いの店も遅くまで営業する他、食べ物や小物を売る露店がずらりと並ぶ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
かつてベトナム中南部にチャムパー王国(192~1471)を建てた、マレー・インドネシア系の民族、チャム族。その末裔は今もベトナム国内に13万人ほど暮らしている。カンボジア国境に近い、メコン川沿いの町チャウドック周辺にも、少数ながらチャム族の人々が村を作って暮らしている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ホーチミン市の聖母マリア教会は、19世紀末に完成した、ロマネスク様式の赤レンガ造りが美しい建物。別名サイゴン(ホーチミン市の旧名)大教会とも呼ばれ、地元のキリスト教徒のみならず、国内外の観光客も惹きつけている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
イスタンブール新市街のランドマークともなっている、ガラタ塔。塔の高さ67m。地上53mの展望台からは、イスタンブール市内が一望できる。周辺は、一応新市街に分類されているが、実は13世紀から15世紀頃の建物も残る、非常に歴史の古い街だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
[マレーシア]日本人墓地の掃除、撮影年月:2002年7月25日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人墓地。(1)(2)日本人会が行う春秋の供養の前に、日本人学校の児童生徒で墓地の清掃奉仕を行います。落ち葉で、ゴミ袋はすぐにいっぱいになります。汗だくになりながら、がんばります。(3)掃除を終え、きれいになったお墓や石碑に蘭のお花を供えます。蘭の花が一番長持ちするのです。(4)日本人墓地の春の清掃後の写真です。このようにお墓を並べています。日本人会が管理する前は、うっそうとしたジャングルだったそうです。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]現地校との国際交流、撮影年月:2002年7月25日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市郊外にあるタマンリンティンⅠ校。(1)小学部1、2年生の国際交流です。交流先の現地校(タマンリンティンⅠ校)に行って、マレー語を教わっているところです。(撮影日2003年2月14日)、撮影場所:ジョホール市内にあるジョホール日本人学校。(2)現地校(タマンリンティンⅠ校)の児童を本校(ジョホール日本人学校)に迎えての国際交流の一コマです。日本の習字を体験してもらいました。漢字を書いたのですが、とても上手でした。絵として見ていたようです。(撮影日2002年7月25日)(3)「友」という字ですが、見てのとおり日本人児童顔負けのうまさでした。(撮影日2002年7月25日)(4)家庭科室では、日本茶の体験をしました。お茶の入れ方、急須の使い方、そしてお茶の試飲です。こちらの飲み物は、何でも甘いのです(お茶もありますが、これも甘いのです)。初めての経験でしたが、おいしく飲めた児童と、苦くてやっと口をつけただけの児童に分かれました。(撮影日2002年7月25日)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
ベトナムの首都ハノイの官庁街の中にある旧ハノイ城址は、別名、昇龍(タンロン)城ともいう。1010年に李朝(1010~1225)の太祖(974~1028)が、当時タンロンと呼ばれた現在のハノイに都を置いて以来、1802年に阮(グエン)朝の嘉隆(ザーロン)帝がフエに遷都するまで、歴代ベトナム王朝の王城であった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
(1)エフェソス・アルテミス神殿跡: 紀元前7世紀から紀元3世紀にかけてエフェソスに存在したアルテミスを奉った大理石の神殿。ギリシア・アテネのパルテノン神殿より大きな神殿だったようで、世界の七不思議の一つにあげられている。(2)(3)エフェソス・クレテス通りから見たセリシウス図書館: セリシウス図書館は、ローマ時代のアレキサンドリア、ベルガマと並ぶ世界三大図書館のひとつである。
岐阜県各務原市 宮脇實也
(1)カッパドキア: カッパドキアは、火山噴火によって堆積した火山灰と溶岩層が雨や風に浸食されて作られた世界に例のない奇岩地帯である。(2)カッパドキアのウチヒサールの要塞: 要塞のあったウチヒサールには、岩をくり抜いた住居が密集し、SF映画に出てきそうな景観を見せている。
岐阜県各務原市 宮脇實也
撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。宗教ばかりか政治や社会の中心でもある大モスクを核とし、そのまわりに活気ある商業空間(スークあるいはバザール)が広がっています。小さな無数の店舗が並び、その背後には中庭をもつ隊商宿の建築(ハーンあるいはキャラバンサライ)が置かれています。また、社交場となる公衆浴場やマクハー(コーヒー店)があちこちに配され、全体として、高密度ながらゆとりのある高度に発達した都市空間を形づくっています。ラグビーボールを大きくしたような形のすいかが山盛りにならんでいます。日本のものより甘くないようです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。宗教ばかりか政治や社会の中心でもある大モスクを核とし、そのまわりに活気ある商業空間(スークあるいはバザール)が広がっています。小さな無数の店舗が並び、その背後には中庭をもつ隊商宿の建築(ハーンあるいはキャラバン・サライ)が置かれています。また、社交場となる公衆浴場やマクハー(コーヒー店)があちこちに配され、全体として、高密度ながらゆとりのある高度に発達した都市空間を形づくっています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。キャリーム・ハーン城塞の近所にあった公衆電話です。カード式の電話機も台数は少ないのですが、存在します。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]エマーム広場(マスジェデ・エマーム)、撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。ナグシェ・ジャハーン広場ともいい、「全世界の図」という意味があります。アッバース1世は、政治・経済・信仰のすべてが集約された最高の広場を造ろうと計画しました。建造に着手したのは1598年。その後完成には何十年とかかったといわれています。有名な「イスファハン・ネスフェ・ジャハーン(エスファハンは世界の半分)」という言葉はこの広場のためにある、といわれており、広場そのものが巨大な美術品かオープン・ミュージアムの様相を呈しています。ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。イスラーム革命以前は「王の広場」と呼ばれていました。写真(3)は、マスジェデ・エマームの中庭です。写真(4)はマスジェデ・エマーム内部の説教者の席です。写真(5)はマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー、写真(6)(7)はマスジェデ・エマーム(イマーム広場)全体の景観です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]ガシュカイ族の衣装、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランの古い文化を伝えるファルス地方の遊牧民ガシュカイ族は、女性の華やかな衣装と、明るくカラフルで質の高い絨毯やキリムを織ることでも知られています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]キャリムハーン城塞、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。シラーズのランドマーク。ザンド朝の王、キャリムハーンの居城として使われていました。四隅に円塔がある四角形の城塞で中庭には大きな池があります。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イスラームの女性の服装としてチャードルが有名ですが、イランの街を歩いていても、チャードルを着ている女性は意外に少ないのです。ルーサリー(スカーフ)や、マーグナエ(頭からすっぽりかぶるもの)が多いようです。写真の彼女たちが着ているのがチャードルで一枚の布を体に巻きつけるようにして身につけます。足首までの長さがあり、比較的フォーマルな格好のようです。彼女たちは先生の引率で城塞の見学に来ていました。チャードル姿を撮影したかったので、引率の先生に頼んだところ、生徒を集めてくれました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。キャリーム・ハーン城塞は、ザンド朝の創始者キャリーム・ハーンの居城でした。シラーズ市の中心部にある。子どもたちは先生に引率されて見学に来ていました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。シラーズにある有名な叙情詩人の霊廟です。内部は花をあしらったタイルで飾られていて、外は美しいペルシャ式庭園になっています。30年間も中東や北アフリカ、インドなどを放浪し、70歳を過ぎてシラーズに戻り、『ゴレスターン(薔薇園)』などの代表作を書き上げました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。イスファハンの街を東西に横切るように流れるザーヤンデ川。川辺でたくさんの人がピクニックをしていました。もちろん女性はチャドル着用なので、緑色がきれいな芝生の上でとっても目立ちます。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。シラーズで最も有名なモスクです。礼拝を行う部屋の内壁はガラス張りです。「シャー・チェラーグ」とは「ランプの王」の意味です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。バザールの中の運搬手段はこの手押し車だけです。大勢の人で込み合う中を掛け声をかけて手押し車の荷物がいきかいます。 カーペットなど大きな物を買うと頼まなくても車まで運んでくれます。1回1000RIs(リアル)程度のチップを渡します。40円くらいになるでしょう。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の休み時間、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランには義務教育制度はないが、希望すれば就学することができます。小学校5年、中学校3年、高等学校4年、大学4年の制度で、9月22日までに満6才になっていれば小学校に入学でます。授業料、入学金は無料ですが、親の収入によって寄付もあります。 新学期は9月23日から始まります。2学期制で9月23日~3月21日、3月25日~6月25日に分かれています。イランの教育制度は全国同じで、南部では夏は暑くなりすぎるため3カ月も夏休みがあります。 小学・中学・高等学校では男女別学で大学では男女共学になっているます。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の図書室、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。図書室に入ってみますと、絵本が置かれていました。野間国際絵本原画、コンクールで入賞しているイラン人も数多いのです。特に『きのうの遊び』のアナヒタ・ティムリをはじめとする女性絵本作家が活躍しています。色鮮やかな絵が多いようです。驚いたことには、王政時代の児童書の扉には国王夫妻の写真が載っていましたが、イスラーム革命後には、ホメイニ師の写真にとってかわったということでした。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の授業の様子、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。教室の後ろから正面を見た様子で、左の女性が先生です。ホメイニ師とハメネイ師の写真の上にある文字は、イスラーム教の教えか、もしくは学校の教育目標でも書いてあるのかもしれません。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の教室の様子、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。小学校(5年間)、中学校(3年間)、高校(3年間)、大学受験準備のための予備教育課程(1年間)および大学の5段階。通常6才で小学校に入学します。義務教育制度は存在しないが、憲法では「政府は中等教育の終了まで、全国民に対し無料の教育を提供する義務を負う」旨規定されています。公用語はペルシャ語(ファールスィー)。地方語としてアゼリー語、クルド語、アラビア語などの、多言語が使用されています。小学校1年~5年生を対象に、厳密な意味での語学教育ではないが「コーラン」(アラビア語)が行われています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の教科書、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。この小学校では英語を教えているということで、教科書を見てみました。「abc」「A to Z」の本は単語とイラストのぬりえになっています。右上はABC順の単語の本、左上はそれより進んで体の部位の英語を覚える教科書です。「LET'S CHANT LET'S SING」は音楽の教科書です。(2)の写真は教科書を開けてみたものです。「Lion King」は初心者用のReaderの本です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の校庭、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランには義務教育制度はないが、希望すれば就学することができます。小学校5年、中学校3年、高等学校4年、大学4年の制度で、9月22日までに満6才になっていれば小学校に入学でます。授業料、入学金は無料ですが、親の収入によって寄付もあります。 新学期は9月23日から始まる。2学期制で9月23日~3月21日、3月25日~6月25日に分かれています。イランの教育制度は全国同じで、南部では夏は暑くなりすぎるため3ヶ月も夏休みがあります。 小学・中学・高等学校では男女別学で大学では男女共学になっています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の様子(校舎・正門)、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランには義務教育制度はないが、希望すれば就学することができます。小学校5年、中学校3年、高等学校4年、大学4年の制度で、9月22日までに満6才になっていれば小学校に入学でます。授業料、入学金は無料ですが、親の収入によっては寄付もあります。 新学期は9月23日から始まります。2学期制で9月23日~3月21日、3月25日~6月25日に分かれています。イランの教育制度は全国同じで、南部では夏は暑くなりすぎるため3か月も夏休みがあります。 小学・中学・高等学校では男女別学で大学では男女共学になっています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の理科の授業、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。小学校1年生で、母国語であるファールスィー、算数、理科、図画工作、体育を学びます。日本同様、小学3年生から社会科を学びますが、理科については1年生から学んでいます。このように、イランでは理数系の教育に力を入れています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の算数の授業、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。左端の女性は、イスマイール先生です。黒板の上の写真はホメイニ師とハメネイ師。ペルシャ語はわからないが、黒板の様子からすると、算数の授業中だったようです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校の視聴覚教室、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。六角形の机に丸い椅子、テレビとホワイトボードが設置されています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校3年生の教室(1)、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。Ehsan elementary school、3年生の教室です。ひょんなことから、イランの小学校を訪問することになりました。ちょこっと見るだけのつもりが、授業中の教室に入れていただけることになりました。校長先生から紹介され「日本からのお客様」ということになりました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]シラーズ市内の小学校3年生の教室(2)、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランでは、小学校から男女別学で、ここは男子小学校です。英語を学習しているということで、英語で「日本について知っていること」「好きなスポーツ」を聞いてみました。日本について知っていることは「カラテ」、好きなスポーツはサッカーと、答えてくれました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市。イランの飲み物は、大きく分けて2種類あり、ティー系と炭酸系です。ティー系はチャイ・紅茶で、炭酸系はザムザム(コーラ)・オレンジジュースなどです。チャイ・紅茶・ブラックティー系と、コーラ・炭酸オレンジ系です。町の生ジュース屋とか、ノンアルコールモルト飲料などありますが やはり、基本的にこの2種類。チャイは勿論ミルクは入ってません。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。イスファハンの南を流れるザーヤンデ川にかかるスィー・オ・セ橋です。橋上部のアーチが33あることからペルシャ語で「スィー・オ・セ」とついた名前がついたそうです。2階部分は、昔は王様専用の夕涼みの場所だったそうです。今は1階にチャイハネ(喫茶店)があり、紅茶や水タバコを楽しんできました。長さ約300m、幅14mでイスファハン最大の橋だそうです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市。絨毯や各種工芸品のお土産物屋が軒を連ね、裏の方には職人の工場もあります。ジャーメ・モスク(金曜モスク、イランでは金曜日が休日で礼拝日となっています。)の近くに来ると、古いアーケードには食料品、香辛料、食器、衣類などのお店がぎっしり並びにぎやかです。歴史的な建物にあふれる生活臭が面白く感じられます。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市。テヘラン市で入ったペルシャ料理レストランの様子。雰囲気のよい店で、中は間接照明で薄暗く、イランの伝統的な音楽の生演奏を聞きながら食事ができます。写真のような椅子とテーブルの席のほか、日本の座敷のような席もあり、絨毯がひいてあります。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市街中心部。テヘラン市は人口がおよそ650万にものぼる大都会である。写真はテヘラン市中心部のTehran Kowsar(宿泊したホテル)のすぐ近くの大通りの朝の様子です。通勤や通学の車やバスが忙しく行き交い、想像していたテヘランとは大分違っていました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]ハーフェズ廟、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。ハーフェズ(1325-1389)は、イランの代表的な詩人の一人です。墓石には彼の詩が刻まれています。廟には、チャイハーネ(喫茶店)があり、水たばこも楽しめます。また、廟の売店には、大変奇麗な装丁の詩集が販売されています。日本ではハーフェズの詩集は出版されているらしいが、入手は難しいため、ここで購入しました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]ハーフェズ廟の近くの公園で遊ぶ親子、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。ハーフェズ(イランの有名な詩人)の廟の前にある公園で遊んでいた親子の様子。子どもの格好は様々ですが、母親は皆チャードルやマーグナエを身につけていて、奇妙な感じがしました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:イスファハン市。宗教ばかりか政治や社会の中心でもある大モスクを核とし、そのまわりに活気ある商業空間(スークあるいはバザール)が広がっています。小さな無数の店舗が並び、その背後には中庭をもつ隊商宿の建築(ハーンあるいはキャラバン・サライ)が置かれています。また、社交場となる公衆浴場やマクハー(コーヒー店)があちこちに配され、全体として、高密度ながらゆとりのある高度に発達した都市空間を形づくっています。バザールに入ると、香辛料の香りがただよってきます。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市。イランの女子高生は、制服は紺色のズボンに長そでのコートで、頭から胸のあたりまですっぽりと隠れる黒いマグナイ(ずきん状のもの)をかぶって通学します。でも、イランの高校生も日本の高校生と同じように、とてもおしゃれです。子供のころからピアスをする習慣があり、学校でも認められています。また、身だしなみとして、オーディコロンはつけてもかまいません。軽い香りのものが人気で、私は花の香りが好きです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市 絨毯博物館。有名なペルシャ絨毯は、イランの人々にとって日用品であると同時に、イランが世界に誇る伝統芸術でもある。丁寧に織られたものは、大変長持ちし、使うほどに味が出てくるそうです。テヘランの絨毯博物館では、古いものでは500年近く昔の絨毯を見ることができる。裏を見たとき、およそ7センチ四方の単位で糸がどの程度細かく密集しているかが絨毯の品質のひとつの目安で、絨毯を買うときは、この数字(35とか60とか)を教えてもらえる。同じようなデザインでもこの数字の大きいものは価格が非常に高くなります。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。アルタクセルクセス2世の王墓(ペルセポリス(世界遺産)遺跡東の丘の上)からはペルセポリス(世界遺産)が一望できます。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。アパダーナはダレイオス1世によって建設された宮殿です。属領の朝貢者が王の謁見を受けるためなどに使用されました。一角獣(ユニコーン)を襲うライオンのレリーフは、ライオン(王)の強さを象徴しているそうです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。アルタクセルクセス2世(位前436年頃~前358)の王墓。彼の代よりペルシア帝国は衰退を始める。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。顔は人間、体は獣で羽を持つ、とても巨大な像です。正面と奥にもあり、柱の左右で対になっている。(写真1)奥の左側のものを横から撮影しました。人面の部分は偶像排斥の教えからイスラーム教徒によって破壊されています。(写真2)奥の左側のものを前から撮影しました。顔は人間、体は獣で羽を持つ像、とても巨大です。正面と奥にあり、柱の左右で対になっています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。人の大きさから柱の高さがわかります。柱頭の部分中央に梁がのっていたと考えられています。尾根にはレバノンスギが使われていたようです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。この像は、イラン航空のエンブレムのモデルになっています。とても紀元前のもとのはおもえないほど斬新なデザインで大迫力です。(写真1)木マ像とよばれ、鳥の顔とライオンの足を持っています。(写真2)この像はもともとは柱の柱頭として、柱の上にのり、梁を支えていたものと考えられています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。円形の台座の上に柱が立っていたようです。ペルセポリス(世界遺産)最大の広間です。丘の上に見えるのは、アルタクセルクセス2世の墓です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。ペルセポリス(世界遺産)最大の広間で、名前のとおり100本の柱の台座と倒れた柱の一部が散在しています。クセルクセス1世からアルタクセルクセス1世の時代にかけて建設された。王が朝貢者に謁見したり、家臣との会議に使われました。写真は、百柱の間の入り口の門で、いちばん上に行玉座が刻まれています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。百柱の間の入り口の門には、百人のレリーフが刻まれています。それぞれの人物が属州をあらわしているようです。ペルセポリス(世界遺産)には、他にもこのようなレリーフがたくさんあります。王の権力を表現しているものらしいです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[イラン]マスジェデ・ヴァキール(1)、撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。ザンド朝(1750-95)時代の代表的な寺院で、1773年に完成しました。現在はモスクとしては、使用されていない。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市郊外。。シラーズ市からペルセポリス(世界遺産)へ向かう途中で出会った羊飼いです。百頭ほどの羊を引き連れていました。これらの羊は数件の家から預かっている場合が多いようです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。イランの人たちも映画が大好きで、週末には長蛇の列が映画館の前で見られます。市内には映画館も多く、唯一の娯楽だと言う人もいます。ほとんど日本の映画館と同じシステムですが、入場料は日本円で60円ほどでとても安いそうです。公衆の場で婚姻していない男女が一緒にいることは禁止されているのですが、なぜか映画館は男女混合可となっており、デートをするのに適した場所となっているとのことです。映画館の前で長時間長い列を作り待っているのを見て、不思議に思っていたのですが、隠された事実を知り納得しました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。内容についての記憶はあいまいですが、王の業績を称えたものだったといわれています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2000年5月、撮影場所:テヘラン市。イスラーム教徒であるイランの女性は「チャドル」というマントのようなものを身につけなければなりませんが、小さい子どもたちは、ずきんのようなものをかぶります。1979年のイラン革命後、政府は服装規則を設け、特に女性に対しては「体の線を隠す服装を着用する義務」が課せられています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[ネパール]「モモ」を作っている女性、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラの街の小さな店の女主人が、「モモ」を作っている。「モモ」とはクミンやコリアンダーなどの香辛料をきかせたネパールの餃子で、蒸したものと揚げたものがあるが、彼女は油で揚げている。水牛肉を使っていた。
イー・ドリームズ
[ネパール]インターネットの店、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ネパールでは、まだ各家庭に電話線がひかれているわけではない。オールドバザールの街で見つけたインターネットの店(緑色の看板)では、電話も借りられる。FAXや国際電話も使用可能で、様々な場所で何軒も見かけた。
イー・ドリームズ
[ネパール]オールドバザールの街、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。かつてチベットとの交易でにぎわっていたポカラの中心地。今はさびれ、新しく出来たニューバザールの方がずっと賑わっている。古い家や寺院があり、現地の人々の生活ぶりがうかがえる。(中央の女性は旅行者)
イー・ドリームズ
[ネパール]カトマンズ市内、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。小高い丘より盆地である首都カトマンズをのぞむ。排気ガスのせいだろうか、曇っていた。盆地とはいえ標高1000mはゆうに超える。ネパールは8000m級の山々が連なる高地なので、2、3000mぐらいの地域は「丘」となる。
イー・ドリームズ
[ネパール]クマリの館、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。女神クマリの化身として崇拝される少女が住むクマリの館。窓枠の木彫りがみごとな3階建ての館で、非ヒンズー教徒は中庭にしか入ることができない。クマリは、上の窓からたまに顔を出すこともあるらしい。クマリとは生女神のことで、選ばれるにはネワール族のサキャ氏族で、目鼻立ちが整っているなど32もの条件を満たさなければならない。4、5才の時にクマリとして選ばれ、思春期までこの館に住み続ける。
イー・ドリームズ
[ネパール]ゲームをしている少年たち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。家の前にゲーム盤がおいてあり若い男性が興じている。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットから見える日の出、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。ポカラの北にあるサランコットから、日の出を見る。小丘に観光客が集まり、太陽が姿を現すと拍手が起こった。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットから見たマチャプチャレ、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。ポカラのシンボルとも言うべきマチャプチャレは、標高6993m。山の名前のマチャプチャレは、「魚の尾」の意味で、山に入って西から見ると、頂上が魚の尾のように二股に分かれているという。ポカラから見るとマチャプチャレはほぼ真北に位置するので、北極星が山の真上に輝く。神聖な山なので登頂できない。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットのおじいさん、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。サランコットの民家でミシンをかけるおじいさん。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットの子どもたち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。学校に行くまでの時間を利用して、勉強をする子どもたち。ネパールでは毎年進級テストが行われる。
イー・ドリームズ
撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット、朝の光を浴びている、サランコットの小丘のそばの小さな家。壁に「WAR」の文字がある。サランコットの小丘のそばの小さな家に住む女性と子ども。サランコットの小丘のそばの小さな家に住む子ども。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットの小学校、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。サランコットの小丘のすぐそばにある公立の小学校。校庭に朝早くやって来た兄弟がいた。兄は小学4年生で、丁寧に英語で答えてくれた。ネパールでは公立の小学校は授業料が無料である。午前10時の始業時間に集まり朝礼をする子供達。軽い体操をした後、各自の教室に入り授業を始める。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットの少女たちと、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。学校に行くまでの時間、家の手伝いをする女の子たち(中央は旅行者)。
イー・ドリームズ
[ネパール]サランコットの高い丘から見たマチャプチャレと里、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。展望台があるサランコットの高い丘から見たマチャプチャレの山(標高6993m)と山間の里。マチャプチャレは神聖な山なので登頂してはいけない。
イー・ドリームズ
[ネパール]セカンダリースクール校庭、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラの街のセカンダリースクールの校庭。制服を着た男の子たちはバスケットに興じている。男女分かれて遊んでいる。また、背景のマチャプチャレの山が美しい。
イー・ドリームズ
[ネパール]タシリン・チベット村の子どもたち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。中国軍の侵入によるチベット動乱の時ネパールに逃れて来たチベット難民のキャンプのひとつ。子どもたちはとても人なつっこく明るく迎えてくれた。
イー・ドリームズ
[ネパール]ダルバール広場(王宮広場)、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。旧市街の中心地であるダルバール広場。左の神はシヴァ神の化身のひとつ、恐怖の神カーラ・バイラヴ。刀を振り上げ生首をぶらさげているが、どこか愛らしい。新年のお祝いで多くの供物が捧げられていた。
イー・ドリームズ
[ネパール]ダンプスの村とマチャプチャレ、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ダンプス。標高1800m近いダンプスの村から見たマチャプチャレの山(6993m)。山の名前のマチャプチャレは、「魚の尾」の意味で、山に入って西から見ると、頂上は魚の尾のように二股に分かれているらしい。神聖な山なので登ってはいけない。
イー・ドリームズ
[ネパール]ダンプスの男の子と女の子、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ダンプス。標高1800m近いダンプスの村でひとりで遊ぶ男の子。
イー・ドリームズ
[ネパール]ネパールで使われているカレンダー(ヴィクラム暦)、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。ホームステイしたお宅でみつけた、ネパールで使われているカレンダー。ネパールでは民族によって数種の暦があるが、これは公式のヴィクラム暦。1998年はこの暦では2055年ということになる。土曜日がお休みで、12月29日は、国王の誕生日のため国民の休日である。
イー・ドリームズ
[ネパール]ネパールの民族音楽、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。フィッシュテイルロッジ(ホテル)でのネパールの民族音楽の演奏。両面太鼓とオルガン、そして唄。
イー・ドリームズ
[ネパール]フェディの里、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・フェディ。ポカラから車に乗り30分程度で、フェディに着く。アンナプルナ・トレッキングはフェディからも始めることができる。フェディから日の出を見る。
イー・ドリームズ
[ネパール]ポカラの公共水道、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。各家庭に水道がひかれていない為、公共の水道で洗濯をする女性たちと、そのそばで遊ぶ子どもたち。ポカラの街の至る所からマチャプチャレの山が見える。標高差6000mもの山がすぐ30km先に迫る。(中央のリュックを背負った女性は旅行者)
イー・ドリームズ
[ネパール]ポカラの女性たち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラは12月でも昼間は暖かく、家の前にでてのんびりとおしゃべりをしたり、編み物をしている女性たちに出会った。
イー・ドリームズ
[ネパール]ポカラの子どもたち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。路上で遊んでいる子どもたち。12月というのに、ゴムぞうりを履いている子どもが多い。裸足の子どももいた。ポカラの路上で出会った男の子。毛糸の帽子が可愛いが、ぞうりを履いていた。
イー・ドリームズ
[ネパール]ポカラの町並み、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。右から服屋、雑貨屋、散髪屋が並んでいる。昼夜の気温差は激しいが、日中は暖かく、服屋の店員は店の外で仕事をしている。
イー・ドリームズ
[ネパール]ポカラの路上にて、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラの街の屋台。自転車が多いが、中にはバイクも走っている。大人もやはり草履をはいているようだ。
イー・ドリームズ
[ネパール]ポーター、撮影年月:1996年1月、撮影場所:ネパール。エベレストなど8000m級の山々がそびえるネパール王国。首都のカトマンズでさえ標高2000mに位置するというお国柄。荷物を運んでくれるポーターも大変な重労働。荷物は文房具や本などで30kgもあった。
イー・ドリームズ
[ネパール]マチャプチャレ、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ダンプス。神聖な山で登頂禁止となっている、マチャプチャレ(6993m)。山の名前のマチャプチャレは、「魚の尾」の意味で、山に入って西から見ると、頂上は魚の尾のように二股に分かれているらしい。
イー・ドリームズ
[ネパール]小学校の教室、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。首都カトマンズのダルバール広場近くにある小学校の教室。英語の授業をしていたらしい黒板。(女性は旅行者)
イー・ドリームズ
[ネパール]小学校の時間割、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。サランコットの小丘のすぐそばにある公立の小学校の時間割。午前10時から午後4時まで、45分授業を7つ、昼休みは30分あるが、休み時間は無いのだろうか。
イー・ドリームズ
[ネパール]小学校の祭壇、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ。首都カトマンズのダルバール広場近くにある小学校の祭壇。キリスト教のお説教を聞く部屋で現地の子どもたち記念撮影。ここでクリスマスのお祝いもしたそうだ。ネパールはヒンズー教か仏教を信仰する人が多いので、街中でクリスマスの飾りを見ることはない。観光客が集まるホテルなどではデコレーションされている所もある。(手前左端は旅行者)
イー・ドリームズ
[ネパール]小学校の職員室、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・サランコット。サランコットの小丘のすぐそばにある公立の学校の職員室。教員は、校長も含め全部で7名。
イー・ドリームズ
[ネパール]揚げもの屋、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。オールドバザール近くの店で見つけた揚げ物屋さん。「ナマステ」と声が聞こえて来そうな店のディスプレイが印象的だった。
イー・ドリームズ
[ネパール]洗い物をする女性、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。オールドバザール近くの民家。女性が暖かい日なたで洗い物をしている。屋根には洗濯物が干されている。
イー・ドリームズ
[ネパール]洗濯物を干している女性たち、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラの街で洗濯物を干している女性たちに出会った。のんびりと地面や石の上に洗濯物を干していた。
イー・ドリームズ
[ネパール]田園風景、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・ポカラ。ポカラのダムサイド周辺の田園風景。ポカラの町はダムサイドとレイクサイドの2つのエリアに分けられる。西欧人は観光地化されたレイクサイドを好み、日本人などは静かな景勝地であるダムサイドを好む傾向にあるとか。牛は農業に欠かせない家畜である。ネパールでは就業人口の90%が農業を営む。日本も農業開発に関する援助を行っている。
イー・ドリームズ
[ネパール]石灰岩を砕く仕事をする人々、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ郊外。カトマンズ郊外で、石灰岩を砕く仕事をする人々。手仕事のため、1日中日なたに座って仕事をする。
イー・ドリームズ
[ネパール]12月の菜の花、撮影年月:1998年12月、撮影場所:ネパール・カトマンズ郊外。首都カトマンズから車で1時間半、ヒマラヤの山々を背景に菜のが咲き乱れている風景を見つけた。日本では菜の花といえば早春だが、ネパールでは晩秋の風物詩である。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラルンプール。ブキッナナス公園(パイナップルの丘の意)の丘の上、海抜94mの位置に立つ高さ421mの通電タワー。1996年に完成。展望台は世界第4位の高さを誇る。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。1800年にイスラム教徒であったインド系の資産家によって建てられた。ムーア建築の影響を受けたドームを持つ、ペナン島最古のモスク。イスラム教の安息日である金曜日には大勢のイスラム教徒が訪れる。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。中国福建省から1835年にペナン島に渡ってきたクー氏一族によって建てられた集会所兼寺院。屋根や柱に緻密な彫刻がほどこされ、ペナンで最も美しいと言われる。現在の寺院は1906年に再建されたもの。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。椰子は果肉の王を意味する中国語。 胚乳は70%の油脂を含み、幼果のうちは液状で飲料水になる(ココナッツジュース)。成熟し白濁したものはココナッツミルク、固まりはココナッツクリームとして料理などに利用できる。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。ペナン島のフルーツファームにて。コーヒーの歴史は古く、西暦900年頃には薬として使っていたという記述が残っている。門外不出であったコーヒーが、1699年、ジャワ島での栽培に成功。1706年にはコーヒーと苗木が東インド会社に出荷され、中南米にも広まっていった。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ペナン島・ジョージタウン。英国東インド会社のフランシス・ライトが1786年、最初に上陸したこの場所に築いた砦。「コーンウォリス」というのは当時の東インド会社の総督の名前。当初木の柵でつくられた砦は、囚人たちによって石壁に建て直された。「スリ・ランバイ」とよばれるオランダ製の大砲が、マラッカ海峡に向かって設置されている。もとはジョホール州に追われたスルタン(王)が所有していたもので、何故か大砲にふれると子宝に恵まれると伝えられている。
イー・ドリームズ
イギリス植民地時代の19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの自動車産業の勃興に伴い、ゴムの需要が高まり、マレーシアのゴム・プランテーションが活況を呈するようになった。ナイフで傷を付けると白い樹液が出てくる。これを固めてのばし、乾燥させると生ゴムのできあがり。ゴム・プランテーションの労働力不足を補うために導入されたのが、主として南インドからの低賃金労働者タミル人たちだった。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。ジャックフルーツでとドリアン。どちらも強烈な臭いを放つ果物。食感には違いがあって、ジャックフルーツは繊維質で歯ごたえがあり、ドリアンは柔らかくねっとりとしている。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラルンプール。ホテルの客室内のトイレ。 マレーシアでは一般的に紙は使わず便器脇にあるホースで洗う、いわば手動のウォシュレットだ。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。フルーツの王様と呼ばれ、アジアを代表する果物だが、臭いが強烈で、タイではほとんどのホテルで持ち込み禁止。食感は柔らかく、チーズに甘味を加えたような味がする。アルコールと一緒に摂ると血圧が上昇するので危険。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラ・ルンプール。1971年にロンドンに1号店を開店、現在では世界各地に100店舗もの店があるハードロックカフェ。ロックが流れる店内では、アメリカの家庭料理が楽しめる。この日はクリスマスで、店もそのように飾られてあった。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。ペナン島のフルーツファームにて。パイナップル(pineapple)とは、果実が松かさ、風味がりんごに似ているのでこの名が付いた。欧州では原住民の呼び方「ナナス」から「アナナス」と言う。実は葉叢から出る茎の先端につく。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ランカウイ島。ランカウイ島のビーチで見つけた、小さい透明の蟹(中央少し左)。すばしっこくすぐに小さな穴に逃げ込む。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:マレーシア・ペナン島。インド料理の食堂で食べたフィッシュヘッドカレー。香辛料やハーブがよく効いていて、その名の通り、魚の頭がそのまま入っている。漁師たちが魚の頭を食べ始め美味しかったので、地元の料理となったらしい。インドのケララ州からシンガポールへ来た料理人によって再現されたという説もある。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラルンプール。高さ452mの世界一高いビル。88階建てのツインビルで、2本のタワーは日本・韓国それぞれの会社が建設し、1998年に完成した。主に国営の石油会社ペトロナス社の社屋として使われている。KLタワーと共に、クアラルンプールのランドマークだ。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。バトゥ・フェリンギで最高の格式を誇るラサ・サヤン・リゾート。リゾート・ホテルは島北部のビーチに集中している。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラ・ルンプール。マレーシアのタクシー(TEKSI)。クアラルンプールでは料金メーターが使われているので値段交渉の必要がない。初乗りは2kmまでRM2で、それ以上は200mごとに10¢かかる。(1RMは約30円)深夜は50%の割増。赤色のタクシーは、市内専用です。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。女性が着用しているスカーフはマレーシアでは「トゥドゥン」と呼ばれるイスラム教徒の女性が外出時に着用する。女性は肌を露出してはいけないという、イスラムの教えによる服装だが、最近は着る人が減りつつある。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。女性が着用しているスカーフはマレーシアでは「トゥドゥン」と呼ばれるイスラム教徒の女性が外出時に着用するもの。男性はカタヤップという帽子をかぶっている。これはメッカに巡礼に行った人がかぶる帽子。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。東南アジアで多く見られる風通しの良い高床式の住居。現在でも人がすんでいるが、数は昔に比べると減りつつある。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ランカウイ島。ランカウイ島の西側パンタイ・ブラウ沿いのBerjaya Langkawi Beach & Spa Resort(ホテル)のマレー様式の水上シャレーとビーチ。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ランカウイ島。ランカウイ島の西側パンタイ・ブラウ沿いのBerjaya Langkawi Beach & Spa Resort(ホテル)のプライベートビーチ。海上の通路はボートに乗るためのもの。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ランカウイ島。ランカウイ島の西側パンタイ・ブラウ沿いのBerjaya Langkawi Beach & Spa Resort(ホテル)から見た海は静かだ。
イー・ドリームズ
[マレーシア]リゾート・ホテル「Palace of the Golden Horses」、撮影年月:2001年12月、撮影場所:マレーシア・クアラルンプール。Mines Resort City 内にあるホテル。1998年には、このホテルでAPEC会議が開催され、アジア各国の代表が集まった。1998年には、このホテルで開催されたAPEC会議では、各国首脳が中央に見えるタイルの上に立って記念撮影が行われた。Mines Resort City 内にあるホテル。シティ内にあるショッピング・センターへは、中央に写っているボートで行く事が出来る。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。マレーシアでは古くから凧揚げやコマ回しなどが親しまれていて、国際的な凧揚げ大会も開催されている。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラルンプール。1965年に完成した近代的なつくりのモスク。約8000人も収容できる巨大な礼拝堂で、18角の青い星型ドームと天を突く高さ73mの白いミナレットが特徴。ドームの18角はマレーシアの13州とイスラム教の五戒律を表している。カーペット敷きの礼拝堂には観光客は入れない。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ペナン島・ジョージタウン。1880年、ジョージタウンの歴史の始まりとも言えるこの地に、白いコロニアル建築の市庁舎(City Hall)が建てられた。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ペナン島・ジョージタウン。ジョージタウンの北東が旧市街。ライト通りから南に行くとチャイナタウンのような街があり、そのすぐ横にこのインド人街がある。各民族の歴史ある寺院が並んでいる。
イー・ドリームズ
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ペナン島・ジョージタウン。1897年、当時の中国人実業家がビクトリア女王の即位60周年を記念して建てた、ドーム型屋根の時計塔。60周年にちなんで、高さは60フィート(約18m)。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。ホテル・ラサ・サヤン・リゾート前のビーチで海水浴をする子どもたち。女の子は服を着たまま泳いでいた。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:クアラルンプール。クアラ・ルンプール中央駅から歩いて5分のところにある、国王の公邸イスタナ・ネガラ。公式行事やセレモニーの際にも使用される。 1928年に建てられた建物は、もとは中国人の豪邸であった。内部を見学する事はできない。
イー・ドリームズ
撮影年月:2001年12月、撮影場所:ペナン島。結婚式に集まった女性と子供達。女性はイスラム教の女性が着用する「トゥドゥン」と呼ばれるスカーフを頭に巻いている。後ろに新郎新婦用の席が見える。
イー・ドリームズ
[ミャンマー]シュエターリャウンパゴダの寝釈迦像、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ミャンマー・バゴー。首都ヤンゴンからバスで2時間のところにあるバゴーにある寝釈迦像。全長55m、高さ16m、耳の長さ1.2m、口の長さ2.3m、まつげの長さ2.3m。「シュエ」とは黄金の意味。7.7mもある足の裏にも金の装飾が施されている。
イー・ドリームズ
[ミャンマー]シュエダゴンパゴダ、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ミャンマー・ヤンゴン。首都ヤンゴンにあるミャンマー仏教の総本山。高さ99.4m。 全体に金箔が貼られており、上部には6000個以上のダイヤモンドやルビーがちりばめられている。「シュエ」とは黄金の意味し、「パゴダ」とは寺を現す。
イー・ドリームズ
[ミャンマー]四面座仏像、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ミャンマー・チャイプーン。首都ヤンゴンからバスで約2時間のチャイブーンにある巨大な仏像。四角い柱の四面に巨大な仏像があり、高さは30mもある。四体とも顔や爪の形が違っていて、それぞれ四季の着装をしている。
イー・ドリームズ
[ミャンマー]水中パゴダ(寺)、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ミャンマー・タンニエン。港町タンニエンにある水上のパゴダ。ここにはフェリーを利用して行く。
イー・ドリームズ
[ネパール]アッサム・バザールの風景、撮影年月:2001年3月、撮影場所:ネパール王国カトマンズ市内。写真(1)首都カトマンズ市の市場周辺のお米屋さんです。日本の米と少し違ってぱさぱさした米をはじめいろいろな豆、香辛料などを販売しています。写真(2)お米やさんです。お米のほかにも、小麦粉やとうもろこしの粉、また卵なども売っています。写真(3)小麦やにんにく、また、乾燥させた野菜や 木の実などを、売っています。一番左のざるにのっている升で、量り売りをします。写真(4)魚屋です。ネパールは山国なので、ほとんど生魚を食べません。乾燥させた魚や、缶詰めの魚をたべます。写真(5)バザールでは、通りの両端に、露店がずらりとならびます。一日中、活気にあふれ、とてもたくさんの人々でごったがえしています。写真(6)八百屋さんです。きゅうりが、日本のものとくらべて 太かったり、大根の色が、赤かったりしますが、味は、同じです。
東書Eネット事務局
[ネパール]カトマンズ市内の学校、撮影年月:2001年3月、撮影場所:ネパール王国カトマンズ市内。ホリー・ガーデン・ボーディング学校。小学校1年から高校1年までの学校です。その後は、カレッジへ2年間、ユニバーシティへ4年間通います。
東書Eネット事務局
[ネパール]チトワン国立公園、撮影年月:2001年3月、撮影場所:ネパール。写真(1)公園内を流れるナラヤニ川です。橋がないので、カヌーで対岸に渡ります。この川では、ワニやサイ、ゾウなどを見ることができます。写真(2)亜熱帯のジャングルでは、野生のバナナがあります。わたしたちが、普段たべているバナナは、種はありませんが、野生のバナナは、花をつけて、種ができます。写真(3)広大な園内を、ナラヤ二川とラプティ川が流れています。インドサイ、トラ、ワニの生息地として有名で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。写真(4)公園内では、エレファント・サファリを楽しむことができます。ゾウにのっているので、ほかの動物が出てきても安心です。写真(5)ゾウが、水浴びをしています。エレファント・サファリは、チトワン最大のイベントです。写真(6)1989年に、エレファント・ブリーディング・センターが設立され、ゾウが、飼育されています。1頭のゾウに3人のスタッフが、ついています。写真(7)木にぶらさがっている丸いものは、スズメバチの巣です。ネパールの昆虫は、蝶以外あまり調査されていません。
東書Eネット事務局
[ネパール]チトワン国立公園の動物たち、撮影年月:2001年3月、撮影場所ネパールチトワン国立公園。写真(1)公園内のラプティ川に生息しているワニです。この川では、水鳥や、淡水イルカも見ることができます。写真(2)ジャングルで、インドサイに会いました。このサイは、ゾウの背中にのって撮影している私達を威嚇しています。写真(3)チトワンには、野生のゾウはもういません。サファリ用のゾウを飼育し、繁殖させています。写真(4)ネパールには、世界中の鳥類の10%にあたる800種類以上が、生息しています。チトワンには、そのうちの450種類以上が、生息しています。写真(5)インドサイが、ラプティ川で水浴びをしています。日が暮れる頃、ジャングルに帰っていきます。写真(6)チトワンがあるタライ平原では、鮮やかな色彩を持つ、美しい熱帯の鳥が多く見られます。カトマンズの自然史博物館で、ほとんどの鳥の剥製を見ることができます。
東書Eネット事務局
[ネパール]バザールで売っている食べ物、撮影年月:2001年3月、撮影場所:ネパール王国カトマンズ市内。写真(1)バザールで売っているミニトマトです。その日の朝に、畑で採れた野菜は、大きなざるに入れて、自転車で運ばれ売られます。写真(2)日本のマカロニとよくにています。ダルスープという豆のスープと合わせて食べます。写真(3)ネパールのお米です。日本のものより、細長くて、ぱさぱさしています。このお米を炊いて、カレースープと合わせてたべます。写真(4)ネパールは山岳地帯なので、海の魚はありません。湖や川でとれたものを食べます。写真(5)豆腐です。ネパールでは、インド料理だけでなく、チベット料理も、多くとり入れられています。写真(6)たまねぎとにんにくです。ネパールでは、炒め物や、ヌードル(ラーメン)、チャーハンなど、たいていの料理にたっぷりとにんにくを使います。写真(7)しょうがとにんにくです。ネパール料理には、インドのスパイスが、たくさん使われます。写真(8)じゃがいもです。ネパールでは、ゆでたじゃがいもに、チリソースやケチャップなどをつけて、昼食として食べることが多いです。
東書Eネット事務局
撮影年月:2001年3月、撮影場所:ネパール王国 ナラヤンガート。写真(1)バラトプル空港の管制塔です。写真(2)バラトプル空港です。写真(3)バラトプル空港のチェックインカウンターです。写真(4)バラトプル空港の売店です。写真(5)バラトプル空港のロビーです。
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[インドネシア]ネカ美術館の作品(1)、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の芸術の町として、民族舞踊や絵画がその中心である。バリ島を代表する絵画を集めた美術館の一つがネカ美術館である。ここには、常夏の地域特有の原色鮮やかな絵画、神々を中心に地獄絵図を連想さすような絵画から、バリ島民を描いた絵画や写真が展示されている。
東書Eネット事務局
[インドネシア]ネカ美術館の作品(2)、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ島の芸術の中心地であるウブドゥにネカ美術館はある。ここには、常夏の地域特有の原色鮮やかな絵画、神々を中心に地獄絵図を連想さすような絵画から、バリ島民を描いた絵画や写真が展示されている。中でも、男性の絵画がもう一枚の少女の絵画を見つめているよう、二枚1組として展示されるているアブドゥル・アジズ「引かれ合う心」は有名である。
東書Eネット事務局
[インドネシア]村の画廊、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の芸術の町として知られている。民族舞踊や絵画がその中心である。町のあちこちに絵画を並べた店がある。ここには、常夏の地域特有の原色鮮やかな絵画が多く並べられている。
東書Eネット事務局
[タイ]バンコク市内の水上の家、撮影年月:1999年6月、撮影場所:タイ、バンコク、チャオプラヤー川。バンコクの中心を流れる川の両岸には、水上の家が建ち並んでいる。ここに住む人々は、川を最大限に利用している。移動には船を使い、洗濯や行水も川の水を使う。彼らにとって、川は生活をしていく上でなくてはならないものである。
東書Eネット事務局
[タイ]バンコク郊外の水上の家、撮影年月:1999年6月、撮影場所:タイ、バンコク郊外。バンコク市内の水上生活とは少し異なるが、郊外でも水路を利用して生活を営んでいるところがある。ここでも、水路を船で移動し、洗い物など川を最大限に利用している。
東書Eネット事務局
[タイ]寺院で学ぶ子どもたち、撮影年月:1999年6月、撮影場所: タイ、バンコク、ワットポー寺院。寺院の中に学校があり、僧侶が先生をしている。子どもたちは真剣に、かつ無邪気に授業を受けている。
東書Eネット事務局
[タイ]水上マーケット、撮影年月:1999年6月、撮影場所:タイ、バンコク郊外。タイのバンコク周辺には、川を利用して生活している人々が多くいる。川の周辺に水上の家を建て、移動には船を使う。その中で、水上マーケットも発達してきた。日用雑貨や果物などの食べ物、そして麺類などの飲食店の船もあり、にぎわっている。
東書Eネット事務局
[タイ]通りに並ぶ露天商、撮影年月:1999年6月、撮影場所:タイ、バンコク。バンコクのメイン通りの歩道には露天商がずらりと並んでいる。日用雑貨、衣類をはじめ飲食店もある。いかにもアジアといった雰囲気がありにぎわっている。この露天商がバンコクの人々の生活を支えている。値段も日本に比べるととても安い。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:イスタナガーデン。国王が持っているイスタナガーデンの中にある、ジョホールの有名な観光地の一つです。昔は国王が住んでいましたが、今は、博物館となっています。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年3月、撮影場所:ジョホール側のイミグレーション。シンガポールとの国境・イミグレーション(出入国の税関)。マレーシアから車が出国しているところ。手前は、国際鉄道の線路。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:キャメロンハイランドの家。KLから車で3時間半。1200mの高地、キャメロンハイランドで見た民家です。マレーシアに多い、高床式です。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年7月、撮影場所:ククップ郊外。ジョホールから西海岸へ行くと、ククップという村に着きます。ここは水上村で有名ですが、その郊外の民家です。ジャングルを切り開き畑やパームを植えている民家です。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年5月、撮影場所:ジョホール市内。シンガポールまで国境を越えて運行するタクシーは、黄色です。これはマレーシアのものですから、料金はRM(リンギット)で払います。帰りは、シンガポールのタクシーになりますから、S$(シンガポールドル)で払います。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:ジョホール領事館。マレーシア・ジョホール州の州庁舎です。第2次世界大戦の時に、シンガポール侵攻のために、旧日本軍が作戦本部として使用した経歴もあります。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年4月、撮影場所:パシグダン高速道路の入り口。バイクの服装が、上着は反対に着ることです。風や雨よけのようです。二人乗りは当たり前で、そのまま高速道路も走ります。ヘルメットは、必ず付けています。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年4月、撮影場所:ジョホール3号線沿い。スコールが多いからか、バス停はほとんど屋根が付いています。バスの時間は、適当らしいですが、いつも誰かがバスを待っています。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年2月、撮影場所:ジョホール中心部。マレーシアの国教はイスラム教ですが、宗教の自由は認められています。中心部のヒンズー寺院の正面からの映像です。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年5月、撮影場所:マラッカ。マラッカに行ったとき、警察署の前に止まっていたポリスカーです。これ以外にも、4輪駆動車(ジムニー)や普通車もありました。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年4月、撮影場所:ジョホール市内。日本よりかなり低い位置にある信号機です。ここは、左折が途中で可能になります。基本的には、交差点では一方向のみ進行可能です。右折も左折も同時に出来ますが、赤になると3回待つことになります。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年4月、撮影場所:ジョホール市内。シンガポールから帰ってくるバイクと車の列。毎日5万人もの人がシンガポールに通勤しています。その中でもバイクが一番多い手段です。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:ジョホール中心部。現地の小学校の校門です。住宅地の真ん中にあります。後ろに見えるのは、ジャイアントというスーパーの建物です。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年4月、撮影場所:ジョホール3号線沿い。これは、産院の看板です。中国系ですが、必ず一番大きい字はマレー語にしなくてはいけないという法律があるそうです。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:スポーツコンベックスの近くより。ジョホールのスポーツコンベックスにある時計台です。北側のWAMARUという美術館より見ているところです。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:スポーツコンベックスにて。独立(ムルデカ)45周年記念のお祝いです。独立記念日の午前0時に打ち上げ花火が、各地で行われました。ジョホールでも2カ所で上がったようです。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年9月、撮影場所:ジョホール郊外のスーパー。マレーシアにたくさんある生地屋さんです。カーテンの生地のようですが、ここで、生地を買ってテーラーに持っていきバジュクロン(民族服)などに仕立てます。
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年5月、撮影場所:マラッカ。警察署の前で。日本と同じホンダの750ccでした装備も似たようなものでした。違いはランプが青色のことと前輪の泥よけの上にプレートが付いていることです。(プレートは、こちらのバイクはすべて付いています)
東書Eネット事務局
撮影年月:2002年8月、撮影場所:ジョホール郊外。日本人が多く住んでいるコンドミニアム。24時間警備の21階建てです。手前は、ゴルフコースになっています。
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アンコール遺跡群-アンコール・トム、勝利の門、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)アンコール・トムは「大いなる都」の意。ジャヤヴァルマン七世、12世紀創建の都城。戦いに勝利したクメール軍はこの門を通って凱旋したという。(2)門の両側には神々と阿修羅の綱引き(綱は不死の蛇であるナーガ)の彫像が並んでいる。これは阿修羅の最後部で、ナーガの尾の部分が見えている。(3)この入口は指揮官を乗せた象が通れる大きさになっている。観世音菩薩四面像は仏教信者ジャヤヴァルマン七世の救世の意欲を表すものであろうか。(4)アンコール・トム、勝利の門付近。都城はこのように高さ約8メートルの頑丈な城壁に囲まれていた。城壁に絡みついているスポアン巨木のようす。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-アンコール・トム、南大門、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)この堂々たる風格を感じさせる門は、アンコール・トムの象徴のひとつとされる。この四面像は顔の長さだけでも約3メートルある。(2)勝利の門と同様、門の左右にはナーガの綱を引く神々と阿修羅の彫像がある。これは阿修羅の一団。黒い方がオリジナル、白い方は復元されたもの。(3)門の遠景。左側が神々、右側が阿修羅の一団である。門はこのようにバスが通り抜けられるだけの幅がある。
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アンコール遺跡群-アンコール・トム、南大門付近の案内板、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。南大門はアンコール・トムで最も保存状態の良好な城門。その門を入ったすぐのところにある。いかにも南国らしいつくり。傍らにはスポアンの大木。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-アンコール・トム、王宮の門、撮影年月:2001年11月、撮影場所:カンボジア。象のテラスの側から見たもの。この約200メートル先に豪華をきわめた王宮があった。しかし、木造建築であったため遺構としては残っていない。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-アンコール・トム、王宮の門付近、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)象のテラスから王宮の門に向かう通路の装飾欄干の遺構と思われる。架空動物、五頭のナーガの頭部が寂しげに残る。(2)大変珍しい童子の遊ぶ姿の浮き彫り。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-アンコール・トム、象のテラス、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)ほぼ都城の中心、当時の王宮に隣接している。王族がこのテラス上から閲兵した。テラスの左半分には象のさまざまなポーズの見事な浮き彫りがある。(2)アンコール遺跡群には架空動物の彫像が多いが、このように3つの頭部をもつ象の彫像もある。周辺には保存状態良好のさまざまな浮き彫りが見られる。(3)テラスの左半分は象が主役であるが右半分は架空動物のガルーダが主役で、大勢並んでテラスを支えている。(4)写真(3)のガルーダを近くから見たもの。ひとつひとつ表情が違い、大変ユーモラス。おそらくガルーダは非常に人気の高い架空動物だったに違いない。、(4)写真(3)のガルーダを近くから見たもの。ひとつひとつ表情が違い、大変ユーモラス。おそらくガルーダは非常に人気の高い架空動物だったに違いない。(5)アンコール遺跡群-アンコール・トム、王宮の門。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-アンコール・ワット寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日。(1)スールヤヴァルマン二世、12世紀後半の創建。寺院全体を取り囲む周壁の入口。この周壁は800×900メートルに及ぶ巨大なものである。(2)周壁のようす。連子窓がほぼ完全な形で残っている。(3)三重の回廊を巡らし、その頂点に中央祠堂を始めとする5基の祠堂を置くピラミッド形式で、クメール建築の最高傑作とされる。長大な第一回廊が見えている。(4)周壁の内側から見た日の出の情景。中央祠堂を始めとする5基の祠堂のシルエットが神々しい。春分・秋分には中央祠堂付近から陽が昇り、一層感動的という。(5)第一回廊のようす。壁面はヒンドゥー神話のさまざまなストーリーが長大な浮き彫りとして描かれていて、このため「劇場寺院」の別名がある。(6)第一回廊の壁面を飾るデバター像。クメールの伝統的舞踊アプサラダンスの一シーンとも見える。この軽快さ、リズム感は他の寺院には見られないものである。(7)最上層第三回廊への階段。凡夫の登攀を拒否するかのように、極端に急なものである。階段の幅は10センチ、一段の高さは30センチぐらいか。(8)第三回廊から見た夕陽に輝く中央祠堂。ヒンドゥー世界の中心、神々の住むメール山(須弥山-しゅみせん)を表したとされる。(9)寺院西塔門内に置かれているヴィシュヌ神。ヒンドゥーの神々のひとりであるが、現在は「土着神」として住民の信仰の対象になっているという。(10)寺院周壁の外側。修復工事に用いられる素材が整然と並べられていた。上智大学はじめ日本の学術・技術面の協力は極めて高く評価され、信頼を集めている。(11)アンコール遺跡群-プラサット・クラヴァン寺院。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-タ・ケウ寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)ジャヤヴァルマン五世が11世紀初頭に建設を始めたが、落雷事故があり、縁起をかついで中途で建設を放棄した遺跡。壁面の彫刻などはこれから、というところだった。(2)回廊を登りつめて中央祠堂と4基の副祠堂に達する形式はアンコール・ワット寺院建設の試金石になったという。完成していれば、第一級の遺跡となるところだった。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-タ・プロム寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日。ジャヤヴァルマン七世、1186年創建の仏教寺院。発見当時の姿をそのままに残し、修復の手を加えていない。スポアンの巨木が破壊的な猛威をふるっている。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-バイヨン寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日、(1)ジャヤヴァルマン七世、12世紀末創建の仏教寺院。同世紀に建設された王都「アンコール・トム」の中心に位置する。寺院内はこのように観世音菩薩四面像が林立している。(2)(3)(4)観世音菩薩像はひとつとして同じお顔はない。また、寺院内のどの場所からも必ずどれかの菩薩が拝めるようになっているという。(5)「クメールの微笑」として名高い観世音菩薩像。静謐・高貴な慈愛の表情は見る人を強く惹きつける。この菩薩像はカンボジアの通貨200リエル紙幣の絵柄になっている。(6)第一回廊に見られるデバター像。ヒンドゥー教寺院の伝統に従いながらも仏教的センスが加味されているように見える。(7)(8)第一回廊に残る名高いレリーフ。チャンパ(現在のベトナム南部にあった王国)軍との戦いに赴くクメール軍の行進のようす。きわめて詳細・精緻なものである。(9)第一回廊のようす。右手の壁面がレリーフで埋めつくされている。彼方にレリーフに見入るフランス人観光客。(10)寺院内には「現役」の仏陀も祀られている。線香代を寄進してお祈りをする。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
アンコール遺跡群-バコン寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月27日。(1)インドラヴァルマン一世、881年創建のヒンドゥー教寺院で、ロリュオス遺跡群のひとつ。三重の周壁に囲まれた基壇に中央祠堂を置くという最初のピラミッド式寺院とされる。(2)三重周壁の基壇を取り囲んで8基の副祠堂が配置されている。これはその西南側の2基。(3)周壁にはクメール建築の特徴のひとつ、「連子窓」が見られる。連子窓には光を取り入れ、またその強さを調節する実用の窓と装飾用の「偽窓」とがあるが、これは後者。(4)ヒンドゥー教神話では善なる神々と悪の権化である阿修羅との戦いが主要なテーマのひとつとなっているが、これは中央祠堂壁面に残る「戦う阿修羅」の有名なレリーフ。
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アンコール遺跡群-バプーオン寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。ウダヤーディティヤヴァルマン一世、11世紀中ごろ創建のヒンドゥー教寺院。アンコール・トム、王宮付近にある大規模なピラミッド型寺院。修復作業のようす。
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アンコール遺跡群-バンテアイ・スレイ寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日。(1)ラージェンドラヴァルマン二世、967年創建のヒンドゥー教寺院。「女の砦」の意味を持つ。周壁の入口から見た祠堂のようす。全てが小造りの優雅な寺院。(2)中央祠堂の前にある2基の経蔵のひとつ。この寺院の特徴は美しい紅色砂岩を素材としていることで、祠堂全体が燃え上がるかのような印象を与える。(3)中央祠堂にほぼ完全な形で残る連子窓。紅色砂岩の色調が美しい。(4)祠堂入口上部の浮き彫り。精緻・華麗を極めたもので、アンコール遺跡群中の白眉とされる。中央にはヒンドゥーの神の一人、ヴィシュヌ神が鎮座している。(5)祠堂入口上部には、ヒンドゥー神話「ラーマーヤナ物語」の場面を表したものもあり、これはそのひとつ、猿王兄弟の争いの場面である。(6)中央祠堂北塔。最上層まで繊細で見事な浮き彫りが施されている。入口右側のデバター像がアンコール遺跡群中もっとも有名な「東洋のモナリザ」である。(7)かつて作家のアンドレ・マルローが自国に持ち帰ろうとして発覚、罪に問われたことで一躍有名になった「東洋のモナリザ」である。周辺の装飾も実に見事。
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アンコール遺跡群-ピミアナカス寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。スールヤヴァルマン一世、11世紀初頭創建のヒンドゥー教寺院。王宮内にあり、極めて規模の小さいミニチュア寺院。王宮の「仏壇」に相当するものかもしれない。
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アンコール遺跡群-プラサット・クラヴァン寺院、撮影年月:2001年11月、撮影場所:カンボジア。アハルシャヴァルマン一世、921年創建のヒンドゥー教寺院。ひとつの基壇の上に5基の祠堂が並ぶという異例の構成。近年の修復が最も成功した例とされる。
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アンコール遺跡群-プリア・コー寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月27日。(1)インドラヴァルマン一世、879年創建のヒンドゥー教寺院。ロリュオス遺跡群のひとつで、アンコール遺跡群中最古の寺院。6基の祠堂のようすである。(2)「プリア・コー」は「聖なる牛」を意味する。これはシヴァ神の乗り物とされる聖なる牛、「ナンディン」の像で、祠堂の前に置かれている3基のうちのひとつである。(3)祠堂入口上部の浮き彫り。この遺跡の中ではもっとも保存状態のよいもの。ナーガに噛み付くガルーダの表情が面白い。(4)復元された祠堂入口上部の浮き彫り。ガルーダや多頭のナーガの形がよくわかる。各遺跡とも、このように学術的調査に基づいて復元・修復の手が加えられている。(5)祠堂壁面にはデバター像とともに金剛力士像も見られる。これはそのひとつで、当時の傑作とされるもの。
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アンコール遺跡群-プレ・ループ寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日。ラージェンドラヴァルマン二世、961年創建のヒンドゥー教寺院。「変身」「転生」の意味を持ち、要人の火葬場であった。中央祠堂付近に残るシンハ(獅子)の像。
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アンコール遺跡群-ロレイ寺院、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月27日。(1)ヤショーヴァルマン一世、893年創建のヒンドゥー教寺院。アンコール遺跡群観光の中心都市シェムリアップ(シエムレアプ)から東南13kmほどのところにある「ロリュオス遺跡群」のひとつ。当時はこの地がアンコール朝の王都であった。これはその4基ある祠堂のひとつ。(2)4基の祠堂は全てこのように赤味の強いレンガで形作られている。壁面は、いたるところアンコール遺跡群の一大特徴であるデバター(女神)像で飾られている。(3)デバター像は当時の女官をモデルとして制作されたとされ、女性の魅力のおおらかな表現が特徴である。これは当時の傑作とされるデバター像。(4)祠堂入口上部は、ヒンドゥー教神話に題材をとった見事な浮き彫りによって装飾されている。半人半鳥の聖なる鳥ガルーダや不死のシンボルとされる多頭の蛇ナーガが主役。(5)遺跡内には「現役」の仏教寺院がある。ポル・ポト政権時代、宗教活動は全て否定・弾圧されたが、カンボジア国民の大多数は一貫して敬虔な仏教徒で、信仰心はきわめて強い。(6)「現役」仏教寺院の法話のようすである。涼やかな風が吹き抜ける寺院のテラス。白の法衣は全て尼さん。(7)「現役」仏教寺院は熱帯の密林に接している。一人静かに沐浴する若い僧侶の姿が印象的だった。
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カンボジアの人々の暮らし-アンコール・トム、「ライ王のテラス」で出会った内戦の地雷の被害者、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。喜捨して撮らせてもらった。このように一芸を持っている人ばかりではなく、単なる物乞いの人も多数いた。
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カンボジアの人々の暮らし-シェムリアップ(シエムレアプ)市内、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)民家のようす。雨期に備えた高床式のものが多い。この程度で中流のやや下、というところらしい。実に簡素なものである。(2)写真(1)の民家の内部。2DKの50㎡といったところか。ここに家族5人が住んでいる。(3)上流農家のようす。敷地も広い。床の下は農機具や農耕用の車輌の置き場となっている。(4)写真(3)の農家の家畜小屋。家畜はウシ・ニワトリが断然多い。(5)市の中心部にある「オールド・マーケット」付近のようす。画面の右側がマーケット。左側はフランス統治時代の建物で銀行や商社が入っている。(6)「オールド・マーケット」の路上。マーケットは夕方の買い物客で大変な賑わいであった。農産物が実に豊富。このように路上の取引もきわめて活発。
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カンボジアの人々の暮らし-シェムリアップ(シエムレアプ)市内風景、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)バイク、自転車が市民の足。バイクはほとんどが無免許。二人乗り、三人乗りは当たり前、積載制限などお構いなし。実に逞しいものである。(2)朝の路上マーケットの賑わい。騒然たる活気。画面右に見えているのは、一見ジューススタンドのようだが、バイク用のオイルの販売車である。(3)賑わう路上マーケットの傍らで、このような直取引も行われていた。
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カンボジアの人々の暮らし-シェムリアップ(シエムレアプ)空港、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月27日。タラップを降りた旅人は、まずシアヌーク国王とフン・セン首相の巨大な写真に驚く。内戦相次ぎ今もって求心力を必要とする国情を表すものであろうか。
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カンボジアの人々の暮らし-トンレサップ湖、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月29日。(1)シェムリアップ(シエムレアプ)市南方にある東南アジア最大の淡水湖で、ひとつの観光ポイントになっている。観光遊覧船で働く子ども。親子のペアで、出航のようす。(2)湖水面積は乾期で琵琶湖の約5倍、雨期には約10倍にも達するという。定期船が運航されていて、これは首都プノンペンから5時間をかけて到着したもの。(3)この湖は湖上生活者(ほとんどが漁民)の多いことで知られ、陸地に近い湖上に集落を作って生活する。生活に必要な施設も同様に湖上にある。これは小学校。(4)湖上生活者のための病院。救急車に相当する高速艇も用意されている。(5)大変質素な感じだが、湖上生活者のための駐在署である。屋根に鳥らしきものが見えるが、カンボジア警察の象徴であるワシをかたどったものだという。(6)湖上生活者の住宅や各種の施設は、全て「舟」である。乾期になると一団となって沖合いへ移動して行く。11月は乾期に入る時期で、これは「引越し」を始めた家。(7)湖上生活者の住宅はこのように何軒かまとまっているのが普通。親戚縁者どうしだろうか。工夫して植物を育てているところなど、日本のマンション生活と同じ。(8)湖上生活者は全て漁民。手前に見えているのは魚を飼育するための「生け簀」である。(9)湖上生活者の生け簀には、このように大型で、移動に便利なように船形をしたものもある。なぜかペリカンを飼っているところが多い。(10)大漁祈願、安全祈願の湖上のお宮。この湖の魚は300種以上、年間漁獲高は10~12万トンに及ぶ。樹木の下の方が茶色くなっているのは乾期に入り、水が引いたため。(11)湖上生活者の生活用水は全て湖の水である。飲用には煮沸して使う。子どもの遊び場は当然湖上。操船、水泳など実に達者なものである。
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カンボジアの人々の暮らし-バンテアイ・スレイ寺院付近、撮影場所:カンボジア、撮影年月日:2001年11月28日。シェムリアップ(シエムレアプ)郊外の路上では、しばしば牧童が何頭かのウシを引き連れ、のんびりと歩む情景を見かけた。いかにも東南アジアらしいのどかさを感じた。
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[中国]このナイフはどうかね、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。この地方の男たちはよく腰にナイフを下げています。スイカや肉を切ったりするのです。彼らにとってナイフは生活の必需品です。バザールのおじさんがナイフを勧めています。ナイフのデザインは民族や地域によって違います。ナイフに草花の模様をあしらったものや柄の凝ったものがあります。ナイフを見れば出身がわかります。
兵庫県市川学院市川高等学校 山本秀樹
[中国]すいか売りの家族、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 于田(ケリア)の郊外。ケリア郊外の小さなバザールに立ち寄りました。そこにはおじいさんと子どもたちがすいかを売っていました。きっと両親は仕事に出かけているのでしょう。このあたりのすいかはラクビーボールのような形をしています。甘さは格別で、日本のものとは比べものになりません。食べる時の注意があります。食後30分ぐらいは絶対に水を飲まないことです。もし飲むとはげしい下痢と熱に悩まされることになります。ご注意下さい。
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[中国]ひとなつこいお婆さん、撮影年月:1992年8月、撮影場所:アルティン山脈山中 タンチン峠。パオの持ち主はカザフ族です。男たちは羊の放牧に出かけています。残っているのは女性や子どもたちです。パオの中は、中央にストーブがあり、その奧に主の席があります。お婆さんは手動のミシンで縫い物をしていました。突然の訪れにも拘らず、大歓迎です。家族のことや生活のようすなど楽しい会話の時間を過ごすことができました。おおらかなお婆さんの笑顔はまわりをなごやかにしてくれます。
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[中国]ほほえみシルクロード、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 (于田)ケリア。ウイグル族は、初め北方のモンゴル高原に住んでいましたが、キルギス族に追われシンチアン地方に移住し、オアシスの民として定住するようになりました。ウイグルの女性はワンピースに草花をあしらった帽子を被ります。指輪もイヤリングもしています。そして笑顔よし、まさにほほえみのシルクロードです。
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[中国]カシュガル一景、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。カシュガルにはウイグル族が多く住み、イスラム教を信仰しています。イスラム教の女性は外出する時、スカーフで顔を覆い、他人に顔を見せないという習慣があります。ですが、二人のおばさんは、久ぶりに出会ったのか、世間話に花を咲かせています。積もる話があるのでしょう。チャドルに身をつつむ習慣は年輩の女性に多く、若い世代にはあまり見られません。
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[中国]カラクリ湖からムスタグ・アタを望む、撮影年月:1992年8月、撮影場所:パミール高原。パミール高原のカラクリ湖の背後にムスタグ・アタと呼ばれる山(7、546m)があります。この地方の遊牧民は氷河から流れ出る水の恵みを受けるだけでなく、山頂にかかる雲や風によって天候がわかるといいます。美しく白く光る稜線の氷河は夜明けとともに紫色に染まり、日中は青空に映え、夕日とともに赤く輝いています。キルギス族は「父なる氷の山」と含蓄のある名前で呼んでいます。どこからか牧童が馬を連れて現れ、どこかへ消えていきました。
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[中国]ケリアの帽子、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 于田(ケリア)。ケリアは、ケリア川のほとりに発達した町です。この周辺のウイグル族の女性は頭に白いスカーフをかけ、その上に直径6センチ、高さ5センチぐらいの帽子を被ります。若い人や子どもには見かけませんが年輩の女性に多く見られます。ロバ車にさっそうと行く姿はまさにシルクロードの貴婦人です。
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[中国]ゲズ河に沿って、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガルからパミール高原へ行く途中。カシュガルとパキスタンを結ぶ中パ友好道路を走るとやがてパミール高原の麓にさしかかります。そしてパミール高原から流れるゲズ河と並行するようになります。ゲズ河はムスタグ・アタを源としてカシュガルに流れているので、この河を遡って行くとパミール高原にいたり、クンジェラブ峠を越えるとパキスタンへ行くことができます。ゲズ河は周辺の土砂を含んでいるので灰色ですが、河原も広く水量も豊富です。
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[中国]タンチン峠のパオ、撮影年月:1992年8月、撮影場所:アルティン山脈山中 タンチン峠。タンチン峠はアルティン山脈の山中にあります。アルティン山脈はゴルムドから敦煌に向かう途中に横たわる山脈です。峠を少し下ったところに忽然とパオが現れました。このあたりはカザフ族が夏の間、羊の放牧に来ています。急に訪れるとトラブルになるので、ガイドにコンタクトをとってもらいました。OKです。さっそく訪問することにしました。
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[中国]タール寺八大如意宝塔、撮影年月:1992年7月、撮影場所:西寧の郊外 タール寺(塔爾寺)。青海省の省都西寧から西へ25キロのところに、タール寺(塔爾寺)があります。タール寺は、チベット仏教の黄帽派の創始者ツォンカパ(宗喀巴)を祀った寺院で、聖地の一つになっています。入り口近くでまず目に入るのが八大如意宝塔です。釈迦の生涯の八場面を記念し称賛するために、建てられたものです。
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[中国]チベットの踊り、撮影年月:1992年7月、撮影場所:青海湖ほとりの招待所。青海湖ほとりの招待所で行われた民族舞踊です。このあたりはチベット族やモンゴル族が暮らしています。歌と踊りはこの地方の伝説や物語を題材に、大地に生きる人々の心をあらわしています。最後に全員で踊るダンスがありました。青海湖の海抜は3100メートルです。ちょうど日本アルプスの頂上でダンスをしているようなもので、少し踊ると心臓がドキドキします。
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[中国]ツーランのラマ僧、撮影年月:1992年8月、撮影場所:都蘭(ツーラン)。ツァイダム盆地に入り、砂や小石まじりの砂漠を進んでいくと遠くに緑のポプラ並木が見えてきます。都蘭(ツーラン)の町です。食堂で遅い昼食をとっていると、カキ色の衣を着たラマ僧が歩いてくるではありませんか。絶好のチャンスとばかり、道路に飛び出し、カメラを向けました。チベット語は話せません。シャッターを切るジェスチャーをして了解を求めました。言葉は通じませんが人の心は通じるものです。
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[中国]バザールに向かう満載馬車、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。カシュガルの市の歴史は古く漢書西域伝に記されています。この地は中央アジア、インド、パキスタンへ通じる交通の要衝だったからです。今日でもカシュガルの市は最大と言われています。日曜日になると、どこからとなく、荷物を満載した馬車やロバ車が現れ、サンデーバザールが開かれます。
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[中国]パミールのパオ、撮影年月:1992年8月、撮影場所:パミール高原。パミール高原にカラクリ湖があります。その周辺に住んでいる遊牧民の住まいです。主人は放牧に出かけ、女性とおじいさんと子ども達が留守番をしていました。子どもたちはカメラのズームレンズが珍しいのでしょう。驚きでいっぱいでした。お婆さんがパオの前で織物をしています。パミールの遊牧民といえばロマンがありますが、標高3600メートルの世界です。実際はきびしいものです。
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[中国]パミール高原のらくだ、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。パミール高原の小カラクリ湖付近の遊牧民を訪れました。後ろのクングル山(7、719m)には氷河が白銀に輝き、青い空に一段と際だっています。夏の間、遊牧に来ている牧童が帰って来ました。お父さんとその息子たちです。らくだは砂漠のものと思っていましたが、3000メートルの世界でも健在です。
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[中国]ホージャ墳、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。玉ねぎ型の屋根と四隅のミナレットを特徴としたイスラム教のモスクに、かつてカシュガルの政治、宗教の支配者であったホージャ一族が祀られています。また別名香妃墓として知られています。清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、香水もつけないのに身体から芳しい香りのする娘がいることを、聞きつけました。そこでその娘を側室にしようとしました。しかし、その娘は帝の要求を拒み、自ら死を選びました。そしてここに埋葬されたと言われています。人々はモスクの周りに花を植え、墓にその香りが届くようにしています。ウイグル族の誇りを示す悲しくも美しい物語です。
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[中国]ホータンの絹つくり、撮影年月:1992年8月、撮影場所:ホータンの郊外 絹工場。ホータンの絹は昔ながらの方法でまゆから糸を採り、さらに紡ぎ、布にしていきます。まゆを釜で茹で、糸を採るところは熱く、独特の臭いがあります。しかしこの苦労の末に作られたホータンの絹はじょうぶで美しく、特にアトラスの縞模様はウイグル族の女性を美しく飾っています。
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[中国]ホータンの踊り子、撮影年月:1992年8月、撮影場所:ホータンの郊外 絨毯工場。ホータンの絨毯工場へ行った時のことです。絨毯の説明を聞き、工場を見学していると、何やら楽しげな音楽が聞こえてくるではありませんか。会場をのぞいてみると音楽にあわせて美女が歌い踊っています。ウイグル族の人々は歌と踊りが大好きです。あつかましく楽屋に行き、踊り子をフィルムに納めました。
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[中国]マリクワット遺跡、撮影年月:1992年8月、撮影場所:ホータンの郊外。ホータン郊外の白玉河のほとりにあるマリクワット遺跡は「于(う)てん国」の都があったところと言われています。河原に城壁の一部が残り、周辺には陶器のかけらが散らばっているだけですが、于てん国の人々は遠くに崑崙山脈(こんろんさんみゃく)を望み、白玉河の早瀬に耳を傾けたのでしょう。
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[中国]ミーランの遺跡、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 ミーラン。ミーランの遺跡が近づくと、ドライバーがカメラを隠せと言います。もうすぐ監視所があるからです。ドライバーは人民解放軍の兵士なので、詳しい情報を知っているのでしょう。やがてミーランの遺跡に入りました。遺跡の中ほどにさしかかった時、車は静かに停車しました。降りて写真を撮ってもよいと言うのです。監視の目が届かないようです。道端からですがシャッターを切ることができました。
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[中国]ヨートカン遺跡、撮影年月:1992年8月、撮影場所:ホータンの郊外 ヨートカン遺跡。ホータンから10キロほど離れた田園の中にある遺跡です。「于(う)てん国」の冬の宮殿があったところと推測されています。看板だけで遺跡らしいものは何もありません。宮殿跡や住居跡は周辺の地下に眠っているのでしょう。水路で子どもたちが水浴びをしていました。溝の中に陶器のかけらがいっぱいあるといいます。頼んでたくさん拾ってもらいました。
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[中国]ロバタクシー、撮影年月:1992年8月、撮影場所:カシュガル。シルクロードの子どもたちは働きものです。小学校高学年になると荷車を使い、ロバタクシーをやっています。自分の使うお金だけでなく生活費の一部として稼いでいるのです。ロバの世話をして、荷車を引く姿は、生きる力にあふれています。ロバを操る手綱と握る鞭が彼らのたくましさを物語っています。
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[中国]ロバ車が走る、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 民豊(ミンポー)。シンチアンウイグル自治区の人々の主な交通手段はロバに荷車を引かせた「ロバ車」です。ポプラ並木をロバ車は家族や荷物を乗せ、さっそうと走ります。さわやかな風にスカーフがなびき、ロバの鈴がリンリンと響きます。シルクロードの民は大地とともに生きています。
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[中国]僕も撮ってよ、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 于田(ケリア)。一人の少女にカメラを向けていました。するとひょいと少年が頭を入れてきました。兄弟でしょうか。友達でしょうか。編目の白い帽子はイスラム教徒の夏用帽子です。きっとカメラが珍しいのでしょう。
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[中国]回転経 マニ車、撮影年月:1992年7月、撮影場所:西寧の郊外 タール寺(塔爾寺)。チベット族の多くはチベット仏教を深く信仰しています。お寺に参り、手を合わせ、お経を唱え五体投地をしています。お寺に備え付けられた回転経 マニ車を一回転させると、一度お経を唱えたことと同じ功徳があると言われています。人々は何回もまわし、功徳が得られることを願っています。
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[中国]居庸関(きょようかん)、撮影年月:1992年7月、撮影場所:北京 八達嶺(はったつれい)手前の居庸関。北京の北方に万里の長城として親しまれている八達嶺があります。その途中にあるのが居庸関です。かつて北京と北方民族との交通の監視所として、また中原を守る関所として重要な位置を占めていました。この関所は元末から明初にできたもので、白大理石を用いています。アーチの周りにはガルーダのレリーフがあり、当時の世界性を物語っています。バスの駐車場付近には多くの土産物があります。骨董品もたくさん並んでいるので冷やかしてみるのも旅の楽しみの一つです。
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[中国]居庸関(きょようかん)のレリーフ、撮影年月:1992年7月、撮影場所:北京 八達嶺(はったつれい)手前の居庸関の内部。白大理石で作られた居庸関は長い年月を過ぎても、隙間などなく石工技術の高さを物語っています。アーチの内部は漢字、サンスクリット文字、ウイグル文字、パスパ文字、チベット文字、西夏文字で陀羅尼経文と造塔功徳記が記され、さらに四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のレリーフが刻まれています。
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[中国]悪戦苦闘の紅柳溝、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 紅柳溝。西域南道のバシュクルガンから紅衛に抜ける間は紅柳溝と呼ばれています。山と山の谷間を走る道ですが、溝のようになっており、周囲に紅柳(タマリスク)が生えています。道は谷川の水が流れ、時には切断されています。谷川の深みにはまらないように、右に左に弁慶の八艘跳びのようにハンドルをきりますが、そううまくはいきません。ついに深みにはまってしまいました。
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[中国]早朝の「家庭訪問」、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 民豊(ミンポー)。ミンポーの朝は鶏の鳴き声とロバの足音ではじまります。ポプラ並木と水路のある通りを歩いていると一軒の家の戸が開いていました。「おはようございます」と声をかけ、「ニイハオ」と呼びかけます。こっそり入るといけません。主人と奥さんが出てきました。ノートに世界地図を書き、こちらは日本人であることを示します。ナンとチャイの朝ご飯をごちそうになり、記念写真です。
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[中国]牽引するランドクルーザー、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 紅衛からミーランの途中。ミーランに向かうには広い砂漠地帯を抜けねばなりません。この地域は冬から春にかけて降った豪雨や大雪により道が寸断されています。突然大きな河床が現れるのです。もちろん水はありませんが大きな段差になっています。数百メートルを移動し、できるだけ起伏のゆるやかなところを越えていきます。ですが、すぐにスタッドしてしまいます。砂漠を一台の車で行くことは死を意味します。助け合わねばなりません。
兵庫県市川学院市川高等学校 山本秀樹
[中国]砂漠の道しるべ、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 ソルクリ付近。西域南道はきびしい道です。小石の道が続けば、雪解け水や洪水で寸断されたり、広い砂漠の真中で方向を見失ったり困難を極めます。道端にらくだが骨と皮に風化していました。旅の途中で力尽きたのでしょう。砂漠の酷熱と風の洗礼を受けた頭骨はむなしく空を見つめていました。インドに仏典を求めた法顕はそのようすを「枯骨を標識とする」と記しています。
兵庫県市川学院市川高等学校 山本秀樹
[中国]谷間を抜けて、撮影年月:1992年8月、撮影場所:西域南道 拉配泉付近。敦煌を出てホータンを目指すランドクルーザーはアルティン山脈に沿って走ります。チェルチェンの招待所まで3日かかります。その間は野営です。不測のことも考えて、食料、水、ガソリンを満載した人民解放軍のトラックが2台サポートしてくれました。ボンネット型の古い型ですが、頼もしいかぎりです。
兵庫県市川学院市川高等学校 山本秀樹
[中国]陽関の烽火台、撮影年月:1992年8月、撮影場所:敦煌郊外。古く西域から敦煌に入る玄関が陽関と玉門関でした。陽関は西域南道の入り口として睨みをきかせていました。いったん緩急があれば火を焚いて連絡をしたといいます。陽関の前には果てもなく荒涼とした砂漠が広がっています。唐の王維は「西の方 陽関を出ずれば故人なからん」とその厳しさを詠んでいます。
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撮影年月:2000年7月、撮影場所:パキスタン北部内容:パキスタン北部のカリーマバード付近です。正面の写真の谷は、アルファベットの「U」の字の形をしています。かつて「V」の字の形をしていた谷全体を氷河が覆い、その後氷河が流下する時に谷壁を削り取ってしまったものです。氷河によって侵食された谷は、この写真のように独特の形をしています。
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撮影年月:2000年7月、撮影場所:パキスタン北部パキスタン北部のナガル付近です。正面中央の山の谷も、氷河によって削られたものです。とくに右側の切り立った谷壁が、氷河の侵食のすさまじさを物語っています。
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撮影年月:2000年7月、撮影場所:パキスタンせり上がった氷河です。「氷河」とは文字通り「氷」の「河」で、今でも一日に数cm~数十cmくらいずつ斜面を流れ下っています。この時、氷河は、谷の斜面を少しずつ削りながら流れています。そのため、氷河にはたくさんの土砂が混じっており、決して純粋な氷ではありません。
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撮影年月:2000年7月、撮影場所:パキスタン河川の流水には、侵食・運搬・堆積の3つの作用があります。すなわち、高い山を削り取り、その土砂を運び、その土砂を河口付近に堆積させる作用で、全体の高さが同じになって水が流れなくなるまで続きます。このような作用の途中で、河川はさまざまな地形をつくっています。さらにインダス川を上流にさかのぼっています。ヒマラヤ山脈の隆起は現在も続いており、インダス川は下方侵食、すなわち川の底を掘り下げるように侵食をしています。このため、谷の断面の形がアルファベットのV字の形をしたV字谷を形成しています。ところで、こんな急斜面の所にも家や畑があり、人が住んでいます。
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撮影年月:1999年2月、撮影場所:広西壮族自治区北東部の桂林(コイリン)。かつて、サンゴ礁が発達していた所には、石灰岩が厚く堆積しています。石灰岩は、二酸化炭素と水に反応すると、溶けやすい性質があります。二酸化炭素を含んだ雨水や地下水によって石灰岩が溶けてできた地形を、カルスト地形といいます。カルスト地形が見られる所の地下では、多くの場合、鍾乳洞が発達しています。中国南部、広西壮(コワンシーチョワン)族自治区から貴州(コイチョウ)州にかけては、タワーカルストと呼ばれる独特の地形が発達しています。
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[撮影年月:1999年2月、撮影場所:広西壮族自治区北東部の桂林(コイリン)。かつて、サンゴ礁が発達していた所には、石灰岩が厚く堆積しています。石灰岩は、二酸化炭素と水に反応すると、溶けやすい性質があります。二酸化炭素を含んだ雨水や地下水によって石灰岩が溶けてできた地形を、カルスト地形といいます。カルスト地形が見られる所の地下では、多くの場合、鍾乳洞が発達しています。ここでは、とくに縦の割れ目に沿って石灰岩の侵食(溶食)が進み、その結果できた凹地に雨水がたまっていっそう溶蝕が進んだために、カルスト地形の中でも独特の地形ができました。
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[撮影年月:1999年2月、撮影場所:広西壮族自治区北東部の桂林(コイリン)。かつて、サンゴ礁が発達していた所には、石灰岩が厚く堆積しています。石灰岩は、二酸化炭素と水に反応すると、溶けやすい性質があります。二酸化炭素を含んだ雨水や地下水によって石灰岩が溶けてできた地形を、カルスト地形といいます。カルスト地形が見られる所の地下では、多くの場合、鍾乳洞が発達しています。広西壮族自治区北東部の桂林(コイリン)から車で約1時間で、璃江(リーチアン)下りのための小さな河港に到着します。両岸にタワーカルストによる奇峰を眺めながら川下りをすることができます。このため、多くの観光客が訪れます。
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撮影年月:1999年2月、撮影場所:広西壮族自治区北東部の桂林(コイリン)。かつて、サンゴ礁が発達していた所には、石灰岩が厚く堆積しています。石灰岩は、二酸化炭素と水に反応すると、溶けやすい性質があります。二酸化炭素を含んだ雨水や地下水によって石灰岩が溶けてできた地形を、カルスト地形と言います。カルスト地形が見られる所の地下では、多くの場合、鍾乳洞が発達しています。乾季のために降水量が少なく、川の水量も少なくなっています。両岸の奇峰も、川面に映る姿も、どこか、中国の山水画を見ているような眺めです。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。インドの国鉄(Indian Railways)は、営業距離が6万2000kmと、アジアでも最大規模を誇ります。インドは、1日1万本以上の列車が走り、駅数7000以上という鉄道王国です。主要幹線の線路の幅は1676mmですから、日本の新幹線よりも広くなっています。夜の闇で真っ暗なうえに、深い霧のために、ほとんど前が見えません。半日遅れて、やっと、急行が来ました。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。インドの国鉄(Indian Railways)は、営業距離が6万2000kmと、アジアでも最大規模を誇ります。インドは、1日1万本以上の列車が走り、駅数7000以上という鉄道王国です。主要幹線の線路の幅は1676mmですから、日本の新幹線よりも広くなっています。一夜明けた列車内の様子です。エアコンのついた2段寝台車で、いわゆる1等車です。インドでもかなりのお金持ちでなければ乗ることはできません。通路の両側に、向かい合わせの4人用寝台と、2人用寝台があります。正面の子供は、写真を撮るまでは元気がよかったのに、カメラを向けると急におとなしくなりました。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。インドの国鉄(Indian Railways)は、営業距離が6万2000kmと、アジアでも最大規模を誇ります。インドは、1日1万本以上の列車が走り、駅数7000以上という鉄道王国です。主要幹線の線路の幅は1676mmですから、日本の新幹線よりも広くなっています。お昼を過ぎて、ようやく霧も晴れてきました。どこかの駅に停車しているのですが、ヒンドゥー語の駅名は読めませんでした。この特急列車は何両つないでいるかはわかりませんでしたが、おそらく20両くらいの長い編成です。青い車両が2段寝台車です。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:ヴァラナシ(ベナレス)のムガル・サライ駅。インドの国鉄(Indian Railways)は、営業距離が6万2000kmと、アジアでも最大規模を誇ります。インドは、1日1万本以上の列車が走り、駅数7000以上という鉄道王国です。主要幹線の線路の幅は1676mmですから、日本の新幹線よりも広くなっています。ヴァラナシ(ベナレス)のムガル・サライ駅に到着しました。もう、何時間遅れているのか、わからなくなってしまいました。特急列車が駅に到着するやいなや、たくさんの売り子が集まってきました。ヒンドゥー教徒にとって、この駅は聖なるガンジス川で「沐浴」をするための入り口にあたります。多くの巡礼者が下車していきます。
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撮影年月:2000年8月、撮影場所:カラコロム・ハイウェー。カラコラム・ハイウェイは、パキスタンのカラチと中国の北京を結んでおり、途中、標高4700mというクンジュラブ峠を越えるという道路です。中国と協力して1978年に完成し、1986年からは一般の観光客も利用できるようになりました。このカラコラム・ハイウェイのパキスタン側の大部分は、ヒマラヤ山脈の西端を流れるインダス川の断崖絶壁を通っています。ベシャームの先にあるシュンギラ峠を越えると、道路は山岳地帯を縫うように走ります。片側にはヒマラヤ山脈の断崖が迫り、もう片側には数百m下をインダス川が流れているという光景が、チラースの手前まで続きます。この写真で、道路がどんな所を通っているかわかりますか?
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撮影年月:2000年8月、撮影場所:カラコラム・ハイウェイ。カラコラム・ハイウェイは、パキスタンのカラチと中国の北京を結んでおり、途中、標高4700mというクンジュラブ峠を越えるという道路です。中国と協力して1978年に完成し、1986年からは一般の観光客も利用できるようになりました。このカラコラム・ハイウェイのパキスタン側の大部分は、ヒマラヤ山脈の西端を流れるインダス川の断崖絶壁を通っています。雨の少ない地域なのですが、一度雨が降ると、たちまち崖崩れで道路が寸断されます。こうなれば、数日の間通行止めになってしまうこともよくあります。この写真のように、道路が落石でふさがれてしまっているのはましな方で、道路そのものが崩れてしまうこともよくあります。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:ロシア。ロシアを含む旧ソ連時代の鉄道の総延長距離は14万km、地球を3周半します。世界の鉄道の総延長距離の1割以上に匹敵するのですから、旧ソ連は世界最大の鉄道王国といえます。1910年、日本からシベリア鉄道経由ヨーロッパ行きの直通切符が販売されました。スエズ運河経由の船だと1か月半を要していたのが、敦賀(福井県)~ウラジオストク~ヨーロッパをシベリア鉄道経由で15日間で結ばれるようになりました。
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撮影年月:2000年1月、撮影場所:ロシア。ロシアでの1つの列車の単位は長大で、長距離列車は16~24両もの編成になっています。このため、ホームの長さは600m以上にもなります。また、軌間は1520mmで、ヨーロッパの1435mmよりも広くなっています。これは、ナポレオン軍の侵攻を経験したことから、直通列車を走らせないという、国防上の理由で決定されました。現在、ロシアから中国・イラン・東ヨーロッパに向かう国際列車は、国境の駅で、客車の場合は台車の交換、貨車の場合は荷物を積み替えるなどの不便さが生じています。
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[インド]シク教徒のパレード、撮影年月:2000年1月、撮影場所:デリー市内。デリー市内でのシク教徒のパレードです。子どもたちがきれいに着飾り、たいこや笛を持ってパレードに参加しています。写真は女の子たちのパレードです。
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[インド]ヒンドゥー教寺院(1)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。デリー市内で最大規模のヒンドゥー教寺院です。寺院の名称や祭神などの詳細は調査中です。
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[インド]ヒンドゥー教寺院(2)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。デリー市内で最大規模のヒンドゥー教寺院です。寺院の名称や祭神などの詳細は調査中です。
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[インド]ヒンドゥー教寺院(3)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド。デリー市内で最大規模のヒンドゥー教寺院です。寺院の名称や祭神などの詳細は調査中です。
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[タイ]チャオプラヤ川とワット=ルアン、上座部仏教(1)、撮影年月:1999年7月、撮影場所:タイ・バンコク。首都バンコクを流れるチャオプラヤ川の川岸に立つワット=ルアンです。「ルアン」とは暁という意味で、三島由紀夫の小説『暁の寺』の舞台にもなりました。1809-51年に建てられ、本堂には120体の仏像が納められています。また、中央の塔は高さが79mあり、ひときわ目立っています。周囲の4つの小塔には、釈迦の誕生・悟り・初めての説法・入滅を表した4つの姿の仏像が納められています。
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[タイ]ワット・プラケオ、上座部仏教(2)、撮影年月:1999年7月、撮影場所:タイ・バンコク。タイの王宮に隣接しているワット・プラケオです。1782年、バンコク遷都の際、王室の寺院として建立されました。この寺院の本堂には、ラオスから持ち帰ったエメラルドの仏像が納められています。写真は寺院の中にあるクメール(カンボジア)様式の建物で、他にタイ様式・スリランカ様式の建物もあって、上座部仏教の広がりを知ることができます。
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[パキスタン]ジョーリアーン遺跡のストゥーパ(卒塔婆)、初期の仏教(5)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラというところがあります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。写真は、仏教遺跡の一つ、ジョーリアーン遺跡の入り口の正面にあるストゥーパ(卒塔婆)、すなわち仏塔です。ここには、仏教説話を題材にした数多くの仏陀の像が浮き彫りにされています。
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[パキスタン]ジョーリアーン遺跡(1)、初期の仏教(1)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラという所があります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。ここでは、仏教遺跡の一つ、ジョーリアーン遺跡と古代のシルクロードに見られる線刻画を紹介します。ジョーリアーン遺跡は、今から1800~1900年前頃の寺院跡です。この遺跡は周囲よりも約80mくらいの、小高い丘の上にあります。建物はすべて石を組み合わせて造られています。写真は、僧院跡です。正方形の内庭を囲んで、29の小部屋があり、多くの僧がここで修行していました。
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[パキスタン]ジョーリアーン遺跡(2)、初期の仏教(2)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラという所があります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。ここでは、仏教遺跡の一つ、ジョーリアーン遺跡と古代のシルクロードに見られる線刻画を紹介します。ジョーリアーン遺跡は、今から1800~1900年前頃の寺院跡です。この遺跡は周囲よりも約80mくらいの、小高い丘の上にあります。建物はすべて石を組み合わせて造られています。写真は、僧院跡です。正方形の内庭を囲んで、29の小部屋があり、多くの僧がここで修行していました。
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[パキスタン]タキシラの博物館の仏陀彫刻、初期の仏教(3)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラという所があります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。ここでは、仏教遺跡の一つ、ジョーリアーン遺跡と古代のシルクロードに見られる線刻画を紹介します。写真は、仏陀の拡大写真です。一部は、タキシラの博物館に展示されています。それにしても、まるで、日本で見る仏像の原型を見るようです。しかし、このような貴重な遺跡も、保存状態が決していいとは言えず、崩壊の危機にさらされています。
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[パキスタン]マスジッド寺院の全景、イスラム教(1)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン・カラチ市内のマスジッド寺院。パキスタン・カラチ市内のマスジッド寺院の全景です。建物は大理石でできており、ドーム型をしています。とくに、金曜日の午後のお祈りの時間には、たくさんの人々がサウジアラビアのメッカの方角に向かってお祈りします。寺院の中に入りきれない人のために、前庭に絨毯が用意されています。
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[パキスタン]マスジッド寺院の内部、イスラム教(2)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン・カラチ市内のマスジッド寺院。マスジッド寺院の内部です。写真の正面の方向がメッカです。お祈りの時間近づくと、イマーム(宗教指導者)によってアザーンというお祈りを呼びかける声が町中に響き、人々はこのような寺院に来て、あるいは自宅や出かけた先などでお祈りをします。この寺院でも、詰めかけた大勢の信者の最前列(この写真の真正面)にイマームが立ち、全員がメッカの方角に向かってお祈りをします。
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[パキスタン]古代シルクロードの線刻画(1)、初期の仏教(4)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラという所があります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。ここでは、仏教遺跡の一つ、古代のシルクロードに見られる線刻画を紹介します。写真は、インダス川の古代のシルコロード沿いの岩に刻まれた線刻画です。サーティアール付近に残っているものです。中国から、タクラマカン砂漠やパミール高原を越え、インダス川に沿って下り、タキシラへはるばるやって来たことを想像させます。自分自身の祈りのため、あるいは道しるべとして岩に刻んだのでしょう。古代の人々が仏教の奥義を求めて往来したことを思い起こさせます。
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[パキスタン]古代シルクロードの線刻画(2)、初期の仏教(6)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:パキスタン。パキスタンの首都イスラマバードの西60kmほどのところに、タキシラという所があります。このタキシラは、ガンダーラ遺跡で有名な町で、遺跡全体の面積は26km2もあります。アレクサンドロス大王がやってきた頃には、すでに都市が成立していたと考えられています。数多くの仏教遺跡のほか、都市遺跡やゾロアスター教の遺跡などもあります。ここでは、仏教遺跡の一つ、ジョーリアーン遺跡と古代のシルクロードに見られる線刻画を紹介します。写真は、インダス川の古代のシルクロード沿いの岩に刻まれた線刻画です。サーティアールの上流のチラース付近に残っているものです。中国から、タクラマカン砂漠やパミール高原を越え、インダス川に沿って下り、タキシラへはるばるやって来たことを想像させます。自分自身の祈りのため、あるいは道しるべとして岩に刻んだのでしょう。古代の人々が仏教の奥義を求めて往来したことを思い起こさせます。
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[ラオス]タット・ルアン、上座部仏教(3)、撮影年月:1999年7月、撮影場所:ラオス・ビエンチャン。タット・ルアンには、「大きな塔」という意味があります。首都ビエンチャンのランドマークともいえる建物で、市の中心部から北に3kmの所にあります。ラオスがフランスの植民地であった頃には修整されていたのですが、現在では昔の金色の姿にもどっています。熱帯の太陽に照らされて、光り輝いています。ちなみに、タット・ルアンの前の銅像は、昔のラオス国王です。
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[ラオス]寺院回廊の仏像、上座部仏教(2)、撮影年月:1999年7月、撮影場所:ラオス・ビエンチャン。ワット・ホー・パーケオの向かいにあるワット・シーサケットです。もう、わかりましたよね。「ワット」とはラオ語で「寺」という意味です。お寺のまわりの回廊には大きな仏像が並んでいるだけではなく、仏像の後ろの壁の中には、小さな窓があり、小さな仏像が2体ずつ、数え切れないくらい安置されています。
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[中国・香港]道教、撮影年月:1997年2月、撮影場所:香港。写真は、香港の「黄大仙廟」という道教お寺の中です。信者たちは特大の線香を持って、それぞれ熱心にお祈りをしています。中国では、旧暦でお正月をお祝いします。ちょうど、その中国のお正月である「春節」の時期にあたるため、たくさんの人がお参りしており、境内は線香で煙っていました。後ろの人たちは、黄色い線香を手にしています。道教は、儒教・仏教とともに、中国の3大宗教の1つです。老子を開祖とし、仏教の影響を強く受けた宗教です。中国人が世界各地に「華僑」として海外移民が進む中で、道教も世界各地に広まっていきました。しかし、現地の人々に広まるということはほとんどなく、主に華僑の間の宗教という性格を持っています。
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[ラオス]水牛を利用した稲作風景、撮影年月:1999年7月、撮影場所:ラオス。ラオスでは、水牛を利用した耕作が一般的です。でも、水牛を扱うのはとても難しく、慣れない人がすれば、牛に引きずられて、ひっくり返ってしまいます。この写真で水牛を使って代かきをしているのは、日本で言えば中学生くらいの少年です。発展途上国では、子どもが重要な労働力となって家族の生活を助けています。
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[ラオス]田植えを終えた田園風景、撮影年月:1999年7月、撮影場所:ラオス。田植えを終えた後のラオスの田園風景です。もうすぐモンスーンによる雨季が来る頃です。首都のビエンチャンから車で30分も走れば、このように見渡す限り「田んぼ」という風景を見ることができます。どこか日本の農村に似ています。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[カンボジア]アンコール-ワット、撮影年月:2000年6月、撮影場所:カンボジア、シェムリアップ市の北方。1113年から約30年間をかけて、この地を統治していたアンコール王朝のスールヤバルマン二世が建造したヒンドゥー教の大寺院。「アンコール」はクメール語で「王城」、「ワット」は「寺」という意味。王の墓とヒンドゥ教の神を祭るためのものといわれている。東西1040m、南北820mの城壁に囲まれる。
千葉県 中西茂
[タイ]アユタヤ遺跡、撮影年月:2000年6月、撮影場所:タイ国、アユタヤ(バンコクの北方)。1351~1767年のアユタヤ王国の統治下で建てられた寺院、墓、王宮など。ヒンドゥー教が主体で、仏教の影響を受けた建築様式。写真は順番に、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンという寺の巨大な横たわる涅槃仏(寺の建物が破壊されて、露天に横たわっている)。プラスイーサンペット寺院。首都がバンコクに移ってから再建されたもの。ヒンドゥー教の寺院。
千葉県 中西茂
[タイ]スコータイ遺跡、撮影年月:2000年6月、撮影場所:タイ国、スコータイ(シーサッチャナライ遺跡公園)。スコータイはバンコックと北端国境との中間の地点にある。アユタヤ王国以前、1238~1350年の間支配したスコータイ王国時代に建てられた寺院、墓、王宮などの遺跡で、南北1.8km、東西1.6kmの城壁に囲まれている。建築様式はアユタヤと同様だが、こちらはよりアンコールワット(スコータイより約100年前にできた)に類似している。この写真は僧の巡回。
千葉県 中西茂
[トルコ]カッパドキア、撮影年月:1998年6月、撮影場所:トルコ、アンカラ市の東南、アナトリア高原。キノコ岩-数億年前に起きた火山の噴火によって、火山灰と溶岩が積み重なった。しだいに雨風に侵食されて硬い部分が残り、現在の形になっている。写真の岩山のふもとに見られる穴は入り口となっていて、内部、特に地下部が広い都市状になっている。地下都市-キノコ状にならずに、やわらかい部分が長い年月の間に溶かされて流され、洞窟になったところが、4世紀ごろからキリスト教の修道士たちの住居として使われるようになった。この地方は、ヒッタイト時代から交易ルートの要の町として栄えていた。写真の岩山のふもとに見られる穴は入口で、内部、特に地下部が広い都市状になっている。
千葉県 中西茂
[トルコ]トロイの木馬、撮影年月:1998年5~6月、撮影場所:トルコ西端、イスタンブールの南西、トロイ。トロイ遺跡の入り口に置かれた観光用の木馬。近年作れらたもの。1871年から73年にかけてドイツの考古学者シュリーマンが、トロヤ戦争の遺跡を発掘した。ギリシヤの詩人ホメロスの叙事詩「イーリアス」は、トロヤ戦争でギリシヤ軍が大きな木馬に兵士を忍ばせて海岸に放置して退却し、トルコ軍は勝ったと思って祝宴を始めたところ、ギリシヤ兵が木馬から出てきて城を焼き、逆転勝利したという話。[キーワード]トロイア戦争・トロイア遺跡・イリアス・古代ギリシア叙事詩・オデュッセイ・オデッセイ・都市国家トロイア
千葉県 中西茂
[写真資料]イランの小学校、イランのシラーズ(Shiraz)市内にある小学校(Ehsan elementary school)の授業風景や休み時間のようすを、子どもたち中心にまとめた写真資料です。小学校正門・教室のようす・授業のようす・施設(図書室・視聴覚室)・ 教科書・イランの生徒たち。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
[写真資料]イランの民族・文化・産業、イランのテヘラン・イスファハン・シラーズ各市の、町の景観や人々の暮らし、文化、歴史、世界遺産などを扱った写真資料です。[テヘラン]テヘラン市街・テヘラン市のレストラン・ペルシャ絨毯を織るようす・遠足に来ていた小学生・八百屋・テヘランのバザール・布地商店・ジュース店・ピクニックに来た高校生。[シラーズ]家畜を追う人・キャリーム・ハーン城塞の見学に来ていた子ども・キャリーム・ハーン城塞の見学に来ていた女子学生・イランの公衆電話・ハーフェズ廟の近くの公園で遊ぶ親子・ハーフェズ廟・シャー・チェラーグ廟・シラーズ市内のピザ屋・シラーズのバザール・シラーズのバザールの中庭・ガシュカイ族の衣装・キャリムハーン城塞・サーディ廟の庭・市内の映画館・シラーズ市の大通り。[イスファハン]スィー・オ・セ橋とザーヤンデ川・ザーヤンデ川沿いでくつろぐ人々・マスジェデ・エマーム(イマーム広場)[世界遺産]・イスファハンのバザール・バザールの香辛料店・すいかを売っている店。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
イランのペルセポリスの遺跡(世界遺産)、および、シラーズ市内にある1700年代の寺院を紹介した写真資料。[ペルセポリス] クセルクセス門(万国の門)・クセルクセス門(万国の門)の人面有翼獣神像・儀杖兵の通路・双頭鷲像・百柱の間の入り口・百柱の間、入り口の門のレリーフ・百柱の間・アパダーナ(謁見の間)のレリーフ・ペルセポリス(遠景)・アルタクセルクセス2世王墓・タチャル(冬の宮殿)・文字が一面に書かれた壁。[シラーズ市内]マスジェデ・ヴァキール。
東京書籍・ソフトウエア制作部 冨田浩司
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。読書の好きな子どもたちのために、大きな書店には子ども向けの閲覧室や親子図書室などがあります。近くに住んでいる子どもたちだけでなく、遠くから来た子どもたちも、書店の図書室を無料で利用することができます。涼しいいところで漫画などを読むなどして夏の一日を楽しく送ります。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。上海の街の小道には、小さい飲食店がたくさんあります。食べ物はやっぱり中国の南のほうが豊富です。種類も多くて、安くておいしいのです。もちろん、このような飲食店も個人の店です。焼餅(shaobing、シャオ ビン、こねて発酵させた小麦粉に油・塩などを入れ円型あるいは四角の平たい形にしてごまを振りかけて焼きあげたもの)、肉饅頭(rou man tou、ロォウ マン トウ、肉まんのこと)、揚げ餅、焼肉饅頭(shao rou man tou、シャオ ロォウ マン トウ)、煮豚の入ったまんじゅうのこと)などを売っています。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。中国人の生活がだんだん豊かになってくるにつれて、余暇も多様化しています。上海・北京などの大都市では、朝もダンスをしているのをよく見かけます。社交ダンスではありませんが、体を鍛えることを目的として、体を動かすダンスです。定年退職した方々が、朝の新鮮な空気を吸いながら楽しく踊っています。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。「ごみの問題は、市民の皆さんが健康で快適な日常生活を営むうえで最も重要なことです。ごみを分別収集することにより円滑な清掃事業を図りましょう」。政府は住みよい環境を作るために、市民に呼びかけています。北京(bei jing 、ベイジン、ぺきん)・上海などの大都市では、市民はよく協力していますが、田舎から出稼ぎに来る人は環境を守る意識がちょっと弱いようです。ごみ箱に、「缶・瓶・ペットボトル」「古新聞・古本・紙」「生ごみ」と書いてあります。ごみのない清潔で住みよい都市づくりは、市民の協力なしではできません。これからもごみの減量と再資源化を推進する政策を実行しなければなりません。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。乗り降りの乗客の多い停留場のそばには、新聞売り場があります。二輪車(押し車)の上に木の板を置けば、新聞売り場になります。最近、新聞を読む人が増えてきました。新聞を買って、読みながらバスを待ちます。地下鉄の車内でも新聞を読んでいる人の姿もよく目に入ります。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。南京路外灘(wai tan、ワイ タアン、わいたん)から西のほうへ歩いていくと、南京路に出ます。南京路の夜景は、いろいろなデザインのネオンで昼間のように明るくなっています。いろいろな専門の店、大きなデパート、レストランなどが夏の夜遅くまで開いています。子どもの遊び場もあります。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。外灘(wai tan、ワイ タアン、わいたん)の夜は、光でなんときれいでしょう。真夏の夜、外灘の夜景を見ながら涼しさを楽しむ人でいっぱいです。昔、上海は帝国主義の楽園で、西洋の建物があちこちに建てられましたが、巨大な石造りの洋館は外灘に集中しています。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。上海の外灘(wai tan、ワイ タアン、わいたん)から見た風景です。黄浦江(huang pu jiang、ホアン プゥ ジアン、こうほこう)の岸に沿って、高い建物がどんどん建てられ、現代化の雰囲気で包まれています。黄浦江の向こうは浦東(pu dong、プゥ ドォン、ぷーとん)と呼ばれています。外灘は緑が増え、道がきれいで、浦東を眺めるのによい場所です。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。現在の中国では、国営の八百屋、肉屋はもうなくなりました。上海のあちこちの小道には朝の自由市場があります。上海の市民が朝早く(出勤の前、6時~7時ごろ)、自由市場で一日の料理の材料を買う習慣があります。魚、肉、野菜、果物などが新鮮で安いのです。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 江西省(jiang xi sheng、ジアン シィ ション、チアンシー省)南昌(nan chang、ナン チャン、ナンチャン)。騰王閣(teng wang ge、トン ワン ゴォ、とうおうかく)は武漢(wu han 、ウーハン、ぶかん)の黄鶴楼(huang he lou、ホアン ホ ロウ、ちょうかろう、おうかくろう)、湖南省岳陽(hu nan sheng yue yang、フゥ ナン ション ユエ ヤン、フーナン省ユエヤン)の岳陽楼(yue yang lou、ユエ ヤン ロウ、がくようろう)と並んで江南の三大名楼といわれます。唐の永徽四(653)年に、唐太宗(tang tai zong、タン タイ ゾォン、とうたいそう(598~649))の弟の騰王李元嬰(li yuan ying、リ ユアン イン)はこの名楼を作り、有名な詩人王勃(wang bo、ワン ボ、647~675)の書いた《騰王閣序》で騰王閣はいっそう有名になりました。1989年10月8日騰王閣の復元工事が完了し、一般公開が始まりました。9階建ての建物で、57.5メートルの高さです。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。上海では、「石庫門(shi ku men、シ クゥ メン)」という住宅の建物があります。 2、3階建てで、建物と建物との間の距離は3メートルくらいしかありません。もちろん部屋はあまり明るくありません。昔の建物として、少し保存されています。このような所で洗濯物を干す場面をよく見かけます。私が小さかったとき、洗濯物のしずくが垂れている中を、歩いていたことを今でもよく覚えています。とくにおむつのしずく……。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。上海に住んでいる日本人、上海旅行に来る日本人観光客が多くなってきました。そこで、日本人向けの小さな日本料理店もできています。日本で働いていた中国人が作ったそうですが、一度食べてみたら、やっぱり味がちょっと違います。とくに刺身の味、材料がそれほど新鮮ではないようですが安いのです。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 長春(chang chun、チャン チュン、チャンチュン)。長春の人民大街(ren min da jie、ルェン ミン ダ ジエ)はとても印象的でした。道が広く、両側に街路樹が並んでいて、緑がいっぱいです。坂道が多いため、自転車で行ったり来たりする人はごく少ないようです。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年5月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。道路や公園には、いろいろな立て札があります。例えば、「草も命がある。草を大切にしましょう」など。この立て札に書かれているのは、「木の枝を折ったり花をとったり芝生の草を踏んだりしたら、罰金200元」です。普通の労働者の給料は1カ月600~800元くらい(日本円で月8000~10000)から、200元(日本円で2500円ぐらい)の罰金は高過ぎます。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 天津(tian jing、ティエン ジン、ティエンチン)。この4枚の写真は、天津市内にある公園の朝の様子を撮影したものです。上海や北京の市民と同じように、朝早く起きて体を鍛える人が増えてきています。町の公園、緑の多いところには、このような姿の人々をよく見かけます。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。これは、ある中学校の廊下で見た標語です。日本語の「声」「音」は使い分けますが、中国語は一つの言葉で「声音」といいます。「三声」とは、「教学の建物に入ったら声を出さない。廊下を静かに歩いて音を出さない。休みの時は小さな声で話す。」という意味です。「一行」は「廊下の右側を通行するように」という意味です。この「三声一行(san sheng yi xing、サン ション イ シン)」はその中学校の校則です。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。小さい町にはタクシーらしいタクシーはありません。その代わりに、このような「タクシー」ができました。町が小さいので、町内のどこまで行っても、このタクシーの料金は5元です。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。中国は、交通事故での死者・負傷者が少なくありません。政府は、自分の命、他人の命を大事にしましょうと、呼びかけていますが、都市部では赤信号などを無視する人がかなりいます。写真は蒙古語と中国語で書かれた交通安全のスローガンで、直訳すると、「不文明の交通行為とさようならするように、みんなで頑張りしましょう」という意味になります。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。通遼には、日本語教育をしている中学校と高校がいくつかあります。現場の日本語の先生たちはいろいろな困難を乗り越えて、熱心にやっています。声のある、また笑い声のある日本語教室を作りましょうと、提唱しています。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 ヘイロンチアン省ハルピン市内。ハルビン市は中国で最も北に位置する黒龍江省の省都です。長春と並んで、中国東北部の経済・文化の中心のひとつです。東北経済地区としては第二の都市です。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2001年8月、撮影者:張国強、撮影場所:中国 チアンシー省(江西省)のチンカン山(井岡山)。井岡山(jing gang shan、ジン ガン シャン)市は、江西省南部の山の中にあります。中国の革命の根拠地で「革命の揺り籠」とも呼ばれています。1927年秋、毛沢東(mao ze dong(マオ ゼォ ドォン)、1893~1976)、朱德(zhu de(ジュ デェ)、1886~1976)などは井岡山で初めて農村革命根拠地を作って、革命活動を行いました。山の中に30以上の革命遺跡が残っていて、よく保存されています。
中国からの留学生 張国強
[中国写真資料]上海の街のようす、撮影年月:2001年7月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。上海市内の街のようすを取材した写真資料です。内容は、「上海の小さな飲食店」「上海の路上の新聞売り場」「上海の街のごみ箱」「上海の朝の街で踊る人々」「建物と建物との間で洗濯物を干す」「日本で働いていた中国人が作った日本料理屋」「上海の大きな書店の親子図書室」です。
中国からの留学生 張国強
[中国写真資料]上海・長春・南昌の景観写真、撮影年月:2001年7~8月、撮影場所:中国 上海(shang hai 、シャンハイ、しゃんはい)。内容は、上海の外灘(wai tan、ワイ タアン)の風景、夜景、南京路の風景、長春の街、南昌にある騰王閣(teng wang ge、トン ワン ゴォの写真資料を紹介します。
中国からの留学生 張国強
[中国写真資料]内モンゴル自治区(内蒙古自治区)トンリアオ市の道路や学校のようす、撮影年月:2001年8月、撮影場所:中国 内蒙古(内モンゴル)自治区通遼(tong liao、トォン リアオ、トンリアオ)。内容は、中国の内モンゴル自治区(内蒙古自治区)のトンリアオ(tong liao、トォン リアオ、通遼)市街の道路や学校のようすを示した写真資料です。トンリアオは、ターリエン(大連)の北方500kmのところにある都市です。「交通安全スローガン(標語)」「道路や公園にある罰金を表示している立て札」「中学校の廊下の標語(校則の一部)「三声一行」」「内モンゴル自治区のタクシー」「内モンゴル自治区の日本語教育の教室」。
中国からの留学生 張国強
[トルコ]カッパドキア(景観・工芸品)・ヒッタイト遺跡・ブルーモスク、撮影年月:2003年10月、撮影者:元愛知県一宮市立宮西小学校 野々垣國男、撮影場所:カッパドキア。(1)(2)アナトリア高原の中央に、大自然がつくり出した奇岩群の絶景が広がっています。この地域には、キリスト教徒がイスラム教徒の迫害から逃れるために設けた地下都市や洞窟住居・教会が残り、世界遺産に指定されています。4世紀につくられ、11世紀に最盛期をむかえました。(3)(4)絵画のような図柄、なめらかな手触りの絨毯は、トルコの代表的な工芸品です。アナトリアは、その主要な産地である。歴史は、人々が遊牧民として暮らしていたころに遡るが、生活必需品で財産としても扱われています。(アンカラの約150キロ東にあるボガズキョイ)トルコのアンカラの約150キロ東にあるボガズキョイという村に、古代ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャシHattushashの遺跡があります。1905~12年にH.ウィンクラー指揮のドイツ・オリエント学会が発掘しました。王宮跡から粘土板の楔形文字の文書が出土してヒッタイトの歴史が明らかにされ、オリエント史が大きく書き改められました。(イスタンブール)(7)(8)ブルーモスクは通称で、正式な名前はスルタンアフメット・ジャミィといいます。17世紀に建造されたイスラム寺院で、スルタン・アフメットが建築家メフメットに建てさせたモスクです。このモスクの特徴は優美な六本の尖塔を持ち、内部の壁が美しい青と白のイズニックタイルで飾られていることであります。
元愛知県一宮市立宮西小学校 野々垣國男
[マレーシア写真資料]大型スーパーマーケットのようす、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校)、撮影場所:ジョホールバル(ジョホール市)郊外。(1)レジ:郊外にジャスコが昨年できました。レジのようすです。(撮影2003年10月29日)(2)商品の陳列:大きなスーパーの中で、日本人がびっくりするのが、この売り場です。麦芽飲料のミロ(こちらではマイロ)の売り場、所狭しと並んでいます。(撮影2003年2月3日)(3)お米売り場:ほとんどが長軸米です。ジャポニカ米も少しだけあり、日本人の多くはそれを食べています。(撮影2003年10月29日)(4)野菜売り場:自分で袋に入れて、計量コーナーに持っていって、量って値札を付けてもらうのが一般的です。(撮影2003年10月29日)(5)パン屋:スーパー直営のパン屋さん。奥でパンを焼いています。(撮影2003年10月29日)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
「世界遺産」写真資料2004年11月中学校社会編集部作成より。写真提供:PPS通信社。マレーシア、カリマンタン(ボルネオ)島北東部にある東南アジア最高峰のキナバル山を中心とした公園で、面積は約750平方Kmと、琵琶湖より一回りほど大きい。キナバル山の山頂部は、花崗岩が露出しているため植物を見ることはできないが、山麓には熱帯雨林、標高2000m付近には温帯林、そして3000m付近には高山植物と標高によって異なる植生を見ることができる。この公園に生育する植物は5000種以上、また動物も400種以上生息し、動植物の楽園でもある。
写真提供 PPS通信社
「世界遺産」写真資料2004年11月中学校社会編集部作成より。写真提供:PPS通信社。高さが100mを越す巨大な岩の柱が林立するウーリンユアンは、中国南部・フーナン(湖南)省の北西部に位置する。ウーリンユアン付近は地形が険しく、農耕に不向きな土地のため、近年までその存在があまり知られていなかった。約3憶8000万年前は海底だったウーリンユアンの大地は、約1憶8000万年前から続いた地殻変動によって、海底に堆積した砂岩層が隆起したのち、風化や侵食などの影響を受け、現在のような景観が形作られた。
写真提供 PPS通信社
「世界遺産」写真資料2004年11月中学校社会編集部作成より。写真提供:PPS通信社。スーチョワン(四川)省の北部に連なるミンシャン(岷山)山脈にある渓谷・ホワンロンは、1980年代前半まで地図にもその地名が掲載されることのなかった秘境であった。樹海のなかに露出した石灰岩層が、侵食作用を受けながら棚田状に大小3000を越す湖沼を生み出している。石灰岩の光沢のある岩肌に湖沼が連なるさまは、あたかも龍が渓谷を駆けのぼる姿であり、またその湖沼のひとつひとつは、龍や鱗のようであると言われている。また湖沼の水は太陽の光や水深によって青や緑色の濃淡な色合いを見せ、神秘的な美しさを醸し出している。
写真提供 PPS通信社
[写真資料]三国志を巡る歴史舞台の写真、撮影者:元愛知県一宮市立宮西小学校 野々垣国男、撮影期日:2004年10月。劉備が亡くなったあと、234年、諸葛孔明は最後の戦いを魏に対していどみました。しかし、戦いのさなか、孔明は五丈原の陣中で病死しました。その後、蜀は次第に勢力を弱め、263年、魏に滅ぼされてしまいました。五丈原(ごじょうげん)、蜀の桟道(しょくのさんどう)。
元愛知県一宮市立宮西小学校 野々垣國男
高校地歴・公民ニューサポートVol.3 2005年春発行より。[1枚の写真から]変貌するインド大都市の郊外景観、岡橋秀典(広島大学教授)。写真は、2003年12月にデリーの郊外都市グルガオンで撮ったものである。このようなきらびやかなショッピングモールがここ2、3年の間に突如姿を現してきた。しかも、1箇所ではなく、6つのモールが既にオープンしているという。メトロポリタンと称するこのモールの写真からは、消費財の普及とグローバル化がよく読み取れる。正面には自動車の看板が2つ、向かって左が日本のスズキ(株)が合弁で経営するマルチ・ウドヨグ社、右が韓国から進出したヒュンダイ・モーター社のものである。
広島大学教授 岡橋秀典
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市内。韓国の首都ソウル特別市は日本の東京都に相当します。街並みは近代高層ビルが並ぶ地域、専門店街、下町のような住居地区に分かれています。日本と違い地震がほとんどないためマンションなどもかなりの高層です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
[韓国]宗廟(チョンミョ)、撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・宗廟。宗廟(チョンミョ)は1995年に世界文化遺産に登録。儒教精神を映した正殿(チョンジョン)は、列柱と扉が整然と並ぶ建物で、その前には石が敷き詰められています。扉の奥はそれぞれ独立した廟室となっていて、李氏朝鮮王朝の19代以前の王と王妃の位牌が祀られています。正殿は建坪約2270平米で韓国最大の単一建造物です。毎年5月の第一日曜日に祭礼儀式・宗廟大祭(チョンミョ・デジェ)が行われます。隣接する永寧殿(ヨンニョンジョン)は位牌が増えたために創られたものです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・徳寿宮。1592年の文禄の役で豊臣軍にソウルの景福宮(キョンボックン)が破壊された際に、臨時宮として使用され慶運宮と呼ばれました。1896年に高宗(コジョン)が改修し、1897年に大韓帝国の成立をここで公布しました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・昌徳宮。1997年に世界文化遺産に登録。1405年第3代太宗(デジョン)によって景福宮の離宮として造営されました。クーデターが起きた場合の正宮としての機能も備えて建てられ、第15代から第27代まで正宮として約270年間使われました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・昌慶宮。1418年に第4代世宗(セジョン)が太宗(デジョン)の住居として建造したものです。王宮の建物は通常南向きに建てられますが、明政殿は正殿ですが政治を行う予定がなかったため東向きに建てられました。現存する最古の王宮建築です。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・景福宮。景福宮(キョンボックン)光化門(クァンファムン)内で開かれる「宮城門開閉及び守門将換班儀式」は宮中文化に接することのできる行事です。毎日10時から開門儀式と交代儀式、15時から交代儀式と閉門儀式が行われ、その間も一時間毎に儀式が行われています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
[韓国]景福宮の日時計、撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・景福宮。宮殿では毎時に儀式が執り行われるため時計が必要なのでしょう。写真は景福宮(キョンボックン)で国王が執政した思政殿の前に日時計が置かれているものです。いまでも実用になります。景福宮に隣接する国立民俗博物館内にも水時計や日時計が展示されています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・景福宮。官庁街のある世宗(セジョン)通りの光化門(クァンファムン)は朝鮮王朝最初の王宮である景福宮(キョンボックン)の正門です。1395年に太宗(デジョン)が創建しました。1592年の文禄の役で大半を消失しましたが、1868年の高宗(コジョン)のときに再建されました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・宗廟市民広場。宗廟(チョンミョ)市民広場にある像です。韓国の民族運動家であり宗教家である李商在(イ サンゼ)は民族解放不運動の総結集体である「新幹会」(1927年2月15日結成)の会長でしたが結成後わずか1か月で他界しました。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2006年9月20日、撮影場所:ソウル市・昌徳宮と国立民俗博物館。オンドルとは韓国のユニークな床下暖房のことです。間隔を空けたレンガなどの上に床板を敷き詰め、床下の空間に熱い空気を流すなどして床全体を暖めます。昔は熾した炭を焚口から入れていましたが、現在はガス温水を熱源にしているようです。写真は昌徳宮(チャンドックン)の建物の焚口と煙突です。断面模型は国立民俗博物館の展示物です。冬のソウルは-15℃にもなることがありますが、オンドルのおかげで室内は暖かです。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
タジキスタン・キルギスの写真です。シルクロードの旅で見た自然、文化をつづって撮った写真資料です。●[タジキスタン]ペンジケント ●[タジキスタン]水守の農夫 ●[タジキスタン]ヒッサール城 ●[タジキスタン]少年の夢 ●[タジキスタン]パミールの釣り人 ●[タジキスタン]おしゃれな少女 ●[タジキスタン]国境のはざま ●[キルギス]パミールの炊煙 ●[キルギス]キルギス族のユルト ●[タジキスタン]大カラクル湖遠望
兵庫県市川学院市川高等学校 山本秀樹
ニュ-サポ-ト高校社会Vol.9 2008年4月号より。中国・山西省の古都大同と省都太原との間は、恒山の険阻な山並みで距てられている。2001年8 月、機会があって、大同から太原へと通じる国道を走った。途中、南に恒山の尾根に沿って連なる明代の長城を望んでいた折しも、右手に城塞らしきものが認められた。そこで、およそ2 キロ、脇道に乗り入れた。かくて、思いがけなく、城壁に囲まれた小さな聚落(城村)に行き当たることができた。初建は遼金時代にまで遡ると伝えられる朔州市山陰県所属の「旧広武城村」である。
東京大学名誉教授 尾形勇
撮影年月:2006年11月、撮影場所:アゼルバイジャン、ステパナケルトおよびその近郊。アルメニア系住民が人口の多数を占めていたナゴルノ・カラバフは、ソビエト連邦成立時、アゼルバイジャン領に編入され自治州となったが、ソビエト時代末期になると、アルメニア領への帰属変更を求めるアルメニア系住民の運動が高まり、アゼルバイジャン系住民との衝突が頻発した。ソビエト連崩壊後の1992年、ナゴルノ・カラバフ自治州最高議会が独立を宣言すると、事はアルメニア、アゼルバイジャン両共和国の全面戦争に発展した。1994年、停戦合意が成立し、以来この地域はアルメニア軍が実行支配しているが、2008年4月現在、ナゴルノ・カラバフ共和国の独立を承認しているのはアルメニアのみで、国際的にはまだアゼルバイジャン領とみなされている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:アルメニア、エレバン市内、ホルヴィラップ村。向かって右が大アララト山(5165m)、左が小アララト山(3925m)。大アララト山は、旧約聖書のノアの箱舟が流れ着いた場所という伝説もある。日本人にとっての富士山同様、アルメニア民族の心の風景とも言える存在だが、現在はトルコ共和国領に属している。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年10月から11月、撮影場所:アルメニア、アラヴェルディ、エレバン近郊[内容]世界最古のキリスト教国アルメニアには、いくつもの古い、そして独特なキリスト教建築があり、世界の巡礼者、観光客を惹きつけている。その中で世界遺産に登録されているものは、2008年4月現在で4つ。うち一つはアルメニア正教の総本山エチミアジンの大聖堂。あとの三つは、アルメニア東北部アラヴェルディ近郊のハグパット修道院、同じくアラヴェルディのサナヒン修道院、エレバン近郊のゲガルド修道院である。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内。[内容]ユダヤ人のホロコースト同様、アルメニア民族の歴史を語るうえで避けて通れないのが、オスマン帝国末期に起こったアルメニア人の大虐殺である。特に第一次世界大戦中の1915年に行われた組織的虐殺や強制移住の過程で、約150万人のアルメニア人が命を落としたと言う。トルコ共和国政府は、今日に至るまでこの事実を認めていない。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内。名曲『剣の舞』で知られる旧ソ連の代表的作曲家、アラム・ハチャトゥリアンもアルメニア人である。西洋のクラシック音楽に、カフカスの民族音楽の要素を取り入れて、独自の作風で人気を得た。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内。日本ではあまり知られていないが、アルメニアの特産品はブランデーである。旧ソ連時代から、アルメニアの主要な外貨獲得手段でもあった。独立後はフランスの酒造会社との提携も進んでいる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:ホルヴィラップ村。トルコ共和国との国境近く、アララト山の麓にホルヴィラップ修道院はある。ここは、アルメニアのキリスト教化に大きく貢献した聖人、啓蒙者グリゴルにちなんだ教会であることと、ここからのアララト山の眺めが絶景であることで有名である。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:バイラム・アリ郊外。メルブはシルクロードの拠点として紀元前から栄えた都市である。11~12世紀にはセルジューク朝の都の一つがここに置かれ、最盛期を迎えたが、13世紀にチンギス・ハーンの侵攻によって徹底的に破壊された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エチミアジン(エレバン市近郊)。エチミアジン大聖堂は、301年にアルメニアが世界で初めてキリスト教を国教とした頃からこの地にある由緒正しい教会で、世界遺産にも登録されている。現在もアルメニア正教の総本山として現役で、国内外から参拝者を集めている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年01月、撮影場所:中国、成都市内。成都動物園では、ジャイアントパンダをはじめ、四川省とその周辺の山岳地帯にしか生息していない希少動物を身近に見ることができる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影者名:角南真也(元キルギス国立大学講師)、撮影年月:2007年01月、撮影場所:中国、成都市内。日本で最も有名かつ人気のある四川料理と言えば、「麻婆豆腐」。陳麻というお婆さんが考案したことからその名がついたと言われ、中国では「麻辣豆腐」とも言う。その陳お婆さんの伝統を受け継ぐ本家本元の麻婆豆腐を出すのが、四川省の省都、成都市内にある「陳麻婆豆腐店」だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影者名:角南真也(元キルギス国立大学講師)、撮影年月:2007年01月、撮影場所:ベトナム、ハノイ市内。1000年の歴史を持つという、ベトナム伝統の水上人形劇。もともとベトナム北部の農民たちの収穫の祭りで行われていたものが、後に宮廷でも演じられるようになり、今ではベトナムを代表する伝統芸能の一つとなっている。ハノイ市内の水上人形劇場では、海外でも高い評価を受けている、国立人形劇団の演技が毎晩見られる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影者名:角南真也(元キルギス国立大学講師)撮影年月:2007年07月、撮影場所:ホーチミン市チョロン地区。市場の中を、「商売道具」を持って移動する体重計屋。体重計を売るのではなく、その場で客の体重を計ってあげるのが仕事。普通は移動しながらではなく、人通りの多い場所で客待ちをする。日本では見かけない商売だが、ベトナム以外にも中国や旧ソ連圏でもよく見られる光景だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年06月、撮影場所:ベトナム、クチ。ベトナム戦争中,ゲリラ戦術でアメリカ軍を散々に悩ませた南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)。その神出鬼没ぶりの秘密は,全長250kmにも及ぶ地下トンネルの存在だった。現在では,ホーチミンからクチへの日帰りツアーで,その一部を見学できる。 クチはホーチミン市の西北70kmの郊外にある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
[イラン]イスファハンのアルメニア教会、撮影者名:角南真也(元キルギス国立大学講師)、撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]イスファハン。1597年、サファヴィー朝の王アッバースⅠ世はイスファハンに都を遷すと、建築や工芸、商業に長けたアルメニア人を多く呼び寄せ、信仰の自由を与えるのと引き換えに、都の繁栄に寄与させた。イスファハンのジョルファー地区は当時の名残を留めるアルメニア人居住区。13のアルメニア教会が今も残る。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]イスファハン。イランの主食は米とパン。パンは薄く焼いたものが主流。米は長粒米(インディカ種)で、バターを落として塩味で炊いたり、ドライフルーツと一緒に甘く炊いたりする。主なおかずは肉(羊・鶏)や魚のグリル、肉(団子状のことも)と野菜の煮込み、トマトやピーマンの挽肉詰めなど。ちなみに、同席したのは日本と韓国からの観光客の方だが、イランでは外国人でも、女性は髪をスカーフで隠し、ロングコートで手足を覆わなければならない。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]イスファハン。1647年、サファヴィー朝のアッバースⅡ世によって建てられた宮殿で、当時は王の迎賓館として使われていたらしい。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]ペルセポリス付近。 世界的に有名な都市遺跡、ペルセポリスから北西約6kmのところに、ナグジェ・ロスタムの墓群がある。ここにはアケメネス朝(前550~前330)の王たちの墓と、ササン朝(226~651)時代に彫られたレリーフが残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]テヘラン市内。徹底したイスラム原理主義と反米主義の国、というイメージの強いイランですが、政府のスローガンと、庶民の感覚の間には、かなりギャップがあるようです。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]マシャド。マシャドにあるイマーム・レザー廟は、十二イマーム派(シーア派の一派でイランの国教)八代目イマーム、アリー・レザーの墓で、イラン随一の聖地として、国内外から絶えず多くの巡礼者を集めている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]イスファハン。 イランの古都、イスファハン。かつてサファヴィー朝(1501~1736)の都であったこの町は、最盛期には「世界の半分」とまで言われた。世界遺産ともなっている「イマームの広場」と並ぶ、この町のもう一つのみどころは、ザーヤンデ川に架かるサファヴィー朝時代の橋の数々だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年10月、撮影場所:[グルジア]ゴリ市。カフカス山脈の中の小国グルジアの、そのまた中にある小都市町ゴリが、多少なりとも有名なのは、ここがスターリンの出身地だからである。独裁者として悪名高いスターリンだが、ここゴリの町では、彼は未だ英雄扱いだ。町の中にはスターリン像、スターリン通り、スターリン博物館などが残る。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:グルジア共和国中部。グルジア軍用道路は、19世紀初め、南カフカスへの進出を狙う帝政ロシアによって整備された、ウラジカフカス(現ロシア連邦北オセチア共和国首都)からトビリシ(現グルジア共和国首都)に至る道。軍用道路というと何か物々しい感じがするが、プーシキンやレールモントフの作品にも謳われた、美しい沿道の景色は、今も旅人たちを惹きつける。今回はトビリシから北上し、ロシア国境に近いカズベギまで行ってみよう。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]テヘラン。異国情緒漂うケテルビーの名曲『ペルシャの市場にて』。ところで、ペルシャってどこにあるの?実は現在のイランこそが、かつてのペルシャなのです。ちなみに、「市場」を意味する「バザール」という言葉もペルシャ語起源です。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:[イラン]イスファハン。イランでは、女性は(外国人でも)外出する時、チャドルと呼ばれるロングコートで、頭の先から足首まですっぽり覆わなければならない。そのせいか、イランの女性は非活動的でおとなしい、というイメージを持ってしまいがちだが、それはまったくの偏見である。イランでも女子のスポーツは意外に盛んで、チャドルのまま、飛んだり跳ねたり、泳いだりしている。こちらはイスファハンのザーヤンデ川で練習中の女子ボートチーム。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ギリシャ語で「ペルシャの都」を意味するペルセポリス。紀元前512年、アケメネス朝の都としてダレイオス1世によって建設が開始された。大ペルシャ帝国の中心として繁栄を誇ったこの都も、ダレイオス3世の時代、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王によって陥落、一夜のうちに灰燼に帰してしまった。その後、二度と再建されることはなかったが、現在では世界遺産として保護されている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
十二イマーム派(シーア派の一派でイランの国教、ムハンマドの血を引く正統な後継者をイマームと呼ぶ)第8代イマーム、アリー・レザーの弟、セイイェド・ミール・アフマドの廟。シャー・チェラーグとは「ランプの王」という意味で、彼の通称。多くの巡礼者を集め、シラーズで最も人気のある観光地だ。建物は14世紀の建築。本殿の内側は総鏡張りになっており、まばゆいばかりだ。静かに、秩序正しく礼拝するモスクと違い、こうした聖廟では、聖者の棺に触れようとする信者が押し合いへし合いして、独特の熱気に満ちている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
イスファハンで最大の見所、世界遺産にもなっている「イマーム広場」。サファヴィー朝(1501~1736)最盛期の王、アッバース1世(1571~1629)によって造られた。当時のイスファハンは、サファヴィー朝の首都として、「イスファハンは世界の半分」とまで言われる繁栄を誇っており、当時のペルシャ建築の粋を集めたこの広場も「世界の縮図」と呼ばれた。本来の名前は「シャー(王)の広場」だが、1979年に王政を打倒した革命政権によって現在の呼び名に改められた(「イマーム」とは、イスラム教シーア派において、ムハンマドの正統な後継者を意味する)。
元キルギス国立大学講師 角南真也
世界遺産ペルセポリス観光の拠点となっているシラーズの町だが、ゼンド朝(1750~1794)の都だったこともあり、この町自体にも見所は多い。町の中心には、開祖カリーム・ハンの居城だった、その名もカリーム・ハン城がそびえる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
メドレセとは、イスラムの神学校のこと。イスラムでは一応、聖職者と一般信者の区別はないことになっているが、それはあくまでも建て前。イスラムに関する専門的な知識を持った、ウラマー(イスラム法学者)という職業の人々がいて、一目でそれと分かる服装をしている。彼らはこうしたメドレセで宗教教育を受け、卒業後も研究者や教育者として、メドレセに勤務する人たちだ。特にイランの場合、高位のウラマーが大統領や議会の候補者を審査・承認するなど、政治的にも大きな実権を持っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
8世紀に創建された、イスファハンでも最古のモスク。現在の建物は、12~14世紀に改築されたものが基本になっているが、その後も増改築を繰り返しているため、さまざまな時代の建築・装飾様式が混在している。ペルシャ語名は「マスジェデ・ジャーメ」、「金曜の礼拝所」という意味だ。イスラムでは金曜日は集団礼拝の日と定められており、 そのための大モスクのことを、「金曜モスク」と呼ぶ。手前の泉は、礼拝前に頭と手足を清めるためのもの。
元キルギス国立大学講師 角南真也
イランの街角ではよく生ジュース屋を見かける。オレンジ、ブドウ、サクランボ、メロン、バナナなど、日本でもおなじみの果物の他、ヨーグルトのシェークなどもある。しかし、何といってもイランらしいのは、この山と積まれたザクロを搾ったジュースだ。美容と健康にいいということで、昨今、日本でも人気のザクロ、実はここイランが原産だ。特に夏の終わりから秋にかけてよく出回る。
元キルギス国立大学講師 角南真也
シラーズの町の北東の外れに立つクルアーン門。いわばシラーズの玄関口である。ゼンド朝(1750~1794)の開祖で、シラーズを都に定めたカリーム・ハンの命によって造られた。門の上部には、旅の安全祈願のためのコーラン(イスラムの聖典、現地の発音では「クルアーン」)が安置されていることから、この名がついた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
イスファハンのチェヘル・ソトゥーン宮殿に、写生に来ていた地元の女子高生たち。イランの法律では、女性の外出する時の服装に厳しい規定があることは、日本でもよく知られている。チャドルと呼ばれる黒い一枚布で、頭から足首まですっぽり覆った姿が有名だが、実際には、スカーフにロングコートという人が大半のようだ。スカーフとコートの色は黒か灰色が多いが、赤や白など、明るい色のものを選ぶ人もいる。この規定のせいで、イランの女性はおとなしい、という先入観を持ってしまいがちだが、日本人の私を珍しがってはしゃぎまわる彼女たちの素顔は、日本の女子高生とそう変わらないように見えた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
トビリシの町は、ソ連時代に大規模な再開発を受けなかったため、19世紀の帝政ロシア時代の雰囲気をよく残している。いくつもそびえるとんがり屋根の教会、レンガ造りの家並みや、石畳の路地などを見ていると、まるで中世ヨーロッパの町に迷い込んだような気分にさえなる。トビリシは、おそらくカフカス地方で最もヨーロッパ的な町だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
グルジア王国が最盛期を迎えた12世紀、時の王ギオルギ3世(在位1156~1184)によってヴァルジア砦の建設が始められた。さらに彼の跡を継いだ娘のタマラ女王(1160~1213、在位1184~1213)は、ここを修道院として完成させた。ヴァルジアは一時人口5万人の都市に成長したが、その後、グルジア王国が、モンゴル、トルコ、ペルシャの相次ぐ侵略を受けて衰退するにつれ、さびれていき、16世紀には町ごとペルシャに占領されてしまった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ワイン発祥の地ともいわれるグルジア。そのワイン造りの歴史は5000年以上に及ぶ。グルジアワインというと日本ではなじみが薄いが、赤・白、辛口・甘口、種類は豊富で、旧ソ連では最も人気と定評がある。しかし、ここ数年関係の悪化しているロシアが、グルジアワインの禁輸措置を取ったことにより、最大の輸出先を失ってしまった。 、[キーワード]ワインボトルのモニュメント 市場のワイン売り場 ブランドワイン ブドウの収穫 収穫したブドウ 今年の新酒
元キルギス国立大学講師 角南真也
グルジアの古都ムツヘタの町は、現在の首都トビリシから北西に約20kmのところにある。紀元前3世紀から5世紀まで、グルジア王国の前身イベリア王国(自称カルトリ王国)の都であった。アルメニアに次いで早い337年にキリスト教が国教化されて以来、12世紀までここにグルジア正教の総主教座が置かれ、その後も巡礼地として大きな役割を果たした。1994年には町全体が世界遺産に登録された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
グルジア民族の歴史は古く、紀元前13世紀にはコルキス王国の名で世界史に登場している。有名なギリシャ悲劇、アイスキュロス(前525~前456)の『縛られたプロメテウス』や、エウリピデス(前480年ごろ~前406年ごろ)の『王女メディア』の舞台も、ここグルジアである。ゴリ市郊外にある「ウプリスツィヘ」の都市遺跡は、そんな神話の世界へ誘ってくれそうな、神秘的な雰囲気が漂う。
元キルギス国立大学講師 角南真也
337年にキリスト教を国教としたグルジアは、アルメニアに次いで古いキリスト教国。そして、トビリシは、5世紀末にムツヘタから遷都されて以来、ずっとグルジアの首都であり続けた。ゆえにトビリシの街には、由緒ある独特な教会建築が、今も多く残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
グルジア中部の町、ボルジョミは、旧ソ連では有名な温泉リゾート地。1829年、帝政ロシア軍の兵士たちによって発見された。その後、カフカス総督のヴォロンツォフ伯爵が開発を加え、ロシアの王侯貴族の他、チャイコフスキーやゴーリキーなどの芸術家たちもここを訪れた。ソ連時代に入ると、一般大衆も利用できるサナトリウムや国民宿舎が造られ、ますます多くの保養客でにぎわうようになった。また、ここの温泉水は飲料水としても、早くから商品化されており、その名も「ボルジョミ」のブランド名で、国内のみならず、旧ソ連圏全体に出荷されている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ワイン発祥の地、グルジア。酒のうまい所には、えてしてうまい料理があるものだ。日本ではほとんど紹介されていないが、グルジア料理にはロシア料理に取り入れられたものも少なくない。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ニコ・ピロスマニ(1862~1918)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したグルジアの画家。絵は独学で習得し、国内各地を流浪しながら、絵を描いてその日暮らしを続けた。1918年、貧困のうちに死去した。死後にグルジアの国民的画家として愛されるようになり、旧ソ連圏全体でも有名になった。今もグルジアの町角では、食堂の看板などに彼の作品のコピーを時折見かける。
元キルギス国立大学講師 角南真也
イスラム暦の9月は、ラマダーンと呼ばれる断食月だ。イスラム暦は太陰暦で、西暦(グレゴリウス暦)より10日ほど短く、ラマダーンも毎年11日くらいずつ早くなる。ラマダーン中は、日の出から日没までの一切の飲食、喫煙が禁止されるので、ラマダーンが夏に当たると、かなり辛い。政教分離の進んだトルコでは、ちゃんと断食しない人も少なくないが、それでも、やはりイスラムの国だけあって、ラマダーン中にしか見られない光景もある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡。北は黒海、南はマルマラ海、長さは南北に約30km。イスタンブールは、この海峡を挟みアジア側とヨーロッパ側にまたがって形成された、非常に珍しい都市だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ボスポラス海峡とともに、アジアとヨーロッパの境界をなす、ダーダネルス海峡は、全長約60km、幅は1.2~6km、北はマルマラ海から南はエーゲ海までを結んでいる。チャナッカレは、ダーダネルス海峡のアジア側に開けた、人口10万人ほどの小さな港町。
元キルギス国立大学講師 角南真也
「トロイアの木馬」で有名なトロイアの遺跡は、1871年から73年にかけての、シュリーマン(1822~1890)の発掘によって発見された。ホメロス(前8世紀ごろ)の叙事詩『イリアス』などにうたわれたトロイア戦争の英雄伝説は、それまで架空の話だと思われてきたが、この発見によって史実であることが証明された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
トラブゾンの南54kmほどの所にある、シュメラ僧院は、約300mも切り立った崖にへばりつくようにして建っている、珍しい遺跡だ。ここに最初に僧院が建てられたのは、ローマ帝国においてキリスト教が国教化された380年ごろ。現在の建物は、トレビゾンド帝国時代(1204~1461)の14世紀に建てられたものだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
トラブゾンはトルコ北東部、黒海に面した、人口30万人弱の港町である。トラブゾン県の県都になっている。トルコの中では中規模な町だが、その歴史は紀元前8世紀にまでさかのぼる。ギリシャの植民都市として建設されたこの町は、後にローマ・ビザンティン帝国の支配化に入り、1204年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が第4回十字軍によって陥落させられた際には、その亡命政権であるトレビゾンド帝国(1204~1461)の首都となった。市内や近郊の見所は、この時代のものが多い。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年10月、撮影場所:ハガルツィン村。木の枝に布切れや紙切れを結んで願をかける。日本のおみくじに似ているが、旧ソ連圏で広く見られる習慣である。起源はさだかでない。後ろの建物は、11世紀から13世紀に営まれたハガルツィンの修道院。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:バイラム・アリ。かつてはシルクロードの拠点メルブがあったバイラム・アリの町も、今はまるで活気のない、ただの田舎町になってしまっている。往時の賑わいを偲べるのは、こちらのバザールだけ。屋根のない敷地外の青空バザールでは、周辺の農民が持ち込んだ野菜を売っている。特に珍しい物はなかったが、童話の本に出てきそうな大きなカボチャが印象的だった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:マリー市。CISではソビエト連邦崩壊後も権威主義的支配を続ける国が多いが、ニヤゾフ前大統領存命中、トルクメニスタンはその中でも最悪の独裁国家と言われていた。取材当時(前大統領は2006年12月に急死)、彼の肖像画や銅像が国中の町の至る所で見られ、その個人崇拝ぶりは北朝鮮やフセイン政権時代のイラクを彷彿とさせた。、
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年10月、撮影場所:アラヴェルディ。旧ソ連空軍の主力戦闘機として有名なミグの第一号機は、アルチョーム・ミコヤンとミハイル・グレヴィッチを中心とする、いわゆる「ミグ」チームによって、第二次世界大戦中に開発された。ミコヤンの出身地であるアルメニア共和国アラヴェルディの町には、彼の銅像とミグの一号機が飾られている。アルチョーム・ミコヤンの兄はソ連の副首相、アナスタス・ミコヤンである。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:ガルニ村(エレバン市近郊)。紀元1世紀、時のアルメニア王トゥルダト1世によって建てられた、ヘレニズム様式の神殿。太陽神ミトラをまつった神殿だという。ミトラ信仰はイラン起源だが、当時はローマ帝国でも流行していたという。当時はちょうど、イラン系のアルサケス朝パルティアとローマ帝国が、アルメニアの宗主権をめぐって争っていた時代であった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:バイラム・アリ。バイラム・アリの町のバザールで働くトルクメン人の女性。イスラム色の濃い保守的な土地柄ゆえか、年配の女性はスカーフをかぶり、顔の下半分を隠している人も多いが、衣装はとても色彩豊かだ。トルクメン人は現在のトルコ人のルーツと言われているが、その顔立ちは、中東と東アジアのちょうど中間くらいといった感じ。彼女たちが売っているのは、ブドウとヤマノイモに似た芋の一種。芋は水分が多く、ほのかな甘みがある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:ゲガルド修道院(エレバン近郊)。ハチュカルとは十字架をレリーフした石のこと。アルメニア各地の教会、墓地、その他の宗教的な場所で見られる。十字架そのものにも非常に複雑な幾何学模様が刻まれているあたり、他の地域のキリスト教芸術にはあまり見られない特徴だが、例えば、十字架の土台は生命の木、右側の輪が連なっているようなものは太陽などは、キリスト教以前の土着信仰のモチーフらしい。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内。カトギケ・スルプ・アストヴァツァツィン(聖母教会)は、13世紀に建造された、エレバン市内に現存する最古のキリスト教会である。スターリン時代の1936年、大規模な区画整理のため、その大部分が取り壊された。残されたのはこの小さな聖具室の建物のみ。今では周囲をオフィスビルやアパートに取り囲まれて、通りから見ただけではその存在にすら気づかないが、ソ連からの独立後は再び礼拝堂として使われるようになり、少しずつ参拝者が戻ってきている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内。エレバン市の南の外れ、町を一望できる小高い丘の上に、エレブニの遺跡はある。ここは紀元前782年、ウラルトゥ王国の王アルギシュティ1世によって 築かれた城塞の跡であることが、発掘された碑文から分かっている。現在のアルメニア共和国の首都エレバンは、このエレブニを語源としていると言われており、ウラルトゥも古代アルメニア人の王国だったと考えられている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年11月、撮影場所:エレバン市内とその近郊。4世紀初頭に世界で初めてキリスト教を国教化したことで知られるアルメニアだが、その独自の文字の歴史も長い。5世紀にメスロプ・マシュトツという僧侶によって作られたアルメニア文字は、その後ほとんどかたちを変えることなく、今日まで使用されている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年12月、撮影場所:モイナク。アム川(アムダリア)とシル川(シルダリア)という、中央アジアの二大大河が流れ込み、往時には世界第4位の大きさ(1960年67、499k㎡)を誇ったアラル海。しかし、ソ連時代の無謀でずさんな農地改革による灌漑によって、湖に流れ込む川の水が著しく減り(現在、アム川はアラル海の手前で干上がり、アラル海には注いでいない)、2003年現在で湖の面積は3割以下、水量は1割程度に減少、一方、塩分濃度は6倍以上に上がった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2004年1月、2005年10月、撮影場所:メデウ。カザフスタン最大の都市、アルマトイ(アルマティ)の中心から南へ約15km、天山山脈の支脈で標高1700mの所にあるメデウは、アルマトイ市民に人気の行楽地。春は花が咲き、夏は涼しく、秋は黄葉が美しく、冬はスキーやスケートが楽しめる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2005年7月、撮影場所:トルケスタン。コジャ・アフメド・ヤサウィ(1103~1166)は、ヤサ(現トルキスタン市)出身のスーフィー(イスラム神秘主義者)で、中央アジアのイスラム化に大きく貢献した人物。彼の死後造られた霊廟を、ティムール大帝(1336~1405)が大々的に改築し、カラフルなタイル装飾と巨大な青のドームが美しい、現在の姿になった。2003年には、カザフスタンで初めての世界遺産に登録された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年9月、撮影場所:トルコ南西部、ベフラムカレ村。トロイの遺跡から南に50kmくらい、エーゲ海に面したベフラムカレ村の外れに、アソスという都市遺跡がある。この都市は紀元前10世紀ころ、ギリシャ人の一派、アイオリス人によって建設された。紀元前4世紀には学術都市として栄え、アリストテレスもここに招かれて学校を開いたという。また、1世紀半ばには、聖パウロもこの地を訪れている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年9月、撮影場所:イスタンブール。アジアとヨーロッパを隔てる、ボスポラス海峡。一番狭いところで幅約700m。ちょうどその辺りに、海峡を挟むようにして、オスマン帝国時代(1299~1922)の二つの要塞、アナドル・ヒサルとルメリ・ヒサルが立っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年9月、撮影場所:イスタンブール。イスタンブール新市街の路地裏で見つけた喫茶店。そこには日本の縁台将棋よろしく、バックギャモンに興じる若者たちがいた。バックギャモン(トルコ語では「タウラ」という)は、白と黒の石を使うので、一見、碁のようだが、実は双六に近い。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2005年9月、撮影場所:イスタンブール。イスタンブールのヨーロッパ側は、金角湾を挟んで旧市街(歴史地区)と新市街に分かれている。その旧市街と新市街を結んでいるのが、ガラタ橋だ。1845年に造られた最初の橋は木橋だったという。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2005年10月、撮影場所:トラブゾン市内。アヤ・ソフィア聖堂というと、イスタンブールのものが有名だが、ここトラブゾンのアヤ・ソフィア聖堂も、規模はかなり小さいものの、保存状態もよく、美しい。5世紀の建立で、トレビゾンド帝国時代の13世紀半ばに大改修を受け、ほぼ今のかたちになった。オスマン朝時代(1299~1922)はモスクとして使用されたが、内部のフレスコ画の多くは今も残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年9月、撮影場所:イスタンブール。イスタンブールのヨーロッパ側、ボスポラス海峡に面して立つ、ドルマバフチェ宮殿は、オスマン帝国第31代スルタン、アブデュルメジド1世の命により、1853年に建てられた。ヨーロッパのバロック様式とオスマン様式を折衷した、それまでにない独特で壮麗な建築だったが、そのころ、すでにオスマン帝国は衰退期に入っていた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2006年9月、撮影場所:イスタンブール。イスタンブールの新市街一の目抜き通り、イスティクラール(独立)通り。日本でいえば、銀座と新宿を足したような感じだろうか。デパートやブティック、おしゃれな喫茶店などが並び、時折、路面電車が通る他は、自動車が一切通らない歩行者天国になっている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:ホイアン。世界遺産の町ホイアンには、他にはない独特の料理がある。ここでは代表的なもの三つを紹介する。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:ホイアン。チャムパー王国(192~1471)の時代から、海のシルクロードの拠点として栄えていたホイアンの町。16世紀、広南阮氏の支配下に移ったころから、ポルトガル人やオランダ人などの西洋人、中国人や日本人も来航するようになり、ますます活況を呈した。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:北緯17度付近。1954年のジュネーブ協定により、ベトナムはフランスからの独立を果たしたものの、国土は北緯17度線を境に南北に分断された。ベトナム戦争が始まると、この北緯17度線を挟んで、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)と北ベトナム軍が南ベトナム軍とアメリカ軍と戦い、一進一退の凄絶な戦闘を繰り広げた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:タイニン。カオダイ(高台)教は、1919年、ゴ・ミン・チェンという人物によって唱えられた、ベトナム独特の新興宗教。仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教など、さまざまな宗教の要素を取り入れた混合宗教だ。かつてはフランスの植民地支配や南ベトナムの宗教弾圧に激しく抵抗するなど、政治的にも活発だった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:ニャチャン市。ベトナムの代表的なビーチリゾートの一つ、ニャチャンはベトナム南部で最大の漁港でもある。朝、日の出前から、ニャチャン川の河口にあるクーラオ漁港市場へ行けば、さまざまな魚介類が水揚げされ、取引される様子が見られる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月。撮影場所:ベトナム中部 ハイヴァン峠。ハイヴァン峠は、ベトナム中部の都市、ダナンとフエの間に横たわる。標高496mの比較的低い峠ながら、豪雨による土砂崩れや落石が頻発する交通の難所であり、かつては北のベトナムと南のチャムパー王国(192~1471)の国境でもあった。それゆえか、今もこの峠を境に、気候風土から人の気質まで、がらりと変わると言われている。ちなみに「ハイヴァン」とはベトナム語で「雲海」という意味である。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月。撮影場所:ダラト市。ベトナム南部の高原地帯、海抜1400~1500mほどのところにあるダラトの町は、フランス植民地時代に開発された避暑地だ。熱帯気候のベトナムにあって、年間の平均気温が18~23度という過ごしやすさだ。林芙美子の小説『浮雲』にも登場するダラトの町は、今でもベトナム人、とりわけ若いカップルに人気の観光地だ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所ハノイ市。ホアロー収容所は、主に政治犯を収容する目的で、19世紀末、フランスによって造られた。独立運動が最高潮を迎えていた1953年には、2000人近い人々が収容されていたという。フランス軍撤退後は、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の捕虜収容所となった。捕らわれた米兵は皮肉を込めて、ここを「ハノイヒルトン」と呼んだ。1997年、一部を博物館として残し、半分以上は取り壊された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:フエ市。ベトナム最後の統一王朝、阮(グエン)朝(1802~1945)の都が置かれたフエの町。フォーン川を自然の外堀として左岸に広がるのが、かつての王宮を中心とした旧市街だ。阮朝王宮および周辺の歴史的建築群は、1993年にベトナム初の世界遺産に登録された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:フエ市。阮(グエン)朝第12代皇帝、カイディン帝(啓定帝、在位1916~1925)の廟。フエ郊外に点在する阮朝歴代皇帝の廟の中で最も新しく、西洋建築の技法も取り入れられている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:フエ市。ベトナムの新年のお祝い、「テト」。これは日本の旧正月にあたる。ベトナムは中国や韓国と同じく、西暦の新年よりも、この旧正月を盛大に祝う。「テト」になると、国中が一斉に休みになり、商店や食堂も、3日から一週間はずっと開かない。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市。ホーチミン市革命博物館は、フランス植民地時代に建てられた、堂々たるコロニアル様式の建物だ。博物館の展示は、抗仏独立戦争、ベトナム戦争中のサイゴンとその周辺に関するものが中心になっている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月、撮影場所:ハノイ市。若い時からベトナム独立運動を指揮し、ベトナム民主共和国(いわゆる北ベトナム、1945~1976)の初代大統領となったホーチミン(1890~1969)。現ベトナムの首都ハノイのバーディン広場周辺には、ホーチミン廟、ホーチミン博物館、旧大統領官邸、ホーチミンの家など、ホーチミンゆかりの記念館が立ち並ぶ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月。撮影場所:アンビン島。最近、日本でも人気のベトナム風生春巻き。春巻き作りに欠かせないのが、米粉で作ったライスペーパーだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:ラオカイ。ホン河(紅河)を挟んで国境を接する雲南省の河口とラオカイ。1979年の中越紛争以来、長らくこの国境も閉鎖されていたが、1993年にようやく再開され、1996年には国際列車も運行されるようになった。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月。撮影場所:ラオカイ。中国国境に接するラオカイの町に、17世紀初頭から続く、「聖陳祠」という祠がある。これは、陳朝(1225~1400)の王族で武将でもあった、陳興道(チャン・フン・ダオ、1228~1300)を祀ったものだ。陳興道は、度重なるモンゴル軍の襲来を退けた、救国の英雄である。それゆえ、国境の町に祠が造られたのだろうか。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所カットバ島。カットバ島は、面積約354k㎡、ハロン湾で一番大きな島だ。美しいビーチのほか、国立公園に指定された、緑豊かな熱帯雨林もある。最近、リゾート開発も進んできた。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:ハロン湾。ユネスコの自然遺産(世界遺産)にも登録されている、ベトナム随一の景勝地、ハロン湾。大小2000に及ぶ奇岩が海面からそそり立つ、その神秘的な光景は、「海の桂林」とも形容される。実際、この独特のカルスト地形は、中国の桂林辺りから国境をまたいでずっと続いており、このハロン湾で海に没しているのである。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月。撮影場所:ハロン湾、カットバ島付近。ハロン湾のカットバ島付近には、海の上に家を建て、魚の養殖を仕事としている、いわゆる水上生活者の人々の村がある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月。撮影場所:ホーチミン市。ホーチミン市にある戦争証跡博物館は、ベトナム戦争の歴史を、当時の写真や、実際に使用された兵器などの展示で解説する施設だ。アメリカ軍による拷問や虐殺、枯葉剤の影響など、目を覆いたくなるような写真も多く、ベトナム国内にある他のベトナム戦争関係の資料館に比べ、戦争の悲惨さを伝えることにより重点を置いた内容となっている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:バックハー。中国雲南省に近い、ベトナム北部の山岳地帯にある小さな町、バックハー。ふだんは静かなこの町も、日曜になると、ここで開かれる大規模な青空市場を目指して、周辺の村からさまざまな少数民族の人々が集まり、ごった返す。特に目につくのが、カラフルな衣装に身を包んだ、花モン族の女性たちだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市チョロン地区、ホーチミン市の中華街。チョロンにあるビンタイ市場は、1930年、中国の潮州から渡ってきた、クァック・ダムという豪商によって開設されたのが始まりといわれている。そもそも、「チョ・ロン」とはベトナム語で「大きな市場」のことで、そういう意味では、ビンタイ市場はチョロンの代名詞ともいえる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市チョロン地区。チョロン地区は、ホーチミン市在住華人の大半が住むといわれる中華街。今では、ぱっと見ただけでは、華人かベトナム人か分からないくらい同化しているが、華人のコミュニティーはまだ健在で、教会や寺院がその中心になっているようだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市。ベトナム共和国(南ベトナム、1955~1975)時代は「独立宮殿」と呼ばれた、旧大統領官邸。1975年4月30日のサイゴン(ホーチミン市の旧名)陥落の時は、解放軍の戦車がここに突入し、ベトナム戦争終結の象徴となった。現在は「統一会堂」と呼ばれ、博物館として一般公開されている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:サパ。ベトナム北部、中国雲南省に近い、標高約1500mの山間部にある小さな町サパは、その周辺に住む少数民族の人々にとっての、交易の中心だ。週末になると、近くの村からいろいろな民族の人たちが集まり、町の市場はにぎわう。20世紀前半からは、フランス人が避暑地として別荘を建て始め、今も多くの外国人観光客がここを訪れる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月~6月、撮影場所:ホーチミン市・ハノイ市。自動車がまだ庶民にとって高嶺の花であるベトナムでは、バイク(正確には原動機付き自転車)の普及率が高い。首都ハノイ市や、最も人口の多いホーチミン市でも、一番交通量が多いのはバイクだ。そのほとんどが、ホンダ、ヤマハなど、日本のメーカーの製品だ(現地生産)。今ではすっかりベトナムの風景の一部となったバイクだが、一方で渋滞や事故、大気汚染などの問題も引き起こしている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:サパ近郊、中国雲南省に近い。ベトナム北部の山岳地帯には、さまざまな少数民族の人々が住んでいる。山がちで土地が狭く、交通も不便なこの地域で、彼らは伝統的な生活様式を守りながら、つつましく暮らしている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年1月、撮影場所:ハノイ市。ベトナムの葬列は、たいへんにぎやかだ。鳴り物を打ち鳴らしたり、スピーカーから大音量の音楽を流したりしている。この時も、何のお祭りかと思って、ホテルの窓からのぞいてみると、何人もの旗持ちに先導された葬列が、延々と続いていた。棺は日本の霊柩車のような屋根がついている。遺族の人たちが、日本なら死者に着せるような白頭巾に白装束というのが興味深い。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:カイラン。ベトナム最南部のメコン・デルタ地帯では、いくつもの支流に分かれたメコン川と、その間に縦横に運河が張り巡らされている。運河は重要な交通・流通経路となっており、川の上で船に乗ったまま売買する、いわゆる水上市場の様子も見ることができる。カントー市郊外のカイランもその一つだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市近郊。昨今、日本でも人気のベトナムの工芸品。繊細、かつきらびやかな螺鈿細工も、そのひとつだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市。ベトナム語で「長い上着」を意味する、アオザイ。ベトナム伝統の民族衣装だが、女性用のものが特に有名だ。腰まで届く長いスリットと、クワンという、ゆったりとした長めのパンツが、足を長く見せてくれる。反面、胸から腰のラインがはっきり出てしまうので、補正下着を着用している女性も多いとか。本来正装用で、普段着ではないが、女子高生やレストランの店員、スチュワーデスなどの制服に使用されることも多い。こちらの写真は、ホーチミン市の統一会堂の係員さんたち。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:チャウドク。チャウドクの町の中心から南西に約6kmのところに、サム山という、標高230mほどの小山がある。このサム山は、土地の人の間で昔から聖なる山とされ、いくつもの寺や聖廟、陵墓が建てられている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:チャウドク。カンボジア国境に近いメコン川沿いの町、チャウドク。この辺りには、魚の養殖や、野菜の水耕栽培をしながら、水上に家を建てて生活する人々の村がある。、
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:カントー市郊外。メコンデルタの熱帯雨林地域では、ココナッツ、バナナ、パイナップル、パパイヤ、マンゴーなどのトロピカルフルーツの栽培が盛んだ。灌漑用水路を縦横無尽に張り巡らせた広大な敷地に、まるでジャングルのようにヤシの木やバナナの木が生い茂る。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ビンロン市。ホーチミン市から車で4時間ほどのところにあるビンロンの町は、メコンデルタの主要都市の一つで、メコン川の支流、ティエンジャン(前江)に面した港町だ。土地の肥沃(ひよく)なメコンデルタ地帯は人口密度が高く、日本の香川県より狭いこのビンロン省だけで、100万人以上の人々が住んでいる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月、撮影場所:ホーチミン市。ベトナムで「ヤマハ」の看板を見かけることは珍しくない。バイクが自転車以上に普及しているこの国では、そこらじゅうにバイク屋があるからだ。しかし、「ヤマハのオルガン教室」の看板を見たのは、これが初めてだった。ひっきりなしに表を走るバイクの騒音にもめげず、練習に励む子供たち。ベトナムの下町では、こんなどこか懐かしい風景にたまに出会える。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年2月~6月、撮影場所:ベトナム各地。昨今、日本でも大人気のベトナム料理。現地に行けば、本場のおいしい料理やデザートが、街角の屋台で安く気軽に食べられる。なかには、その土地、その店でしか食べられない、名物料理もある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年7月、撮影場所:タンタック村。タンタック村は、メコン川の支流の一つ、ミトー川に面した村。熱帯の気候と豊富な水を生かした果樹栽培のほか、養蜂、菓子作り、木工品製造などの産業がある。島には、ホーチミンなどの都会とは明らかに違う、ゆったりとした時間が流れており、人々は概して親切で人懐っこい。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月・7月、撮影場所:ロンスエン市とその近郊、およびミトー市。長さ4、023km、流域面積795、000k㎡、東南アジア最大の川、メコン川。チベット高原に源を発し、中国雲南省、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを経て、ベトナムに達する、国際河川だ。ベトナム国内の、いわゆるメコンデルタ地帯に入ると、9つの支流に分かれるが、特に、ティエンジャン(前江)、ハウジャン(後江)、ミトー川などは、海峡かと見まがうほどの幅と水量である。
元キルギス国立大学講師 角南真也
撮影年月:2007年6月・7月、撮影場所:メコンデルタ地帯。メコンデルタ地帯では、縦横無尽に張り巡らされた水路が、人々の生活の重要なライフラインになっている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
「世界の中学生」写真資料、伝統的な楽器。「大きな太鼓」を意味するモルディブの伝統楽器「ボドゥベル」。踊りを含めた音楽全体のことを指すこともあるこの楽器は、授業には取り入れられてはいないものの、地域の年長者から若者に伝えられ、だれもが慣れ親しんでいる伝統楽器である。
モルディブ共和国・マレ在住 朝比奈正
ホイアンの南西約45kmの辺りに広がるミソン遺跡は、チャムパー王国(192~1471)の聖地だった場所。ここには4世紀から13世紀までの間に、70棟を超えるヒンドゥー教寺院が建立された。1999年、世界遺産に登録された。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ホーチミン市から東へ270kmほどのところにある小さな漁村ムイネー。美しいビーチや砂丘があることで知られ、ここ数年、リゾート開発も進んでいる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
中華会館とは、華僑の人々の同郷人会の集会所のこと。かつて海のシルクロードの拠点として栄えたホイアンにも、多くの中国系商人が中華街を形成して暮らしていた。今もこの町には、福建会館、潮州会館、廣肇会館の三つの中華会館が残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
フエの阮朝王宮に隣接するトゥアティエン・フエ省博物館には、1966年2月の「フエ攻防戦」を中心に、ベトナム戦争に関する詳しい展示がなされている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
阮(グエン)朝第三代皇帝、ティエウチ帝(紹治帝、在位1841~1847)の廟。阮朝は、1802年から1945年まで続いたベトナム最後の統一王朝である。ティエウチ帝は、阮朝最盛期の皇帝。廟は、ベトナム戦争によって損壊し、修復されないまま今日に至っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ホーチミンの下町で見かけた、路上で開業する床屋さん。ドイモイ(刷新)政策以来、発展著しいホーチミン市だが、下町に行けばまだ、こんなのどかで懐かしい風景に出会える。
元キルギス国立大学講師 角南真也
阮(グエン)朝第二代皇帝、ミンマン帝(在位1820~1840)の廟。フエ郊外に点在する阮朝歴代皇帝廟の中で、最も規模が大きく、霊廟というより、王宮をそのまま移したような感じだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
阮(グエン)朝(1802~1945)の都が置かれた、ベトナムの古都フエ。世界遺産の町として、国内外から観光客を集めるフエの市街は、夜のライトアップも美しい。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ベトナムでは、路傍の木の上に、日本の神棚のような祠が祀られているのをよく見かける。「ミュウ」と呼ばれるこの祠は、誰にも祀られない無縁の死者の霊を供養するためのもので、大きな木は、そういう霊を集めると信じられている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
食料品から衣料、雑貨、お土産物まで、何でも揃う、ホーチミン市最大の市場。町の中心にあり、ホテル街からも近いので、観光客の姿も多い。
元キルギス国立大学講師 角南真也
サイゴン川のほとりに立つ、「バック・ホー記念館」。1911年、ベトナム独立の父ホーチミン(1890~1969)がここからフランスへと渡ったことを記念したもの。館内に展示された写真や品物から、ホーチミンの足跡を辿ることができる。ちなみに、「バック・ホー」とは「ホーおじさん」の意。ベトナム国民は親しみを込めて、そう呼んでいる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
人口611万人、ベトナム最大の商業都市、ホーチミン。この町は1975年のベトナム戦争終結まで「サイゴン」と呼ばれていた。ドイモイ(刷新)政策以後、この町の発展は目覚しく、「サイゴン」時代の面影はほとんどないが、今でも町のところどころに、フランス統治時代の建物がかろうじて残っていて、かすかに当時を偲ばせる。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ベトナムの大衆酒場は、路肩に粗末なテーブルとプラスチックの椅子を並べただけのシンプルな造り。日本のガード下の一杯飲み屋に似ている。ビールとピーナツしか出さない店も多い。他のおつまみは、付近の屋台や、通りすがりの物売りから買う。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ベトナム独特の三輪車タクシー、シクロ。座席が運転席の前に付いているのが特徴。雨の日でも座席にシートを被せて走る。かつてはベトナムの名物ともいえたシクロだが、最近は自動車やバイクのタクシーに押され、その数は激減している。ハノイの旧市街で見かけるのは、ほとんど観光ツアー用のもの。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ハノイの旧市街の南の外れにある、小ぢんまりとした静かな湖。「ホアンキエム」を漢字で書くと「還剣」。黎(レ)朝(1428~1789)の開祖、黎利(レ・ロイ、1385~1433)は、この湖の主である大亀から授かった宝剣を振るって、見事に明の軍隊を撃退し、ベトナムの独立を回復した後、その剣を大亀に奉還したという伝説から、この名がついた。湖の真ん中の小島に立つ塔は、この伝説を記念した「亀の塔」。
元キルギス国立大学講師 角南真也
李太宗(李朝第二代皇帝、在位1028~1055)が、1049年に創建した延祐寺内の楼閣。一本の柱の上に仏堂を乗せたユニークな形から、「一柱寺」と呼ばれる。太宗はある日、観音菩薩が蓮の上で子供を抱いている夢を見、まもなく子供を授かった。そこで感謝の意を込めて、この寺を建てたという。
元キルギス国立大学講師 角南真也
グルジア共和国の祝祭日には、クリスマスなど他のキリスト教国と共通のもの以外に、グルジア正教独特のものがあり、10月14日のスヴェティ・ツホヴロバもその一つだ。これは、ムツヘタのスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂を建てようとした時に、そこにあった杉の大木を切ったところ、病を癒す水が流れ出したという伝説に基づくもので、「スヴェティ・ツホヴェリ」とはグルジア語で「生命を与える木」という意味だそうだ。
元キルギス国立大学講師 角南真也
[中国]海南島・「天涯海角」、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島三亜市郊外。海南島の最南端の三亜市内から西へ約30キロにある。かつて海南島は、政治犯などの流刑の島だった時代には「天が果てる島のさらに南の海岸」という意味でつけられた地名である。今では白亜の巨石と砂浜と椰子の緑とが調和して美しい景色は海南島を代表する観光地となっている。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・冬瓜、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島。道端に冬瓜が山積みされていた。すぐ近くに畑があり、収穫して販売用に積んであるのだ。1個が5kg以上はある。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・少数民族―竹竿舞、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島少数民族観光村。観光村の黎(リー)族の女性。九州と同じ面積の海南島の人口は700万人。漢族、黎族、苗族、回族など37の民族がいる。少数民族は約123万人、そのうち黎族が110万人である。これは「竹竿舞」という黎族の民族舞踏の一つだが、ここでは観光客歓迎として観光客にも通過してやってもらっていた。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・山積みのスイカ、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島。真冬2月の平均気温22度、常夏の海南島ではスイカが収穫できる陽気である。高速道路入り口付近の道端でスイカを山積みにして売っていた。大きいので1個3~4元(約50円)前後。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・水牛とアヒル、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島。海南島では至るところで水牛に出会う。水牛は農作業の主役である。水牛とともに大群のアヒルの飼育風景もよく見かけた。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・港風景、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島三亜市。三亜橋付近の船泊まり。中型船の間を手こぎの小型舟が行き来している。付近には水上生活者の船もみられる。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・田植え風景、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島三亜から海口への途中で。南国海南島は1年中田植えができる。これは2月の田植え風景。かつては日本でも見られた牛(ここでは水牛)による代掻き。編み笠の女性が田植えしている。付近にはすでに田植えがすんで青々した水田がある。皆小規模な田畑である。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・胡椒畑、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島東部。低地には水田、小高い丘の畑には胡椒が栽培されている。胡椒は、3~4mのコンクリートの支柱に2本の苗を絡ますように育てる。3年くらいで実がなる。収穫は3~5月。1本(苗2本)から1.5~3kg収穫できるという。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]海南島・自由市場、撮影年月:2001年2月、撮影場所:海南島三亜市。三亜市内の屋内の市場の入り口付近で女性たちの自由市場。卵、様々な野菜など。リャ―カー付きの自転車で付近の村からやってきたのだ。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・チチハル駅、撮影年月:2001年7月、撮影場所:チチハル駅前。左側の駅舎は「満州国」時代の建物。右側は新中国になってからの駅舎。どちらもそのまま使用されている。ハルビン駅とちがい広告がなく、旧駅舎には今では少なくなった「中国共産党万歳」「毛沢東思想万歳」のスローガンが掲げられたままである。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・ハルビン中央大街、撮影年月:2001年7月、撮影場所:ハルビン市内。ロシア人によって建設された街で、キタスカイヤ(ロシア語で中国人の街という意味)と呼ばれた。ロシア風、西欧風の建物か多く、「東方のモスクワ」「東方のパリ」とか呼ばれた。ニセアカシアの並木道は、1キロあまり石畳で敷き詰められ、年中歩行者天国で1日中人通りが絶えない。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・ハルビン駅、撮影年月:2001年7月、撮影場所:ハルビン駅前。ハルビン駅は、日本の歴史上の関係では1909年10月伊藤博文が暗殺された所として知られている。駅は作り替えられ当時の面影は構内には残っていないという。今ではビールなどの大きな広告看板が目立っている。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・大慶油田、撮影年月:2001年7月、撮影場所:大慶市内。湿原に油田が発見され採掘されたのが1959年。中国最大の石油企業ペトロチャイナの傘下にある。1960年から年産5000万トン、15億トンの原油が生産され、中国全体の1/3の産油量を占めている。25000本の油井があるが、採油機は団地の中やホテル前にもある。日本は日中貿易協定で96~2000年に大慶から年間600万トン輪入と決められているが、中国国内事情もあり99年時点では200万トンくらいしか輸入されていない。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・松花江、撮影年月:2001年7月、撮影場所:ハルビン市。黒龍江(アムール河)の支流でハルビン市内を流れる。98年には史上最大の洪水で氾濫し、写真の陸地の部分はすべて水没したという。2001年夏には史上最低の水位となったが、河岸には色とりどりのパラソルが張られ、水浴びを楽しんでいた。冬には氷が2mの厚さにもなり、氷祭の材料として切り出されるという。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・田園風景、撮影年月:2001年7月、撮影場所:チチハル付近。どこまでも続くトウモロコシ畑。黒龍江省の平均的な光景である。これらのトウモロコシは大部分か家畜の飼料用として利用されるという。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・自由市場(ハルビンとチチハル)、撮影年月:2001年7月。写真(1)松花江河畔に近いハルビンの自由市場の朝。中国の他の都市と同様に様々な食料品と野菜類が豊富に並び、早朝から活気がある(撮影場所:ハルビン市内)。写真(2)チチハルの早朝の自由市場。ナスの山に群がる主婦たち。自分の手でへたの茎の部分を短くして目方を軽量にしていた。1斤(500g 4本前後)0.5元(約7円)。さすがに新鮮で安い(撮影場所:チチハル市内)。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・道端のスイカ売り、撮影年月:2001年7月、撮影場所:チチハル市郊外。チチハル郊外での道端のスイカ売り風景。スイカのほかに香瓜も売っていた。北国のスイカもなかなか味も良く、値段も安い。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・馬車が行く、撮影年月:2001年7月、撮影場所:チチハル市郊外。チチハル郊外ではしばしば馬車を見かけた。この辺では馬車か農作業の主役として活躍しているようだ。その他にロバ車もハルビン市内や郊外でも見かけた。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[中国]黒龍江省・鶴の自然保護区、撮影年月:2001年7月、撮影場所:チチハル市郊外。チチハル郊外の鶴の自然保護区。ここには丹頂鶴をはじめとする6種の鶴が生息しており、冬にここから北海道に飛来するという。人間か近づいても逃げない。1羽とか2羽での行動か目立ら、群れの鶴は見かけなかった。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
撮影年月:2000年5月、撮影場所:シラーズ市。シラーズはテヘランの約600km南方、1、600mの高地に位置しているため、四季を通じて気候は穏やかです。街には庭園など緑がとても多くあります。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
撮影年月:2000年5月、撮影場所:ペルセポリス(世界遺産)。ペルセポリス(世界遺産)は、アケメネス朝ペルシヤ帝国の最盛期の王ダレイオス1世(大王、位前522年~前486年)が建設をはじめ、王都となりました。その建設はその子クセルセス1世、孫のアルタクセルクセス1世の時代まで続いた。広さはおよそ130、000m^2です。紀元前330年頃アレクサンドロス大王によって焼き払われ、廃墟となりました。ここはペルセポリス(世界遺産)の正門の跡で、属領の使節団を迎える門といわれています。ユネスコの世界遺産に登録されています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
[トルコ]アスペンドス遺跡、撮影年月:1998年09月、撮影場所:アンタリヤ郊外。ペルゲ遺跡の約20キロほど東方にある都市遺跡で、ペルゲとほぼ同様の歴史をたどっている。市街地には特に見るべき遺跡は残っていないが、この「アスペンドスの大劇場」は、最も保存状態の良好なローマ時代の劇場として名高い。1800年前の建造であるが、現在もコンサートなどに使用されている。収容人員は1500倍0人。当時の劇場は例外なく丘陵地の斜面を利用して作られているが、この劇場はほとんど平坦な地面に建てられている。
神奈川県 野町亘
[トルコ]アンタルヤ市内、撮影年月:1998年09月、撮影場所:アンタルヤ市内。写真(1)市内の目抜き通りでのスナップである。立派な足乗せ台にご注目。実にガッチリとしたものである。トルコには「典型的なトルコ人の顔」というものがない。これはイギリスやフランスと大変違うところである。右の二人の青年も併せて見るとそのことがよくわかる。これはおそらく、トルコが古来東西交流の十字路であった歴史によるものと思われる。写真(2)市の中心部にある市場の様子である。色彩の洪水の野菜・果物店。ブドウやリンゴは、日本のように手を加えず、自然のままといった栽培法で、見た目は悪いが味はなかなかよい。全てが信じられないほど安い。
神奈川県 野町亘
[トルコ]アンタルヤ市内からコンヤ市のバス車中、撮影年月:1998年09月、撮影場所:コンヤ市付近。写真(1)トルコ南部から中央部にかけては、写真に見られるように、明らかに休火山と思われる山容が続く。写真(2)農村地帯でみかけた牧歌的風景である。このように荷馬車が我が物顔で悠然と国道を行く。バスはスピードを落として遠慮がちに追い抜く。
神奈川県 野町亘
[トルコ]アンタルヤ考古学博物館、撮影年月:1998年09月、撮影場所:アンタルヤ市。写真(1)アンタルヤ市は、トルコ南部地中海沿岸に位置し、トルコ国内のみならずヨーロッパ各地からも観光客が訪れる風光明媚なリゾート都市である。郊外に、ペルゲ、アスペンドス、シデなどの都市遺跡があることでも知られる。アンタルヤ考古学博物館は、旧石器時代からオスマン時代までの歴史的・芸術的遺産を収蔵する。この神々の像は、ペルゲの遺跡から出土したもので、約2000年前、ローマ時代のものである。保存状態は極めて良好で、その高貴さ、リアルな表現力は素晴らしい。写真(2)アンタルヤ市は、トルコ南部地中海沿岸に位置し、トルコ国内のみならずヨーロッパ各地からも観光客が訪れる風光明媚なリゾート都市である。郊外に、ペルゲ、アスペンドス、シデなどの都市遺跡があることでも知られる。アンタルヤ考古学博物館は、旧石器時代からオスマン時代までの歴史的・芸術的遺産を収蔵する。この神々の像は、ペルゲの遺跡から出土したもので、約2000年前、ローマ時代のものである。保存状態は極めて良好で、その高貴さ、リアルな表現力は素晴らしい。写真(3)ペルゲの遺跡から出土した装飾石棺で、いずれも2世紀末ごろのものと考えられている。レリーフの見事さは例えようもない。写真(4)ペルゲの遺跡から出土した装飾石棺で、いずれも2世紀末ごろのものと考えられている。レリーフの見事さは例えようもない。
神奈川県 野町亘
撮影年月:1998年09月、撮影場所:イスタンブール市内。写真(1)イスタンブール旧市街の観光名所の一つ「アヤソフィア」。写真(2)アヤソフィアのギリシア正教時代、その壁面を飾っていたモザイク画。写真(3)アヤソフィアのギリシア正教時代、その壁面を飾っていたモザイク画。写真(4)「地下宮殿」と呼ばれるイスタンブール旧市街の観光名所での映像。写真(5)イスタンブール新市街にあるガラタ塔の展望台から旧市街を見たところ。写真(6)イスタンブール新市街にあるガラタ塔の展望台から旧市街を見たところ。写真(7)ボスポラス海峡の船上から見た「ドルマバフチェ宮殿」。写真(8)ボスポラス海峡の船上から見た「ドルマバフチェ宮殿」。写真(9)ボスポラス海峡の船上から見た住宅街の様子。
神奈川県 野町亘
[トルコ]エフェソスの遺跡、撮影年月:1998年09月、撮影場所:イズミル南部。写真(1)エフェソスは紀元前10世紀に興った都市国家のひとつであるが、現存する遺跡は紀元前3世紀以降のものが大部分。これは「ヴァリウスの浴場」と呼ばれる紀元前2世紀に建設された公衆浴場の跡である。冷水用、ぬるま湯用、熱めの湯用などの浴室と休憩・談話などのための広めの別室が用意されていたという。写真(2)商取引の中心だった教会堂跡に残っている列柱を再現したもの。上部の装飾と縦に襞の入っている柱がオリジナルである。柱上部の装飾模様は「イオニア式」と呼ばれるも。写真(3)「クレテス通り」と呼ばれるメインストリートに面している神殿上部の装飾。写真(4)「セルシウスの図書館」として知られる遺構である。117年の創建とされる。当時はアレキサンドリア、ベルガモンに次いで世界第三位、12万冊の蔵書を誇った。蔵書を湿気から防ぐ工夫など、当時最新の技術が利用されていたことでも知られる。この威厳と風格あるファサードはエフェソス遺跡中の白眉とされている。写真(5)「セルシウスの図書館」として知られる遺構である。117年の創建とされる。当時はアレキサンドリア、ベルガモンに次いで世界第三位、12万冊の蔵書を誇った。蔵書を湿気から防ぐ工夫など、当時最新の技術が利用されていたことでも知られる。この威厳と風格あるファサードはエフェソス遺跡中の白眉とされている。写真(6)「エフェソスの大劇場」として知られる遺構である。紀元前3世紀に建設され、増改築を重ねて2万4千人収容の大劇場となった。画面手前に見えている列柱は、当時のエフェソスの港に続く「アルカディアン通り」の両側に建てられていたものである。港に到着し、エフェソスの街に向かう旅人は、この豪華な列柱の大通りを進みながら、正面の丘に聳える大劇場に圧倒され感激したことであろう。当時の劇場は、ふつう総人口の十分の一を収容できるように設計したという。最盛期のエフェソスの人口は25万人と推定されているので、丁度適切な規模であったことになる。
神奈川県 野町亘
[トルコ]カッパドキア、撮影年月:1998年09月、撮影場所:カッパドキア。写真(1)名高い「キノコ岩」。溶岩流が凝固した玄武岩、その下の白っぽい部分は火山灰が堆積して形成された凝灰岩である。侵食作用を受けてキノコ状となり、固い玄武岩層がその上に乗ったまま分離してこのような奇観を生ずるものと思われる。写真(3)樹木はリンゴ、オリーブなどの果樹であり、奇岩のスケールとなるであろう。写真は「ゼルベの谷」とよばれる奇岩名所。写真(5)カッパドキアにあるトルコ絨毯の専門店、写真(6)糸の染色・「草木染め」、写真(8)かつて城砦として使われた奇岩、写真(9)「パシャバー」、写真(10)「ローズバレイ」、写真(11)カッパドキアの全景。
神奈川県 野町亘
[トルコ]シルクロード(往路)、撮影年月:1998年09月、撮影場所:トルコ、コンヤ市近郊。写真(1)コンヤ市からカッパドキア方面に向かう国道にある「キャラバン・サライ博物館」である。この方面の国道は、その多くが往時のシルクロードであった。シルクロードには、日本の宿場町のように一日の行程に合わせて宿場が用意されていた。これが「キャラバン・サライ(隊商宿)」である。この博物館は当時のキャラバン・サライを復元したもので、その一部はオリジナルである。写真(2)「キャラバン・サライ博物館」の入口。写真は内部のようすである。このひとつひとつのアーチが個室の入口になっている。三泊目までは食事代のみ支払えばよく、四泊目から部屋代が加わる習慣となっていたという。写真(3)国道を横断し、地平線に消えた羊群と羊追いの少女。シルクロード華かなりし往時の光景もかくやと思われる。羊群をリードしていた少女の両親はこの場面には入っていない。このように、トルコの子供は家事を助けて実によく働く。
神奈川県 野町亘
[トルコ]パムッカレ、撮影年月:1998年09月、撮影場所:パムッカレ。トルコを代表する観光名所のひとつ、名高いパムッカレの「石灰棚」の様子である。炭酸イオンとカルシウムイオンを大量に含む温泉水がゆるやかな傾斜地を流れ下る間に両者が結びつき、炭酸カルシウムとなって沈殿して、長い年月の間にこのような階段状のプールを作ったものと考えられている。この写真は、朝の斜光で撮影したもので、色調の再現は必ずしも十分ではないが、プールにたまった温泉水のブルーと石灰棚の純白とのコントラストは、この世のものとは思えないほどの美しさである。この温泉水の水源はヒエラポリス市街地の上方の洞窟にあり、洞窟内は二酸化炭素濃度が異常に高く、小動物などが窒息死するので「悪魔の穴」と呼ばれていたという。
神奈川県 野町亘
[トルコ]パムッカレからアンタルヤ市のバスの車中から、撮影年月:1998年09月、撮影場所:アンタルヤ市付近。「パムッカレ」からアンタルヤ市に向かうバスの車中からトルコ南西部をほぼ東西に走るタウルス山脈の風景である。このように中腹から上部には文字通り一木一草もない山容が延々と続く。典型的な乾燥地帯の景観である。
神奈川県 野町亘
[トルコ]ヒエラポリスの遺跡、撮影年月:1998年09月、撮影場所:パムッカレ。写真(1)市街地の入口近くにあった聖堂の一部。トルコ観光名所のひとつ「パムッカレの石灰棚」の北方に広がる広大な遺跡。この地方の宗教の中心として、ヘレニズム時代からローマ、ピザンチン時代まで繁栄した都市である。パムッカレの温泉もその繁栄の背景となっていた。写真(2)聖堂の正門。いずれもオリジナルである。写真(3)「ドミティアヌス帝の門」と呼ばれる市街中心部への入口にある門である。単に「北門」ともいう。この門を入ると豪華な大理石の列柱で飾られたメインストリートが約1.2キロメートルにわたって続く。この道を「列柱通り」という。写真(4)「北門」(ドミティアヌス帝の門)を入った列柱通りには各種の商店が軒を連ねていた。この門もその商店のひとつのもので、全て当時のオリジナルである。画面の左に見えているのは、この列柱通りの北門と南門の中間にあった「ピザンチンの門」と呼ばれる門の一部である。
神奈川県 野町亘
[トルコ]ペルゲ遺跡、撮影年月:1998年09月、撮影場所:アンタルヤ市内。写真(1)ペルゲの城壁の南門である。この南門の左右には塔があったが、現在はそのほんの一部しか残っていない。この門の右のほうには、市の中心部の遺構が見えている。写真(2)南門に近づいて撮影したもので、有名な「ヘレニズムの門」がよく見える。写真の右のほうには、市の中心部の遺構が見えている。写真(3)ヘレニズムの門である。門の左右には丸い塔があったが、下の写真のように現在はそのほんの一部しか残っていない。写真(4)ペルゲのメインストリートの商店街の跡である。各商店の入口などもこのような見事な大理石の柱によって飾られていた。
神奈川県 野町亘
[トルコ]メヴラーナ博物館、撮影年月:1998年09月、撮影場所:コンヤ市。写真(1)コンヤ市は11~13世紀のセルチュク・トルコ時代の首都として栄えた歴史を持ち、当時のイスラム世界の文化的・政治的な中心地とされていた。その伝統は現代まで受け継がれており、極めてイスラム色の強い町である。この時代、メヴラーナという神学者が神秘的な舞いで知られるイスラム神秘主義の一派「メヴラーナ教」を開いた。その元本拠地が現在「メヴラーナ博物館」となり、イスラム教徒の重要な巡礼の地となっている。写真は、博物館入場に先立って身を清める女性イスラム教徒。9月のかなり暑い日中であるが、イスラムの伝統に則(のっと)った衣装である。写真(2)博物館内部の様子。華やかな色彩感に圧倒される。手前に見えているのはメヴラーナ一族の柩で、この博物館が霊安所ともなっている。
神奈川県 野町亘
[トルコ]聖母マリアの家、撮影年月:1998年09月、撮影場所:エフェソス遺跡の近く。エフェソスの遺跡近くにある。キリストの死の4年後、聖母マリアがこの地を訪れ、ここに小屋を建てて余生を送ったとされる。その遺構は1852年に発見され、そこに新たな聖堂が建てられた。これは、その内部に安置されている聖母マリアの像である。キリスト教徒の聖地の一つとされており、巡礼者の絶えることがない。聖堂は5メートル四方程度とごく小さく、この像も高さ数十センチ程度のものであるが、優しさと気高さを兼ね備えた傑作とされている。
神奈川県 野町亘
ネパール、国の花ラリーグラス(しゃくなげ)(1)、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの国の花(国花)はラリーグラス、つまりしゃくなげです。山岳地帯には、写真のように咲いています。花の拡大写真。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
[モンゴル]ジャガイモの皮を剥(む)く少女、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートルから西へ4、5時間のところ。道沿いの食堂で母親に命じられて、ジャガイモの皮を剥(む)く少女。ジャガイモも手も洗わない。
イー・ドリームズ
[モンゴル]アーロール、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)蒸留酒を取った後の牛乳をかき混ぜ沸騰(ふっとう)させ、布袋に入れて濾(こ)し、一晩、大きな石を置き水分を取る。生のアーロールのでき上がり。写真(2)生アーロールが入っていた布袋の周りの糸を切り、出そうとしているところ。写真(3)布袋から出したアーロールを、糸で切り、天日で乾燥させようとしているところ。写真(4)生アーロールにグラニュー糖を入れてまぜ、ミンチ作り機を使って細くし、甘いアーロール(お菓子)を作ろうとしているところ。この後、天日で乾かす。写真(5)アーロールや洗濯物を、ゲルの屋根の上で、天日干ししているところ。ゲルの屋根は広くて天日干しにはぴったりだ。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ウランバートルの住宅、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。街の住宅。ゲルと家の混在した地域があり、集合住宅もあり。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ウランバートル市内Internet Cafe(インターネットカフェ)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。ウランバートル市内の旧共産党(きょうさんとう)本部ビル1階にあるInternet Cafe(インターネットカフェ)。10数台の最新式コンピュータが並び、学生や外国人がインターネットやメールを楽しんでいる。
イー・ドリームズ
[モンゴル]エルデニ・ゾー、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル カラコルム。写真(1)ソブラカ。エルデニ・ゾー遺跡(いせき)内にあるインド式建築の寺。インドの様式を受け継いだ仏舎利塔(ぶっしゃりとう)。写真(2)ラブラン寺。エルデニ・ゾー遺跡(いせき)内にあるチベット式建築の寺。チベットの様式を受け継いだ仏舎利塔(ぶっしゃりとう)。写真(3)ゴルバン・ゾー。エルデニ・ゾー遺跡(いせき)内にある漢式建築の三つ寺。写真(4)ゴルバン・ゾー遠景。エルデニ・ゾー遺跡(いせき)内にある漢式建築の三つ寺の全景。写真(5)エルデニ・ゾー全景。白い装飾的な外壁。右下に亀石(かめいし)が見える。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ゲルの子ども、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)日本からの訪問者に、折り紙を教えてもらっている牧民の子ども。写真(2)ゲルの中で、昼食の麺入り羊スープをおいしそうに食べている子どもたち。食事のメニューは、羊や乳製品に限定されている。写真(3)子どもはみんな、それぞれ決められた仕事をする。その一つは朝食の後でのゲルの掃除。どの子もみんな、とても気持ちよく仕事をする。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ゲルの組み立て、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。草原の移動式住居、ゲル。写真はその骨組みが完成したところ。牧民がゲルを組み立てるのに必要な時間はわずか20分。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ゲルの解体、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)建てた時の逆の作業、瞬(またた)く間に解体される。写真(2)ゲル解体後の資材。これだけの資材で立派なゲルができていたとは驚き。牧民の永年の生活の知恵に敬服。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ゲル内部、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)ベッドの左右の鏡台には、家族の写真が飾られている。彼らにとって写真は貴重品で大切な思い出の品である。ゲル内の調度品の配置は似ているが、飾りつけは手縫いの刺繍(ししゅう)などで、その家の主婦が工夫を凝らしている。写真(2)ゲルの一番奥のベッドには一家の主人が寝る。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ゲル設営中、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)日本からの旅行者が自分たちでゲルをたてる。まず、骨組みから。写真(2)ゲルたての途中。屋根の骨組みを作っている。写真(3)骨組みの上に厚いフェルトをかぶせたところ。写真(4)フェルトの上に風雨よけのビニールをかぶせている。
イー・ドリームズ
[モンゴル]チーズ作り、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。ゲル内に保存された、モンゴル風ミルクティー、スーティ茶や乳製品を作るための乳。
イー・ドリームズ
[モンゴル]デパート、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。国営デパート。モンゴルの国中から集まった民芸品から、日用品、食料品まであらゆるものが揃(そろ)っている。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ドライブイン、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。草原を走っていると現れるドライブイン。道の両側に4、5軒、並んで立っている。小さな小屋の中に入って、麺類や点心のようなものを食べることができる。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ビステイック(チーズ)作り、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)山羊(やぎ)の乳をおなべで沸騰(ふっとう)させ、その時できた上澄みをていねいにすくい上げる。写真(2)すくいあげた上澄みをガーゼに包み、搾りながらていねいにもむ。写真(3)形を整える。写真(4)おなべを重しにしてよく搾る。写真(5)かばんを重しにして、涼しい所で一晩置くとでき上がり。彼らにとってはごちそうで、普段はあまり食べることはない。
イー・ドリームズ
[モンゴル]ボーズの作り方、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。写真(1)ボーズの作り方。まず、柔らかくなるまで小麦粉をよくこねる。写真(2)小麦を練った後、10分程ねかしているところ。写真(3)小麦粉を練ってねかした後、3㎝くらいにちぎっているところ。写真(4)小麦粉で作ったたねをめん棒で8㎝位に伸ばし、ボーズの皮を作っているところ。写真(5)ボーズの皮に、細かく切った牛肉や、みじん切りしたタマネギをつめているところ。写真(6)ボーズの皮に、細かく切った牛肉やタマネギを中心において、外側にひだをとりながら包む。写真(7)蒸し器に、ボーズを並べる。ひっつかないように間を少し開ける。写真(8)蒸し器でボーズを蒸し終わったところ。写真(9)ボーズができ上がり、皿に盛る。芥子(ガイシ・辛子(からし))醤油で食べる。
イー・ドリームズ
[モンゴル]モンゴルの家庭、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。モンゴル人家庭では、チンギスハンや家族の写真を居間に飾る習慣がある。
イー・ドリームズ
[モンゴル]モンゴルの食べ物、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)アーロールと呼ばれる乳からできたチーズのような、バターのようなもの。写真(2)ボールツクとスーティ茶。ボールツクは小麦粉を揚げたもので、ドーナツの様な味。スーティ茶は牛乳からできているお茶。写真(3)ボールツクとウルム。ウルムは牛乳のまくでできたもので、ボールツクにつけて食べると栄養が充分とれる。写真(4)家庭料理。モンゴル家庭料理であるボウズ(大きな餃子(ぎょうざ))や牛タン(生)やサラダ。
イー・ドリームズ
[モンゴル]モンゴルの飲み物、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)スーティー茶。大草原で、スーティツァイという牛乳茶つくりをしている女性。モンゴル西部出身の家庭は、塩をいれて牛乳茶を作るそうだ。写真(2)ウルム。牛乳をしばらく溜(た)めておくと上澄みが固まり始める。これはウルムという生クリームで、揚げパンにつけて食べる。写真(3)大きな木の樽(たる)に入れた牛乳を攪拌(かくはん)し、ちょっとすっぱくさせたもの。蛇口(じゃぐち)を回すと出る。写真(4)牛乳酒。写真は牛乳酒を作っているところ。牛乳を温め、蒸気を出す。冷たい水のタライにあたった蒸気は、管から瓶にたまり(蒸留させ)、お酒になる。
イー・ドリームズ
[モンゴル]モンゴル家庭料理、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。写真(1)家庭料理ホーショルとお茶、ホーショルは餃子(ぎょうざ)の皮を厚くしたようなもの。写真(2)ポーランドから輸入された瓶詰めチェリー、現在のモンゴル人家庭ではよく食されている。写真(3)町に住むモンゴル人の一般的な家庭料理。パンとオイルサーディン、オイルサーディンはロシアからの輸入の缶詰。
イー・ドリームズ
[モンゴル]中央郵便局、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル市。モンゴル唯一の郵便局。各家庭への郵送システムが確立していないため、人々は郵便局に私書箱を持っている。
イー・ドリームズ
[モンゴル]国会議事堂(こっかいぎじどう)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル市。重厚な建築は、旧共産党(きょうさんとう)の権威のなごりをとどめている。建設には旧日本軍抑留者(よくりゅうしゃ)も関わったと言われている。
イー・ドリームズ
[モンゴル]大草原のゲル、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。よく晴れた午前中の草原風景。ゲルと草原。絵葉書(はがき)にでもなりそうな風景。
イー・ドリームズ
[モンゴル]家庭料理、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。野菜を炒(いた)めたもの。ワンタンのようなものが入ったスープ、ご飯。お箸(はし)を使って食べた。飲み物は塩味のミルク入りお茶。
イー・ドリームズ
[モンゴル]市民の家の台所、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。ホームステイしたウランバートル市内のアパートの台所。広くはないが、機能的。冷蔵庫がないのが印象的。
イー・ドリームズ
[モンゴル]歩行者用交通信号、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。写真(1)町中でも信号は多くない。その中でも歩行者用は珍しい。郵便局前で。写真(2)歩行者用信号機の別種。歩行者の形に違いがある。
イー・ドリームズ
[モンゴル]食料品マーケット、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル。「食品ザハ」の店内、小さく狭い店内ではあるが、食品がきっちりと整理され、器用に包まれて、こぎれいに陳列されている。
イー・ドリームズ
[モンゴル]馬頭琴(ばとうきん)、撮影年月:2000年8月、撮影場所:モンゴル ウランバートル郊外。写真(1)モンゴルでも5本の指に入ると言う馬頭琴奏者。大学でも教えている。写真(2)日本からの客のために馬頭琴を演奏する。写真(3)日本からの客のために馬頭琴を演奏する。雨のために室内で演奏している。室内での演奏は生まれてはじめてのこと。
イー・ドリームズ
[中国]上海市内で露店の朝食風景、撮影年月:1992年08月、撮影場所:中国 上海(シャンハイ)。上海市内の露店(ろてん)で、朝食に油条(ユーティャオ・ゆじょう)を買い求める市民たち。
イー・ドリームズ
[中国]上海市内の市場、撮影年月:1992年08月、撮影場所:中国 上海(シャンハイ)。写真(1)早朝からにぎわう上海の青空市場。写真(2)早朝からにぎわう上海の野菜市場、さまざまな野菜と手動の秤(はかり)。写真(3)塊(かたまり)で豚肉や肝(きも)や内臓を売る上海市内の肉屋。
イー・ドリームズ
[中国]上海市内の一角、撮影年月:1992年08月、撮影場所:中国 上海(シャンハイ)。写真(1)路地裏(ろじうら)。洗濯ものがつるされた上海市内の路地裏風景。写真(2)理髪店(りはつてん)。電吹風(ドライヤー)などの看板が見える上海市内の高級理髪店。写真(3)交通巡査(こうつうじゅんさ)交通整理をする警官(けいかん)と信号待ちをする自転車の群れ。写真(4)上海市内の街角のゴミ箱。果物の皮だけではなく、なんでも放り込む。
イー・ドリームズ
[中国]中国の中学校の体操服兼(けん)制服、撮影年月:1999年8月、撮影場所:中国 広州(コワンチョウ・こうしゅう)。広州市内の中学校で制服である体操服を販売。
イー・ドリームズ
[中国]中国の中学校の校内案内図、撮影年月:1999年8月、撮影場所:中国 広州(コワンチョウ・こうしゅう)。広州市内で訪れた中学校の校内案内図;教室、トイレ、職員室(しょくいんしつ)の場所等。
イー・ドリームズ
[中国]中国の少数民族(しょうすうみんぞく)、撮影年月:1999年8月、撮影場所:中国 石林(シーリン・せきりん)。松明(ソンミン)祭りに出かける少数民族の人々。
イー・ドリームズ
[中国]中国鉄道の女性車掌(しゃしょう)、撮影年月:1992年08月、撮影場所:中国 上海(シャンハイ)。出発前の蘇州(スーチョウ・そしゅう)行き列車の女性車掌。
イー・ドリームズ
[中国]大連(ターリエン・だいれん)のロシアマーケット、撮影年月:1993年08月、撮影場所:中国 大連(ターリエン・だいれん)。大連市内にあるロシア人客用マーケット。
イー・ドリームズ
[中国]朝の自由市場、撮影年月:1996年8月、撮影場所:中国 ハルビン、。写真(1)松花江(しょうかこう・ホンソワ川)でとれた大きなコイを路上市場で売っている。写真(2)生きているコイを古いバスタブで泳がせて売っている。
イー・ドリームズ
[中国]職員室(しょくいんしつ)の先生の机、撮影年月:1999年8月、撮影場所:中国 広州(コワンチョウ・こうしゅう)。広州市第七中学校の職員室にある先生の机。
イー・ドリームズ
[中国 香港(ホンコン)]10 エレベーター内の階の表示、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港歴史博物館。香港は長くイギリスの統治下にあったため、英国式の習慣が多く残っている。これはエレベーターの内部だが、フロアの名前の付け方が1階=「G」2階=「1」と表示される。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]11 エレベーター内の階の表示、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 ホテルにて。香港は長くイギリスの統治下にあったため、英国式の習慣が多く残っている。これはエレベーターの内部だが、フロアの名前の付け方が1階=「G」2階=「1」と表示される。このホテルでは2階にロビーがあるため、2階=「L」と表示されている。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]12 香港ペニンシュラホテル、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港ペニンシュラホテル。1928年創業の香港を代表する高級ホテルで、世界的にも有名なペニンシュラホテルの正面玄関を撮影したものである。英国の統治下にあったため、建築様式はいわゆるコロニアルスタイルといわれるものらしい。ここは、かつて太平洋戦争勃発と同時期に日本軍に占領され、45年の日本敗戦まで日本軍が本部を置いたという。その頃は「東亜ホテル」と呼ばれていたらしい。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]13 食卓の様子、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 街のレストランで。レストランに入って料理を注文すると、大体この写真のような食器の組み合わせが出てくる。日本でも中華料理店に行くと、似たようなセットが出てくるが、ちょっとした違いが見られる。日本では箸は割り箸と相場が決まっているが、香港で割り箸はまず出てこない。最初に出てくる調味料も日本では出てこないようなものが出てくる。向こうの人は食事の時お酒をほとんど飲まないので、お茶がポットで出てくる。
東書Eネット事務局
撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 街角で。香港の街角を歩いていると、この写真のようなものを建物の入り口のあたりに見かける。「土地龍神」とよばれるもので、「土地龍神」、「龍神」などと書かれた赤い紙や板を「風水」と呼ばれる一種の地形学に基づいて、その相のよいところに置いて家の繁栄や守護を願うというものである。これはかなりきちんと祀られている方だ。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]16 日本の看板、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 駅構内の売店。香港では日本のいくつかの文化が根付いている。特に「○○の△△」といった看板はよく見られる。一説によると、日本の調味料「味の素」がその流行の発祥だとか。また、この店の名前もどこかで聞いたことがあるような名前である。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]17 左側通行、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 海底トンネル。香港は長くイギリスの植民地であったため左側通行が定着している。また、日本との経済的なつながりが強く走っている車も日本車が多い。このためこういった写真は日本のどこかと間違ってしまいそうになる。わずかにバスの広告がここが中国の一部であることを教えてくれる。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]18 看板、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。香港にやってきて驚くことはたくさんあるが、その代表的なものは看板の張り出し方であろう。この通りは小さく、看板も少な目だが、それでも片鱗を見て取れるだろう。香港では、看板は目立てば目立つ程良いそうである。いわば、香港名物と言ってもいいだろう。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]19 看板、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。香港は張り出しの広告で有名であるが、こういったちょっとした路地まで看板が乱立している。この写真は二階建てバスの二階建て最前列から撮影しているが、看板にぶつかりそうで少し怖い。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]20 二階建てバス、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。香港は張り出しの広告で有名であるが、こういったちょっとした路地まで看板が乱立している。この写真は二階建てバスの二階建て最前列から撮影しているが、看板にぶつかりそうで少し怖い。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]21 日本語の看板、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。数年前から、日本語の、しかも「○○の△△」というパターンがよく見られるようになった。この写真ではたまたまではあるが、そういった店が並んでいる。左側の店は意味がよくわからないが、右側の店はなんとなく日本にもありそうな感じがする。ただし、香港をはじめアジア諸国では、流行として日本語を店名に使うことが多く、店の内容と一致しないことも多い。
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[中国 香港(ホンコン)]22 二階建て電車、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。香港名物の一つ、二階建て電車(トラム)である。電車というと速そうだが、実際はバスよりもかなり遅い。ここは香港島の側なので、ちょっと位置はずれるが、近くを地下鉄、すぐ側をバスが走っている。かなり急ぐ人は地下鉄、それなりに急ぐ人はバス、時間のある人は電車に乗った方がいいかもしれない。電車は遅いだけあって、料金も一番安く、ゆっくり景色を楽しめる。
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[中国 香港(ホンコン)]23 立法會大楼、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 セントラル。1912年に建造された旧最高裁判所。かつての“英国領香港”を象徴する代表的な建造物の一つ。現在は立法評議会議事堂として使われている。一般公開はされていない。夜はライトアップされて、見所の一つになっている。
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[中国 香港(ホンコン)]24 建築現場、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。建築中の建物の現場に組んであるのは、竹の足場である。日本では考えられないが、香港ではこれが普通である。竹を組むのにも針金や縄を使わず、すべて竹で組まれる。遠くからだと、巨大な竹かごで建物を包み込む感じに見える。高層建築物であれ、普通の建築物であれ、すべて竹の足場を組む。
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[中国 香港(ホンコン)]25 街路表示、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。1997年に香港が英国から中国へ返還された際、それに合わせて、英語表示が減るとか、名称が変更されるとか言われていたが、この表示を見ると、まだ英語表示が残っており、返還前とそれほど劇的には変化していないように見える。
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[中国 香港(ホンコン)]26 文武廟、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。香港が英国領になって間もない頃の1840年代に建立された香港最古の道教寺院。学問の神と伝えられる文昌帝と、三国志の英雄で武の神と崇められる関羽が祀られている。今でも朝に夕に地元の人がお参りに来る。本堂の天井には燃え尽きるまで3週間はかかるという巨大な渦巻き状の線香がぶらさがっている。赤い短冊に願い事を書いてこの線香に結べば、願いが叶うという。
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[中国 香港(ホンコン)]27 建築現場、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。建築中の建物の現場に組んであるのは、竹の足場である。日本では考えられないが、香港ではこれが普通である。竹を組むのにも針金や縄を使わず、すべて竹で組まれる。遠くからだと、巨大な竹かごで建物を包み込む感じに見える。高層建築物であれ、普通の建築物であれ、すべて竹の足場を組む。
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[中国 香港(ホンコン)]28 街路表示、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 路上にて。1997年に香港が英国から中国へ返還された際、それに合わせて、英語表示が減るとか、名称が変更されるとか言われていたが、この表示を見ると、まだ英語表示が残っており、返還前とそれほど劇的には変化していないように見える。
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[中国 香港(ホンコン)]29 プリンス・オブ・ウェールズビル、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港。旧英国海軍司令部が存在した建物。現在は人民解放軍の本部となっている。建物の脇に香港特別行政区の旗が見える。
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[中国 香港(ホンコン)]30 競馬場、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 ハッピーヴァレー。香港競馬の歴史は古く、1846年にここハッピーヴァレーで行われたのが最初。1978年には沙田(シャーティン)に最新式の競馬場ができ、現在ではこの2カ所で競馬が行われている。
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[中国 香港(ホンコン)]31 風変わりな建築物、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 レパルス・ベイ。香港島の南岸にあるビーチがレパルス・ベイ。ここはちょっとしたリゾート地となっているため、マンションなども多い。この建物はそうしたマンションの一つだが、他と違うところが見られる。建物の中程に大きな四角い穴があいているところである。これは、「風水」に基づき最初からあけるようにデザインされたものである。香港ではこのように風水により運を呼ぶということはよくあることだ。
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[中国 香港(ホンコン)]32 湾内に浮かぶ船、撮影年月:2001年3月31日、撮影場所:香港 アバディーン。アバディーン(香港仔)は香港島で初めて人が住み着いたと言われるところである。古くは漁業で栄えた街だが、今は昔ながらの面影が薄れ、高層ビルが並んでいる。湾内に浮かぶ船は、水上生活者のものが多いが、それも少なくなりつつある。
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[中国 香港(ホンコン)]33 バード・ガーデン、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。小鳥を飼育しその鳴き声を競うのが風流、ということで、ここ香港には愛鳥家が多い。この公園は、そうした人々が自分の自慢の愛鳥を持ち寄って、自慢したり、互いに観賞したりでにぎわっている。また、愛鳥家を対象にした店も多数ある。こうした場所は、以前は別の場所にあったが、そこが再開発のために、ここへ移動してきた。なぜか女性の姿はほとんど無く、おじさんが多い。
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[中国 香港(ホンコン)]34 フラワー・マーケット・ロード、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。一年中色とりどりの花が歩道を飾っている通り。車道にはトラックを店舗代わりにした露店も営業している。日本では目にすることのない珍しい花も多く見られる。
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[中国 香港(ホンコン)]35 香港警察、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。香港が中国に返還されたことによって、行政の面で多少変化が見られるが、その一例がこの制服である。以前香港警察の制服は黒っぽい色で、きりっとしたイメージがあったが、返還されてからは写真のような色に変わってしまった。
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[中国 香港(ホンコン)]36 看板、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。香港にやってきて驚くことはたくさんあるが、その代表的なものは看板の張り出し方であろう。この通りは小さく、看板も少な目だが、それでも片鱗を見て取れるだろう。香港では、看板は目立てば目立つ程良いそうである。いわば、香港名物と言ってもいいだろう。
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[中国 香港(ホンコン)]37 二階建てバス、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。香港の市民の足として利用されるバスも、英国スタイルで二階建てになっている。ただ、色はイギリス(ロンドン)の赤一色とは異なりカラフルであり、また全面広告になっているのが普通である。
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[中国 香港(ホンコン)]38 店内の様子、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 飲茶屋さん。昔ながらの飲茶屋さんでの昼食時の様子。この日は休日だったため、かなり待たされてからやっと席に着いた。ここは、めずらしいことにすべてセルフサービスである。テーブルの上にはお決まりの食器のセットが見られる。
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[中国 香港(ホンコン)]39 食卓の様子、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 飲茶屋さん。昔ながらの飲茶屋さんでの昼食時の様子。この日は休日だったため、かなり待たされてからやっと席に着いた。ここは、めずらしいことにすべてセルフサービスである。テーブルの上には、いくつかの点心とお茶が用意されている(と言っても、自分たちで取ってきたもの)。これが典型的な飲茶の組み合わせ。
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[中国 香港(ホンコン)]40 祠、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 飲茶屋さん。この飲茶店は地域が共同で経営しているものだそうだが、その敷地内にこのような祠が建てられていた。はっきりしたことはわからないが、祖先を祀る祠かとも思われる。
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[中国 香港(ホンコン)]41 2枚の自動車のナンバー、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港。右側の自動車の番号が2枚ついている。上の黄色いものは香港エリア用、下の黒っぽいのが中国広東省用のもの。現在でも香港は事実上中国とは別の国の扱いになっており、中国本土に入るためにはナンバープレートを2枚つけなければならない。なお、香港用は英国のスタイルが残っており、前は白色、後ろは黄色をつけることになっている。
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[中国 香港(ホンコン)]42 シンセンの遠景、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 国境付近。中国との国境付近で撮ったもの。向こうの方に背の高いビルが見えるが、それが、改革開放政策のモデル地域となった都市、シンセンである。ここと香港を毎日のように行き来する人たちはかなりの数に上るはずで(裏付けする数字は入手していないため不明)、国境を越えるというより、ちょっと隣町へという感覚に近いかもしれない。香港が中国に返還されたものの、国境はまだ存在する。
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[中国 香港(ホンコン)]43 中国との国境、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 国境付近。中国との国境を撮ったもの。国境の向こうの方に背の高いビルが見えるが、それが、改革開放政策のモデル地域となった都市、シンセンである。ここと香港を毎日のように行き来する人たちはかなりの数に上るはずで(裏付けする数字は入手していないため不明)、国境を越えるというより、ちょっと隣町へという感覚に近いかもしれない。香港が中国に返還されたものの、国境はまだ存在する。
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[中国 香港(ホンコン)]44 ゲート付近に停まるバス、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 国境付近。何台かバスが並んでいるが、柵のこちら側は香港、向こう側は中国である。よく見ると、向こう側のバスとこちら側のバスでは、ナンバープレートの色と、内容が違うのがわかる(かなり見にくいけれど)。このゲートで乗客は一旦バスを降りて、出入国審査を済ます。
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[中国 香港(ホンコン)]45 国境のゲート、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 国境付近。香港特別行政区、シンセン特別行政区を区分けするため設けられたゲートである。香港特別行政区は同じ中国国内ではあるが、社会・経済の制度が全く異なるため別の国のように出国検査が行われる。なお、車の通る方向も香港側が左側(英国式)なのに対して中国は右側のため、ここを境に車線変更を行う。
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[中国 香港(ホンコン)]46 天后廟、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 マイポー。香港は半島と香港島、それに大小235の島々で構成されているため、漁師や海で働く人々を守る、天后を祀った、道教の寺院が多い。ここもそうしたお寺の一つである。また、ここは願いを叶えてくれる、願掛けのお寺でもあるらしく、訪れる人が絶えない。私が訪れたのは日曜日だったため、家族連れが多かった。
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[中国 香港(ホンコン)]47 天后廟のおみくじ、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 マイポー。天后廟で見つけたおみくじ。(牛のひずめらしい)これを投げて吉凶を占うようだ。
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[中国 香港(ホンコン)]48 天后廟に生える木、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 マイポー。漁師や海で働く人々を守る天后を祀った道教寺院、天后廟に生える大木。この寺院は願掛けのお寺として有名で、願いを叶えるには、お寺の前で売っているお参りセット(?)を買って、それをこの木に向かって投げ、それが木に引っかかれば、願いが叶うということになっている。お参りセットは、巻物に紐がついていて、その先にオレンジが結んである。これは、木に引っかけやすいようにするためである。
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[中国 香港(ホンコン)]49 天后廟に生える木、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 マイポー。漁師や海で働く人々を守る天后を祀った道教寺院、天后廟。この寺院は願掛けのお寺としても有名で、願いを叶えるには、お寺の前で売っているお参りセット(?)を買って、それをこの木に向かって投げ、それが木に引っかかれば、願いが叶うということになっている。これは、そのお参りセットの巻物を広げたところ。代表的な願い事が書かれている。
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[中国 香港(ホンコン)]4 香港の軽食、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 粥麺専家。香港の街を歩いていると、様々なスタイルの食べ物やさんを見かける。その中でも、早朝から深夜まで営業していて、小腹がすいたときに重宝するのが、麺粥屋である。麺やお粥はもちろんのこと、ちょっとしたおかずになるものや、喫茶メニューなどもある。写真に写っているのは、お粥である。日本ではお粥というと、病人食みたいなイメージがあるが、香港人にとってかなりポピュラーな存在である。
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[中国 香港(ホンコン)]50 車公廟のお神籤、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 沙田(シャーティン)。宋代の将軍で道教の神様となった車公が、疫病から人々を救ったとして祀られている寺院。ここもそうだが、香港の主だった寺院では、お神籤を解説してくれたり、将来を占ってくれる人がいる。香港のお神籤は割と抽象的なため、こうした商売が流行るようだ。どこのお寺でも、盛況である。
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[中国 香港(ホンコン)]51 海鮮レストラン、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 西貢。香港は海に囲まれているため、海の近くに海鮮の専門レストランがある。ここでの注文の仕方は変わっていて、まず、自分のはいるレストランの水槽のところまで行き、自分の食べたいものを選び、調理方法を指示し、あとはテーブルで待つといった仕組みになっている。水槽の海産物はどれも新鮮で美味しく、しかも街の中で食べるより安いため、どこも人がいっぱいである。
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[中国 香港(ホンコン)]52 デザート屋さん、撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 旺角(モンコック)。最近香港ではやりのデザート専門店のうちの一つ。フルーツを主体としたそんなに甘くないものが多く、女性、男性を問わず、人気がある。
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[中国 香港(ホンコン)]53 立法會大楼 撮影年月:2001年4月1日、撮影場所:香港 セントラル。1912年に建造された旧最高裁判所。かつての“英国領香港”を象徴する代表的な建造物の一つ。現在は立法評議会議事堂として使われている。一般公開はされていない。夜はライトアップされて、見所の一つになっている。
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[中国 香港(ホンコン)]54 点心を載せたワゴン、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 飲茶屋さん。香港の飲茶を代表するシーン。かつてはこうしたワゴンに出来立ての点心を載せて客席の間をまわるというのが普通だったらしいが、今では、注文を取ってから運んでくるスタイルが大半を占めるようになったらしい。ワゴンはそれぞれ、蒸しもの専門だったり、揚げてあるもの専門だったり、あるいはデザート専門だったりする。客は、自分の欲しいものを、声をかけて取ってもらう。
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[中国 香港(ホンコン)]55 テーブルの様子、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 飲茶屋さん。テーブルに着き、ワゴンから自分の欲しいものを取っていくと、段々テーブルが一杯になっていく(これはまだまだの様子)。二つあるポットは、お茶が二人分ということではなく、一つはお茶、もう一つは差し湯である。
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[中国 香港(ホンコン)]56 エレベーター内の階の表示、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港。香港は長くイギリスの統治下にあったため、英国式の習慣が多く残っている。これはエレベーターの内部だが、フロアの名前の付け方が1階=「G」2階=「1」と表示される。
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[中国 香港(ホンコン)]57 特別行政区の印、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港。香港地区は香港特別行政区として、中国本土とは異なる体制で運営されている(1国2制度)外交や防衛などの基本政策は中国が決定するが行政、特に経済分野では全く独立している。この印は行政区の印として、1997年に英国植民地から中国に返還されて以来用いられている。
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[中国 香港(ホンコン)]58 湾仔のコンベンションセンター、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 フェリーから。香港が中国に返還されたときのセレモニーが、このコンベンションセンターで行われた。この建物は、前からここにあったわけではなく、返還の式典のために建設されたものである。
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[中国 香港(ホンコン)]59 セントラル、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 フェリーから。香港セントラル地区は地域経済の中心地である。日本の銀行のいくつかもこの地に支店を構えている。
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[中国 香港(ホンコン)]5 香港の軽食、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 粥麺専家。香港の街角でよく見られる麺類とお粥を専門に出す麺粥屋で撮影。これは炒麺。麺も汁ありと汁なしがあり、汁なしでも炒めるものとそうでないものがある。しかも、その調理法によって麺の種類が変わる。さすが香港という感じである。この写真に写っているのは量が多めのものだが、普通はもっと少なめで、そのためかどうかわからないが、朝食に利用する人も多い。
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[中国 香港(ホンコン)]60 水上ツアーの船、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 フェリーから。香港は華南経済の中心都市の一つであると同時に観光地としても知られている。このためこういった観光船が島巡りのツアーなどを催している。
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[中国 香港(ホンコン)]62 香港島を望んで、撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港 フェリーから。香港は香港島を含めた多くの島と大陸の端に当たる九龍半島からなっている。特に香港島は政治や経済の中心として非常に開発が進んでおり、高いビルなどが目立つ。
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撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港国際空港。国際線の飛行機に乗る場合、以下のような手順をふむ。つまり[1]飛行機の航空券を搭乗券(座席が指定されているもの)と交換する。[2]国を出るため出国検査を受ける。このときパスポートが必要。[3]機内に持ち込む荷物をチェックする。この写真は[1]の搭乗券をもらうカウンター。大きな荷物はここで預けることになる。
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撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港国際空港。国際線の飛行機に乗る場合、以下のような手順をふむ。つまり[1]飛行機の航空券を搭乗券(座席が指定されているもの)と交換する。[2]国を出るため出国検査を受ける。このときパスポートが必要。[3]機内に持ち込む荷物をチェックする。この写真は[2]の出国審査を受けるカウンター。パスポートを係官に提出し、スタンプを押してもらう。法律上はこのエリアをすぎると外国として扱われる。会話は現地の言葉(ここは香港なので中国語)と英語のいずれかを使って行われる。
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撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港国際空港。国際線の飛行機に乗る場合、以下のような手順をふむ。つまり[1]飛行機の航空券を搭乗券(座席が指定されているもの)と交換する。[2]国を出るため出国検査を受ける。このときパスポートが必要。[3]機内に持ち込む荷物をチェックする。この写真は[3]の手荷物検査場、手荷物はX線スキャナーを通され、乗客もボディチェックを受ける。近年はハイジャックなどの事件が多いこともあり、チェックが厳しくなってきている。
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[中国 香港(ホンコン)]66 香港の紙幣、撮影年月:2001年4月2日。この3枚はいずれも香港で使用される100$紙幣(日本円で1500倍円程度)の表面で紙幣の中でももっとも使用頻度が高いものである。香港では紙幣を印刷することが出来る銀行(発券銀行)が日本と異なり3行もあるため、同じ価値の紙幣が3種類も存在する。左から中国銀行、香港上海銀行(HSBC)、スタンダードチャータード銀行のもの。これ以外の紙幣も全て3種類存在するが、お互い色や大きさは同じになるよう調整されている。こんな所からも、長く続いた香港の植民地としての歴史をかいま見ることが出来る。
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撮影年月:2001年4月2日、撮影場所:香港国際空港。パスポートは国外への旅行に使われる公的書類で国(日本は外務省)が発行する、海外旅行をする場合は必ず飛行機や船に乗る前に検査を受ける事になる。検査を受けると写真のようにスタンプが押され、その間は国内にいなかったという証拠として使われる。単なるスタンプにみえるが偽造できないように色や形などに工夫がされている。ここでは日本・台湾・香港のスタンプがみえる。
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[中国 香港(ホンコン)]6 発車時刻案内、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 ホンハム駅。香港国際駅の発車時刻案内、ここから出発する列車は香港エリアには停車せず中国本土へ足をのばすため、入場すると香港出国検査場、中国入国検査場がある。香港エリア内の列車は同じ駅内にある近郊列車専用改札から入場する。
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[中国 香港(ホンコン)]7 鉄道路線図、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 ホンハム駅。香港始発中国各地行きの行き先案内、遠く北京・上海や近くは広州行きがこの駅から出発してゆく。
東書Eネット事務局
[中国 香港(ホンコン)]8 コンコース、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 ホンハム駅。香港から中国本土各地へ向かう起点となる鉄道駅である。コンコースはかなり広く、列車を待つ間に買い物したり、食事したりできるように、いろいろな店がその中にある。ただ、本土と行き来する人たちはかなり大きな荷物を持っているので、そんなに楽しめないかも、と人ごとながら心配したりしてしまう。
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[中国 香港(ホンコン)]9 左側通行、撮影年月:2001年3月30日、撮影場所:香港 海底トンネル入り口。九龍半島と香港島とを結ぶ海底トンネルの九龍側入り口、香港は長くイギリスの統治下にあったため、左側通行となっている。また、英国スタイルの2階建てバスも見られる。
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撮影年月:2001年3月29日、撮影場所:台湾中正国際空港。台湾の玄関口となる空港。台北に入るにはこの空港に降りることになる。この空港に到着したのは夜だったため、カウンターにもあまり人が見られないが、台湾で一番大きい空港である。だが、日本は台湾と国交を結んでいないので、JALは乗り入れていない。
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[韓国]タプコル公園の3・1独立運動レリーフ、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。抗日運動の様子を描いたタプコル公園の12枚のレリーフの一枚。日本の官憲に抵抗する姿が描かれている。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]チャガルチ市場、撮影年月:1998年8月、撮影場所:釜山(プサン)。写真(1)港町釜山の国際市場。新鮮な海産物が並び、観光客と地元の人で賑わう。写真(2)市場の一角には、魚、貝の水槽が並び、選んだ物をその場で料理して出してくれる食堂がある。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]光化門(クァンファムン)、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。李氏朝鮮の正宮だった景福宮正門。額の文字は故朴大統領の筆によるもの。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]大邸(テグ)での料理、撮影年月:1998年8月、撮影場所:大邸(テグ)。写真(1)鶏の内臓を取って、中に餅米と木の実や高麗人参などを詰め、煮込んだ代表的な薬膳料理。写真(2)町のあちこちに朝食を食べるための食堂がある。これは牛の血の固まりが入ったみそ汁。写真(3)ホームステイ先で作ってもらった朝食。キムチは各家庭で作っていて家庭独特の味がある。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]建国50年を祝う国旗、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。1998年大韓民国建国50周年を祝い、街中に国旗が掲げられた。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]影島(ヨンド)から日本を望む、撮影年月:1998年8月、撮影場所:釜山(プサン)。絶景の影島(ヨンド)。遙か向こうの方向は日本。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]服屋さんのショーウィンドウ、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。服を売っているのだが、着せてあるマネキンは下半身のみ。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]箸とスプーン、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。韓国の食事では箸とスプーンを使う。これはソウル郊外のレストランで食事をした時に出されたもの。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]韓国のコンビニ、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。コンビニの食料品売り場。サンドウィッチや弁当のようなものを売っている。提供:イー・ドリームズ
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[韓国]韓国の老人たち、撮影年月:1998年8月、撮影場所:ソウル。ソウル市内のパゴタ公園に集うお年寄り。チャンゴを叩き、オッケチョム(踊り)を楽しむ姿がよく見られる。提供:イー・ドリームズ
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[マレーシア]ジャパンフェスティバル、撮影年月:1997年9月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアでは、ジャパンフェスティバルが毎年開催されている。その一貫として、マラヤ大学で日本語を学んでいる学生向けに、裏千家若宗匠による特別講義と実演が行われた。大学の講義室につくられた簡易の茶室、そこには「和敬」の軸に、竹で作られた花器にブンガラヤ(ハイビスカス)が一輪飾られていた。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアには日系のデパートがいくつか入っている。その一つ伊勢丹で1月1日にセレモニーとして行われた餅つき「Rice Cake Pounding」の風景である。見ていると、隣で見ていたマレーシア人から、「日本では1月1日に餅つきをするのか?」「なぜこれを作るのか?」「どのようにして食べるのか?」など質問の嵐であった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
[マレーシア]マレーシアの中の日本、撮影年月:1996年、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアには日系企業やデパートなどがたくさん進出している。ジャスコの店頭、そごうの中にある「レストランそごう」ののれん、そして、居酒屋風の和食レストランのメニュー。アサヒの「スーパードライ」缶ビール350ml1本が15リンギット(約500円)とある。その場でオレンジをしぼったフレッシュジュース1杯が1リンギッであるから、如何に高価なことか。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
万歳三唱を何度も何度も、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ジョホール州ジョホールバル。試合が終わってスタジアムから出ても興奮は冷めやらない。日の丸の旗が振られ、万歳三唱がいたるところで、何度も何度も。チャーターバスに乗って帰宅するも、その日は平日。在マレーシアの日本人は、すばらしい寝不足の一日を過ごすことになった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
対イラク戦3対2の電光掲示、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ジョホール州ジョホールバル。日本3対2で、対イラク戦の勝利を知らせる電光掲示板。駆けつけた約2万人の大応援団はこの電光掲示からしばらくは目が離せなかった。勝利が決定した瞬間の歓声は、声というものではなく、轟音。鼓膜が破れるかと思うほどの超大歓声であった。そして、「みんなでフランスへ行こうよ」の声が。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
対イラン戦の大応援団、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ジョホール州ジョホールバル。この日は、日本からだけでなく、マレーシア全土から貸し切りバスや鉄道を使って在マレーシアの日本人が応援に駆けつけた。首都クアラルンプールでは、日本人学校前から、大使館前から、ジャパンクラブから、と多くのチャーターバスが繰り出された。スタジアムには約2万人、この時刻、世界中で日本人の人口密度が最も高かった場所ではないだろうか。日本語以外は聞こえない。応援席では日の丸が乱舞、開会式では君が代の大合唱。日本国内では見られない(?)光景である。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
岡野決勝ゴール、3点目、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ジョホール州ジョホールバル。岡野決勝ゴール!! 決勝ゴールとなったボールがネットにつき刺さった瞬間である。岡野の背番号14の躍動と、相手キーパーの表情が対照的である。先制ゴールを奪うも、同点に追いつかれ、逆転される。しかしながら、再度同点そして逆転勝利でワールドカップ本戦行きが決定というすばらしい展開は、サッカーに素人の私にも大きな感動を与えてくれた。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
日本大使館より見たツインタワー、撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。ツインタワー。現在、世界第一の高さを誇る双子のビルである。日本の感覚から言えば「タワー」と言うよりは「ツインビル」である。片方を日本の企業が、片方を韓国の企業が請け負って建設している。2000年現在既に完成しているが、完成直前の様子を日本大使館に掲揚されている日本国旗と共に撮影したものである。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
日本食レストラン、撮影年月:1997年7月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアには多くの日本人が住んでいる。そのため、日本食レストランが結構ある。広島焼きの専門店、豚骨ラーメンの店、高級懐石料理店、居酒屋、炉端焼き、ほとんどのものがある。最近では、比較的日本人が少ない東海岸の都市クアンタンにも小料理屋ができている。日本人の客だけではなく中国系マレーシア人の家族も客として多いようだ。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
残念、オフサイド、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ジョホール州ジョホールバル。試合開始早々、カズがゴール!! と思いきや、オフサイド。残念!! しかし、「いけるぞ!」という雰囲気がスタジアムに広がっていく。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
総理大臣・文部大臣相次いで、マレーシアへ、撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。この国では、他の国から来賓がマレーシア入りすると、空港から首都クアラルンプールまでの道路を中心として、このように自国の国旗と共に国旗が飾られる。この写真は、1997年1月に橋本総理、小杉文部大臣が続いてマレーシア入りした時のものである。複合民族国家であるマレーシアでは、「マレーシア国旗」が日々どこでも見られ、「マレーシア」という国名や「国歌」を放送などで何度も聞くことができる。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
菊の紋と日の丸、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。日本国内にいると日本人ということを意識することはまずない。海外に住むと日本人であることを意識させられる。大使館で見た、菊の紋と日の丸。1997年のサッカーワールドカップ最終予選、ジョホールの競技場での君が代の大合唱。国、国歌、国旗・・・、真剣に考えなくてはと思う。
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[マレーシア]高所作業者、撮影年月:1996年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアの木の成長は早い。時には、電線や電話線を切ってしまうこともある。これは、テレコム(日本のNTT)の下請けで、木の枝をはらっている業者の車。高知県にある会社の名前と電話番号がそのまま残っていた。中古車として売られた車が、書かれた文字が消されないまま、この国で使用されている。
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【マレーシアの建物】マラヤ大学、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マラヤ大学のKLゲート(クアラルンプール市街へ向かう出入り口)。上は、大学へ入る方向から見たもので大学名がマレーシア語で「UNIVERSITI MALAYA」と書かれている。下は、大学から出る方向から見たものでマレーシア語の表示は「さようなら」の意味である。
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イポーのモスク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、イポー。イポーの中心のモスクである。イポーはベラ州都であり、クアラルンプール、ぺナン、ジョホールバルに続くマレーシア第四の都市である。1900年頃よりスズ鉱で栄えた都市である。スズ採掘の鉱山労働者は中国系マレーシア人が大部分であり、この都市の人口の60パーセント強を中国系マレーシア人が占めている。特に広東地方の出身者が多く、この地での広東料理は定評がある。
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カンポン、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ランカウイ島。伝統的なマレースタイルの高床式の民家が集まっている「カンポン」。マレーシアにはいくつもの都会が誕生しているが、地方にはまだこのような集落、カンポンが残っている。カンポンというこの言葉をはじめて聞いたとき、何か懐かしい響きとして感じられた。地方から来て都市部に住む人々には、帰るべき「ふるさと・田舎」として大切な言葉である。
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クアラルンプールのビル群、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。首都クアラルンプールのビル群である。建設途中のビルもたくさんあり、この写真の中でも大きなクレーンが見られる。遠くには、451.9メートルという世界一の高さを誇るベトロナス・ツインタワーも見られる。「ベトロナス」は石油会社の名前であり、最近では、人材養成・確保のためにマレーシア国内に大学をも設立している。
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コンドミニアム(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。日本語的な表現では、高級賃貸マンションといったところであろうか。これは、クアラルンプールの近くにあるコンドミニアム群の一角である。ここには、多くの日本人が住んでいる。棟によっては半数以上が日本人である。プール、テニスコート、体育館、ミニマーケット(日本製品も揃っている)、日本食レストランが揃っている。日本人学校へのスクールバス、日系デパートの「そごう」へのバスも運行されている。賃貸料金は様々であるが、日本円に換算して15万~30万円といったところであろうか。
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コンドミニアム(2)、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。クアラルンプールの隣に位置するペタリンジャヤにあるコンドミニアムである。マラヤ大学に隣接することもあって「ユニバーシティー・タワー」と名が付けられている。プール、ミニマーケットはあるものの設備面で若干劣ることもあり、日本人はそう多くはない。ここのプールで子どもたちが遊んでいるのを見ると、人種のるつぼという感がした。マラヤ大学の学生がグループ(2、3人ではない、10人前後?)で一室を借りていたりもする。
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サバ州都コタキナバルのモスク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、コタキナバル。金色に輝くモスク、これは東マレーシアサバ州都コタキナバルのモスクである。ボルネオ島の一角、東マレーシアで青空を見ることは少ない。この日も残念ながらの曇天であった。青空を背景として金色に燦然と輝くこのモスクを見るために、是非再度訪れてみたい。コタキナバルは、東の貿易港から西のタンジュン・アルビーチリゾートまで、南シナ海に面して細長く広がる街である。日本から5時間で行ける、マレーシアの中では日本に最も近いマレーシアの都市である。
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ショッピング・コンプレックス、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアには、規模の大小、日系・マレー系・英国系などの経営者、大衆向けかブランド志向かなど、様々なショッピング・コンプレックス(大型量販店とデパートがくっついたようなもの)がある。これは、ブランド品を扱う店が多く入っているショッピング・コンプレックス「スターヒルズ」の中である。ビルの中央は吹き抜けのような空間になっており、周囲に多くの店が入っている。しゃれたエレベータが上下し、空間を贅沢に使ったエスカレータが配置されている。空間を限度ぎりぎりまで効率よく使っている日本のデパートとは趣がだいぶ異なる。
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ビジョン2020、撮影年月:1997年5月、撮影:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「2020」の大きな数値、これは西暦2020年には先進国の仲間入りを果たすという目標の年である。マレー語では「ワワサン2020」、英語では「ビジョン2020」は現在のマレーシアの合い言葉といっていい。これに向けて、経済・教育など様々な計画が立てられ実行されている。
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ペタリンジャヤの州立モスク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。下は、ペタリンジャヤの州立モスクであり、上は壁面を拡大したものである。1988年に建設されたもので、それまで東南アジア最大のものであった国立モスクをしのぐ、東南アジアで最大かつ最も美しいモスクである。マレーシア在住の日本人の多くは、美しいその色合いから「ブルーモスク」と呼んでいる。特に夜、ライトアップされた美しさは目を見張るものがある。
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マラッカのモスク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラッカ。イスラム教徒がお祈りをする場所、モスク。マレーシアには13の州があるが、地域によってモスクも少しずつ異なっている。これは、ムラカ(マラッカ)州のモスクである。
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マレー半島南北縦断ハイウェー、撮影年月:1997年10月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。シンガポールとの国境マレー半島最南端のジョホール州ジョホールバルから、タイとの国境であるマレーシア最北端ケダ州まで約900km、マレーシアを縦断する高速道路が、1994年全面開通した。道路の両サイドは、ゴム園であったり、ヤシ油の原料であるパームヤシの農場であったりと、緑に囲まれている。左側の写真は料金所であるが、屋根はマレースタイルになっている。高速道路の料金は大変安く、最南端から最北端まで走っても約2000円程度である。
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リンクハウス、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアにはプール付きの家や豪邸も少なくないが、一般には都市部ではこのようなリンクハウス、地方ではカンポンに代表される伝統的な高床式の家に住んでいる人が多い。リンクハウスはマレー式の長屋といっていいだろうか。2階建てのもの、写真のような3階建てのものなどがある。マレーシア政府は、国民が家を持てるような政策を進めており、大規模な住宅開発も行われ、比較的安価で提供されているようである。
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伝統的なホテル、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、プドゥレイク、キャメロンハイランド。マレーシアには様々なスタイルのホテルがある。上は、タイの国境近くの山の中にある人造湖プドゥレイク湖畔にあるホテルである。湖畔の広大な土地にスカッシュコート、テニスコート、レストランと共に、伝統的なマレースタイルのコテージ群からなるホテルである。朝方霧の中に浮かぶコテージ群は、太古の昔を連想させる幻想的な風景である。下は、キャメロンハイランドにある植民地時代を彷彿させる英国調のホテルである。家具も古美術品といっていいものがそのまま備え付けられている。
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住居(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。ペタリンジャヤの一角は高級住宅地である。ここで見た豪邸の一つである。家の中、門のそばには常駐のガードマンが住む家がある。プール・テニスコートがあり、その広さはけた違いである。庭には、大きな犬が放し飼いにされ、ヤシの木・バナナ・ハイビスカスが茂っていた。
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住居(2)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。ペタリンジャヤは古くからの住宅地であり、場所によっては大きな家が並んでいる。常夏の国、マレーシアであるので、このようにプール付きの家も決して珍しいものではない。
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国立モスク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。モスクには、州立、国立などがある。これは、クアラルンプールにある国立モスク(国立回教寺院)である。トゥンク・アブドゥル・ラーマン初代マレーシア首相の提唱で作られたものである。巨大な傘のような屋根、75メートルの高さの尖塔をもち、礼拝用ホールには大理石が使用され、イスラム現代建築の代表作といえる。
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近代的なホテル、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラッカ、ペタリンジャヤ。右は、ペタリンジャヤ・ヒルトンホテル。前を走っているのはLRT、首都クアラルンプールと近郊を結ぶ新交通システムである。これは試走段階の時のものであるが、現在では既に営業運転がなされている。左は、マラッカ郊外、海岸沿いにあるリゾートホテルである。全ての部屋がマラッカ海峡が望めるオーシャンビューとなっている。海岸に接してプールがあり、夜になるとプール脇でブッフェ形式で夕食が取れる。
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連邦事務局ビル、撮影年月:1997年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。中央の時計台がクアラルンプールのシンボルとなっている連邦事務局ビル。伝統的な建物で、土曜日や独立記念日などの夜はイルミネーションが灯され、大変美しい。これは、独立記念日の夜のものである。この建物の前には独立記念広場(ムルディカ広場)があり、多くの人たちの散策の場となっている。
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KLタワー、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。展望台と、展望レストランを持つ、高さ421メートルの建物である。最近完成した、世界最高といわれる451.9メートルのペトロナス・ツインタワーに高さでは若干劣るものの、小高い丘ブキッ・ナナス(パイナップルの丘)のにそびえ立ち、今でもクアラルンプールの象徴となっている建物である。
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バナナリーフカレー、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。インド系の大衆レストランで食べられるバナナリーフカレー。バナナの葉をお皿にしてご飯が盛られ、それにカレーをかけて食べる。鶏、魚、肉の三種のカレーがあり、好みに合わせて選ベる。全て大変辛いが、魚カレーが特に辛い。日中は30度を超す気温のこの国でこれを食べると汗だくになってしまうが、いつか病みつきになってしまった。店の看板にあるように、おかずにはカニやエビ、イカ、チキンなどを頼むこともできる。地元の人たちは、右手の親指以外の指ですくい、口元に持ってきて親指で口の中に押し込むようにうまく食べる。日本人の我々には写真のようにスプーンをつけてくれる。もっとも、2年も住むと、日本人でも地元の人と同様に右手で器用に食べられる人も出てくる。飲み物は「ティータレ」、大変甘いミルクティーであるが、辛いカレーにこれが大変よく合う。
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パイナップルライス、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。パイナップルをくりぬき、その中にパイナップルやエビ・鶏肉などが入った炊きこみご飯(焼きめしの場合もある)が入っている。これが大変辛い。入っている香辛料、特にグリーンチリをかんでしまうと舌がしびれるほど辛い。本来は、タイ料理だが、マーケットでも「パイナップルライスの素」が売られており、マレー語、英語、中国語で料理方法が書かれ、マレーシアに根付いている。帰国後、「パイナップルライスの素」を使って作ってみたが、日本の米ジャポニカ米には残念ながら合わない。パサパサしたタイ米を使って作るとこの料理は大変おいしい。
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フライドクィテーオー、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。クダイコピ。マレー語で「コピ」はコーヒー、「クダイ」は店、つまりコーヒー店。テナントのオーナーがお茶などの飲み物を扱い、そこに屋台に近い小さな店がたくさん入っている。これが「クダイコピ」、我々はオープンレストランと呼んだりしていた。ここでは、麺類を扱う幾種類もの店、経済飯を扱う店などが入っている。「フライドクィテーオー」、これは麺類の一種である。日本のきしめんのような感じの麺を、貝やエビ、そしてモヤシなどの野菜と共に炒めたものである。なれた手つきで1人前を3分ほどで仕上げていく。1人前約RM1(1リンギット、マレーシアの通貨の単位で今は1リンギットが約30円)。
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経済飯、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。経済飯は、中国系の大衆食堂での料理である。ご飯の上におかずを自由に選び取り、のせて食べる。おかずには、魚、チキン、マトン、野菜各種、味付けしたゆで卵、卵焼き、厚揚げなど、店によって異なるが20種類はあるだろうか。品数、それぞれの量も適当に取ってご飯の上にのせて会計に行くと、これも適当(?)に計算して代金が言われる。上の料理は3リンギット(リンギットはマレーシアの通貨の単位で、今は1リンギットが約30円)ぐらいである。子供たちは在マレーシアの日本人小学生、後ろの人たちは親子二代でこの店をやっている人たち。
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『危険』表示の看板、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。マレーシアは複合民族国家である。街では、様々に言語が飛び交う。マレー語が中心だが、中国語(と言ってもこれ自身一つではない)、英語、タミール語などである。配電盤に付けられていた「危険」を表す看板である。マレー語、英語、中国語、タミール語、タイ語などの文字で表されている。最近では、日本でも案内に日本語だけでなく、英語、ハングル語などの表示の看板を見かけるようになってきた。
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キブラット、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ティオマン島。イスラム教徒、ムスリムは一日5回「夜明け」「正午」「午後」「日没」「夜」に聖地メッカに向いてお祈りをする。金曜日の午後は、イスラム寺院であるモスクに行ってお祈りをする。仕事中など、モスク以外の所でお祈りをすることも多いわけだが、そのときメッカの方向を教えてくれるのがこのKIBLAT。これは、東海岸にあるティオマン島のホテルの天井で見つけたもの。このお祈りの習慣は、マレーシアで生活を始めたころは、我々にとって驚きだった。バドミントンに興じている途中でも「アザーン」という呼びかけの放送が流れてくるとプレーを中断してお祈りをするのだから・・・。
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サバ州の焼き畑(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。「焼き畑農業」は地球温暖化など地球規模の環境を考える上で、問題になっている。マレーシアでも山岳部の一部で焼き畑農業が営まれている。これは、南マレーシア、ボルネオ島のサバ州でのものである。しかしここで行われている焼き畑は伝統的な農業として小規模に行われているものであり、これも禁止すべきだと言っていいのだろうか。
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サバ州の焼き畑(2)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。山の斜面を焼いた後に植えられ、育っているパイナップルの苗やバナナ。焼け残った木も見られる。地球規模の環境を考えるとき問題となっている焼き畑農業ではあるが、この地での焼き畑農業を見る限り、これは一つの文化のように思える。アジアでは、インドネシアなどで行われている大規模な焼き畑とは区別する必要があるのではないだろうか。
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[マレーシア]タイプーサン(1)、撮影年月:1997年、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、パツーケープ。本国インドでもその特異性から禁止されているところが多いと聞く。首都クアラルンプール近郊にあるバツー洞窟、ここで年一回行われる奇祭。夜を徹して写真の人たちの行列が延々と続く。
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[マレーシア]タイプーサン(2)、撮影年月:1997年、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、パツーケープ。複合民族国家マレーシアにおけるインド系の人たちの祭りであるタイプーサン。頬に大小の金属杭を刺した人たち、背中には大きな釣り針のようなものを引っかけ、ひもで引っ張っている人たち。このような人たちが、バツー洞窟への長い階段を登っていく。
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[マレーシア]チャイニーズオペラ(1)、撮影年月:1996年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。複合民族国家マレーシアでは、さまざまなお祭りが見られる。これは、中国系の人たちの秋祭りである。中国系の人たちの集落の一角に小さな舞台があり、ここでチャイニーズオペラが演じられていた。
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[マレーシア]チャイニーズオペラ(2)、撮影年月:1996年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]。中国系の人たちの集落の一角にある小さな舞台で演じられているチャイニーズオペラ。「京劇」と源を同一にするように感じた。
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バドミントンの盛んな国マレーシア、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアはバドミントンが大変盛んな国である。街でもバドミントン競技の看板を見かけたり、大変人気のある飲み物「ミロ」のコマーシャルに選手が登場していたりする。上の中央は、1992年トマスカップ優勝を記念しての小型シートの切手である。競技会場での応援は大変熱狂的であり、国旗を振りかざしプレーの進行に関わりなく大声援が飛び交う。トップ層の養成にも力が入れられているが、一般のバドミントン人口も相当なものである。ワンフロア21面もとれる体育館で夜12時近くまで多くの人が楽しんでいる。普段、屋外でプレーすることはないが、公園にはコートが書かれポールがたっていた。
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ヒンズーの寺院、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、セランゴール州。複合民族国家であるマレーシアには、それぞれの民族に宗教に関わる寺院などが数多く見られる。これは、インド系マレーシア人の宗教であるヒンズー教の寺院である。イスラム教を国教とするマレーシアであるが、信仰の自由は保障されており、国内各地にヒンズーの寺院も数多く見られる。
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マラヤ大学の一角にあるイスラム教の「モスク」、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアの国教はイスラム教である。お祈りを捧げる場所「モスク」はいたるところに存在している。これは、マラヤ大学の一角にあるモスクである。イスラム教徒たちは、毎日5回のお祈りをする。特に、金曜日の昼過ぎには、モスクに集まってお祈りをする。このモスクには大学周辺から一般の人々が、大学の寮からは送迎バスも出て学生がお祈りに集まってくる。
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[マレーシア]マレーシアの結婚式(2)、撮影年月:1998年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。中国系マレーシア人の結婚式である。左のリボンで飾られたのは、新郎新婦が乗る車である。マレーシアにあっても中国系の人たちはイスラム教徒ではなく、ビールもOK。中央は、中華レストランでの披露宴風景、右は、中国寺院「天后宮」で結婚式を挙げたあとの新郎新婦と我が息子。
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[マレーシア]マレーシアの結婚式(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレー系マレーシア人の結婚式の風景である。左は、新婦の家に来た新郎を迎えて祝福を受けているところ。右は、新婦宅で行われている披露宴風景。自宅の庭に宴席を設けて、近所の人たちや職場の人たちを招待して祝う。イスラム教徒であるので、お酒はなく、飲み物はジュースである。
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マレーシア独立記念日の夜、撮影年月:1997年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。8月末の独立記念日には、マレーシア各地で記念行事が行われる。首都にある独立記念広場、ここでマレーシア国旗をまとった少年たちを多数見かけた。建国からの歴史は浅く、さらに複合民族国家である。「マレーシア」の名のもとに国をまとめ、発展させていこうという国を挙げての意志を様々な場面で感じ取ることができる。
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マレー凧とマレーシアの子どもたち、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ランカウイ島。現マレーシア首相の故郷であるランカウイ島。マレー半島西海岸のぺナン島の北西108kmに位置する諸島の中の最大の島であり、リゾートアイランドとして知られ、日本人観光客も多く訪れている。空高く揚がる大きなマレー凧。しばらくするとおろした凧を持った4人の子どもたちが、ホテル近くのカンポンに帰っていった。
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[マレーシア]モーターバイク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアでは、鉄道網の整備を急いではいるが、まだまだ十分な輸送機関となっているとは言い難い。その結果、車が多くなり首都周辺の交通渋滞は社会問題となっている。しかしながら、全ての人たちが自家用車を手にすることができるわけではなく、単車も重要な交通手段である。日本と違って楽しむものではなく実用的な交通手段であり、2人乗りは普通であり、写真のような3人乗り、たまには4人乗りを見ることがある。単車は、ほとんどが日本製であるが、最近では下の写真のような国産モーターバイク「クリス」が増えてきている。
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中国寺院「天后宮」、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアは複合民族国家である。マレーシアの人口は、マレー系マレーシア人、中国系マレーシア人、そしてインド系マレーシア人がほぼ6対3対1の割合で構成されている。それを反映して、それぞれの宗教に関わる寺院などが数多く見られる。これは、中国系マレーシア人の宗教の総本山といっても建物である。ここは、チャイニーズニューイヤー(中国正月)の時には、真っ赤な提灯でいっぱいになる。また、ここで結婚式も多く行われている。
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撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラッカ。マレーシアでは正月が三回ある。西暦でいう1月1日、イスラム正月、中国正月。1月1日だけは、祝日で会社も学校も休みだが、その前後は日本と異なり、まったく普通通りの生活である。中国正月などはそれぞれの暦の中で決まるので年によって、その日は異なっている。中国正月では、中国系の人たちが住んでいる町では、このような赤い提灯がぶら下げられている。
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撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。中国正月の、お祝いの贈り物である。色は、赤色。この中には、クッキーやチョコレート、大人向けであれば、ブランデーが入っていたりする。この季節になるとデパートでは、RM100~300(3000円強~1万円)のこのようなセットが売られている。
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撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「ライオンダンス」と呼ばれている。日本で言う「獅子舞」である。各家庭をまわったり、ホテルやショッピングセンターでも、このライオンダンスが見られる。
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[マレーシア]予備役演習、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。国民皆兵制度ではないが、志願しての兵役制度がある。何度か、大学構内で演習している風景を見かけた。軍から、教官が派遣されて演習を担当しているようである。演習用の銃は、マラヤ大学に備えられており、それぞれの銃には「UM135」というような番号が打たれていた。「UM」は「ユニバーシティー・マラヤ」の略である。クアラルンプールはKL、ペタリンジャヤはPJ、マレーシア工科大学はUTM、この国では省略記号がよく使われる。
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[マレーシア]住宅街、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ、首都近郊。上は、新しく作られた住宅街を上空から撮影したもの。下は、古くからの町並みペタリンジャヤをマンション(コンドミニアムという)15階から撮影したものである。政府は、住宅供給に力を入れており、所得によっては大変安価で住宅を手に入れることができる。そのため、上の写真のような大規模な住宅開発がいくつもの場所で行われている。また、下の写真のような古くからの住宅街では、プールやテニスコートのある豪邸、リンクハウス、コンドミニアムなどが、美しい緑の中に点在している。
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[マレーシア]公衆電話、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。公衆電話はコインでもカードでも使用できる。10セン、20センなどのコインを入れることができる。通話時間が短かった場合、20センコインなどを入れた時お釣りはでてこないが、何度も他のところへダイヤルをすることができる。マレーシア滞在中に何度か、前の人から「まだ残っているから、使って良いよと」言われたことがあった。日本でも100円を入れた場合、このような扱いが欲しいところだが・・・。ただ、携帯電話が急激に普及し、公衆電話は故障してもそのままになっていることが多い。
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[マレーシア]分別収集、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。小学校にあった分別収集のゴミ箱。左から、アルミ缶用、ビン用、紙用、ビン用である。マレー語でアルミニウムは、ALUMINIUMとほとんど英語に近い。マレーシア語の単語には、英語から来たものが多くあり、つづりもよく似ているものが多い。また、ごみ箱の提供がジャスコというところも楽しい。
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[マレーシア]国旗(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラッカ。この国は、国旗、国歌、国名を大切にしている。いつでも、至るところで国旗が見られる。テレビをつければ国歌が流れてくる。新聞やテレビでは、「マレーシア」が連呼される。そして、「マハティール首相」の名前と写真がテレビ・新聞、その他至るところで礼賛されている。日本の現状と比べて、どのように思われるだろうか? これは、マラッカにある船を改造してつくられた博物館に掲げられているものである。
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[マレーシア]国旗(2)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアの国旗および国と13州の紋章である。マレーシアでは国旗やこのような旗が至るところで大切に扱われている。クアラルンプールにある独立記念広場の国旗掲揚柱には、世界最大といわれるマレーシア国旗が翻っている。
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[マレーシア]大学頭髪規定、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラヤ大学。マラヤ大学予備教育課程の教室に掲げられている頭髪の基準。チェックは正しい頭髪、「×」は良くない髪型。髪型については、時々指導が入っていた。また、服装も特に規定があるわけではないが、授業を受けるときは、エリの付いた服が望ましいと言われている。
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[マレーシア]小学校、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「SEKOLAH」は学校を意味するマレー語。マレーシアの小学校も6年間である。複合民族国家であることが、マレー系の小学校(上)(下)、中国系の小学校(中)がある。学校のグランドは、日本のように土ではなく「葉の幅の広い芝」でおおわれている。
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[マレーシア]標識、屋台禁止、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアの街ではいたるところに屋台がだされているが、場所によってはこのような道路標識がでているところがある。屋台禁止マークである。景観、安全性など様々な理由によって、出店が禁止されている場所にはこのような標識がでている。
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焼き畑による煙害、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。焼き畑の煙による被害、「煙害」。地元では「Hize(ヘイズ)」と呼ばれている。上は、煙害のない時に見たマラヤ大学病院、下は煙害が起きている時に撮影した全く同じアングルからのマラヤ大学病院である。如何にひどい煙であったかがわかる。この原因は、インドネシアでプランテーション農場を作るために行われている大規模な焼き畑であり、マレーシアや近隣諸国から消火活動に出動することとなった。日本人学校やアメリカンスクールの休校、在マレーシアの外国人の本国への帰国という騒ぎになった。
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赤十字と月のマーク、撮影年月:1998年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。日本では病院の代名詞、救急道具や救急車でおなじみの赤十字。これは、世界共通マークではない。十字はキリスト教を連想させるので、イスラム圏の国では、赤十字は普通では使われない。赤い月のマークが共通シンボルとして使われている。左は近くに病院があるという道路標識。右上は、旅客機の中の救急道具の入った箱である。右下は、旅客機の中で見つけたマレーシアでは珍しい赤十字マークである。2000年4月現在、十字、月に続く第三の共通シンボルとしてダイヤのマークが検討されているようである。
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[マレーシア]車、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアの教習所に通い、学科・実技試験を受けて合格し、運転免許書を手に入れ、買った車に子どもと共に。フロントガラスに張られている「P」のマークは、日本の若葉マーク、つまり初心者マーク。ただし日本と違って期間は2年間。実技講習のインストラクターは、車に乗って自宅まで迎えに来てくれる。そして、慣れてくると自宅前からすぐに教習が始まる。マレーシアの実技講習は苛酷というか実践的というか、ハンドルを持って2回目の講習では公道に出、4回目には高速道路を走って自宅まで10kmほどを運転して帰ることに・・・。
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[マレーシア]軍の展示、撮影年月:1997年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マラヤ大学で行われている卒業式の期間中、構内は日本の大学祭状態である。さまざまな模擬店、衣類・パソコン・漢方薬を売る本格的な店、ミニ観覧車やお化け屋敷などの移動遊園地が構内に出されている。その中に軍も展示をしている。防毒マスク、装甲車、機関銃の展示があり、自由に触ることができ、軍の人からの説明もある。
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[マレーシア]駐車メータ、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。駐車場にある駐車メーター。ここに、駐車予定の時間に合わせてコインを入れておく。早く出ることになってもお釣りはでない。ただ、料金はたいへん安く、50セン(15円程)を入れれば、1時間程は駐車できる。前の人が時間を残したままの所へ駐車するとラッキーということになる。
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[マレーシア]マラヤ大学構内(2)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。大学構内につくられた人工の滝とマレー系の女子学生。滝が流れている岩は全てコンクリートでつくられた物、とても偽物の岩とは思えない。3人の女子学生が着ているのは、バジュクロンという民族衣装に、トドンをかぶっている。トドンは、敬虔な女性イスラム教徒がかぶる。
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【マレーシアの社会、学校】イグザミネーション・ホール、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。イグザミネーション・ホール、名前の通り試験を実施するためにつくられた会館である。3階建てで、2・3階が試験を受けるホールである。各階、中央に試験官の席があって、四方に席が広がっている。北ウィング・南ウィング・東ウィング・西ウィングとあり、それぞれ400席はあるだろう。2階だけで一度に最大千数百人が受験できる。大学だけの試験ではなく、各種の資格試験など学外にも試験場として提供している。
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【マレーシアの社会、学校】テスト風景、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。たいへん広い試験会場の、一つのウィングを使って行われているテスト風景である。全ての席を使えば、一つの階だけで千人以上が受験できる広さを持つ。中央に試験監督がいて、問題作成者と監督は別の人であることが多い。四方に広がっているそれぞれのウィングで、別の試験を受けていることは珍しくない。
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【マレーシアの社会、学校】マラヤ大学構内(1)、撮影年月:1997年12月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアで、いちばん歴史のあるマラヤ大学は、クアラルンプール中心部から車で20分ほどの所にあり、道を隔てればセランゴール州ペタリンジャヤである。その敷地はたいへん広く、構内にある附属の植物園は自然の原生林といった感じである。移動は、徒歩ではつらいくらい広く、緑いっぱいの構内である。時には、1メートルもあるイグアナに、1.5メートルはあるブラックコブラに遭遇することもある。
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【マレーシアの社会、学校】修了式、撮影年月:1997年2月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マラヤ大学予備教育課程日本留学特別コースの、修了式の会場。各席には、大学や政府の重鎮が座る。マレーシア国旗と日本国旗が立てられている。厳粛な会場風景であるが、式そのものはたいへん開放的である。修了生の名前が呼名されると、その家族やその関係者から拍手が歓声が沸き上がる。厳粛さと解放性を共に備えた修了式である。
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【マレーシアの社会、学校】化学実験、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。日本の大学への入学を目指しているマラヤ大学予備教育課程日本留学特別コースに在籍する学生の学習はたいへん厳しい。「あいうえお・・・」から始めて、たった2年間で日本の高校生が使っている化学・物理・数学の教科書をマスターし、日本語で書かれた化学・物理・数学の試験に日本語で答えるようにならなくてはならないのだから・・・。このような中で、実験をする余裕はないが、数少ない化学実験風景である。
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【マレーシアの社会、学校】卒業式、撮影年月:1997年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。大学は3月には終わっており、4月から新しい学期が始まる。しかし、大学や大学院の卒業・修了式は、8月に行われる。この間3日ほど、大学は日本の学園祭状態である。卒業式そのものの様子は、英国調である。子どもたちの晴れ姿を見ようと、全国から卒業生の家族が揃ってやってくる。卒業式の様子は、式場内に入れなかった人のために、テレビで式場外にも映し出されている。
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【マレーシアの社会、学校】大学図書館、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。白亜の美しい図書館。緑のヤシとのコントラストがたいへん美しい。管理は、コンピュータで行われており、学生や職員に発行されている、身分証明書に付けられたバーコードで貸し出しの手続きは簡単である。マラヤ大学では日本語を学習している学生もおり、いくつか日本語の書籍もあったが、蔵書数に関しては十分とはいえないのではないだろうか。
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【マレーシアの社会、学校】書道作品、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアから日本への留学生は、常時2000人を超えていると言われている。マラヤ大学予備教育課程には、「日本留学特別コース」があり、日本語や日本語での教科指導が行われている。それらの学生の希望者を対象に日本人の女性がボランティアで書道の先生を務めている。これは、その書道教室で書いた学生の作品である。筆を持って数回目の作品です。すばらしいでしょう!!!
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シュガーアップル、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。南アメリカ原産のマレーシアに一般的に見られる木である。ジューシーと言うわけではなく、甘いが酸味がある。大変肥えた土でよく育ち、栽培には肥料が欠かせない。
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ジャックフルーツとパパイヤ、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。右側が、木に実っているパパイヤ。家の庭や道ばたに見られる大変一般的な果物の木である。昔の日本には柿の木やイチジクがどこにでも見られたものだが、マレーシアでは今でもパパイヤ、バナナ、ヤシが庭だけでなくどこにでも見られる。左側はジャックフルーツの木。太い幹に直接、実がくっついている。マレー語では「ナンカ」、大きいものだと1個20キログラム以上になるという。果肉は黄色で、癖のある味だが、一度食べると病みつきになる人もいるとか。
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トロピカルフルーツ、バナナの木、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアにはたくさんの種類のバナナが売られている。また、バナナの木はどこにでも見られる。左の写真はマラヤ大学構内の一角に自然に生えていたもの。右の写真は、これから成長して大きくなるもの。横一列が一房になるから、数えてみると21房は実るはず。
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ドリアン、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。緑の堅いトゲにおおわれ、独特の臭いを放つ果物である。その強烈な臭いのためバス、タクシー、飛行機にはドリアン持ち込み禁止マークが張られ、ホテル内にはもちろん持ち込み禁止である。しかしながら「果物の王様」といわれ、大変美味である。D19、D21など品種がいくつかあり、おいしいものは値段も高くなる。丸ごと売っている場合もあるが、このように中の果肉を取り出し売っていることも多い。栄養価も高く、体を熱くする作用もあるようである。これを食べた後、酒類を飲むと命に関わることもあると言われている。試してみて、何日間か寝込む羽目になった日本人もいるとか・・・。
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パパイヤ、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。一年中通して、見かけることができる。バナナと同様、道ばたで家庭の庭に数多く見られる木である。丸いものからラグビーボールのようなものまで、大きさも様々である。実の真ん中に黒い種が入っており、これを取り除き周りのオレンジ色の果肉を食べる。この木の生長は大変早く、種をまいてから1年で実を付けるという。また、肉類の消化を助け、ビタミン類を多く含む。
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マレーシアの果物、撮影年月:1997年7月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。果物屋さんにぶら下がって売られていた果物である。外見は毛だらけの皮をむくとピンポン玉くらいの大きさのゼリー状乳白色の果肉が入っているランブータン。日本のブンタンのような大きなミカンだが、甘みはほとんどなくあっさり過ぎるほどの大きな柑橘系の果物。果物の女王マンゴスチン。どれも日本で食べることは困難で懐かしいものばかりである。
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マンゴスチン、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。果物の女王と呼ばれている。えんじ色の厚い皮でおおわれ、中にはミカンのように房状に分かれた白色半透明の果肉が詰まっている。堅い外皮に爪などをおしあて筋を入れ、ねじると上のようにきれいに外皮が割れて実が出てくる。外皮の紫色の色素は、染料として用いられているもので衣服につけるとまず取れない。果物の王様と呼ばれるドリアンは体を温める作用があるといわれているが、女王のマンゴスチンは体を冷やす作用があるといわれている。最近では冷凍物が日本にも入ってきている。マレーシアから帰国した翌日、東京新橋の料亭でのデザートに、冷凍マンゴスチンが出されたのには驚いた。
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ランブータン、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「ランブー」はマレー語で「髪の毛」を表すという。名前の通り、外見は毛(柔らかい針状もの)だらけの果物である。赤いものと黄色のものがある。一般には赤いものが多く、黄色い方が少し高価であるが、皮をむくとピンポン玉くらいの大きさのゼリー状乳白色の果肉が入っている。クアラルンプールや隣のペタリンジャヤの一戸建ての家(バンガローハウス)の庭、大学の構内で鈴なりになっているこの実を見かけた。
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果物の切手、撮影年月:1998年3月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアで発行されている50セン、30センなどの通常切手である(金額部分は消してある)。果物、鳥、乗り物、花、珊瑚礁などが通常切手として発行されていた。郵便料金は大変安く、封書はマレーシア国内では日本円換算で10円以下の料金である。日本へ送る封書でも10グラムまでであれば15円ほどで送れる。記念切手も多種発行されている。
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果物の説明、撮影年月:1997年10月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアには日本人学校がいくつかある。その一つジャパニーズスクール・オブ・クアラルンプール(日本人学校クアラルンプール校)の校庭に小さな果樹園がある。マレーシアの果物がいくつか育てられている。その園の中にあった看板である。どれも代表的なマレーシアの果物である。
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果物屋さん、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。ランブータン、バナナが吊り下げられて、柑橘系の果物、ジャックフルーツ、スイカなどが山積みされて売られている。売っているおばさんは敬虔なイスラム教徒であり、スカーフのような「トドン」をしている。街では、スイカやパパイヤは皮をむき、切り身にして小さなポリ袋に入れて売られている。
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[マレーシア]オーキッド(洋蘭)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。オーキッドというよりも洋蘭といった方が分かりやすいだろう。マレーシアやシンガポールでは、オーキッドは多くの種類があり、日常生活を飾る花として朝市や露店で切り花がよく売られている。クアラルンプールにある「オーキッドガーデン」で撮影したものである。
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キナバル山頂からの日の出、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。北緯約7度、赤道に近い位置ではあるが、早朝の4000mを超す山頂は少々寒い。ローズピークにて日の出を待つこと約30分。東の空が真っ赤に燃える見事な日の出である。しばらくして、反対西側を見ると薄くかかった霧をスクリーンとして、キナバル山の巨大な影が映し出されていた。
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キナバル山、ローズピーク、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。キナバル山は、南マレーシアのサバ州にあるキナバル国立公園の中にある。多くのピークがあるがその中のローズピークは4101mの高さ、東南アジアの最高峰である。TAMAN KINABALU、マレー語でキナバル山、 ローズピークの4101mの表示。気圧計付きの時計が689mb(ミリバール)と小さく618mbを示している。最低気圧618mbがこのピークでの気圧であり、この気圧であれば水は約85℃で沸騰する。登山途中にあった木々もこの高さになるとほとんど見られなく、かこう岩の岩肌だけとなる。
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キナバル登山道の花、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。登山道は、整備されており迷うことのない道である。しかし、平坦な道はほとんどない。自然の木の根や岩を使った階段や坂道、登り又登りの連続である。登山道約6キロの行程で1800メートルを登っていく。平均の角度をθとすると、sinθ=0.3、相当なものである。登山道には、我々の体よりも大きなシダが茂り、キスゲの仲間、ネックレスオーキッド、キンポウゲそしてシャクナゲが咲いていた。ネックレスオーキッド、オーキッドは蘭、女性の首を飾る真珠のネックレスのように真っ白い蘭の花が咲いている。
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コーカサス大カブトムシの雄、撮影年月:1997年12月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、キャメロンハイランド。マレーシア半島には、高原地帯があり、海岸リゾートとは違った高原リゾートがある。ゲンティンハイランド、フレーザーヒル、キャメロンハイランドなどがそれである。松本清張の小説「熱い絹」の舞台にもなっている。ゴルフや、テニスを楽しめる場所がある。ここにはコーカサス大カブトムシ、黄金鬼クワガタなどが生息している。大変力が強く、胴体と頭の間のすき間に指が挟まれると身がそげてしまうほどであり、食料として与えた堅いサトウキビをぼろぼろにしてしまっていた。子供が着ているのはクアラルンプールの日本人学校の体操服で、日本とマレーシアの国旗がデザインされている。
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コーラルハイビスカス、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。コーラルハイビスカス、コーラルは珊瑚礁を表す。花びらの切れ込みが激しく、美しい様子が珊瑚を連想させる。そのようなところから命名されたのだろう。ハイビスカスは、マレー語でブンガ(花)・ラヤ(偉大な、大きい)といい、マレーシアの国花である。ハイビスカスの種類は大変多いが、その中でもひときわ美しい品種である。
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[マレーシア]サンセット(1)、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ランカウイ島、ティオマン島。マレーシアで見る夕日や朝日は大変美しい。上は、東海岸ティオマン島での夕日であり、下は現首相マハディール氏の生まれ故郷ランカウイ島から見た夕日である。その色も時間や場所によってオレンジ色、深紅、うすい紫、・・・など様々に変化する。
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[マレーシア]サンセット(2)、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ランカウイ島。ペナン島の北西約100kmに位置するケダ州ランカウイ諸島は大小99の島からなっている。ランカウイ島西海岸パンタイ・テンガーから見た夕日である。潮がひくと本島の砂浜から対岸の島まで、ちょうど夕日が反射しているところが浅瀬となって歩いていける時がある。
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スターフルーツの花、撮影年月:1997年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。スターフルーツの花である。スターフルーツ命名の由来は、その実が黄色く、輪切りにすると星形☆のような五角形になるところからきている。食べ物としては、ほとんど味はなくあっさりとしており、特に「うまい」と感じる果物ではない。花は、小指の先ほどの可憐な花であった。
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スパイダーリリー、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。白い色が大変美しく、6方へ細く延びた花弁が怪しい雰囲気を漂わしている。スパイダーリリー、蜘蛛の巣を連想させる百合ということだろうか。この白い花は、濃い赤や紫など鮮やかな色の花が多いマレーシアで、その白色故に印象深い花であった。
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[マレーシア]ハイビスカス(3)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ティオマン島。マレーシアの国花であるハイビスカス。マレー語でブンガラヤ(偉大な花)。形も色も多くの種類があり、たいへん鮮やかで、情熱的なイメージを与える。その中にあって、この白いハイビスカスは可憐であった。ただ、この白いものを見かけたのは2年間の生活の中で1度だけである。、w150shizen、
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ヒメカブトの成長、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアの首都クアラルンプールは緑の多い都市である。その中にあるマレーシア第一の伝統あるマラヤ大学。朝、大学内の電灯の近くでヒメカブトを捕らえた。卵が生まれ成長していった記録である。左上の幼虫、右上の雄のさなぎ、左下は羽化直後の雌、右下は雄の成虫である。
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ブーゲンビリア、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。ガクがはなびらのようにみえるブーゲンビリア、マレー語で、ブンガ(花)・クゥルタス(紙)という。マレーシアではこの花の幾つかの種類をみかけた。下の、紫から濃いピンクの色を持つものは大変一般的である。色はこれだけではなく、オレンジ色、深紅など様々な色のものが楽しめる。この国では、ハイビスカスと共に一般的な花である。
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ボトルブラシ、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ペタリンジャヤ。ビンを洗うブラシ、見事な命名である。理科の実験室にある試験管を洗うブラシを思わず連想してしまった。色を黒か白にすれば試験管ブラシそのものである。
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マレーシア国花ブンガラヤ、撮影年月:1997年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。マレーシアの国花は「ブンガラヤ」。日本ではハワイの女性が髪に挿している花、ハイビスカスと言った方がわかりやすい。園芸種も多数入ってきており、なじみぶかい花となっている。白色、真っ赤、桃色、橙色など様々な色のそして様々な形のハイビスカスが咲いている。これは、マラヤ大学構内に咲いていたブンガラヤである。
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大きなうつぼ葛(かずら)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、サバ州。キナバル山への登山はガイドを付けることが義務づけられている。大きなうつぼ葛が、登山道から少し外れたところにあるという。山岳ガイドのペーターさんの案内で脇道へ入り観察する。つぼの直径が20cmはあろうかというものもある。写真のように3種類ほどのうつぼ葛が観察できた。
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[マレーシア]旅人の木、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。一枚一枚の葉は、バナナの葉のようである。遠くから見ると巨大な扇子のように見える。旅人に木陰をつくり、休める場所を提供したことからついた名前であろうか?
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早朝、南の空に輝く南十字星、撮影年月:1997年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。南半球の夜空の代名詞のように言われ、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、サモアの国旗にも使われている「南十字星」。北半球で最南端といってもいい国マレーシアでも、6・7月には、日が暮れると、12・1月には夜明け前に、南の空に見ることができる。マレーシアは北緯1度から7度25分に位置するため、南十字星の高度はそう高くはない。また、首都クアラルンプールの町は夜でも大変明るいこと、雲が多いこと、ニセ十字星も存在することから、はっきりと認識できたのはマレーシアに住み始めてから相当経ってからだった。
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[マレーシア]時計草、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。時計草。既に園芸種として日本にも多く入ってきている。日本の冬にも耐えるようで、兵庫県内の民家にも植わっているのをよく見かける。これの実が「パッションフルーツ」である。マレーシアには、紅茶の産地となっている高原がある。そして、各種のハレーバーティーがつくられているが「パッションフルーツ」もその一つで、女性にたいへん人気があった。
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花「Yellow Allamanda」、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアのいたる所で、一年中この黄色い花を見ることができる。Yellow Allamandaと名前が付けられており、黄色の大きなベルを連想させるような花である。原産国はブラジルであり、挿し木で簡単に増やせる。
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[マレーシア]花(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。常夏の国、マレーシアでは1年中さまざまな花が咲き乱れている。そして、その花は「赤」を基調としたものが多く色鮮やかである。
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[マレーシア]花(3)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。常夏の国、マレーシアの花は赤を基調としたものが多い。左上の木は、その幹をノコギリで切って植えておけば、根が出てくるという。熱帯性ではあるが、兵庫県の県立高校でも、そのようにして植えられたものが、今は見事に根付いている。
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[マレーシア]花(4)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。一重の山吹に似た花である。「カンナ」「ひまわり」といった日本でおなじみの花も自然に咲いている。はじめは驚いたが、むしろこちらが原産か?生い茂る緑の葉の中に咲く、黄色や赤の花はたいへん鮮やかで美しい。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
雷光(1)、撮影年月:1997年10月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、セランゴール州ペタリンジャヤ。マレーシアの雷は、ダイナミックである。住んでいるコンドミニアムの15階から外を見ると雷雲が近づいてきた。落雷が始まってから終わるまで約1時間、目の前で稲光と轟音の連続である。この写真は、カメラを約1分間開放にして撮影したものである。このとき、撮影しながら日本へ国際電話をかけていたが、電話を通じて雷鳴が日本まで聞こえていた。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
雷光(2)、撮影年月:1997年10月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、セランゴール州ペタリンジャヤ。山では、稲光が横に走るというが、横に走るのは山の中だけではない。ペタリンジャヤは首都クアラルンプールのすぐ隣に位置する大きな町である。この日のペタリンジャヤの夜空は、縦横無尽に走る稲光と轟音の連続であった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
雷光(3)、撮影年月:1997年12月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、セランゴール州ペタリンジャヤ。この地において、稲光は夜空に光るものだけではない。赤道直下で四季がないと言いながらも、雨季・乾季等の季節が感じられる。雨季の午後、雷と共にスコールがやってくる。これは、午後3時ぐらいだろうかスコールの前の雷光である。強烈な光で、このように昼でもはっきりと稲妻を見ることができる。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
雷光(4)、撮影年月:1997年10月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、セランゴール州ペタリンジャヤ。このような見事な稲妻は、日本ではほとんど見られないのではないか。カメラに納められたのは幸運であったが、マレーシアでこのような雷光を見ることは珍しいものではなかった。インターネット用にパソコンにモデムを繋いでいたが、このような強烈な落雷によって、2年間のマレーシアの生活の中でモデムを2台も壊してしまった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
[マレーシア]飛びハゼ、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、マラッカ。飛びハゼ。熊本のムツゴロウもこの仲間である。兵庫県の瀬戸内海沿岸でも昔は飛びハゼが生きていたと聞くが、残念ながら自然に見たことはない。西暦2020年には先進国の仲間入りを目指すマレーシア、豊富な自然を失うことなく、そうなって欲しいものである。日本がそれを失ってしまったように、なることなく・・・。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
ゴムの木とゴムの採取、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。左はゴムの木、日本で観葉植物としてよく見る「ゴムの木」は全く別の物であり、遠くから見ると白樺を連想させる。右はゴムの樹液を採取しているところである。マレーシアではゴムのプランテーションがいたるところで行われている。木に傷を付けて、流れ出てくる樹液を小さな器で受けている。これを雨が降る前、午前中に回収していく。英国領であった時代に、ゴム農園で働く人たちとしてインドから多くの人が連れてこられた。そして、現在ではマレーシアの人口の3割がインド系マレーシア人となっている。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、スコール】スコール、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。マレーシアのスコールはすごい。ほとんどが昼過ぎから夕刻の間、1時間から3時間程度であるが、その瞬間的な雨量には驚いてしまう。雨は大変大粒で当たると痛さを感じる。道路は写真のようにすぐに小川と化してしまう。道路の両脇には雨水を流す溝(大変深くて、落ちると怪我をし、場合によっては這い上がれない広さと深さがある)はあるが、排水はとても追いつかない。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
巨大なポトスの葉と日本人小学生、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。日本でもおなじみの観葉植物のポトス。熱帯のこの地では自生しており、葉の大きさも巨大である。ある中国系のマレーシア人は、これを「お金の木」と呼んでいた。繁殖力が強く、良く育ち大きくなるところから、お金もそうなって欲しいという意味合いだろうか。クアラルンプールには大規模の日本人学校がある。小学生が着ているTシャツの「JSKL 30TH」は、30周年を迎えたジャパニーズ・スクール・オブ・クアラルンプールを記念したものである。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】カタツムリ、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。35mmの写真のフィルムケースよりは少し大きい、マラヤ大学の構内で見かけたカタツムリ。背中に抱えた貝殻の形は、日本のものとは全く異なっているので驚いてしまった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】ハウススコーピオン、撮影年月:1996年6月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、クアラルンプール。スコーピオン、サソリ、といえば刺されると命を落とすほどの猛毒を持っているというイメージがある。しかし、実際には、人命に関わるほどの猛毒を持つ種類はそう多くないとのことである。大変小さいものもおり、毒もハチと同程度でしかないものが多い。これは、建築されてから40年は経ているという大学官舎の台所に出現したハウススコーピオンである。大きさは1cm程度、毒も強くないということであったが、尾を振り上げた姿は小さいながらも迫力があった。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】毒蛇、ブラックコブラ、撮影年月:1996年11月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。ブラックコブラは、キングコブラ程ではないにしろ猛毒を持つ蛇である。首都クアラルンプールの一角にあるマレーシアで一番歴史のあるマラヤ大学は、広大なキャンパスを持ち、自然が多く残っている。これは、大学内にある官舎の庭で見かけ、スネークハンターの事務所に電話連絡をし、捕らえてもらったものである。大きさは、1.5mほどであった。その後、大学構内では、30cm程度のものからこれと同様な大きさのものを何度か見かけた。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】珊瑚礁、撮影年月:1996年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、レダン島。マレーシアにはこのような美しい珊瑚礁が多く見られる。しかしながら、このような美しい珊瑚が生息している一方で、首都から遠く離れ英語も通じない離れ小島でも一部の珊瑚が白化していたのは残念であった。私たちは、美しいものを見たいという欲求を持ち行動する。どんなに注意しても、そのことによって珊瑚礁を荒らしてしまうのも事実のようである。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】珊瑚礁の魚たち、撮影年月:1996年8月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、レダン島。マレーシアには珊瑚礁の美しいダイビングスポットやシュノーケリングを楽しめる場所が幾つもある。特に半島マレーシアの東海岸に点在する島々には美しい珊瑚礁が多い。トレガヌ州にはレダン島、プルフンティアン島、カパス島などすばらしい島が点在する。写真は、クアラ・トレンガヌから船で3時間のところに位置するレダン島でのものである。首都からこの島へ行くには、飛行機でクアラ・トレンガヌまで約1時間、バスで1時間強、船で約1時間、乗り継ぎはそう便利ではないので朝にでても着くのは夕刻である。しかしながら、この島の白い砂浜、美しい珊瑚礁や魚たちを見ていると、時間の流れが大変ゆったりしたものになる。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、動物】蝶、国蝶、ジャラブルック、撮影年月:1997年9月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、キャメロンハイランド。マレーシアの国蝶である。羽を広げるとゆうに25cmを超す大きな蝶である。ゆったりとした優雅な動きで舞い飛ぶ。マレーシアには他にも多くの蝶がおり、松本清張氏の小説「赤い絹」にも珍しい蝶が登場する。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
【マレーシアの自然、海、植物】海と椰子、撮影年月:1998年1月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア、ティオマン島。マレーシアの海は大変美しく、色も様々である。ここ、東海岸にある島、ティオマン島は紺碧の海が広がっている。西海岸パンコール島のようにエメラルドグリーンの広がる海もある。マレーシアの海岸には、ヤシの木がつきものである。ヤシも大変種類が多く、この写真のように手に届くところに実がなっているものもある。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
[マレーシア]絵文字(1)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。中国系の人による芸術の一分野である。右は「誠」、左は「福」。漢字を蝶、魚、鳥、龍、鳳凰等で表していく。蝶、魚、鳥などには、それぞれ長寿などの意味が込められているという。竹の筆を使って見事に書いていく、すばらしい技である。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
[マレーシア]絵文字(2)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「財源廣進」、蝶や鳥を配して、めでたい言葉や縁起のいい言葉が書かれている。すばらしいタッチで目の前で書いてくれる。印刷した絵はがき風のものは土産物店でたくさん売られている。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
[マレーシア]絵文字(3)、撮影年月:1997年5月、撮影者:栗岡誠司[兵庫県立加古川北高等学校]、撮影場所:マレーシア。「龍」。この文字は、筆を使わずに、掌と指先を使って書かれたものである。船が、寺院が、松が描かれており、文字ではなく水墨画という感がする。
兵庫県立加古川北高等学校 栗岡誠司
カシュガル(喀什)の売店〔1〕、撮影年月:1998年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国(カシュガル)喀什。シルクロードの中国の西端にあるカシュガル。街の中には実に様々な職業の店が並んでいる。街行く人の顔かたちは多種多様で、シルクロードの交差点という感じがする。付近には水田もあり、日本の米とほとんど変わらないおいしい米飯が食べられる。
東京都練馬区 桜井秀三
カシュガル(喀什)の売店〔2〕、撮影年月:1998年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国カシュガル(喀什)。シルクロードの中国の西端にあるカシュガル。街の中には実に様々な業種の店が並んでいる。街行く人の顔かたちは多種多様で、シルクロードの交差点という感じがする。付近には水田もあり、日本の米とほとんど変わらないおいしい米飯が食べられる。
東京都練馬区 桜井秀三
カシュガル(喀什)の街を行く人々〔1〕、撮影年月:1998年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国カシュガル(喀什)。シルクロードの中国の西端にあるカシュガル。街の中には実に様々な業種の店が並んでいる。街行く人の顔かたちは多種多様で、シルクロードの交差点という感じがする。付近には水田もあり、日本の米とほとんど変わらないおいしい米飯が食べられる。
東京都練馬区 桜井秀三
カシュガル(喀什)の街を行く人々〔2〕、撮影年月:1998年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国カシュガル(喀什)。シルクロードの中国の西端にあるカシュガル。街の中には実に様々な業種の店が並んでいる。街行く人の顔かたちは多種多様で、シルクロードの交差点という感じがする。付近には水田もあり、日本の米とほとんど変わらないおいしい米飯が食べられる。
東京都練馬区 桜井秀三
カラコルム山地とカラクリ湖〔1〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国カラクリ湖。カシュガルからパキスタンに通じる、カラコルムハイウェイとも呼ばれる中巴公路の途中3、500メートル付近に、カラクリ湖がある。眼前に広がる、5、000から7、000メートルのカラコルム山地の氷河が見事である。カラクリ湖の向こうに聳える山は、ムスターグアター山(7546m)。
東京都練馬区 桜井秀三
カラコルム山地とカラクリ湖〔2〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国カラクリ湖。カシュガルからパキスタンに通じる、カラコルムハイウェイとも呼ばれる中巴公路の途中3、500メートル付近に、カラクリ湖がある。眼前に広がる、5、000から7、000メートルのカラコルム山地の氷河が見事である。カラクリ湖の向こうに聳える山は、ムスターグアター山(7546m)。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードで出会った靴修理屋のおじさん〔1〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国シルクロード沿いの町。シルクロード沿いの町や村ではこうした靴修理の人を見かける。靴を修理して大事に履くのだろう。同じように自転車修理の人も街では多く見かける。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードで出会った靴修理屋のおじさん〔2〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国シルクロード沿いの町。シルクロード沿いの町や村ではこうした靴修理の人を見かける。靴を修理して大事に履くのだろう。同じように自転車修理の人も街では多く見かける。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードのオアシスのバザール〔1〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国トルファンからカシガルの間。トルファンからカシガルまでのシルクロードのオアシスの街には各地にバザールがあり、色鮮やかな布地などを売っている。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードのオアシスのバザール〔2〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国トルファンからカシガルの間。トルファンからカシガルまでのシルクロードのオアシスの街には各地にバザールがあり、色鮮やかな布地などを売っている。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードのオアシスのバザール〔3〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国トルファンからカシガルの間。トルファンからカシガルまでのシルクロードのオアシスの街には各地にバザールがあり、色鮮やかな布地などを売っている。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードのオアシスのバザール〔4〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国トルファンからカシガル。トルファンからカシガルまでのシルクロードのオアシスの街には各地にバザールがあり、色鮮やかな布地などを売っている。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードの少数民族の子どもたち〔1〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国アクス(阿克蘇)。シルクロードのアクス(阿克蘇)第五(民族)小学校を参観した時の、ウイグル族の子どもたち。子どもたちの衣装もカラフルで、底抜けに明るい子どもたちの笑顔が印象的だ。アクス以外のオアシスの町でも、カラフルな子どもたちに出会った。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードの少数民族の子どもたち〔2〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国アクス(阿克蘇)。シルクロードのアクス(阿克蘇)第五(民族)小学校を参観した時の、ウイグル族の子どもたち。子どもたちの衣装もカラフルで、底抜けに明るい子どもたちの笑顔が印象的だ。アクス以外のオアシスの町でも、カラフルな子どもたちに出会った。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードの少数民族の子どもたち〔3〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国アクス(阿克蘇)。シルクロードのアクス(阿克蘇)第五(民族)小学校を参観した時の、ウイグル族の子どもたち。子どもたちの衣装もカラフルで、底抜けに明るい子どもたちの笑顔が印象的だ。アクス以外のオアシスの町でも、カラフルな子どもたちに出会った。
東京都練馬区 桜井秀三
シルクロードの少数民族の子どもたち〔4〕、撮影年月:1998年8月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国アクス(阿克蘇)。シルクロードのアクス(阿克蘇)第五(民族)小学校を参観した時の、ウイグル族の子どもたち。子どもたちの衣装もカラフルで、底抜けに明るい子どもたちの笑顔が印象的だ。アクス以外のオアシスの町でも、カラフルな子どもたちに出会った。
東京都練馬区 桜井秀三
窰洞(ヤオトン)の二つのタイプ-下沈式、黄河三門峡、撮影年月:1998年4月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国黄河三門峡付近。窰洞(ヤオトン)は、黄土高原の地下住宅で、下沈式(黄土を掘り下げてそこに横に部屋を造る)と、山懸式(黄土の斜面に直接横穴を掘って造る)とがある。写真は、下沈式の例で、黄河三門峡付近のもの。山懸式は、延安でのものがある。室内は予想外に広く、結構快適らしい。
東京都練馬区 桜井秀三
窰洞(ヤオトン)の二つのタイプ-山懸式、延安、撮影年月:1998年4月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国延安。窰洞(ヤオトン)は、黄土高原の地下住宅で、下沈式(黄土を掘り下げてそこに横に部屋を造る)と、山懸式(黄土の斜面に直接横穴を掘って造る)とがある。写真は、山懸式で、延安でのものである。室内は予想外に広く、結構快適らしい。下沈式の例は、黄河三門峡付近のものがある。
東京都練馬区 桜井秀三
西安・兵馬俑、撮影年月:1998年4月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国西安。兵馬俑は1974年3月、楊志発さんが井戸掘りに来ていて偶然発見。兵馬俑は、現在1、2、3号坑が発掘途中である。兵馬俑は中空の陶製で、全部で8、000の陶俑、6、000の陶馬が埋蔵されているといわれている。陶俑の顔料の色の見事な上に、陶俑の顔の表情はすべて異なる。2200年まえの秦の時代の技術水準の高さにも驚くばかりである。
東京都練馬区 桜井秀三
西安・文物街、骨董屋、撮影年月:1999年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国西安。西安市内の目抜き通りである旧市街の大通りは、北京や上海と同様、高層化が進み、東京のデパートに似た店舗が目立ち、かつての面影はない。城壁南門近くのこの文物街は、古書、絵画や絵の具や書道関係品の店が並んでいる古都西安らしい街である。
東京都練馬区 桜井秀三
西安・文物街、骨董屋、撮影年月:1999年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国西安。西安市内の目抜き通りである旧市街の大通りは、北京や上海と同様、高層化が進み、東京のデパートに似た店舗が目立ち、かつての面影はない。城壁南門近くのこの文物街は、古書、絵画や絵の具や書道関係品の店が並んでいる古都西安らしい街である。
東京都練馬区 桜井秀三
黄土高原の段々畑〔1〕、撮影年月:1999年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国甘粛省(カンスー省)。シルクロードの天水(ティエンショイ)と蘭州(ランチョウ)の間にある黄土高原。標高2、000から3、000メートルである。麦や胡麻などが栽培され、羊などの放牧も行われている。小さな子どもも農作業に参加している姿があった。
東京都練馬区 桜井秀三
黄土高原の段々畑〔2〕、撮影年月:1999年7月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国甘粛省(カンスー省)。シルクロードの天水(ティエンショイ)と蘭州(ランチョウ)の間にある黄土高原。標高2、000から3、000メートルである。麦や胡麻などが栽培され、羊などの放牧も行われている。小さな子どもも農作業に参加している姿があった。
東京都練馬区 桜井秀三
黄河の瀑布〔1〕、撮影年月:1999年6月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国宜川近辺。バスで西安から約8時間かかる宜川近くに、黄河の瀑布がある。巨龍にたとえられる黄河の中での、小龍とも呼ばれている。瀑布はまるで、日本では洪水を思わせる泥水が滔滔と流れ、見事な滝壷を作っている。上流で植林などが行われているが、年々水量は減っているという。
東京都練馬区 桜井秀三
黄河の瀑布〔2〕、撮影年月:1999年6月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国宜川近辺。バスで西安から約8時間かかる宜川近くに、黄河の瀑布がある。巨龍にたとえられる黄河の中での、小龍とも呼ばれている。瀑布はまるで、日本では洪水を思わせる泥水が滔滔と流れ、見事な滝壷を作っている。上流で植林などが行われているが、年々水量は減っているという。
東京都練馬区 桜井秀三
黄河の瀑布〔3〕、撮影年月:1999年6月、撮影者:桜井秀三[東京都練馬区]、撮影場所:中国宜川近辺。バスで西安から約8時間かかる宜川近くに、黄河の瀑布がある。巨龍にたとえられる黄河の中での、小龍とも呼ばれている。瀑布はまるで、日本では洪水を思わせる泥水が滔滔と流れ、見事な滝壷を作っている。上流で植林などが行われているが、年々水量は減っているという。
東京都練馬区 桜井秀三
モンゴルの大草原、撮影年月:1998年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:内蒙古自治区 錫林浩特 (シリンホト)~二連浩特(エレンホト)。錫林浩特は古くから「大草原の真珠」と呼ばれてきた。二連浩特はモンゴル国との国境の町である。草原の土を盛り上げて簡単に舗装しただけの道路を車で延々7時間。地図上の直線距離は約350キロメートル。途中には塩湖がある。時々羊や牛の大群と出会う。羊や牛が道路を横切っている時はかん高いクラクションをならす。二連浩特に近い地域は放牧も禁じられているので何もない。360度何も見えない。木一本ない。草原の地平線が丸く見える。地球が丸いことを実感した。
東京都立久留米西高校 田中典子
ネパール、「ククリ」と呼ばれている刃物、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村付近。ネパールでは、「ククリ」と呼ばれている刃物です。草とか竹を刈ることから、台所で肉を切ることまで、いろいろなことに使います。大人の男子も女子も、これをお腹のところに差しています。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、カトマンズ空港での国内線の飛行機、撮影年月:2000年3月23日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国首都カトマンズ空港での国内線の飛行機。ネパールには、鉄道はありません。山奥に入るためには、バス(トラック)か飛行機しかありません。その国内線の飛行機です。このような飛行機で、1時間ぐらい行くと、標高3000メートル前後の地方空港へ行きます。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、カトマンズ空港のチェックインカウンター、撮影年月:2000年3月23日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国首都カトマンズ空港チェックインカウンター。ネパールには、鉄道はありません。山奥に入るためには、バス(トラック)か飛行機しかありません。その国内線のチェックインカウンターです。大きな計りがみえますが、荷物を計るものです。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、ラマ教のお寺、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの山岳地帯には、ラマ教のお寺が点在しています。ラマ教はチベットのラサに本山をおく密教です。生き神様であるダライ・ラマはそのラマ教の中心です。写真のように、目が四方に向かって睨みをきかせているデザインが各寺院にあります。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、台所のかまど、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの台所のかまど周辺です。ネパールの山岳地帯ではまだ電気がきていません。ガスもありません。コンロは、写真のような木の薪(まき)によるかまどです。家族が全員かまどの近くに集まり、ご飯を食べながら、その日あった事を話し合う、家族の団欒があります。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、国の花ラリーグラス(しゃくなげ)(1)、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの国の花(国花)はラリーグラス、つまりしゃくなげです。山岳地帯には、写真のように咲いています。花の全体像写真。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、山岳地帯で畑をいとなむ夫婦、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの山岳地帯で畑を営む夫婦です。畑は、山肌に所狭しと作られた段々畑です。山岳民族のシェルパ族の主食は、ダルカリというご飯とカレー味のジャガイモ。あるいは、シャンパという小麦粉をチベット茶でこねたもの。あるいは、ゆでたジャガイモにチリソースをつけて食べるなどがあります。畑で取れるジャガイモは重要なエネルギー源です。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、山岳地帯のまきを運ぶ子どもたち、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村付近。ネパールの山岳地帯では、燃料は、薪かヤクのふんを乾燥させたものです。写真の女の子はかご一杯の薪を家まで運んでいる途中です。相当な重量で、これが、毎朝、毎夕の子どもたちのお仕事です。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、山岳地帯のポーター、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールには、鉄道はありません。バスが主要都市を結んではいますが、山岳地帯の物資の運搬はすべて、写真のような人力のポーターさんのお仕事です。大人のポーターさんで50kgほどかつぎます。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、山岳地帯の酒「チャン」、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの山岳地帯には、2種類のお酒があります。発酵酒のチャンと蒸留酒のロキシーです。写真は、とうもろこしを発酵させてつくったチャンの最後の絞り出しをしているところです。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、紙を作っている様子、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールの紙は、日本の和紙のようなものです。写真は、その「紙すき」つまり、紙を作っている様子です。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
ネパール、裕福な家庭のパラボラアンテナ、撮影年月:2000年3月24日、撮影者:栗本直人[滝高等学校]、撮影場所:ネパール国ソロクーンブ州パブルー村。ネパールのテレビはすべて衛星放送です。チャンネルはネパール国営放送が1つ。あとはインドの放送局からのものです。少し、裕福な家庭には、このように、自宅の屋根に衛星放送のパラボラアンテナがあります。
愛知県 滝高等学校 栗本直人
[中国]「北京路」の車道、撮影年月:2000年5月23日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。「北京路」の車道を陸橋の上から見たところである。このようにクルマも緑のトンネルの中を走る。北京に比べると全てが実にゆったりとしている。
神奈川県 野町亘
[中国]「北京路」を走る通勤バス、撮影年月:2000年5月23日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。「北京路」を走る通勤バスである。このように小型のバスが多い。これは大変キレイな方である。
神奈川県 野町亘
[中国]「新疆ウイグル自治区博物館」の全景、撮影年月:2000年5月24日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。ウルムチ市のほぼ中央に位置する「新疆ウイグル自治区博物館」の全景である。新疆各地の遺跡から出土した考古学的文物やミイラなどが展示されている。なかでも、楼蘭遺跡で発見された「楼蘭の美女」のミイラは有名。また2000年以上も昔のものとされる絹織物は当時の色合いが十分に残っていて、古代ローマの人々を惹きつけた東洋の神秘の美しさを、今も垣間見ることができる。
神奈川県 野町亘
[中国]ウイグル族のおじさん、撮影年月:2000年5月23日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。新疆ウイグル自治区は、ウイグル族をはじめとして、回族、蒙古族などの少数民族が総人口の約4割を占める。国は少数民族保護のため、言語、宗教などの自由を大幅に認めている。また漢民族については「一人っ子政策」がとられているが、少数民族は「三人までOK」である。これはウイグル族のおじさん。中年以上はこの帽子がひとつの目印。
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[中国]ウルムチ市内の「北京路」、撮影年月:2000年5月23日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区首都ウルムチ。ウルムチ市内の「北京路」という道路である。画面右は車道、この道は歩行者専用道路である。楡の並木が大変美しい。街路樹の下が石灰で白く塗られているが、こうやっておくと、樹木の乾燥が防げるのだそうである。
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[中国]ウルムチ市内のロバの荷車、撮影年月:2000年5月24日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。ウルムチ市は高層ビルの立ち並ぶ近代的都市であるが、画面中央部に見られるようにロバがのんびりと荷車を引く牧歌的な光景に出会うこともある。やはり北京や西安とは異なり、人々の生活のテンポもゆるやかであると感じた。
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[中国]ウルムチ市商業銀行の漢語表記とウイグル語表記、撮影年月:2000年5月23日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。新疆ウイグル自治区では、このように漢語表記とウイグル語表記とが併記されている。これはどうも頼りない感じではあるが、ウルムチ市商業銀行である。
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[中国]ウルムチ市繁華街の広場での少年兵の訓練、撮影年月:2000年5月24日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。ウルムチ市繁華街の広場で見かけた光景。このような大都市の、しかも人が大勢集まるところで少年兵の訓練を行っていた。少年兵の年のころは、多分15歳ぐらい。3年間入隊して訓練を受けると、優先的に就職の斡旋を受けられる制度があるという。
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[中国]バザールの日用雑貨の売場、撮影年月:2000年5月24日、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。バザールでは、食料品ばかりではなく、このように日用雑貨も商われている。おそらく、生活必需品は全てバザールで事足りるのではないかと思われる。
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[中国]バザールの肉屋さんの店、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。バザール。肉屋さんの店先である。店員がこの帽子を被っていれば、この店ではブタ肉は絶対に扱っていない。ウイグル族はほぼ例外なく熱心なイスラム教徒であり、イスラム教ではブタを不浄なものと規定しているからである。料理では、羊肉、鶏肉が主であり、ときには牛肉も食べる。
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[中国]バザール風景、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。バザール風景。野菜の種類も大変豊富である。このような活気ある市場を見ているかぎり、全体主義国家の印象は全くない。
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[中国]揚げパンの店、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。これは揚げパンの店。ウイグル族の店主のおじさんが顔を出しているが、明らかに漢民族とは骨相が違うのがわかるであろう。
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[中国]新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ、撮影年月:2000年5月23日(火)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。新疆ウイグル自治区の首都ウルムチである。かつてはシルクロード「天山北路」要衝のオアシス都市であった。現在は人口160万を数え、石炭・天然ガスなどの地下資源にも恵まれた近代的工業都市として発展している。街を一歩出ればたちまち大砂漠であるが、街の中は緑豊かな実に美しい佇まいである。
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[中国]新疆ウイグル自治区博物館のホール、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。新疆ウイグル自治区博物館のホールのようすである。右方に集まっているのは中国国内の観光客。正面金色のモニュメントは、新疆ウイグル自治区に住む全ての民族の男女を表現したものである。少数民族が4割を占める新疆ならではのモニュメント。館内は残念ながら撮影禁止であった。
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[中国]新聞売り子、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。バザール入口で見かけた新聞売り子。声高に呼びかけてくる。この売り子もお客も漢民族と思われる。
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[中国]ウルムチ市、朝のバザール、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。ウルムチ市、朝のバザール風景である。中国ではいわゆる「自由市場」のことを「バザール」という。新疆は果物の宝庫と言われ、このように種類豊富なナッツ類の店が多い。これは干しぶどうの量り売りをしているところ。値段はきわめてやすく、日本国内の五分の一といったところであろう。この売り子もウイグル族の娘さんである。
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[中国]ウルムチ市、朝の野外レストラン、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ市。朝の野外レストラン風景である。中国ことにここ新疆では家で食事をとるということが非常に少なく、ほとんど外食で済ませる。食堂も厨房も全て青空のもと、食事の内容はごく質素なものである。
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[中国]ウルムチ市、朝の野外レストラン、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ市。朝の野外レストラン風景である。中国ことにここ新疆では家で食事をとるということが非常に少なく、ほとんど外食で済ませる。食堂も厨房も全て青空のもと、食事の内容はごく質素なものである。
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[中国]産地から運んできたアンズの実、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。産地から運んできたアンズの実を、果物店に降ろしているところである。このような荷車をロバに引かせたり、小型バイクで引いたりしてバザールまで運んでくる。
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[中国]軍事訓練の教官、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ。市繁華街の広場での少年兵の軍事訓練の教官。暗かったのでストロボで撮ったら、突然こちらを振り返って「止めろ!」と制止された。
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[中国]ハミ付近で車窓から見たゴビ砂漠、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:ハミ付近。蘭州とウルムチ、トルファンなどの新疆各地とを結ぶ鉄路を「蘭新線」という。蘭新線沿線はほとんどが砂漠である。これはハミ付近で車窓から見たゴビ砂漠の情景。一望千里、文字通り一木一草もない。
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[中国]黒ゴビと呼ばれているところ(蘭新線の車窓から)、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファンから敦煌へ。ゴビ砂漠はときに変わった表情を見せる。これは黒ゴビと呼ばれているところである。土の成分によってこのような違いが起こる。これも蘭新線の車窓風景である。
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[中国]「シシカバブ」を焼いているところ、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。これはいわゆる「シシカバブ」を焼いているところ。ウイグル族の人々に最も好まれる料理のひとつである。羊肉の間にネギなどの野菜をはさんで焼いたもので、トルコで見たものとほとんど同じである。このすぐ近くにもシシカバブの店があった。おそらく味を競い合っているのであろう。
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[中国]「日干し煉瓦」の遺跡「高昌故城」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。高昌故城は、ヨーロッパなどによく見られる石の遺跡ではなく、「日干し煉瓦」の遺跡である。したがってどうしても傷みや崩壊が目立つ。
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[中国]お土産を売るウイグル族の少女、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。観光地にはお土産屋がつきものである。これはウイグル族の少女であるが、こう見えてもいっぱしの商人である。学校があるのかどうかわからないが、とにかく一家総出ではたらいている。
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[中国、トルファン]お土産屋さん、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。お土産屋さん。写真48の少女の父親である。自転車の荷台にはお土産の小物が積んである。これから高昌故城の観光ポイントに向かうところである。
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[中国]ウイグル族の人々の主食のひとつ、ナンと呼ばれるパンを揚げているところ、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。これはウイグル族の人々の主食のひとつ、ナンと呼ばれるパンを揚げているところ。いかにも味が濃いように見えるが、意外に淡白な味わいである。それにしても非衛生的な印象であるが、そんなことを気にする人は一人もいないようだ。
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[中国]トルコ系の人たちの家の中、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。家の中に入ってみると、アッと驚く極彩色の世界。また、全くの「飛び込み」だったが実にキレイに整理されていた。このとおり絨毯は手の込んだ高級品と思われる。トルコ系の人たちは生活は質素でも、一生の財産として絨毯には大金をかけると聞いていたが、まさにそのとおりであると感じた。
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[中国]トルファンのバザールの生地を商っている店、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファンのバザールにて。このように生地を商っている店も多い。トルファンではウイグル族が総人口の約6割を占める。この店の商品も全てウイグル族好みのきわめて色彩感豊富なものである。はっきりとは見えないが、画面右下のグリーンとレッドの縞模様は、ウイグル族の女性にもっとも好まれる定番の柄とされる。
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[中国]トルファン市の中心部にあるイスラム寺院、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファン市の中心部で見かけたイスラム寺院。緑色のドーム状の天井、尖塔が目印。中国では本来ご法度の宗教も、少数民族に対してはきわめて寛容。このような小規模のイスラム寺院が街のいたるところに見られる。
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[中国]トルファン市中央部にあるバザールの野外レストラン、夕食時の情景、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン市。トルファン市中央部にあるバザールの野外レストラン、夕食時の情景である。このように家族揃って外で食事するのがふつう。雨が降ったらどうするか。その心配はない。トルファンの年間降水量は僅か16ミリ、まず雨が降ることはないと考えてよい。時刻はすでに九時半を回っているが、国内同一時間をとっている関係で、夕食にふさわしいトワイライトタイムである。
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[中国]トルファン市内のウイグル族の民家の主婦、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファン市内のウイグル族の民家を見せていただいた。外見はこのようにごく質素なものである。この家の主婦が撮影に応じてくれた。
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[中国]トルファン郊外の田舎道、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファン郊外の田舎道。トルファンは砂漠のなかのオアシス都市で、天山山脈の雪解け水を昔からの地下水道(カレーズ)によって引き入れ、果物などの栽培に使っており、意外に豊かな水の目立つ街である。この道も両側に水路が走っていて緑豊かなさわやかな佇まいである。
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[中国]トルファン郊外の遺跡、「高昌故城」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファン郊外の遺跡、「高昌故城」である。紀元前にさかのぼる歴史を持つが、よく知られているのは、7世紀、天竺へ求法の旅に出た唐の僧玄奘三蔵と高昌国王麹文泰とのエピソードであろう。天竺への途上、麹文泰の懇請を容れて玄奘は約一ヶ月ここに滞在し、経典の講義を行った。天竺での勉学を終え、宿願成った玄奘が麹文泰との約定を果たすべく、再度高昌国を訪れたところ、高昌国はすでに唐によって滅ぼされ廃墟と化していたという。
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[中国、トルファン]トルファン郊外、世界遺産の「交河故城」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファン郊外の名高い遺跡、世界遺産の「交河故城」の情景である。高昌故城が日干し煉瓦を積み上げてできているのに対し、交河故城は河岸段丘の岩盤を掘り下げて作ったものであり、その印象はかなり違う。
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[中国]パティオで催されているショウ、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。この男性の民族衣装、踊りは、いわゆる「ダッタン人の踊り」あるいは「コサックの踊り」を思わせる。伴奏も踊りも中国的色彩はまったくなく、明らかに中央アジアのそれであると感じた。
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[中国]パティオのショウ「ウイグル族の歌と踊りの夕べ」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。ホテルのパティオで毎晩のように催されているショウ「ウイグル族の歌と踊りの夕べ」の一場面。ブドウの収穫を祝う踊りである。女性、男性ともになかなか美しい民族衣装を着けて踊る。伴奏の楽器は中国の二胡に似た弦楽器、中央アジア系と思われる弦楽器、管楽器、明らかにトルコ系の打楽器、そして東欧系の打楽器ツインバロンなど、大変国際色豊かなもの。
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[中国]ブドウ棚のトンネルとなっているトルファンの中心部にある「青年路」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。トルファンは、ブドウ、ハミ瓜などをはじめとする果物の名産地である。これは街の中心部にある「青年路」という道であるが、ブドウ棚のトンネルとなっていてトルファンを象徴する美しい街路である。5月末、すでにブドウは小さい実をいっぱいにつけていた。
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[中国]ベッドが置かれているパティオ(中庭)、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。写真65のアングルからカメラを左に振っていくとパティオ(中庭)が見えてくる。このパティオを取り囲む全ての家が、一族縁者のものだという。ここにベッドが置かれているが、この季節になると、全員外で寝るのだそうである。
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[中国]交河故城、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。交河故城は2000年におよぶ歴史を持つ。かつてはシルクロードの要衝都市として栄えたが、東方の漢、北方の匈奴の二大軍事大国の狭間にあって、終始綱渡り的なむずかしい外交を余儀なくされ、5世紀の半ば、ついに滅び去ったという悲劇の小国である。往時の繁栄ぶりを偲ばせる光景である。
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[中国]交河故城建造物の遺構、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。かなり大規模な建造物の遺構であるが、どのような目的に使われたかははっきりしていないという。保存状態はきわめてよい方である。
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撮影年月:2000年5月24日、撮影場所:トルファン。交河故城遺跡の中で最も有名な仏教寺院(「大仏寺」という名称もわかっている)の遺構である。数々の遺構の中でひときわ威容を誇る。壁面上方に見える穴は、二階部分を支える梁を通した跡とされる。中央に見える階段はオリジナルである。
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[中国]交河故城、残存する城壁の一部、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。これは残存する城壁の一部である。このように部分的に日干し煉瓦も使われている。
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[中国]収穫したブドウを収納し、乾燥させるための小屋、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。これは干しブドウをつくるため、収穫したブドウを収納し、乾燥させるための小屋である。トルファン郊外にはこのような小屋が無数に見られる。雨の心配がないので、このようなきわめて単純なつくりで事足りる。
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[中国、トルファン]天山山脈、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。彼方に見えるのは、天山山脈。いずれも5000メートル級の峰々である。この天山山脈の万年雪が、トルファン盆地に豊かな水をもたらしている。
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[中国]寺院外壁の遺構、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。これは寺院外壁の遺構。かつてはひとつひとつに仏像が置かれていたが、探検家などによってことごとく持ち去られてしまったという。僅かに光背を描いた跡などが残っている。
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[中国]床屋、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。俄かには信じがたいが、これが床屋である。このあと何度か見る機会があったが、大同小異であった。虚飾をいっさい排し、実質をとるという国民性を示すものであろうか。
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[中国]故城から谷間を見下ろしたところ、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。交河故城は、名のとおり合流する二河によってできた河岸段丘上につくられている。段丘の高さは約30メートルで、天然の要害となっている。これは故城からその谷間を見下ろしたところ。砂色一色の故城と緑濃い谷間とが鮮やかな対比を見せる。
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[中国]新疆ウイグル自治区のイスラム寺院「蘇公塔」、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。新疆ウイグル自治区で有数の規模を誇るイスラム寺院「蘇公塔」。18世紀、当時のトルファン王スレイマンによって建造された。簡素な姿であるが、尖塔の幾何学的模様は大変複雑かつ美しい。無論現役の寺院であるが、祈りの間などは、トルコのイスラム寺院に比べると質素そのものである。
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[中国]昔懐かしい足踏みミシン、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。写真67の居間の手前は土間のようになっていて、昔懐かしい足踏みミシンが置いてあった。
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[中国]火焔山の観光ポイント、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。火焔山の観光ポイント。ラクダに乗って火焔山に登ろうというお客を待っている。火焔山周辺では地下資源の調査がおこなわれていて、画面中央部に試掘の櫓(やぐら)なども見えている。
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[中国]玄奘三蔵が講義を行ったとされる場所、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。後方に見えるドームの建物は、玄奘三蔵が講義を行ったとされる場所である。このように丁寧に修復され、往事を偲ぶことができるようになっている。ここでは、ラクダが観光に一役買っている。
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[中国]真昼のトルファン市内、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。真昼のトルファン市内。大変な暑さである。自転車で下校する生徒たち。トルファンでは気温が40℃を超えると、官庁や学校が休みになる。年中休みでは困るので、40℃以上になることが確実なときでも、予報は「38℃」なのだそうである。
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[中国]蘇公塔周辺のブドウ畑、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。蘇公塔周辺のブドウ畑のようす。樹木ではポプラが圧倒的に多い。ブドウ棚とポプラ、これが典型的なトルファン盆地の景観であろう。
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[中国]蘇公塔最上階のテラスからの眺め、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。蘇公塔最上階のテラスからの眺め。この窓の形態はイスラム寺院特有のものである。寺院の周りは全てブドウ畑。緑豊かなオアシスの眺望である。
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[中国]西遊記の舞台、火焔山、撮影年月:2000年5月24日(水)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:トルファン。西遊記、孫悟空が芭蕉扇を三たびふるって火焔魔王を退け、三蔵法師を守った大舞台、火焔山である。なるほど物語にふさわしい山容である。この日の気温は40℃ぐらいだったが、真夏には50℃以上となり、山から吹きつけてくる風はまさに火焔のようだという。
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[中国]人民大会堂、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。人民大会堂である。やはり天安門広場に面して建つ。日本の国会議事堂に相当。
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[中国]人民英雄記念碑、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。人民英雄記念碑。天安門広場の中央付近、天安門に面して建つ。革命に尽くした戦士の功績をたたえるもの。高さ約40メートルの巨大なものである。左右に赤旗(あるいは国旗?)を捧げて立っているのは、中学生ぐらいかと見える少年少女である。
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[中国]北京の玄関口北京駅、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京駅。北京の玄関口北京駅である。堂々たる威容をほこる。かつては全国から職を求めてやってきた人々が常に駅頭にあふれて異様な情景だったが、いまはそのようなことはなくなったとのこと。
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[中国]北京市内のトロリーバス、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市街。北京市内を走るトロリーバス。二両連結というのが珍しい。いまもって市民の重要な「足」となっている。
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[中国]北京市内の交通戦争、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市街。北京市内の交通戦争。自転車、小型バイクそしてクルマが、同じ車道を一斉に走る。ときには歩行者も悠然と歩く。これで意外に事故の発生率は少ないという。この状態ではクルマがあまりスピードを出せないからかもしれない。
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[中国]北京市内の高速道路のゲート、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市内。北京市内の高速道路のゲート。お国ぶりを表す異様に豪華なデコレーション。
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[中国]北京市天安門広場の朝8時の情景、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。北京市天安門広場、朝8時の情景である。すでにかなりの数の観光客がつめかけている。この広場の総面積は44万平方メートル、50万人の集会が可能という規模であるが、ぎっしりつめれば100万人でも大丈夫という。
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[中国]天安門、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門。天安門の周辺は季節の花やみごとな芝生などで実に美しく飾られている。やはりこの情景には赤旗がよく似合うようである。
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[中国]天安門の拡大図、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門。近づいて見た天安門である。画面下の人物と見比べるとその大きさがわかる。毛主席肖像画の上の回廊が、国慶節などに中華人民共和国首脳が居並ぶ雛壇となる。
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[中国]天安門広場のゴミ箱、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。天安門広場で見かけたゴミ箱。ビン、カンなどの「可回収物」とそれ以外を分別回収している。しかし、これ以降9日間中国国内を旅したが、このような分別回収が行われているようすは見かけなかった。この広場がいわば中国の「顔」であることを考慮しての措置なのであろうか。
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[中国]天安門広場の毛主席記念堂、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。天安門広場に面して毛主席記念堂があり、毛主席の遺体が水晶の棺に安置されているという。入場してみたかったが、このような大変な入場者の列を見て断念。赤い帽子を被っているのは中国国内の観光客。
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[中国]天安門広場周辺の北京市の官庁、ビジネス街、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。天安門広場の周辺は北京市の官庁、ビジネス街。意外なことにこのようなロシア風の建築物が目立つ。これはかつてロシアが建てたもので、現在は中国の銀行が使っている。
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[中国]天安門広場警備の兵士、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。天安門広場警備の兵士。エリートとのことである。約50メートル間隔で立っている。
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[中国]故宮の「太和殿」、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市故宮。正面の建物が現存する中国最大の木造建築物「太和殿」である。皇帝の即位の式典や遠征の出師の儀式などが行われたところである。この太和殿と広大な広場は映画「ラストエンペラー」の舞台として一躍世界に知られるところとなった。
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[中国]故宮の「太和門」、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市故宮。故宮は、明・清時代の皇帝の居城であり、紫禁城とも呼ばれた。故宮の入口の門を「午門」というが、これは午門を通り抜けたところの情景である。正面の門は「太和門」といい、この門を通っていよいよ紫禁城に入場することになる。
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[中国]故宮中の建物、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市故宮。故宮は巨大である。名高い太和殿、中和殿、保和殿の三殿をはじめとして、無数の建物が延々と連なる。まさに「甍の波」という表現がふさわしい。
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[中国]毛主席記念堂前のモニュメント、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市天安門広場。毛主席記念堂の前に建つモニュメントである。兵士、さまざまな職種の労働者など「戦う民衆」の姿が表現されている。いかにも共産主義国家らしいモニュメントである。
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[中国]衛兵の訓練(1)、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市故宮。天安門の下の地下道をくぐりぬけるとそこが故宮の入口となっている。故宮に入ったすぐのところでこのような情景に出会った。いわゆる「衛兵の交代」かと思ったらそれだけではなく、突撃の訓練なども行っていた。
神奈川県 野町亘
[中国]衛兵の訓練(2)、撮影年月:2000年5月22日(月)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:北京市故宮。天安門の下の地下道をくぐりぬけるとそこが故宮の入口となっている。故宮に入ったすぐのところでこのような情景に出会った。いわゆる「衛兵の交代」かと思ったらそれだけではなく、突撃の訓練なども行っていた。
神奈川県 野町亘
[中国]敦煌、「陽関」へ向かう途中の情景、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。敦煌の観光名所のひとつ、「陽関」へ向かう途中の情景である。遠方の砂山は鳴沙山である。画面中央に小オアシスが見えている。敦煌付近の砂漠はこのような小規模なオアシスが意外に多いと感じた。
神奈川県 野町亘
[中国]バザールの中でゲームをしている情景、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。バザールの中で見かけた情景。日本の将棋に相当するゲームであろうか。カメラを構えても全く気づかず、ゲームに没頭していた。多分店の人たちの息抜きのひと時なのであろう。
神奈川県 野町亘
[中国]奇跡の泉「月牙泉」、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌、月牙泉。画面右奥に囲いをした池が見えているが、これが月牙泉である。周囲僅か数百メートルの小さな池であるが、この砂漠の中にあって3000年来一度も水が枯れたことのない奇跡の泉として有名である。水はきれいに澄んでいて、池の周りにはさまざまな植物が生い茂っている。鳴沙山を神山、月牙泉を神泉とする伝説が多く残っているのもうなずける。
神奈川県 野町亘
[中国]展望台付近から見たタクラマカン砂漠の光景、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。写真87の展望台付近から見たタクラマカン砂漠の光景である。シルクロードの隊商は、この丘を下り、最大の難所とも言われるタクラマカン砂漠に挑んだ。一望千里、「無」の空間が広がる。王維は、かの名高い別離の詩を「西の方、陽関を出ずれば故人無からん」と結んだが、その心境が惻々と胸を打つ情景である。
神奈川県 野町亘
[中国]敦煌の有名な景勝地「鳴沙山」、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌、鳴沙山。敦煌の有名な景勝地「鳴沙山」の情景である。鳴沙山は敦煌市の南方にあり、東西約40キロに及ぶ大砂丘で、高さは数十メートル。砂と風と陽光とが作り出す芸術品である。昼と夜とで風向が逆になるなどの特有の条件があり、山容の変化はほとんどないという。
神奈川県 野町亘
[中国]敦煌市のバザール風景、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。敦煌市のバザール風景。ウルムチやトルファンのバザールでは、売り手買い手ともにウイグル族などの少数民族が目立ったが、ここでは明らかに漢民族が多い。しかし、虚飾をいっさい排した実質本位のものであることは全く同じ。ベッドが商品の陳列棚である。
神奈川県 野町亘
[中国]敦煌市バザールの手芸の材料店、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。バザールでは、このような手芸の材料店も多い。原色に近い派手な色が多いことが特徴である。
神奈川県 野町亘
[中国]敦煌最大の名所、莫高窟の入口、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。敦煌最大の観光名所莫高窟の入口である。この門を入って200メートルほど行ったところにもうひとつのゲートがあるが、窟内撮影禁止のためここでカメラ、ビデオなどを預け、懐中電灯を持って窟内に入ることになる。
神奈川県 野町亘
[中国]漢・唐時代の最前線、陽関の烽火台、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。漢・唐時代の最前線陽関の耳目であった烽火台である。異民族の支配する「西域」の動静をいちはやくキャッチするのがその使命であった。タクラマカン砂漠を一望できる丘の上にあり、他の烽火台に比べると一段と大規模なものである。
神奈川県 野町亘
[中国]漢時代の長城跡、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌、柳園駅。柳園駅から敦煌市内まではバスで約2時間かかる。そのほとんどが砂漠の中の走行である。これはその途中で見かけた漢時代の長城跡である。僅かに痕跡をとどめる程度のものであるが、途切れ途切れながら数百キロにわたって続いているという。
神奈川県 野町亘
[中国]莫高窟のシンボル、9層の大楼閣、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。莫高窟のシンボル9層の大楼閣は、高さ35メートルにおよぶ大仏を収めた第96窟の入口となっている。しかし、この大仏は(個人的感想では)他の窟の仏教美術に比べれば、巨大なだけであって、さしたる感銘を与えるものではない。東大寺大仏の方が威厳、品位ともにはるかに上であると感じた。
神奈川県 野町亘
[中国]莫高窟の大楼閣を横から見たところ、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。莫高窟のシンボル9層の大楼閣を横から見たところである。この砂色一色の断崖の中に無数の窟が穿たれ、想像を絶する量・質の仏教美術の数々が収められている。元時代には、大量の砂に埋もれ、全く忘れ去られた存在であったが、今世紀初頭、全くの偶然から第16窟の経蔵が発見され、その後の発掘で一躍世界の耳目を集めることとなった。
神奈川県 野町亘
[中国]蘭新線を走る寝台特急列車、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌、柳園駅。蘭新線を走る寝台特急列車。敦煌の最寄駅「柳園駅」に到着したところである。外国人は必ず「軟臥車(一等寝台)」に乗ることになっている。広軌なので揺れが少なく、乗り心地は悪くないが、内部の設備はお世辞にもよいとは言えない。
神奈川県 野町亘
[中国]陽関への途中の情景、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。やはり陽関への途中の情景である。敦煌は漢・唐時代を通して漢民族の勢力範囲の最西端にあたり、ここからの西域への関所として陽関と玉門関の二つが設けられていた。陽関とは「南の関所」を意味し、玉門関は陽関の約80キロの北方に位置している。これはおそらく陽関と玉門関との情報交換を使命とした烽火台のひとつであろう。烽火台はひとつひとつが駐屯地であり、左方に見えているのがそれを支えたオアシスであると思われる。
神奈川県 野町亘
[中国]陽関跡に近年設けられた展望台、撮影年月:2000年5月26日(金)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌。陽関跡に近年設けられた展望台である。この右手に写真86の烽火台がある。左手に見えている平原がタクラマカン砂漠の東端にあたる。
神奈川県 野町亘
[中国]鳴沙山でラクダが大活躍、撮影年月:2000年5月25日(木)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:敦煌、鳴沙山。鳴沙山の観光では、ラクダが大活躍。この0.5キロほど奥に月牙泉というもうひとつの景勝地があるが、ほとんどの観光客はこのラクダを利用する。往復30元、約400円である。
神奈川県 野町亘
[中国、甘粛省]村の子どもたち、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省白銀市景泰県陳梁村、朝、村はずれで出会った子どもたち。中国のどこでも見かける、飾り気がない素朴な村の子どもたち。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国、甘粛省]村の様子:村の家々(2枚組)、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省白銀市景泰県陳梁村。村の家々を遠望すると、まるで遺跡のようにみえるが、現代も人々が生活している村である。非常に乾燥しているので水分はほとんどないような感じである。 広場があるが、この広場は、麦などの脱穀の時に使われているのだろう。乾燥しているせいか夏でも蚊がいなかった。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国、甘粛省]村の風景:家屋の様子(2枚組)、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井 秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省白銀市景泰県陳梁村。村の朝。朝日と共に、土塀が紅く染まり、まるで遺跡のような色合いである。この村はどの家も土塀で囲まれている。外から見ると土でできているようにみえるが、内側は、南に面して門があり、中庭を囲んでコの字型に家屋が配置されている。家の中は高い床で中国でみる一般的な様式である。蘭州から白銀市にかけて多い様式である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国、甘粛省]農村の畑、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省白銀市景泰県。蘭州の北約200キロ付近。灌漑用水を黄河から20キロ以上もパイプラインで引いてきて畑作灌漑をしている。用水路と畑の周囲にはポプラに似た木々が植えてある。畑作は、小麦が中心であるが、この時期は、ヒマワリ、ゴマ、トウモロコシ、苗木などが栽培されていた。乾くとカチカチに堅くなる赤土の土地を切り開いた農民の苦労が偲ばれる。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国、甘粛省]農村:村への道、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省白銀市景泰県。この付近の幹線道路である。両側は、北海道を思わせる並木の街路樹があり、その後方に畑が広がっている。一見、北海道のような風景だが、土地は水利がよくないので、きびしい条件での畑作である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国、甘粛省]麦秋の農村-脱穀風景-(3枚組)、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井 秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘粛省蘭州市の郊外。蘭州から西寧に向かう途中の花庄付近の小麦の脱穀風景。小麦の脱穀は、広場のない村では車の通る道路に穂の着いたままの小麦を敷いておき、通過する自動車のタイヤによる「脱穀」をしているのをよく見かけるが、ここでは農作業用広場があり、この広場で脱穀していた。刈り入れた小麦を、まず三輪トラクターのタイヤで脱穀し、それを天空に投げ上げ、自然の風を利用して選穀して、モミを選抜している。小麦地帯の農村でよく見かける風景である。
東京都練馬区 桜井秀三
撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。西安市では、観光客を対象にして、唐時代の「長安城入城式」を再現したイベントを行っている。入城者の誰何(すいか)が終わり、城門が開かれると、祝い酒を持った歓迎陣が場内から出迎えにくる、という趣向である。
神奈川県 野町亘
撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。西安市では、観光客を対象にして、唐時代の「長安城入城式」を再現したイベントを行っている。入城者の誰何(すいか)が終わり、城門が開かれると、祝い酒を持った歓迎陣が場内から出迎えにくる、という趣向である。
神奈川県 野町亘
撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。この写真からわかるように、大雁塔は僅かに左に傾いている。これは昔の地震のためである。折から土曜日で、中国国内の観光客で大入りの盛況であった。
神奈川県 野町亘
撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。これも西安のシンボルのひとつとして名高い「大雁塔」である。市内南方の慈恩寺の境内に建つ高さ64メートルの塔。玄奘三蔵が唐の国禁を顧みず天竺へ赴き、持ち帰った657部の経典はこの寺で翻訳された。大雁塔はこの経典を収めるために、玄奘みずから願いを申し出て建造したものである。
神奈川県 野町亘
[中国]西安の街なか、バスの中から見た雑踏の情景、撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。西安の街なか、バスの中から見た雑踏の情景である。交通ルールなどあってなきが如し、の状況である。終始クラクションが鳴り響き、喧騒この上もない。市内には唐・明時代の建造物が多く、それなりに古都の様相を備えてはいるが、どうも「唐の都、花におう長安」のイメージには程遠いものを感じた。
神奈川県 野町亘
撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。西安市には、明時代に建造された城壁があり、この城壁で囲まれた部分が街の中心となっている。この建物は「鐘楼」と呼ばれるもので、城壁内の中心部にあり、やはり明時代の建造。西安のシンボルのひとつである。この近くに「鼓楼」も現存しており、長安の人々は鐘楼の鐘の音で暁の時を知り、鼓楼の太鼓の音で黄昏の時を知ったという。
神奈川県 野町亘
[中国、西安]西安市城壁上からの小公園の眺め、撮影年月:2000年5月27日(土)、撮影者:野町亘[神奈川県]、撮影場所:西安。西安市城壁上からの小公園の眺めである。西安は総じて喧騒の大都会という印象を受けたが、この一角は古都長安を思わせる、落ちついた佇まいを見せていた。
神奈川県 野町亘
[中国]チベット族のゲル(帳房)、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)。このテントは、チベット語ではゲル、中国語では帳房(ジャンファン)という。黒いのはヤクの毛織物である。ロープもヤクの毛製品である。手前はヤクの糞の燃料である。このテント(ゲル)で夏の6月から9月まで暮らす。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]チベット族の舞踏、青海湖畔で、撮影年月:1999年6月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。夕食後チベット族舞踏が屋外で、かがり火をバックにして上演された(20元・約300円)。単純な踊りだがなかなかの迫力ある踊りで、シルクロードのウイグル族の舞踊と比べまたちがった雰囲気の踊りである。気温は10度前後だったが、さすが3200mだけあって、それよりも寒く感じ、かがり火が暖房に見えた。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]チベット族の食事、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。〔ザンバ〕(ハダカムギを炒って粉にしたもの)をヤク乳のバター(酥油)とチーズで混ぜて食べる。とはこれらの総称でもある。テーブルがカラフルなのが面白い。テント内の草原に絨毯を敷いて座って食べる。夜はその絨毯を敷いてそこに寝る。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]チベット族・真夏の服装、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。青海湖からチベット方面に行く214号線の青蔵高原で出会ったチベット族の女性。4000mを超える高度なので真夏でもこのような厚着である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]長城の姿、撮影年月:1999年7月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、北京。北京・慕田峪(ぼでんよく)長城(特徴は静か)、北京・司馬台長城(特徴は昔のままの遺跡が多い)。古いのが司馬台長城。慕田峪長城は最近観光客が行きはじめたばかりであまり知られていない。司馬台長城は、最も新しく開発された観光地である。まだ、旅行ガイドブックにもあまり紹介されていない。
中国からの留学生 張国強
三峡の朝日〔1〕、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:三峡を下る船から。ゆったり流れる長江。昇る朝日。
東京都立久留米西高校 田中典子
三峡の朝日〔2〕、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:三峡を下る船から。ゆったり流れる長江。昇る朝日。
東京都立久留米西高校 田中典子
[中国]上海南京大通りの夜、撮影年月:1999年2月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、上海。上海の繁華街南京路(南京大通り)は中国の有名な商業と金融の街である。デパートや商店が建ち並び、いつも買い物客でにぎわう。夜景も綺麗、旧上海では不夜城とも呼ばれている。
中国からの留学生 張国強
[中国]円明園(長春園の蓮の花)、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、北京市。円明園は、1709年雍正帝が康熙帝より譲り受けた廃園に庭園を造営したものである。その後、乾隆帝が長春園と綺春園(現在万春園)を増営した。1860年10月のアロー戦争(第二次アヘン戦争)の時、英・仏連合軍は大略奪をし、さらにそれを隠すためにイギリス全権エルギンは放火を命じた。火は3日間燃え続け、北京城全体にうす暗い煙がたれこめたという。このようにして、当時世界最大の美術館・博物館・図書館であったこの名園は廃墟と化した。今は「円明園遺跡公園」として美しく整備され、市民の憩いの場となっている。これは長春園の、延々と続く蓮の花である。
東京都 T.N
[中国]円明園(長春園の西洋楼)、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、北京市。347万平方メートルの園内は入園してしばらく行くと長春園の見事な蓮の花が延々と続くが、その広大さにいくらか疲れ始めた先に西洋楼はある。そしてそこにはまた、破壊された見事な建物の跡が延々とあった。写真で想像していたよりももっと大規模で、もっと徹底的なものだった。破壊の跡をそのまま留め、中国の愛国主義教育の場となっている。今年(2000年)、この時略奪されたブロンズの猿が香港でオークションにかけられて、億の値段で落札されたという。
東京都 T.N
[中国]南京長江大橋、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。長江にかかる南京大橋は、1960年代に8年かけて完成した。上を自動車道、下を鉄道が通っている。自動車道は、幅19.5m、長さ4589m、鉄道は、幅14m、長さ6772mである。かっては渡橋時間は車で2分といわれていたが、現在は高度成長を象徴して通行車両が多すぎて、渋滞気味である。もう一つ大橋をかける計画がある。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]南窟・中山陵、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。「革命の父」ともいわれる孫文は1925年に59歳で逝去。墓は1929年に完成。地下5mのところに葬られている。中山陵といわれ、階段は392段、150mであるが、下からみると一段一段みえるが、上からみると平らなところしかみえない。いつ行っても中国人参観者で賑わっている。
東京都練馬区 桜井秀三
大学の立て看板、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:武漢。昔懐かしい立て看板が武漢で見られたが、これは大学などの学生募集であろうか。北京では、コンピューター教室のビラが通りで配られていた。
東京都立久留米西高校 田中典子
[中国]大学入試の試験場の外で待っている親たち、撮影年月:1999年7月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、北京市の中学校前の道路。毎年7月7~9日は大学入試の日である。今の家庭はほとんど一人っ子で、親は大変苦労している。学歴社会だから、わが子をいい大学に入れるように中学一年から努力する。大学入試の日、都市部では親がタクシーを拾って子どもを試験場に送り出す。入試期間中は、たとえ低い給料でも無理をして、子どもをホテルに泊まらせる。ホテルも受験生を持つ親に向けて、広告を出し勧誘する。親は、休暇を取って試験場の外でいらいらしてわが子の終わるのを待つ。
中国からの留学生 張国強
[中国]扇舞、太極拳、ダンス、秧歌舞、撮影年月:1999年5月、7月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、北京、黒龍江省ハルピン。市民の生活は豊かになり、余暇を楽しむ人が増えている。夏の朝、公園や街頭でこのような風景はよく見られる。日本人には、朝からダンスをするのはおかしいと思われるだろう。
中国からの留学生 張国強
揚子江と嘉陵江、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:重慶・枇杷山公園から。揚子江と嘉陵江は重慶で合流する。左側が嘉陵江。
東京都立久留米西高校 田中典子
揚子江の氾濫、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:重慶・枇杷山公園。古くは渝(ゆ)州と呼ばれた重慶のほぼ中心にある枇杷山公園は、市街が見下ろせる小高い丘になっているが、その丘にこのプレートがある。すると眼下の重慶の街はすべて水につかったのだろうか。なんということだ。
東京都立久留米西高校 田中典子
揚子江の流れ、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:揚子江中流(船から)。中国人は長江と呼んでいるこの大河は、ダムによって水位が上がり、付近の街や多くの遺跡が水没してしまうという。両岸の岸壁にダムが完成した時の水位が記されていたが、その時はどんな流れになるのだろうか。翌1998年の大水害は、ダムが完成されていたら防げたのだろうか。
東京都立久留米西高校 田中典子
[中国]揚州の鑑真和人の記念碑、撮影年月:1997年、撮影者:張国強、撮影場所:江蘇省・揚州(ヤンチョウ)市。鑑真和尚の記念碑。大明寺の境内にあり、’73年に鑑真和上1200回忌を記念しつくられた。
中国からの留学生 張国強
[中国]書店で絵本を見ている子どもたち、撮影年月:1999年4月、撮影者:張国強、撮影場所:山東省・済南市「新華書店」内。今の子どもは、マンガが大好きだ。都市部ではいろいろな形態の書店を見かけるが、この写真のように子どもたちの第二の教室で、本を楽しく読む場所になっている所もある。
中国からの留学生 張国強
[中国]杭州・西湖とその湖畔で、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。「天に楽園あり、地に蘇州・杭州あり(上有天堂、下有蘇杭)」といわれる美しい風景の代表の杭州の西湖。四季折々の西湖は、人為と自然が調和した美しい風景を醸し出している。その湖畔の街頭での早朝の光景。包子を作っているところである。中国では、朝食はどちらかというと軽食で、出勤途中に外食ですませる人が多い。多分この包子を食べて多くの人が出勤するのだろう。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]甘南・桑科草原の油菜花畑、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。夏河から約1時間くらいで、甘粛省と青海省の省境に近い海抜3400メートルの桑科草原に着く。この草原への途中に一面の菜の花、中国語では油菜花という通り食用油の原料の畑が延々と続いている。海抜は高いが水利に恵まれ、見事な油菜花が栽培されている。7月上旬、草原のヤクなどの放牧地の高山植物と菜の花畑が両方みられる桑科草原。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]桑科草原の観光村、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。3400mの桑科草原には観光客用のテント村がある。白いテントである。「公路山荘」という名のテント村。ミニバイクは客を送迎するもの。テント村の手前はヤクの放牧地。テント村を行くチベット族の女性。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]桑科草原を行く自転車の人、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。3400mの草原でも遊牧民以外は自転車が人々の脚である。もちろん遊牧民は馬やヤクが運搬、移動の役をこなしている。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]油菜花畑と遊牧民の集落、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。菜の花畑の向こうに見えるのが、冬の期間チベット族の遊牧民が住む家屋である。6月から9月までゲル(帳房)と呼ばれるテントで暮らしながら放牧生活し、それ以外はこの家屋で過ごす。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]泰山、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、山東省、泰安市北部。中国五岳のひとつで東岳ともいわれる。封禅の祭り(天子が即位後、天地を祭る儀式)が行われていた。それは皇帝の権力を示すための一世一代のものでもあった。司馬遷の父司馬談は、大史令であるにもかかわらず武帝の封禅の祭りに参加を許されず、無念さの中に死んでいった。仰ぎ尊ばれるもののたとえの「泰斗」とは泰山と北斗星である。また「泰安」とは泰山の動かないように安らかなことという意味である。「泰山鴻毛」の「泰山」は重いもののたとえである。それほど高くはないが、なるほどどっしりとした山である。
東京都 T.N
[中国]泰山 丈人峰 日観峰、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、山東省、泰安市北部。何れも山頂付近のものである。日観峰は、玉皇頂とともに、ここから見る日の出がもっともすばらしいといわれている。
東京都 T.N
[中国]泰山 唐摩崖石刻、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、山東省、泰安市北部。中国人は今でも一生に一度はこの山に登りたいと思っているそうである。古来文人墨客はここに遊び、詩を賦し言を留めた。右端のもの(紀泰山銘)は、唐の玄宗皇帝が開元13年(725年)に泰山に封じた時、自ら書き、翌年大観峰の崖壁上に刻されたもの。1000字余ある。
東京都 T.N
[中国]泰山 岱廟 泰刻石、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、山東省、泰安市北部。岱廟は歴代皇帝が封禅の儀式を行った場所である。泰山刻石とは、秦の始皇帝がその二十八年(紀元前219年)に東巡して建てた頌徳碑のことである。二世が李斯に書かせて追刻した。これは李斯の書である。元々泰山山頂の玉女池の傍らに立っていた。元は220字あったが、宋代は146字になり、現在は「斯臣去疾昧死臣請矣臣」の10字のみが残っているだけで、ガラスケースで保護されている。書道で小篆書の手本とされている。
東京都 T.N
[中国]泰山 碧霞祠 道士、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、山東省、泰安市北部。ここには泰山の女神である「碧霞元君」が祭られている。青い服の人物は修行をしている道士であるという。
東京都 T.N
洞庭湖(トンティン湖)、撮影年月:1997年8月、撮影者:田中典子[東京都立久留米西高校]、撮影場所:湖南省・岳陽楼。洞庭湖は中国第二の淡水湖である。ガイドが「1990年の洪水で10万人が死にました」と説明。その数字に目をむいてしまったが、考えてみれば、春秋戦国時代には雲夢沢(うんぼうたく)と呼ばれた大湖沼群で、その後、人間の手が加えられて今の湖となったというのだから、あたり一面が水浸しになることもあるのかもしれない。「呉楚東南にさけ乾坤日夜浮かぶ」(杜甫・岳陽楼に登る)という雄大な景色が眼前に広がっていた。
東京都立久留米西高校 田中典子
[中国]無錫・太湖の泥人形工場、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。無錫の泥人形工場の歴史は古く400年以上前から行われている。恵山の土が人形つくりに適しているという。手作り人形と型にはめてつくる石膏人形とがあるが、写真は手作り人形の製作の途中である。製作者は女性が圧倒的に多い。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]環境を守ろうと呼びかけている小学生、撮影年月:1999年7月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、黒龍江省・哈爾濱(ハルビン)市。環境教育は、学校教育の内容の一つである。小学生たちは、自分のかいた絵や作文で道行く市民に「環境を守ろう」とPRしている。
中国からの留学生 張国強
[中国]甘南・夏河の街、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、甘南。夏河は蘭州の西南260キロの甘南チベット族自治州にあり、海抜2900メートルである。ラマ教の六大寺院の一つラプラン(拉卜楞)寺があり、紫色の袈裟を着たラマ僧たちを街頭で多く見かける。中国の各地の街で見かける路上の日常雑貨用品の店である。街中で雑貨用品の店舗はほとんど見かけない。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]紹興・紹興酒の工場、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。紹興は、紹興酒の原産地である。市の郊外にはいくつかの工場がある。観光客用の紹興酒の大小の壷の装飾をしているところ。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘇州・製糸工場、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。蘇州は古くからシルクと関係の深い町でもある。観光用のシルクの売店の中に製糸工場がある。日本の製糸工業華やかなりし頃の「女工哀史」からは想像ができない清潔で衛生的な製糸工場である。同じような製糸工場は隣の無錫にもある。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘇州:運河の風景、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。中国でも有数の観光地である蘇州は外国人はもちろん中国人にも人気がある。「水の蘇州」といわれるだけあって、街の至る所に大小の運河が通じている。その運河を大小の船が行き来する。大動脈の京杭運河に通じる運河は大小の船舶の通行は一日中間断なくつづいている。典型的な江南の風景である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘭州の大水車、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、蘭州。黄河沿岸の大水車。これは現在一つだけある観光用水車である。蘭州が金城と呼ばれた時代の様子が描かれている。沿岸に黄河の水を利用して水車がある(甘粛省博物館で)。水車は、小規模だが、自然の流水をそのまま利用し、しかも公害も発生しない、再生可能なエネルギー源で、環境にもやさしいもので、もっと見なおすべきものだった。現在は観光用のものである。蘭州市黄河沿岸で。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘭州ラーメンの店、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、蘭州。店の看板は中国語とウイグル語で書いてある。蘭州付近は小麦地帯でもあるので、麺が美味しい。中でも「蘭州ラーメン」が有名である。市内ではどこでも「蘭州ラーメン」を食べることができる。麺は細く、安くて早くできるのが特徴といえる。蘭州ラーメンは別名「牛肉ラーメン」のことである。大小のラーメン屋が数え切れないほどある。味も皆それぞれ違う。この店もその一つで、なかなかの味で、蘭州ラーメンのコースもある。蘭州は、麺以外に餃子も大変美味しい街である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘭州市中央広場、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、蘭州。中国では、どの都市にも広場があるが、蘭州市の中央広場正面の壁画。甘粛の象徴である敦煌を描いてある。大きな行事はこの広場で行われる。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]蘭州市内のモスク、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、蘭州。蘭州はシルクロードの中継点でもあり、西域からの少数民族も多く、回教徒も多数おり、市内の真ん中に大きなモスクがある。市街には、イスラム料理の店も多くあり、西域への玄関口の町らしい
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]西寧・夕一ル寺、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。 正式名はクンブム(塔尓寺)。チベット仏教、いわゆるラマ教寺院には、デプン寺(ラサ)、セラ寺(ラサ)、ガンデン寺(ラサ)、ラプラン寺(夏河)、タシルンポ寺(シガツェ)、そしてこのクンブム(塔尓寺)の六大寺院がある。クンブム(塔尓寺)の創建は1560年。写真の一列に並ぶ八つの宝塔は八宝如意塔で仏の八大功徳を表している。クンブム(塔尓寺)には500人以上の修行僧が生活しているという。バター彫刻(酥油花)が有名である。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]重慶・火鍋、撮影年月:1999年2月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、重慶。重慶は世界に知れた「火鍋(フォグォ)」の本家である。牛肉、羊肉、牛の内臓、センマイ、ハツ、脳ミソ、ウナギ、ドジョウ等さまざまな肉と各種野菜のしゃぶしゃぶ風のたべもの。四川料理はもともと辛いので有名だが、本家本元だけあってその唐辛子の辛さは天下一品である。なんとも言えないものすごい辛さである。しかし、地元重慶の人々はそんなには辛くないらしく、平気で食べていた。しかも一年中、冬はもちろん暑い夏(重慶の夏は武漢、南京とともに「三大火炉(かまど)」と呼ばれるほどの猛暑で有名)でも火鍋料理を食べるという。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]鎮江の阿倍仲麻呂(仲麿)の歌碑と夕日、撮影年月:2000年3月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、江南。鎮江は長江の港町で交通の要所に位置している。日本人にとっては遣唐使として西安留学したが、帰国が果たせず、西安で一生を終えた阿倍仲麻呂(仲麿)が、この鎮江の北固山で詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」の詩で知られている。この北固山からの長江の夕日は阿倍仲麻呂(仲麿)もみたにちがいない。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]青海湖・放牧、撮影年月:1999年6月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。日月山付近、一面の高山植物の花の絨毯の上に遠く近くに羊、ヤク、馬、牛などのすばらしい放牧風景がみられる。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]青海湖鳥島、撮影年月:1999年6月、撮影(東京都)、撮影場所:中国、青海省。鳥島には多くの渡り鳥が群れていた。鳥島といっても青海湖の北西の岸辺で、ここには中国語では・・・など総数で10万羽以上が渡ってくるという。行った時には数種の白色系統と一種の黒鳥 がいたが、白色系と黒鳥とが住み分けていた。しかし、年々渡り鳥の数が減っているという。この青海湖にも、鳥達に不都合な自然の変化が起きているのだろう。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]青蔵高原・幻の青いケシの花、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。海抜3500mから4500m付近にしか咲かないといわれる青いケシ。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]青蔵高原:遊牧のヤク飼いの若者たち、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、青海省。3000mを越える高原でのヤク飼いの若い女性たち。手にしているのはヤクを移動させるときに使用する、チベット語でポルという遠方まで小石などを投げる道具。
東京都練馬区 桜井秀三
撮影年月:2000年10月、撮影者:張国強、撮影場所:中国、上海魯迅公園。上海市の魯迅公園にある魯迅の墓は、愛国主義教育の場所になっている。魯迅と親交のあった内山書店や魯迅の住まいも近くにあった。碑面の文字は毛沢東のものである。
中国からの留学生 張国強
[中国]黄河第一大橋、撮影年月:2000年7月、撮影者:桜井秀三(東京都)、撮影場所:中国、蘭州。蘭州は甘粛省の省都で5区3県を管轄し、人口は約300万人だが、都市部人口は約150万人である。BC121年以来の歴史の古い町である。かつては金城と呼ばれた黄河の一番上流の大きな都市である。その蘭州市街を西から東に流れる黄河の一番上流に架かる鉄橋は1907年に造られ、鄭州、済南とともに旧中国の三大鉄橋といわれた。今ではこれより上流にも橋はあるが、かってはこの橋が一番上流にあったので第一大橋と呼ぶ。鉄橋であるが、2車線で、今ではやや狭い。別名「中山橋」ともいう。市内を流れる黄河の流れは緩やかで夏には泳いでいる人々もいた。夜には橋にライトが点灯して夜景が大変きれいだ。橋のたもとは夏には夕涼みの市民で賑わっている。向こうは白塔山。
東京都練馬区 桜井秀三
[中国]鼓楼と太鼓、撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国、北京市。鼓楼は1272年(元)に建てられた、後二度にわたって修復された。この巨大な太鼓は1900年6月の義和団の北京侵入後、8月に八国軍(米・仏・英・伊・日・露・独・オーストリア)の北京占領によって破壊された。八国軍は、第二次アヘン戦争の時に略奪されて、僅かに残っていた『永楽大典』を再び307冊盗み去った。今は世界に残るものは500余冊である(『永楽大典』は12000冊で二部あった。一部はすでに失われていた)。そのほか、この時に失われた貴重な書籍は46000冊であったという。中国では、昔(宋代)は書物は私有物ではなくて公共物と考えられていたから、戦争で奪っても略奪とはみなされなかったし、借りても返さなくてよかった。しかしそれは誰もが書物を愛好していたからだ。焼いたりするのは言語道断である。この時奪われたものは今どこで、誰が利用しているのだろうか。
東京都 T.N
[マレーシア]バナナ、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)。(1)つぼみ:公園の片隅に、バナナが植えてありました。よく見るとバナナの花のつぼみが見つかりました。(撮影年月:2002年11月12日、撮影場所:ジョホールバルのブキットラヤンラヤン公園)(2)花:公園の片隅に、バナナが植えてありました。つぼみの横では、ちょうど花が開いていました。ピンクでとてもきれいな花です。(撮影年月:2002年11月12日、撮影場所:ジョホールバルのブキットラヤンラヤン公園)(3)実。バナナの実を道沿いでも簡単に見つけることができます。これは、国道沿いで車を止めて、窓から写したものです。(撮影年月:2002年9月13日、撮影場所:デサル周辺)
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
撮影年月:2003年1月・2月・8月、撮影場所:ジョホールバル(ジョホール市)、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校)。海鮮鉄板焼きの店、店の看板、パサ(市場)のコーヒー店、果物屋さん、児童の聞き取り調査活動、オートバイで豚肉の販売、鶏肉の販売、焼き豚を売る、フルーツマーケットなどの写真。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
撮影年月:2002年8月・12月、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市内にあるイスタナ公園。マレーシアでは、結婚時に二人のアルバムを作ることが多いようです。そのための写真撮影が、町の名所やデパートなど、あちこちで行われています。ここイスタナ公園も、写真撮影で有名な場所の一つです。結婚披露宴、「コンパン」と呼ばれる太鼓の演奏隊、結婚式の様子など。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
撮影年月:2002年10月・2003年1月・6月・9月、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホール市。中華系の人たちのライオンダンス・ドラゴンダンス、インド系の人たちのダンス、マレー民族ダンスを紹介します。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
[マレーシア]王宮(スルタンパレス)とオランダ統治時代の建物(スタダイス)、撮影年月:2003年1月1日、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ムラカ(マラッカ)中心部。(1)マラッカ王国の、木造の王宮です。現在はスルタンパレスという名前の博物館として公開されています。実は、2002年は、修理のために閉館していて、この日、やっと見ることができました。(2)オランダ統治時代の煉瓦造りの建物が、今でも残っています。「スタダイス」と呼ばれ、現在も観光の中心地です。今は、ここも博物館ですが、マレー語の表記しかないので、本当に見るだけになりました。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
撮影年月:2002年3月・8月、撮影者:鳥居恭治(ジョホール日本人学校教諭)、撮影場所:ジョホールバル(ジョホール市)マサイ地区。経済飯(ぶっかけご飯)、チキンライスとホワイト・ミー・スープ、中華系の朝食「骨肉茶(バクテー)」、経済飯のさまざまなおかず、経済飯の店でおかずを選ぶ、イエロー・ミー・スープなどの写真です。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
マレーシア(ジョホールバル・キャメロン高原・ランカウイ島など)に分布するさまざまな植物と、生息する動物(モモンガと野生の猿)を紹介します。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
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東京書籍(株) 社会編集部
撮影期日:2004年10月。現在(2004年度)に、一人当たりに与えられる土地は田600m2、畑900m2となっています。平均年収は5万円前後で海岸部・都市部と比較すると極めて低いものです。
元愛知県一宮市立宮西小学校 野々垣國男
中国の生活や歴史を写真でまとめました。○北京・観光客が乗る三輪車・自由市場・歩道で朝食をとる人々・北京の公園の遊具・北京の路上床屋・北京市民の余暇、卓球試合・木陰で中国将棋を楽しむ人々・北京市内の水路と釣りをする人々・北京市の公園で小鳥の歌を聴く・自家用車の駐車場・孫文の夫人、宋慶齢・毛沢東主席の像。○河北省・ある高校の教室風景・ある職業高校の日本語授業の風景・清の皇帝(雍正帝)の墓・清の皇帝(乾隆帝の墓。○上海市・上海市内・龍華公園・上海の少女、小学生の遠足・道路脇にあるトイレ。○江蘇・省無錫市・無錫の公園・ある高校の学校経営方針。○南京市・孫文臨時大総統のオフィス・南京大虐殺。○湖北省武漢市・武漢市のスローガン・余暇・黄鶴楼・公園のごみ箱
中国からの留学生 張国強
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東京書籍(株) 社会編集部
海のシルクロードの拠点として繁栄していたホイアン。16世紀から17世紀にかけて、朱印船貿易を行っていた日本の商人も、多くここを訪れ、最盛期にはフィリピンのマニラ、タイのアユタヤに並ぶ、1000人規模の日本人町があったという。当時の日本人町は今は残っていないが、「日本橋」と呼ばれる橋や、日本人商人の墓などが残っている。
元キルギス国立大学講師 角南真也
インドネシア・バリ島の田んぼ(ライス・フィールド)と棚田(ライス・テラス)の写真です。「バリ島ウブド郊外テガララン村の棚田」「バリ島の田んぼ」。
埼玉県 K.F
[インドネシア]インドネシアの子どもたち、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の中心に位置した静かな町である。町の中心から少し出ると田畑が広がり、そこで生活する人々は穏やかである。子どもたちは無邪気で、外見こそ少し違うが、遊んでいる様子や表情は日本の子どもと何ら変わりはない。
東書Eネット事務局
[インドネシア]ガムラン、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ独特の音楽といえばガムランである。その音色は、バリの儀式や民族舞踊には欠貸すことができない。民族舞踊の中で特に有名なレゴンダンスのガムランは、グンデール、ケトゥック、レオン、クンダン、チェンチェ、チュブラッグ、クンプル、ゴンの8つの異なった音色で構成されている。
東書Eネット事務局
[インドネシア]ケチャックダンス、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ島の代表的な民族舞踊の一つ。別名モンキーダンスとも呼ばれる。 サロンを巻いただけの男達が松明の火を囲こみ、ケチャケチャと叫び声をあげてながら踊る。この踊りにはラーマヤナ物語を題材としたストーリーがあり、男達は誘拐されたラーマヤナの妻を救い出す猿の軍団を表している。ケチャックダンスは、他の踊りを違ってガムランの演奏はない。
東書Eネット事務局
[インドネシア]ネカ美術館、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の芸術の町として、民族舞踊や絵画がその中心である。バリ島を代表する絵画を集めた美術館の一つがネカ美術館である。展示館はそれぞれウブド、バトゥアン、ヤングア-ティストスタイルなどによって分類されている。
東書Eネット事務局
[インドネシア]バリス、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ島の代表的な民族舞踊の一つ。戦場に向かう戦士の踊りで、頭には兜をかぶり(貝殻で飾った三角形の兜)、幾重にも重なった衣装をまとって踊る。バリスは本来、寺院に武器を奉納する際の儀式の踊りとされて、サンヒャン・ドゥダリから来ていおり、数で踊るものであったが、ヒンズー教文化が入ってからソロの踊りとして格式化された。
東書Eネット事務局
[インドネシア]バロンダンス、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ島の代表的な民族舞踊の一つ。「バロン(聖獣)」と「ランダ(魔女)」という2つのキャラクターの終わりのない戦いをストーリーのある踊りで表現したのがバロンダンス。善と悪、生と死、聖と邪といった相対立する両者の力のバランスで世界が保たれて、それがエネルギーの源であるということを表している。
東書Eネット事務局
[インドネシア]レゴンダンス、撮影年月:1999年11月。撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。バリ島の代表的な民族舞踊の一つ。発祥の地のスカワティ村で、当時の領主が瞑想中に天国へ行き、2人の天女が舞うのを見たのがきっかけといわれている。花の冠をかぶり鮮やかな衣装をまとった姿で踊る。
東書Eネット事務局
[インドネシア]市場(1)、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。町の中心から少し外れたところに市場がある。ここでは、食べ物から衣類、日用雑貨まで生活に必要なもの全てが売られている。種類によって売場が分けられており、目的にあった買い物がしやすい。この市場はまさに生活の中心である。
東書Eネット事務局
[インドネシア]市場(2)、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。町の中心から少し外れたところに市場がある。ここでは、食べ物から衣類、日用雑貨まで生活に必要なもの全てが売られている。肉屋では鶏が丸ごと置かれ、お客の注文によりその場でさばいてくれる。唐辛子やニンニクは大ざるに盛られ量り売りされる。
東書Eネット事務局
[インドネシア]村の雑貨屋、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の中心に位置した静かな町である。町の中心から少し出ると田畑が広がる。道ばたにある雑貨屋には、野菜・果物・ジュース・駄菓子をはじめちょっとした日用品が売られている。近くに住む人々が時折利用する姿が見受けられた。
東書Eネット事務局
[インドネシア]田舎の風景、撮影年月:1999年11月、撮影場所:インドネシア、バリ島、ウブドゥ。ウブドゥはバリ島の中心に位置した静かな町である。町の中心から少し出ると田畑が広がり、日本の田舎とよく似ている。
東書Eネット事務局
トロイ遺跡はドイツ人シュリーマンによって1870~1872に発掘された。写真は、古代ギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』をもとに復元された「トロイの木馬」で、遺跡の入り口に建てられている。トロイ遺跡は、1998年世界遺産に登録された。
岐阜県各務原市 宮脇實也
ニューサポート高校「社会」vol.27(2017年春号)より。写真は、 かつてアラル海最大の島であったコクアラル (Кок︲Арал)島東端の断崖上から南側を写し たものである。断崖下からは、かつてのアラル 海旧湖底の平坦面が地平線まで広がっている。 厳密に言えば、1989 年までの湖面低下で、ア ラル海はこの付近で南北に二分されたため、平 坦面は南アラル海(大アラル海)旧湖底である。
東北福祉大学教育学部准教授 浅川俊夫
撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国,山東省,曲阜市。子貢は,孔子の死後,孔子の墓のすぐ隣の庵で6年間孔子の墓を見守った。この碑の後ろに庵がある。子貢は弁舌・貨殖の才能があった。魯・衛の宰相となった。
東京都 T.N
撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国,山東省,曲阜市。孔子が死んだ時弟子が自分の国の有名な木を持ってきて植えた。その一つ。宋代に雷で焼けたということである。孔木,黄連木ともいわれる。枝の出方が整然としているので「楷書」の語源になったといわれている。ウルシ科で,湯島聖堂及び岡山県閑谷学校にある。子貢は衛(河南省)の人。『山東通志』に「孔林有子貢手植楷,囲一丈,枯而不朽」とある。(大漢和辞典より)
東京都 T.N
撮影年月:2000年8月、撮影者:T.N(東京都)、撮影場所:中国,山東省,曲阜市。孔子の墓の手前の石碑は明(1413年)のもの(碑の文字は「大成至聖文宣王」),後ろのは元(1244年,第50代子孫の孔元が建てた。碑の文字は「宣聖墓」)のもの。「大成至聖文宣王」も「宣聖」も孔子の尊称(追称)である。魯の哀公が孔子が卒すると,尼父と諡(おくりな)したのがはじまりで,以後歴代改称されている。誰かが供えた果物が置いてあった。
東京都 T.N
撮影年月:2007年01月、撮影場所:中国、成都市内。四川省の省都、成都は三国時代(220~280)の三国の一つ、蜀の都が置かれたところ。市内には蜀の英雄たちを祀った武侯祠という廟堂がある。
元キルギス国立大学講師 角南真也
ニューサポート高校「社会」vol.29(2018年春号)より。チベットの聖地を求め、中国中部の西寧から 青蔵鉄道に乗車し、約2、000km の旅。天空都 市ラサの駅舎を出て最初に目に飛び込むのは、 数多の五星紅旗と中国の歴代国家主席が描かれ た巨大看板であった。
公文国際学園中等部・高等部 齋藤 亮次
ニューサポート高校「社会」vol.20(2013年秋号)より。九州とほぼ同じ面積に、70万人が暮らす「世界一幸せの国」と称されるブータン。
明治大学付属中野八王子中学校・高等学校 飯塚和幸
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
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最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
カリマンタン島とはインドネシア側の呼称であり,これをマレーシア側やブルネイにまで拡大するのはいかがなものかと述べている。
東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授 内堀基光
最新「世界と日本の白地図」(3)<世界:国規模>編(2021年11月版)より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
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東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(3)<世界:国規模>編(2021年11月版)より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(3)<世界:国規模>編(2021年11月版)より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
ニューサポート高校「社会」vol.30(2018年秋号)より。近年、小麦畑が広がるハリヤーナー州 の穀倉地帯に、レンガ造りの大規模鶏舎が多く 立地するようになった(写真参照)。この地域 で鶏肉生産を担っているのは、かつて「緑の革 命」で新品種を積極的に導入し、経営規模拡大 を遂げた「プログレッシブ・ファーマー(先取 的農家)」と呼ばれる土地所有層の農家らであ る。それら農家のなかには、副業で飼料工場を 経営するなど、ビジネス感覚に優れた者が少な くない。そういった農家らが、需要が高く発展 性の見込めるブロイラー養鶏を相次いで導入 し、鶏舎を建設するようになったのである。
広島大学大学院文学研究科准教授[地理学] 後藤拓也
バイエルン王ルートヴィヒ二世によって19世紀に建てられた。おとぎ話に出てくるような美しいノイシュバンシュタイン城は、東京ディズニーランドのお城のモデルの一つだと言われている。世界の名城25選の第一位。
岐阜県各務原市 宮脇實也
最新「世界と日本の白地図」(3)<世界:国規模>編(2021年11月版)より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(3)<世界:国規模>編(2021年11月版)より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
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最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
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最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
「ニュ-サポ-ト高校社会Vol.8(2007年秋号)」より。旧ソ連から独立したウズベキスタンは、国境を接する5 か国のすべてが内陸国という、まさに内陸国の中の内陸国である。この地をシルクロ-ドの交易路が通り、サマルカンド、ブハラなどのオアシス都市が栄えていたということは、今さら言うまでもない。しかし、第二次世界大戦後、シベリアに抑留された日本人が、この地で強制労働に従事させられ、帰還することもかなわずに命を落とした人もいるという事実を、どれだけの日本人が知っているだろうか。第二次世界大戦後、ソ連によってシベリアに抑留された日本人の数は約60万人にのぼる。そのうち、1万人以上が鉄道で現在のウズベキスタンに移された。ウズベキスタン国内にある13か所の墓地には、日本に帰還することのできなかった812人が眠っている。
大阪府立八尾翠翔高等学校 竹部嘉一
[ロシア]東方正教-ロシア正教の教会(1)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:ロシア連邦・モスクワ。1453年、ビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡しました。モスクワ大公国のイヴァン3世は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス3世の姪と結婚していたことから、ビザンツ帝国の後継者を名乗りました。これ以降、ビザンティン(コンスタンティノープル)に代わってモスクワが、東方教会の中心となりました。1917年のロシア革命から70年以上続いたソ連時代には、教会は破壊されたり、他の用途に転用するために改造されたりしました。しかし、現在のロシア連邦となって、再びロシア正教が現代に甦ってきました。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[ロシア]東方正教-ロシア正教の教会(2)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:ロシア連邦・モスクワ。1453年、ビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡しました。モスクワ大公国のイヴァン3世は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス3世の姪と結婚していたことから、ビザンツ帝国の後継者を名乗りました。これ以降、ビザンティン(コンスタンティノープル)に代わってモスクワが、東方教会の中心となりました。1917年のロシア革命から70年以上続いたソ連時代には、教会は破壊されたり、他の用途に転用するために改造されたりしました。しかし、現在のロシア連邦となって、再びロシア正教が現代に甦ってきました。ウラジオストク工業大学の裏手に、展望台に登るケーブルカーの駅があります。その駅のすぐ東側に小さな教会があります。とても小さな教会ですが、屋根にはタマネギ頭のドームがあり、入り口にはイコン(キリストなどの聖像画)が描かれています。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[ロシア]東方正教-ロシア正教の教会(3)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:ロシア連邦・ハバロフスクのウスペンスキ・ソボル教会。1453年、ビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡しました。モスクワ大公国のイヴァン3世は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス3世の姪と結婚していたことから、ビザンツ帝国の後継者を名乗りました。これ以降、ビザンティン(コンスタンティノープル)に代わってモスクワが、東方教会の中心となりました。1917年のロシア革命から70年以上続いたソ連時代には、教会は破壊されたり、他の用途に転用するために改造されたりしました。しかし、現在のロシア連邦となって、再びロシア正教が現代に甦ってきました。ハバロフスクのウスペンスキ・ソボル教会は、ソ連時代にはドームをはずして天文台として利用されていました。この日、1月7日はロシア正教のクリスマスにあたります。たくさんの人がミサに訪れており、教会の中は大変な混雑でした。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
マレーシアの独立記念日のようすと,市街で見かけた軍用犬のスナップ,アブラヤシの農園(プランテーション)を見学したときの写真です。プランテーションは、ジョホール郊外で一番多いアブラヤシ(oil palm)のプランテーションです。(1)椰子(やし)の木、この椰子(やし)の実から椰子油(palm oil)をとります。10mくらいの長さの鎌を使って実を採り入れます。(2)椰子(やし)の実、鎌で切り取って上から落ちてきた椰子(やし)の実です。この朱色の実からパームオイルを絞ります。(3)椰子(やし)の実からオイルを絞る工場、椰子(やし)の実からオイルを絞る工場です。プランテーションの横にあります。ここで絞ったオイルは精製工場に運ばれ、製品になります。
マレーシア・ジョホール日本人学校教諭 鳥居恭治
撮影年月:1986年8月、撮影者:木村裕保。トルファン・鳴沙山(めいさざん)の月牙泉(げっかせん)付近です。いにしえからのシルクロードの砂漠を行く隊商の様子です。現在は、観光用として行われていて、ラクダに乗ることができます。鳴沙山は、風に舞う砂が鳴いているように聞こえるという砂山です。月牙泉は三日月(月牙)の形をしたオアシスの名前です。
愛知県 木村裕保
[インド]ヒンドゥー教の神々(1)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド・デリー市内。写真の左はヴィシュヌ神で、世界の維持神として人々の信仰を集めています。シヴァ神と並んで人気のある神で、10種の権化になります。ブッダもヴィシュヌ神が変身したものとされ、最近ではインドの独立運動の指導者のガンジーもその一人とされています。右はラクシュミー神(ヴィシュ神の妻)で、インド人の理想の女性といわれています。ハスの花の上に乗っている姿で描かれていることが多く、富と幸福の女神とされています。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[インド]ヒンドゥー教の神々(2)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド・デリー市内。後列左側がシヴァ、右側が妻の女神パールヴァティー、手前に座っているのが息子のガネーシャです。パールヴァティーがドゥルガーになり、赤い舌を出して血の生け贄を求めるように変身します。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[インド]ヒンドゥー教の神々(3)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド・デリー市内。写真は、瞑想する苦行者の姿をしたシヴァ神です。コブラを首に巻き、虎の毛皮の上に座っています。ヒンドゥー教では破壊と創造の神であり、多くの寺院で主神として祭られています。人々に最も人気のある神様です。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[インド]ヒンドゥー教の神々(4)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド・デリー市内。 シヴァ神の妻は、パールヴァティーという女神です。ところが、この女神が血の生け贄を求めるとドルゥガー神になります。写真では、ドクロの首飾りをつけ、腰のまわりと手に生首を持つドゥルガー神として描かれています。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
[インド]ヒンドゥー教の神々(5)、撮影年月:2000年1月、撮影場所:インド・デリー市内。シヴァの息子のガネーシャは、小太りの象の頭を持つ姿で描かれています。ある時、父のシヴァは怒って息子の頭をはねてしまいました。しかし、妻のパールヴァティーに恨まれたために、最初に通りかかった象の頭をつけて生き返らせたので、このような姿になりました。商売の神様として商店に祭られています。
大阪府立八尾翠翔高校 竹部嘉一
撮影年月:2001年5月8日、撮影場所:北京のある大学の構内。毛沢東(1893-1976)は中国革命の最高指導者であり、中華人民共和国の創立者です。スターリン批判ののちソ連と対立して、人民公社や文化大革命など民衆の革命精神を動員する独自の社会主義建設を目指しました。当時(文化大革命のころ)建てられた毛沢東の巨大な像(3階建てビルの高さくらいはありそうです。)は、いろいろな場所で見ることができましたが、最近の世界で起こる社会主義の崩壊が影響してか、毛沢東の肖像や銅像は少なくなりました。
中国からの留学生 張国強
撮影年月:2007年01月、撮影場所:中国、成都市内。「詩聖」とも称される唐代の詩人、杜甫(712~770)は、安史の乱(755~763)を避けて一時、成都に庵を結んだ。後、宋代に入って、その跡に祠が建てられ、現在では杜甫草堂という記念館になっている。
元キルギス国立大学講師 角南真也