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撮影年月:1964年10月、撮影場所:国鉄東京駅内。東海道新幹線開業にわく東京駅周辺と、オリンピック開会式聖火台の点火式を紹介します。東京駅八重洲口コンコース、東京駅丸ビルのオリンピック広告、外から見た開会式-舞い上がる風船、外から見た開会式-聖火が近づく、外から見た開会式-最終ランナー到着、外から見た開会式-聖火台に点火。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
撮影年:1964~1967年、東京都内の様々な都電の資料写真。13系統 岩本町行、25系統 須田町行、38系統 門前仲町行、29系統 錦糸町行、トロリー101系統 今井行、34系統 金杉橋行、6系統代替バス、10系統青山車庫行、9系統 新佃島行、渋谷駅前都電ターミナル全景など。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
撮影年月:2000年11月、撮影場所:埼玉県児玉郡下久保ダム、埼玉県側から撮影。利根川の支流、神流川に、1968年(昭和43年)11月に完成しました。下久保ダムによって造られた湖が神流湖(かんなこ)になります。
岐阜県各務原市 吉田範雄
撮影年月:2006年11月3日、撮影場所:本庄市金鑚神社前中山道。 江戸時代、中山道最大の宿場町として栄えた「本庄宿」。その本庄市で、毎年11月2、3日に行われる「本庄まつり」は金鑚(かなさな)神社の例大祭で、山車の曳き回しを中心とした祭りとなっています。北関東随一の祭りといわれています。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
[東京都写真資料]多摩都市モノレール、撮影年月日:2006年11月25日、撮影場所:東京都立川市。立川北駅付近走行中の多摩都市モノレール。多摩モノレールともいう。上北台~多摩センター間、約16kmが、2000年1月に全通。モノレールのタイヤはゴム、エネルギーは電気を使っている。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]染井吉野(ソメイヨシノ)、撮影年月日:2006年11月25日、撮影場所:東京都立川市。立川市にある「国営昭和記念公園」のなかの染井吉野(ソメイヨシノ)。落葉した染井吉野のようすです。
東書Eネット事務局
撮影場所:荒川戸田の道満公園。荒川の河川敷の調節池の建設で、地下10m以上掘り下げたところ、写真で見られるように柔らかい暗灰色の泥層が観察された。
埼玉県 小学校
撮影年月:1998年8月、撮影場所:埼玉県庄和町の工事現場。庄和町は埼玉平野の東部に位置し、関東平野のほぼ中央部にある。この付近の地形は、利根川や荒川の度重なる洪水によってできた沖積氾濫低地である。この付近に洪水を防ぐために、建設省が数年前から地下数10mに排水施設を建設した。この写真の大露頭は、その工事のために大規模に掘り下げた時に観察された地層である。
埼玉県 小学校
撮影場所:千葉県木更津市。房総半島に広がる台地を作る地層も第四紀洪積層である。この写真の地層は、木更津駅付近の台地を作る第四紀層で高さが50m以上もある大露頭である。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県和光市新倉(外環高速道工事現場)。この地層は武蔵野台地を高速道路工事のため切断した斜面に観察できた地層である。地表から約20mの厚さがあり、色や構成物質から5つの層に区分できる。地表から茶褐色の色の部分が関東ローム層で厚さが約4mある。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県さいたま市・田島ケ原。昭和57年頃、荒川の河川敷に、洪水対策として建設省が調節池を作る工事を行った。さきたま大橋から秋ヶ瀬橋にかけて深さ10m以上数十mにわたって掘り下げた。そのため写真のような地層が広い範囲にわたって観察された。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県さいたま市・田島ケ原。昭和57年頃、荒川の河川敷に、洪水対策として建設省が調節池を作る工事を行った。さきたま大橋から秋ヶ瀬橋にかけて深さ10m以上数十mにわたって掘り下げた。その時、カキの化石が広い範囲にわたって観察された。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県浦和見沼低地。写真で見られる地層の中央部で2つの地層に明確に区別できる。上半部の黒褐色の地層は泥炭層で、沼や湿地に繁茂していたヨシやアシ、マコモ等の植物が枯れて土になったものである。下半部は暗灰色をした粘土層である。この地層の中には海のケイソウ化石が多量に含まれていることから、海成粘土層と推定できる。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県庁第2庁舎の地下工事現場。地表から深さ約10mに見られる地層は、関東ローム層である。地表から3本の暗色帯が観察される。この暗色帯は関東ローム層を区別するカギとなっている。
埼玉県 小学校
撮影場所:埼玉県浦和文化センターの工事現場。浦和の台地では、関東ローム層は台地の縁の崖でも見られるが、その下のローム層は地下を深く掘る工事現場でなければ見ることができない。
埼玉県 小学校
撮影年月:2001年12月7日、撮影場所:筑波宇宙センター。筑波宇宙センターの検査場に置かれた国際宇宙ステーション「きぼう」の写真です。まだカバーは付けられていません。船内実験室・船内保管室・船外実験プラットフォーム・全体モデルの「きぼう」の部分など。完成時の国際宇宙ステーションの全体の大きさはサッカー場くらいです。2004年から順次宇宙ステーションにドッキングしていく計画となっています。
東京書籍・ソフトウエア制作部 高野勉
[埼玉県]高麗の彼岸花、撮影年月:2002年9月、撮影場所:埼玉県日高市高麗(ひだかしこま)。埼玉県日高市高麗に日本最大の彼岸花の群落があります。最寄りの駅は、西部池袋線高麗駅から徒歩15分くらいにその群落を見ることができます。群落は高麗川が大きく蛇行し、その中側が水田になった部分に広がっています。その地形が巾着に見える所から「巾着田(きんちゃくだ)」と呼ばれます。彼岸花は、秋の彼岸の頃咲くので、「彼岸花(ひがんばな」 の名がありますが、梵語で赤い花を意味する「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも呼ばれます。仏典の中で、めでたい事が起こる兆しに天から降ってくる赤い花の事をさすそうです。歌人 山口誓子(やまぐちせいし)の俳句「つきぬけて天上の紺曼珠沙華 炎天の遠き帆やわがこころの帆」。まっすぐな茎をのぼりつめた先に咲いた「曼珠沙華」の燃えるような赤を「天上」にたとえ、夜の闇の色「紺」との色彩の対比によって、「天上」を強烈に表現させています。
東書Eネット事務局
[栃木県] 華厳滝(けごんのたき)、撮影年月日:2004年6月4日、撮影場所:栃木県日光市。華厳滝(けごんのたき)は、中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)から流出する大尻川(おおじりがわ)が男体山(なんたいさん)の溶岩流の断崖にかかった滝で、高さは約99m、幅約10mです。明治後期の哲学青年 藤村 操(ふじむら みさお)が、「人生不可解」の言葉を樹幹に記して投身自殺した地としても知られます。
岐阜県各務原市 吉田範雄
1967年10月撮影の都電の写真です。1系統 路線を止めた歩行者天国(上野)、32系統 専用軌道を悠然と走る(学習院下停留所)、王子駅前停留所、赤羽行王子駅前の渋滞、新宿角筈行靖国神社前、須田町行九段坂を行き交う都電、九段の桜祭りの雑踏西荒川行始発停留所の混雑など。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
1967年9月、トロリーバス主体の特集です。104系統トロリー 池袋行、104系統と22系統の遭遇、104系統トロリー 昭和町車庫行、無軌条電車昭和町派出所(トロリー)、国鉄王子駅前付近、渋谷駅前、亀戸駅行、渋谷駅行、田村町行、西荒川行などです。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
撮影月日:2006年8月27日、撮影場所:山梨県北杜(ほくと)市須玉町上津金、海岸寺は韮崎から車で約1時間、標高1、000mにある臨済宗の寺です。河岸寺には、江戸時代後期の名工であった守屋貞治(もりやさだじ)が彫った石仏約150体が置かれています。守屋貞治(1765‐1832)は長野県高遠の出身で、この百観音は彼が50歳をすぎた頃に8年をかけて作製したと伝えられています。これらの石仏は、緑深き山あいの寺に、長い歳月にわたる風雪に耐えながらひっそりとたたずんでいます。静かにもの思いにふけるようなその姿は、精神的な深みをたたえ、見る人を思わず敬虔な気持ちにさせるものです。
東書Eネット事務局
[埼玉県写真資料]日本煉瓦(れんが)製造株式会社、撮影場所:埼玉県県深谷市、撮影年月:2002年10月。日本煉瓦(れんが)製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設のためのレンガを大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心になって設立されました。写真の「旧事務所」は、日本煉瓦製造株式会社の旧事務所で、重要文化財(建築物)指定。建物は1888(明治21)年ごろの木造洋館。レンガ製造施設の建造とレンガ製造技術の指導にあたったドイツ人、ナスチェンテス・チーゼ技師の住居兼工場建設事務所として使用されたものです。現在は、旧事務所とよばれ、日本煉瓦史料館になっています。写真の「旧変電所」は、重要文化財、1906(明治39)年ごろの建造。日露戦争(1904)後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらしたレンガ需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は電力を導入しました。それまでは、蒸気式原動機が使われていました。深谷の町に一般的に電灯が導入されたのは、その1年後、1907年です。福川鉄橋は、1895(明治28)年、レンガを輸送するために福川に架けられた鉄橋。ポーナル型プレートガーター橋としては、現存する日本最古の鉄橋として保存されています。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[埼玉県写真資料]渋沢栄一、撮影場所:埼玉県県深谷市、撮影年月:2002年10月。渋沢栄一は、1840年現在の深谷市血洗島(ふかやしちあらいじま)に生まれました。明治時代、第一銀行(後の第一勧銀、みずほ銀行)をはじめ民間企業約500社、社会福祉事業・教育・国際親善等の事業約600の設立にかかわり、日本の近代化の基礎を築きました。1931(昭和6)年、91歳で亡くなりました。写真の誠之堂(せいしどう)は渋沢栄一の喜寿を、清風亭(せいふうてい)は古希を記念して、第一銀行の関係者が東京都世田谷区に建設しました。平成11年、世田谷区から深谷市に移築しました。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]レインボーブリッジ、撮影場所:東京都東京港・東京湾、撮影年月日:2006年10月7日。ウオータフロント都市・臨海福都心は都心から約6kmの距離にあります。レインボーブリッジは臨海副都心と都心とを結ぶ架け橋で、臨港道路、新交通システム(ゆりかもめ)、首都高速11号線からなる複合交通システムです。開通は1993年8月。塔の高さは127m。吊り橋の長さは約918m。 橋の構造は上下二層で、上層は首都高速道路11号台場線、 下層には臨港道路(海岸青海線)とゆりかもめと遊歩道が通っています。この遊歩道は、約30分で歩いて渡ることができます。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]レインボーブリッジから見た東京の景観、撮影場所:東京都レインボーブリッジ(東京港・東京湾)、撮影年月日:2006年10月7日。レインボーブリッジの遊歩道にある展望台から見た東京都の景観です。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]東京の景観(隅田川河口)、撮影場所:東京都レインボーブリッジ(東京港・東京湾)、撮影年月日:2006年10月7日。写真中央が隅田川河口。河口のの左側の小さな森のような木立のある場所が浜離宮庭園、その左が竹芝ふ頭になります。また河口の右側は月島ふ頭。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]東京タワー(レインボーブリッジより)、撮影場所:東京都レインボーブリッジ(東京港・東京湾)、撮影年月日:2006年10月7日。東京タワーをとりまく高層ビル群の景観です。東京タワーは、昭和33年に開業、高さ333mで世界一高い鉄塔です。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]江戸幕府鉄砲組百人隊行列、撮影場所:東京都新宿区百人町、撮影年月日:2003年9月28日。「江戸幕府鉄砲組百人隊行列」は、皆中(かいちゅう)稲荷神社のお祭りで、隔年(平成は奇数年)に開催される行事です。江戸時代に、現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したものです。甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進して、火縄銃を携えた鉄砲隊が古式にのっとり試射を行います。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[栃木県写真資料]男体山・華厳滝、撮影場所:栃木県日光市、撮影年月日:2003年9月。男体山(なんたいさん)は、標高2484メートル。古くは二荒山(ふたらさん)と呼ばれ、山岳信仰(さんがくしんこう)の聖地でした。この山の「二荒」を訓読みにして、「日光」という漢字をあてたことが、日光の名前の由来になったそうです。手前の湖は中禅寺湖です。華厳滝(けごんのたき)は、男体山(なんたいさん)の噴火でせき止められてできた中禅寺湖の湖水が、大尻川(おおじりがわ)となって流れ出し、写真の大岩壁から落下するするようになった滝です。滝の高さは97メートル。落水量は、毎秒2.5トン(2003年9月14日現在)。大岩壁は、上部から安山岩、集塊岩、石英斑岩で形成されています。滝の流れは、大谷川(おおやがわ)から、鬼怒川(きぬがわ)に合流します。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[栃木県写真資料]足利尊氏像、撮影場所:栃木県足利市、撮影年月日:2003年9月。室町幕府の初代将軍足利尊氏の像。足利氏の氏寺「鑁阿寺(ばんなじ)」が近くにあります。
岐阜県各務原市 吉田範雄
天下の奇祭といわれる筑波山のガマ祭は、毎年8月の第一日曜日に行われます。会場は筑波山神社の境内を中心に繰り広げられ、ガマ供養と商売繁盛を祈願して、一日中にぎわいを見せます。祭りの中でひときわ目を引くのが、ガマの油売り口上で、門前から境内までいたるところで口上が繰り広げられ、人の輪ができているのもガマ祭の特徴でしょう。それぞれ口上士のキャラクターがあって一日中聞いていてもあきないというのもおもしろい祭りです。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
[埼玉県写真資料]稲刈りあと・わらの天日干し、撮影場所:埼玉県深谷市、撮影年月日:2002年10月14日。稲を刈り取ったあとのわらの天日干しのようす。
岐阜県各務原市 吉田範雄
[東京都写真資料]安藤広重住居跡、撮影場所:東京都中央区京橋1丁目、撮影年月日:2003年10月12日。安藤広重は1849年から没年の1858年までの10年間を京橋で暮らしました。写真はその住居跡を示す説明版です。安藤広重は歌川広重ともいい、1797年生、江戸出身、「東海道五十三次」「名所江戸百景」など風景版画で有名。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]松尾芭蕉の句碑(浅草寺)、撮影場所:東京都台東区浅草寺、撮影年月日:2003年11月16日。「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲 はせを」この句碑は、1796(寛政8)年10月12日、松尾芭蕉の103回忌に建立されたもの。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「谷崎潤一郎生誕の地」石板、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋人形町。谷崎潤一郎の妻で随筆家として知られる谷崎松子の書の「谷崎潤一郎生誕の地」石板です。谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治19年7月24日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。「細雪」「春琴抄」など数多くの名作を残しました。耽美派作家。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「谷崎潤一郎生誕の地」説明板、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋人形町。説明板には、「谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治19年7月24日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。・・・」と中央区教育委員会によって記載されています。日本橋人形町は、「細雪」「春琴抄」で有名な耽美派作家・谷崎潤一郎の生まれ育った町です。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「吉田松陰の留魂録」石碑、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。吉田松陰終焉(しゅうえん)の地は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡。現在は、十思(じっし)公園になっています。1859年安政の大獄には、吉田松陰ら90余名が収容された場所です。松陰は、1830年長州萩の松本村出身。写真中央の大きな石碑は、松陰が処刑の直前2日間で書き上げた「留魂録」の冒頭に記してあった歌です。「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛子」と刻まれています。風化のため写真から文字を読み取るのは難しい。写真の右側の石碑が「松陰先生終焉之地」、左側の石碑は「吉田松陰先生略歴」。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「吉田松陰先生略歴」石碑、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。吉田松陰を顕彰した碑。写真をディスクに保存して拡大表示していただければ、その内容を読み取ることができます。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「按針通り」の標識、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋。三浦按針(みうらあんじん)の屋敷があった通りを、現在でも「按針通り」と呼んでいます。写真は通りの電柱に掲げられた「按針通り」の標識です。三浦按針は、ウィリアム=アダムズの日本名。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「松陰先生終焉之地」石碑、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。吉田松陰終焉(しゅうえん)の地は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡。現在は、十思(じっし)公園になっています。1859年安政の大獄には、吉田松陰ら90余名が収容された場所です。松陰は、1830年長州萩の松本村出身。碑の書は文部大臣荒木貞夫。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]「石町時の鐘」「傳馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」の石碑と説明板、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。「石町時の鐘(こくちょう ときのかね)」「傳馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」の石碑と説明板で、江戸通り(国道4号線)に面している場所にある。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]三浦按針屋敷跡、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋。ウィリアム=アダムズは、1564年イギリスのケント州生まれで、1600年に渡来し徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を与えられました。日本名三浦按針(みうらあんじん)は、相模国三浦逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来しています。この地も昭和初年まで按針町と呼ばれていました。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]仲見世商店街、撮影年月日:2003年11月16日、撮影場所:台東区浅草。「浅草雷門」から浅草寺までの通りを仲見世通りといいます。両脇には浅草のお土産もの屋さんがびっしりと並んで、整った門前町となっています。近年、海外からの観光客がたいへん多くなっています。仲見世は、日本で最も古い商店街・門前町の一つです。江戸時代、元禄・享保(1688~1735)の頃、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられたことが仲見世の始まりです。現在の仲見世商店街は、長さは約250メートルの通りに89店舗があります。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]伝法院(でんぽういん)、撮影年月日:2003年11月16日、撮影場所:台東区浅草。写真は伝法院(でんぼういん) の門。伝法院とは浅草寺の総本坊で正しくは「伝法心院」といい、住職の居住する本坊の称号のことです。この門の奥にある建物のうち、客殿、表玄関、使者の間、大台所の一部は1777(安永6)年の建造で、関東大震災や戦災からも免れた貴重な建てもので、門内は一般非公開となっております。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)跡、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。写真は伝馬町牢屋敷のあった大安楽寺。石碑は「江戸伝馬町牢御たく場跡」と記載されている。伝馬町牢屋敷は、1615年から1875(明治8)年廃止になるまで存続した。この260年間に入牢したものは数十万人を数えたといわれる。場所は、現在の大安楽寺(明治8年建立)、身延別院、村雲別院、十思スクエア(旧十思小学校)、十思公園を含む地域。1858(安政5)年9月から翌年12月までの1年3か月の期間が「安政の大獄」で、幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが尊皇攘夷派・一橋派の大名・公卿・志士(活動家)を弾圧。弾圧された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など50余人が伝馬町牢屋敷に入れられ、そのほとんどを処刑された。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]勝海舟の像(1)、撮影年月日:2003年11月23日、撮影場所:東京都墨田区。勝海舟生誕180年の2003(平成15)年に墨田区の隅田川河岸に建てられた勝海舟像。写真の左手は首都高速と隅田川、写真の右手は墨田区役所。、勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のちに安房、安芳)、1823江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれ、1899(明治32)年赤坂の氷川邸で逝去。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]勝海舟の像(2)、撮影年月日:2003年11月23日、撮影場所:東京都墨田区。勝海舟生誕180年の2003(平成15)年に墨田区の隅田川河岸に建てられた勝海舟の銅像。、勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のちに安房、安芳)、1823江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれ、1899(明治32)年赤坂の氷川邸で逝去。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]勝海舟の像の碑文「建立の記」、撮影年月日:2003年11月23日、撮影場所:東京都墨田区。勝海舟生誕180年の2003(平成15)年に墨田区の隅田川河岸に建てられた勝海舟像の碑文「建立の記」。、勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のちに安房、安芳)、1823江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれ、1899(明治32)年赤坂の氷川邸で逝去。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]按針通りの町並み、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋。三浦按針(みうらあんじん)の屋敷があった通り「按針通り」の町の景観です。三浦按針はウィリアム=アダムズの日本名。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]日本国道路元標、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋。「日本橋」の橋の真ん中に設置されている「日本国道路元標(げんぴょう)」のプレート。道路元標とは路線の起点・終点またはおもな経過地点を表示する標識のこと。「日本国道路元標」を起点にしている国道は、国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号。道路の案内標識で「東京○○km」という時の「東京」とは、日本橋の「日本国道路元標」を起点にしている。他の道府県ではそれぞれの県庁前までを基準としていて、東京だけが特別な扱いになっている。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]日本橋の日本国道路元標、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋。写真は、日本橋の中央付近。道路のセンターラインに「日本国道路元標」のプレートが設置されている。日本橋の真上を首都高速道がかかっている。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]江戸伝馬町処刑場跡・伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)跡、撮影年月日:2003年10月12日、撮影場所:東京都中央区日本橋小伝馬町。写真は伝馬町牢屋敷のあった大安楽寺。伝馬町牢屋敷は、1615年から1875(明治8)年廃止になるまで存続した。この260年間に入牢したものは数十万人を数えたといわれる。場所は、現在の大安楽寺(明治8年建立)、身延別院、村雲別院、十思スクエア(旧十思小学校)、十思公園を含む地域。1858(安政5)年9月から翌年12月までの1年3か月の期間が「安政の大獄」で、幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが尊皇攘夷派・一橋派の大名・公卿・志士(活動家)を弾圧。弾圧された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など50余人が伝馬町牢屋敷に入れられ、そのほとんどを処刑された。
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[東京都写真資料]浅草寺の山門「宝蔵門(ほうぞうもん)」、撮影年月日:2003年11月16日、撮影場所:台東区浅草。雷門から仲見世通りを通って浅草寺本堂に行く途中に宝蔵門があります。宝蔵門は、上層部分に国宝の法華経と重要文化財の「元板大蔵経」「元版一切経」や寺宝が収蔵されているので「宝蔵門」といいます。写真のたくさんの提灯の陰になっていますが、門の正面左右に、呵形像(右側)、吽形像(左側)の仁王像がまつってあるため、別名「仁王門」と呼ばれています。また、「小舟町」とかかれた中央の大きな提灯は、日本橋小舟町の人たちが寄進したものです。
東書Eネット事務局
[東京都写真資料]浅草寺本堂、撮影年月日:2003年11月16日、撮影場所:台東区浅草。浅草寺(せんそうじ)は、東京都内最古の寺院。聖観音宗の総本山。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と呼ばれている。浅草寺(せんそうじ)は地元では浅草寺(あさくさでら)とも呼ぶ。本堂は南向きに建っていて、棟が高く急勾配の屋根が特徴。浅草寺旧本堂(国宝指定建造物)は、1649(慶安2)年に完成し、1721(享保6)年に大修復が行われ、1945(昭和20)年戦災で焼失。現在の本堂は1958(昭和33)年に再建されたもの。
東書Eネット事務局
撮影年月日:2008年2月15日、撮影場所:千葉県銚子漁港。銚子は古来、零細漁業と農耕によって生計を営む一漁村であったが、紀州からの人々が行き来するようになってから、開発が進んだといわれる。写真の第一魚市場は昭和7年に完成した。以来千葉県下、地元漁船はもとより、北は北海道から南は沖縄に至る沖合漁船の一大根拠地として、50有余年の歴史をへて発展を遂げている。 銚子沖は寒暖流の交錯する好漁場を有するため、イワシ、サバ、サンマ、カツオ、マグロ類、ブリ、アジ、ヒラメ等の魚種も豊富である。これらの魚介類を扱う市場も拡張され、第一、第二、第三と整備拡充がはかられ、全国有数の漁業基地として発展している。
元さいたま市立西原中学校 森住雄一
撮影年月:2009年1月3日、撮影場所:千葉県立房総のむら 。「千葉県立房総のむら」は江戸時代の商家の町並みや農家が再現され、いろいろな演目を体験できることに重点をおいた博物館です。毎年、正月に行われる「むらのお正月」というイベントでは、古き良き時代の遊びや獅子舞などが上演され、多くの家族連れでにぎわいます。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
1954年(昭和29年)から続く「だるま供養」祭、毎年2月3日の節分の日に行われます。一年間、家内安全や商売繁盛のために飾っておいただるまを寺に納め、新しいだるまをだるま市で買い替えて、この日にお焚き上げ供養する伝統行事です。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
「かつうらビッグひな祭り」は、千葉県勝浦市内各所の会場にたくさんのひなが飾られる、春の風物行事です。2001(平成13)年から行われ、今年で9回目となります。主な会場だけで17か所、その他、商店の店先もひな人形で彩られます。2月下旬から3月3日まで、約2週間開催されます。
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撮影年月日:2003~2005年の9月、2007~2008年の9月、撮影場所:茨城県牛久市内・埼玉県日高市巾着田(きんちゃくだ)。名前の彼岸とはお彼岸のころ(秋分)に咲くことから名付けられ、曼珠沙華とは法華経の経典に由来しています。現在は初秋の里の風情として定着し、農作業が完了した秋彼岸のころに一斉に咲き出す光景を撮影しました。
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撮影年月日:2009年9月18日、撮影場所:神奈川県鎌倉市御霊神社。鎌倉市坂ノ下の御霊(ごりょう)神社は、もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の五氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。後に、鎌倉権五郎景政の一体のみに集約され、祭神の名から権五郎(ごんごろう)神社と呼ばれるようになりました。
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撮影年月日:2009年10月11日、撮影場所:千葉県香取市。小江戸佐原の一大イベント、江戸まさり「佐原の大祭」は、7月の八坂神社祗園祭と、10月の諏訪神社秋祭りの総称をいい、約300年の伝統を有します。江戸時代すでに「見物の群衆、人の山をなし」(赤松宗旦)といわれるにぎわいを見せ、華麗な山車と哀愁を帯びた佐原囃子が特徴です。2004年には「佐原の山車行事」が「佐原囃子」とともに国の重要無形文化財に指定されました。古い町並みの残る小野川沿いを行き交う山車の姿は、佐原の特色を生かした見所の一つです。佐原の町に「小江戸のにぎわい」がよみがえる3日間です。 (佐原の大祭実施本部チラシより)
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撮影年月日:2008年1月、4月、2009年1月、3~4月、撮影場所:茨城県牛久市内。社会問題となっている高齢社会は、環境にも大きな影響を与えています。特に、自然環境では、農家の高齢化と後継者不足によって、都市近郊の森林は半ば放棄されて、温室効果ガスの吸収源としての機能を失っています。特に、スギ・ヒノキの人工林は荒れるに任せ、遷移が進んでいます。遷移とは、人工林に人の手が入らないことにより、本来の原生林(常緑広葉樹)に戻っていくという現象です。このような状況の中で、都市近郊のNPO法人や市民団体が立ち上がりました。人も動物も寄せつけない、荒れたヤマ(里山などの雑木林や針葉樹林)を管理して、健康な森林にしたいからです。その大半がボランティア活動で、大きな課題に取り組んでいます。荒廃して昼なお暗いヤマを再生するのです。翌年の春、その林床からは絶滅とされた希少植物の芽生えを確認することができ、人工林と人間との共生は切っても切れない関係にあることがわかりました。
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東京時代まつり実行委員会主催の祭りで、今年は第21回を迎えました。毎年11月3日の文化の日に、平安時代、江戸開基から明治に至るまでの、歴史的な人物風俗などの扮装で行列を行うものです。
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イチョウ 和名:銀杏、公孫樹中国原産の落葉高木で、室町時代から日本各地に植えられました。高さは20~30mにも達し、針葉樹とされる場合もありますが、厳密には広葉樹にも針葉樹にも属さない原始的な平行脈を持つ樹木です。病虫害にも強いイチョウは、巨木とされる大きなものが各地の神社仏閣に見られます。
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千葉県成田市の成田山新勝寺で12月28日、年末の風物詩となっている「納め札お焚きあげ」(柴灯大護摩供・さいとうおおごまく)が行われました。お札は不動明王の分身とされ、お札を不動明王の「智慧の炎」に返すことで、1年間の無病息災に感謝する意味があるといわれています。山伏姿の僧侶が本尊の分身とされる約5万体の古い札を炎の中に投げ入れ炊きあげられました。成田山新勝寺はこの行事を最後に、お正月を迎えます。
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神社仏閣に残る巨木にはイチョウやスダジイ、カヤ、ケヤキなど数多く残されていて、その多くが天然記念物などに指定されています。また、原生林の奥深く、人知れず成長した巨樹には洞ができて、小動物やフクロウなどの巣として利用されるものもあり、まさに森の風格が備わっています。
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千葉県香取市の側高神社(そばたか)に伝わる伝統行事で、今から800年前の建保2年(鎌倉時代)に始められたと伝えられ、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する伝統行事です。
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ひな祭りの町おこしが盛んになってきました。2月になると、町おこしの一環として各地でひな祭りが催されます。茨城県の土浦市では土浦城の城下町として栄えた蔵の町、「土浦のひな祭り」。石岡では常陸国府が置かれたという古い町並みを利用した「いしおか雛巡り」。取手市では水戸道中(街道)取手宿と銘打って「取手宿ひな祭り」等々、超高齢社会の進展と活気を取り戻したい地方都市の思いが伝わってくるイベントとして注目されています。
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雑木林は人間がつくり出した二次自然で、この環境に順応した動植物の生態系ができあがっていますが、高齢化と後継者不足によって、管理の手が行き届かなくなり、荒廃が進んでいます。温室効果ガスの吸収源でもある二次林の保全はNPOや市民団体の手で始まっていますが、整備が行き届いていません。管理された雑木林の春は特に美しく、春を待ちこがれたようにスミレなどの山野草が一斉に咲き出します。
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毎年、1月末からおよそ二ヶ月間開催される伊豆大島の「椿祭り」は伊豆大島最大の祭りとして定着しています。東京竹芝や熱海、伊東などから、ジェット船によって距離感が無くなり、大勢の観光客で賑わいます。観光客は椿のトンネルや大島公園の色とりどりの椿を満喫し、更には、三原山や雄大な自然にも酔いしれていました
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佐倉時代祭は今年で21回目を迎え、初代佐倉藩主であり、草創期の江戸幕府を支えた土井利勝公が佐倉に入封されて400年の節目の年にあたります。そこで、まつりの名前に「11万石」の文字を入れ「佐倉11万石時代まつり」となりました。参加した甲冑隊などは横須賀や館山などから応援に駆けつけ、大変な盛り上がりで、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えました。
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ブナやミズナラの原生林の林床で、スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)と呼ばれる野草が、短い春を満喫しています。これらの花は、春先に花をつけ、夏まで葉をつけると、あとは地下で過ごす一連の野草の総称で、「春の儚いもの」等と直訳されます。カタクリ、イチリンソウ、ニリンソウ、アズマイチゲ、キクザキイチゲ、ヤマエンゴサク、ムラサキケマン、エゾエンゴサク等の他に、里山では福寿草などがスプリング・エフェメラルと呼ばれる野草です。
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東京下町の夏の風物詩「浅草寺ほうずき市」は江戸庶民の楽しみの一つでした。観音様の功徳日で日数の一番多いのが7月10日で、この日にお詣りすると四万六千日分に相当すると云うことで、江戸時代からこの日のお詣りが盛んになってきました。7月9日、10日の四万六千日の日、浅草寺境内は数百店の「ほうずき屋」と風鈴屋が軒を並べ、境内は熱気で埋めつくされます。7月9日、10日の2日間だけ浅草寺から竹串にはさんだ三角形の「雷除守護」のお札が出されます。
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東京まで50km圏内の牛久市は谷津をはじめとする里山が数多く残されています。谷津にはしぼり水や湧水が豊富で、里山独特の自然生態系が維持されています。
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東京都では、次代を担う子供たちに対して、親と大人が責任を持って正義感や倫理観、思いやりのある心を育み、人が生きて行く上で当然の心得を伝えていく「心の東京革命」を推進しています。
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森林国と言われる日本にはあらゆる環境に応じた樹木が生育しています。一次林と言われる自然林の他、人間がとことん関わって作り上げた二次林(雑木林など)大変豊かな植生が残されています。ここでは、茨城県にみられるのいくつかの樹木を紹介します。森林国と言われる日本にはあらゆる環境に応じた樹木が生育しています。一次林と言われる自然林の他、人間がとことん関わって作り上げた二次林(雑木林など)大変豊かな植生が残されています。ここでは、茨城県にみられるのいくつかの樹木を紹介します。
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日本の原風景といわれてきた雑木林(平地林)が史上最大の危機に遭遇しています。カシノナガキクイムシ(略称カシナガ)という小さな昆虫が媒介する病原菌により、ナラ類、カシ類、シイ類といった雑木林の主要木が枯死する被害が拡大しています。そういう中で、今月は健康な雑木林の四季を特集しました。
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一年で一番明るくなった雑木林には冬鳥たちの賑やかなさえずりが聞こえてきます。春先は、雑木林の中でも餌は乏しく、美味しくないウメモドキやナンテンの実までも食べ尽くしてしまいます。コナラやクヌギの雑木林の林床では、枯葉をひっくり返して昆虫を探す野鳥(シロハラなど)もいて、本当に餌の確保には苦労しているようです。
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筑波山の北側に位置する桜川市(旧大和村)で始まった野外彫刻展は今回8回目を迎えました。農作業が終わった里山に突然現れた彫刻の数々、農家の協力無しは実現できない野外彫刻展です。里山という日本の原風景の中にとけ込んだ彫刻は、まるで生を与えられたように暖かみさえ感じられました。42基の彫刻の一部を掲載しました。
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虫こぶ(虫えい)は、植物の内部に昆虫が卵を産み付けることによって、植物組織が異常な発達を起こしてできるこぶ状の突起で、植物の外観を損ないます。また、植物の葉を大好物とする小さな昆虫の行動を観察すると、素晴らしい能力を持っていることに気付きます。
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さいたま市岩槻は江戸時代から栄えた城下町、全国に名高い人形の産地として知られています。 「人形のまち岩槻 まちかど雛めぐり」の開催期間中は、 今も数多く活躍する職人さんの作品や、商店に伝わる古い人形等を数多く飾ります。 町全体が旧暦のひな祭りまで多くの観光客で賑わいます。
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草木萌えいずるとは、冬枯れの木々の冬芽が日ごとに膨らみ、小さな花を咲かせる頃で、野山は冬枯れの褐色から柔らかで明るい緑に変わっていきます。この時期で一番目立つのは辛夷(コブシ)です。
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水を司どり「生命のおおもと」を守るとされる神仏習合の八大龍王神や、「修験道」の開祖とも言われる秩父霊場開祖役行者(えんのぎょうじゃ)などを祀る神社です。4月4日午前中は「龍神祭」が斎行され、龍神木の前で奉納舞が披露されます。午後からは水分(みくまり)祭が執り行われます。
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新緑の美しさは最高潮に達しました。濃い緑は森を覆い、林床に射す光は日ごとに弱くなっています。その葉陰で人知れず咲く小さな花や小さな虫に蹂躙される若葉は健康な自然を感じさせます。雑木林に咲く花はこの時期がほとんど最後になり、これから先は昆虫の天国になります。
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小田原市最大のお祭り。北條五代とは戦国時代、小田原を統治した早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直のこと。関東の中心となった百年は政治的な栄華だけでなく文化も花開いたと言われている。今回は東日本大震災に伴う自粛で、例年よりも規模を縮小して行われた。メインの武者行列の参加者は例年2000人の1/10で行われた。
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「大江戸骨董市」は2003年江戸開府400年記念事業としてスタートした骨董市で、現在では250店以上が出店し、地の利を活かし、国際色豊かなイベントとして定着しています。また靖国神社の「青空骨董市」は1998年から始まった骨董市で、外苑参道には全国から100店近くが集まり、多くの人で賑わっていました。
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梅雨時と言うと、じめじめ、むしむしと爽やかな感じがしませんが、里山では生きものや植物が一年で一番大事な季節となっています。生きものたちは種を後世に引き継ぐため、巣作りを始めます。そしてこの季節に似合う梅雨時の名花、アジサイやハナショウブが妍を競います。
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里山は人の手によって管理され、現代に引き継がれてきた日本を代表する二次自然です。しかし、高齢化の進展で、里山は放置され、動植物の生態系に大きな影響が出始めています。今回は里山に生息するさまざまなチョウを紹介します。
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里山は薪炭に利用するため、クヌギやコナラが主体の落葉広葉樹林となっています。この自然は生物多様性という面ですぐれた自然環境が形成され、その環境でしか生息できない昆虫も多く、日本独特の自然環境とされています。
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今回は雑木林の盟主と言われるような樹木の樹皮を特集しました。取り上げた写真は、アカマツ(赤松)・ヒノキ(檜)・スギ(杉)・ヤマザクラ(山桜)・ケヤキ(欅)・スダジイ(椎) ・クヌギ(椚)・コナラ(木楢)・エノキ(榎)・カヤ(榧)の樹皮です。
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針葉樹には「常緑」と「落葉」があります。今回は、常緑の代表的なものを紹介します。(1)スギ(杉) (2)ヒノキ(檜) (3)アスナロ(翌檜) (4)イチイ(櫟) (5)ウラジロモミ(裏白樅) (6)カイズカイブキ(貝塚伊吹) (7)クロマツ(黒松) (8)ゴヨウマツ(五葉松)(9)サワラ(椹) (10)モミ(樅)の葉を中心にまとめました。
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笠間稲荷神社絵馬祭(かさまいなりじんじゃ えまさい)は、笠間稲荷神社の御縁日である旧暦の初午(はつうま)大祭に併せて行われ、絵馬に託された願い事が成就するよう祈念する神事です。
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常緑広葉樹ツバキ、サザンカ、シラカシ、シロダモ、モチノキ、アオキ(雄株)・(雌株)、タラヨウ、ヤツデ、ヒサカキの「葉」の写真資料です。
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夕焼けの赤い色は、太陽の高度が低いため、空気の中を通る太陽光線の距離が長くなります。したがって、波長の長い光線しか届かず、朝夕の色は黄色や赤色が強くなります。
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神奈川県湯河原町の「土肥祭」の武者行列は、治承4年(1180年)に平家打倒を掲げ挙兵した源頼朝に、湯河原を本拠・領地としていた土肥実平が一族を従えて源氏に加わった歴史を再現したお祭りです。
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日本人が適度に関わって作り上げた貴重な二次自然には、日本の原風景と云われる「雑木林」があります。盟主コナラやクヌギに混じって、雑木林の林床には雑木林のマイノリティーと言った感じの低木や灌木が存在します。春たけなわの4月、人知れず咲く小さな花があります。今回は雑木林の春の花を特集しました。
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笠間芸術の森公園内のイベント広場で、ゴールデンウィーク(4月29日から5月5日)に開かれる笠間の陶炎祭(ひまつり)。約200人の窯元や陶芸家たちが一堂に会し、作品を直接販売する一大陶器市です。他にも土面コンクールやコンサートなどの催しも開かれ、期間中だけで30万人以上の来場者で賑わいます。
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今回の写真は牛久市の根古屋川(ねごやがわ・牛久沼の流入河川)をテリトリーとするつがいで、毎年多くの雛を孵しています。昨年は6羽、今年は3羽が孵り、元気に育っています。ハクチョウは本来冬鳥ですが、こちらのハクチョウは完全に留鳥として一年中牛久沼に生息しています。
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梅雨時の平地林(雑木林)や草原を歩いてみると、普段あまり見られない珍しい花や実を観察することができます。花期が終わってしまうと、濃緑色に変わった里山ではその存在すら見つけることはできません。この時季が肝心です。そして、意外と要注意植物が多いことも注意を要します。
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東京都港区の愛宕神社の「千日詣り ほおずき縁日」は社殿前にしつらえた茅の輪(ちのわ)をくぐりお参りすれば千日分の御利益があると昔から信仰され、境内で自生していたほおづきを飲めば子どもの癇・婦人病に効くと言われていました。「ほおづき市」や「羽子板市」は浅草が有名ですが、もともと愛宕神社から始まったものです。
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日本国内の生態系に大きな影響を及ぼす外来種を環境省は特定外来生物法によって「特定外来生物」の指定を行っています。そして、現時点での指定はされていませんが、今後の検討結果によっては指定される可能性のあるものを、「要注意外来生物」にリストアップしています。また、日本生態学会が独自に指定する「侵略的外来種ワースト100」の指定もあります。このように駆除しなければならない生物が足下に広がっています。
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高品質な氷「純氷」を PR することを目的としてスタートした「純氷まつり」(東京氷卸協同組合主催)は今年で 6 回目。純氷(48 時間かけて凍らせた堅く溶けにくい透明な氷)に直に触れていただき、製氷機や家庭の冷蔵庫で作った氷との違いやたくさんの魅力を体感するイベントです。
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朝夕は、大気層を通過する太陽光の距離が非常に長くなり、散乱しやすいため、波長の短い緑~青~紫の光がほとんど届かなくなります。そして、波長の長い赤色の光が届くようになり赤く見えます。朝夕の色を比較しますと、夕方のほうが塵や分子が多くなり、夕日のほうが赤くなりやすいようです。この美しい「空の色」を、昔の人たちは美しい言葉で表現しました。朝日を、茜、曙、暁、東雲(しののめ)等々。そして夕日を、夕焼け、黄昏、夕映え、夕影(せきえい)等。これらの言葉は万葉集等にも度々登場します。
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茨城県日立市では、5月12日(土)(日立会場)・13日(日)(多賀会場)の両会場にて、「ひたち国際大道芸」が開催されました。昨年は東日本大震災の影響で中止となりましたが、20周年を迎えた今回は「震災からの復興・よみがえり」をテーマに開催、世界から36組のパフォーマーやジャグラーが参加し、さまざまなジャンルの大道芸が展開されました。
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里山とは、ヤマ(平地林・雑木林)、ノラ(田畑)、ムラ(農村集落)の三拍子揃ったところを里山と呼んでいます。この環境は人間が長い時間をかけて作り上げた日本独特の二次自然があります。その里山の中心に位置するのは雑木林で、この環境にしか順応出来ない動植物が生息しています。
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牛の角突き(うしのつのつき)とは、新潟県長岡市(旧山古志村)、小千谷市などの「二十村郷」周辺で江戸時代より行われている闘牛の一種。神のお祭りとして行われてきた牛の角突きは、滝沢馬琴の書いた「南総里見八犬伝」に最も貴重な記録として残され、闘牛の激闘ぶり、盛観を形容して「実に是、北国中の無比名物、宇内の一大奇観なり」と書かれています。(出展 山古志商工会HPより)
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自然現象や動植物の生態を通じて天気を予想することを「観天望気」と言い、古くから言い伝えられてきた諺を「天気俚諺」(天気のことわざ)と云います。特に天気俚諺は地形や風土によって地方ごとに異なりますが、基本的には同じです。これらの的中率は高く、昔の人びとが日々培ってきた生活の知恵と云えるでしょう。
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スカイツリーの足下、旧水戸徳川家下屋敷・小梅亭に隣接する「牛嶋神社」で5年に一度の大祭が行われました。今年は御鎮座1155年と言う歴史のある祭りです。 牛嶋神社は明治初期に隅田川に沿う旧本所一体を「牛嶋」と呼ばれ、その本所の総鎮守として「牛嶋神社」と称したというゆかりの神社です。
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冬枯れの季節に入りました。雑木林は降り積もった枯葉がふわふわの絨毯のようです。この暖かな絨毯の中には冬を越す小さな生きものがいっぱい。しかし、これから来る厳しい冬に向かって、冬を越せない生きものや、種を繋ぐための行動をする生きものなど、多くの姿が見られます。
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鳥越神社は蔵前橋通りに面し、1350年の歴史のある神社です。日本武尊を主祭神に祀り、1月8日とんど焼きや、6月9日に近い日曜日に繰り広げられる大神輿の渡御が有名です。鳥越神社の御本社御輿は、千貫御輿といわれ東京一の重さが有るといわれています。
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どんなに寒くても水鳥たちは元気です。湖面に氷が張ると、ハクチョウたちは体をぶつけて氷を割り、邪魔な氷を嘴でよけるというすごい行動に出ます。水路が出来ると、小型の水鳥、オオバン、ユリカモメ、カルガモなどが後に続き、餌場(餌付け場)にたどり着きます。茨城県の牛久沼は一年中多くの水鳥で賑わいますが、特に餌が不足する厳冬期は、水鳥の目つきも真剣です。数え切れないほどの水鳥が乱舞していますが、一羽ずつ微妙に表情が異なるのがわかります。
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埼玉県さいたま市で正月に行われる七福神巡りにあわせ、3日に仮装パレードが行われました。七福神仮装パレードは福をもたらすと云われている7人の招福の神様に扮装した地元の方々が七か所の寺社を巡るというお祭りです。旧与野市の時代に、地域の活性化を目指して市民主導で始まった祭りも今年で30周年を迎えました。各寺社では七福神から参拝者に宝銭が配られました。
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里山を朝早く歩いてみると、不思議な光景に出会えます。シモバシラ(シソ科 多年草)の霜柱は氷点下の朝でなくては見られませんし、枝のふりして越冬するイトトンボ(細身越年蜻蛉・ホソミオツネントンボ)など、この時期でしか見ることが出来ません。そして冷たい風に揺れる木の実や昆虫の繭が枯れ枝のなかでひときわ目立っています。
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“うそ”は幸運を招く鳥とされ、毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪い事が“うそ”になり、一年の吉兆(きっちょう)を招き、開運・出世・幸運を得ることができると信仰されてきました。江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがありましたが、現在は神社にお納めし新しいうそ鳥と取替えるようになり、1月24・25日両日は多くのうそ替えの参拝者で賑わいます。
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現代日本の課題、超高齢社会は人工林を蹂躙し続けています。森林を管理する担い手が大きく不足しているため、荒廃林が広がり、遷移が進んでいます。国内の大部分は人間が創り出した「二次林」(人工林)で、人間が関わって創り出した貴重な自然です。しかし、人間との関わりがなくなると、二次林は本来の植生に戻りつつあります。これを遷移と呼んでいます。放置されたスギ山などには、常緑広葉樹が広がり、「一次自然」に戻りつつあります。
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毎年2月25日に行われる、和良比(わらび)はだか祭りは、春を告げる四街道の奇祭です。通称「どろんこ祭り」と呼ばれています。祭りは、大六天とも言われる皇産霊(みむすび)神社で祝詞奏上から始まります。
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3月に入ると気温も徐々に上がり、半ばを過ぎる頃になるとコブシが咲き出します。コブシの花は冬枯れの里山に春を告げるかのように、人も自然も一斉に動き出します。コブシの花は「田打ち桜」とも呼ばれるように農作業の開始の合図とされて来ました。そして木々の芽は一斉に膨らみ花を咲かせます。その短い春に咲く色とりどりの花を特集しました。
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川越に春を告げる名物イベント第24回小江戸川越春祭りがスタートしました。春祭りは3月30日から5月6日まで約一か月間「蔵造りの町並み」周辺で各種イベントが開催されます。30日はオープニングイベントとして、開会式の後、鼓笛隊パレード、民謡連盟の民謡流し、鳶はしご乗り等がオープニングに華を添えました。そして初日のメインイベントとなる、川越藩火縄銃鉄砲隊の演武です。
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里山は新緑の季節を迎えました。雑木林の木々は柔らかな若葉で埋め尽くされ、野鳥は抱卵をはじめます。この時季になると、早春の花から初夏の花にバトンタッチします。雑木林の林床には小さな野草が次々と花を付け、昆虫を誘っているようです。
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北茨城市華川町にある花園神社の例祭で、笛・太鼓とともに演じられる獅子舞です。8歳から13歳位までの男児が演じる、角2本の親獅子・寄獅子、角1本の牝獅子からなり、優雅にして野趣に富み、古い型を良く伝えています。その縁起は古く、前九年・後三年の役のおり、源頼義・義家父子が戦勝祈願のため奉納したのが始まりとされている。現在使われている獅子頭は、江戸時代末期の作と伝えられています。
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新緑に萌える春が終わり本格的な初夏を迎えました。雑木林は淡い緑から濃緑色に変わり、多くの昆虫が活動をはじめました。そして里地の農業も本格的な時季を迎えています。この里地・里山で、人の営みと共に多くの生きものも活動をはじめます。
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三囲神社(みめぐりじんじゃ)で、木遣り唄奉納が行われました。木遣り唄とは、江戸時代に複数の人員で力を合わせる際の合図として歌っていた労働民謡のことで、今では江戸消防記念会が大切に受け継いでいます。
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牛久市の観光アヤメ園で、カルガモの雛が孵化しました。毎年抱卵はするのですが、カラスやヘビ、時には人間によって孵化することは出来ませんでした。そこで、池の中に小さな島を作り、邪魔が入らないような工夫を施しました。約半月の成長記録を特集しました。
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成田祇園祭は、成田山新勝寺のご本尊不動明王の本地仏である奥之院に奉安された「大日如来」に五穀豊穣・万民豊楽・所願成就を祈願する「成田山祇園会(ぎおんえ)」と、成田山周辺の町内が一体となり行われる夏祭りで、約300年の歴史があります。
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都市部で見られるセミは、梅雨の半ばから鳴き出す「ニイニイゼミ」、梅雨明けが近づくと鳴き出す「ヒグラシ」。そして梅雨明けを待ちかねたように鳴き出す「アブラゼミ」。その後、ミンミンゼミ、ツクツクボウシと続いていきます。最近では茨城県つくば市あたりにも「クマゼミ」が確認されています。温暖化の影響でしょうか。アブラゼミは産卵後7年もの間地中生活と云われていますが、学者の間でも7年の根拠はないと云われ議論が続いています。4年説、5年説など幾つもの説があり結論は出ていないようです。いずれにしましても、長い地中生活にピリオドを打ち、やっと地上に出て、短い夏を過ごそうとしている矢先に、捕食者によって、セミの個体が激減しています。捕食者とは、カラス、オオタカ等。
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栃木県立田沼高校の校内に育つ植物を、1年間にわたり観察・撮影しました。2008年4月から2009年8月までに撮影した写真を紹介します。
栃木県立田沼高等学校 川島基巳
雨水の一滴一滴を大切に集め、洪水の抑制と、水資源の確保に役立つ「水源涵養林」は一般には国有林として管理されています。この森に降った雨は、幾筋もの小さな流れつくり、その水を集めて渓流が出来ます。その水は、時には山地の平坦な部分に高層湿原を作り、生物の多様性を育み、最後は滝となって下界に下ります。また、人工的に作られたダム等によって人工的な滝が出現します。ダムの水は洪水を抑制しながら、下界へと下り、飲料水や農業用水として利用されます。農村部では、土地改良によって湿田が乾田化された後、モザイクのような美しい水田に農業用水として供給されます。そして全ての役割を終えた水は、都市河川に流れ込み、最後は海へ流れ込み、短い水の旅は終わります。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
茨城県北相馬郡利根町の徳満寺に伝わる祭で、利根川流域のごく限られた地域で見られる奇祭。龍の縄飾りをあしらった太刀で厄除けと五穀豊穣を祈念し町を練り歩く祭。太刀は長さ3間、周囲70cmのものと、長さ2間、周囲40cmのもの2本からなる。祭の起源は定かではないが、太刀には天保年間(1830~40年)という文字が記されていること、さらには、地蔵尊に命を助けられた寺男が、疾病退散を願い太刀を担いで町を練り歩いたという民話が残されていることなどが起源を知る手がかりとなろう。徳満寺は民俗学者として知られる柳田国男の生家に近く、氏に影響を与えた「間引きの絵馬」や小林一茶の句が残されている古刹。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
アジサイの季節がやってきました。アジサイはユキノシタ科の落葉低木で、梅雨時の名花と称されます。最近、庭木として、また園芸用の鉢植えなどで見られる「アジサイ」はセイヨウアジサイのことで、丸いぼんぼりのような花は全てが「装飾花」です。花びらのように見えるのは萼で花にも雄しべや雌しべはありません。日本固有種のアジサイが海外に持ち出され、品種の改良によって現在のようなアジサイが出来ました。日本固有種のアジサイと言えば、「ガクアジサイ」です。この花には両性花があります。中心に両性花、周囲に装飾花という配置で、前者よりも美しく感じます。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
「自然観察の森」とは、環境庁が昭和59年度から5ヶ年間の補助事業として実施した「身近な自然活用地域整備事業」で整備された森のことです。全国10カ所の「自然観察の森」は、各自治体によって管理・運営されています。牛久自然観察の森は来園者数で年間60,000人を超え、全国一位になりました。ここは県内外から多くの学校が環境教育の場として活用されています。年間を通して、里山の管理で不要となった間伐材やモウソウチクなどを利用したイベントが行われ、今回は中秋の名月に竹ランタンまつりを開催しました。今年の春から、出前講座や各種イベントにブースを出し、親子で好みのランタンを作ってもらいました。そのランタンは、まつり終了後持ち帰っていただきました。今回第一回のまつりとなりましたが、首都圏各地から多くの親子が参加されました。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
箱根七湯発祥の地 箱根湯本温泉郷では、毎年、文化の日の11月3日に、伝統的な箱根大名行列が、盛大に開催されます。全国各地に時代まつり等の時代絵巻が再現されていますが、箱根の大名行列は小田原藩の格式に則った大名行列で、きちんとした時代考証の上に再現した大変見応えのあるものでした。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
秋の里山は色とりどりの美しい景観を見せてくれます。小さな草花や木々の実は、色とりどりの美しさを存分に堪能させてくれます。その中には不思議な果実もあります。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
[埼玉県]三十槌(みそつち)の氷柱、撮影年月:2004年2月8日、撮影場所:埼玉県大滝村三十槌(みそつち)。大滝村三十槌(みそつち)の氷柱(ひょうちゅう)は、毎年1月下旬~2月中旬にかけて荒川の対岸に出現します。場所は、埼玉県大滝村役場を過ぎて三峰神社(みつみねじんじゃ)と雁坂峠(かりさかとうげ)への分岐(T字路)を三峰神社方面に20分位歩いた河原にあります。氷柱の大きさは、年によって違いますが、幅60メートル、縦7~8メートルになります。
沖縄県 吉田輝美
[群馬県]浅間山(あさまやま)、撮影年月:2004年1月31日、撮影場所:群馬県吾妻群長野原町(ぐんまけんあがつまぐんながのはらまち)。浅間山は、長野県と群馬県の県境にあります。上信越国境の長いトンネルを抜けると、この山の姿を車窓から見ることができます。標高は2、568メートルあります。撮影場所の二度上峠(にどあげとうげ、標高1、390メートル)は、県道54号長野原-倉渕(くらぶち)線が通っています。この道路は、群馬県の長野原町・北軽井沢と榛名山(はるなさん)の西にある倉渕村(くらぶちむら)を結ぶ主要地方道路です。
沖縄県 吉田輝美
撮影年月:2004年1月31日、撮影場所:長野県北佐久郡軽井沢町長倉小瀬、長野県側の軽井沢から群馬県側の北軽井沢方面へ抜ける白糸ハイランドウェイの途中にあります。中軽井沢を流れる湯川の水源の滝です。高さ3メートル、幅70メートルの滝で、水量が豊富なために冬でもほとんど凍りません。
沖縄県 吉田輝美
「児童館主催の上州のうどんづくり」、撮影年月:2000年6月、撮影場所:相模原市立大野台児童館、撮影者:神奈川県M.K。児童館でのイベント。父と子どもとの親睦を深め、伝統的な技法を体験する。写真は、うどんを作る機械で、うどんの生地を練ってある程度固まりを、「うどん作成機」に流し込んでいる様子。うどんは、その固まりの長さ分だけ、どんどん細分化されて出てくる。
神奈川県M.K
撮影年月:1999年8月、撮影場所:山梨県 北巨摩郡。武川村フォッサマグナとは日本列島をほぼ南北に二分する糸魚川・静岡構造線の大断層で、写真はその露頭です。1886年にE.ナウマンが命名。フォッサマグナを境に日本列島が東西方向に押しあっているといえます。断層の西側の地蔵ヶ岳・甲斐駒ヶ岳の花崗岩帯が東側の黒い砂岩泥岩層にのしあがる逆断層になっています。
東京都立北多摩高等学校 大桐
ヘール・ボップ彗星、撮影年月:1998年3月、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:長野県 諏訪郡。彗星も太陽系を構成する天体の一員で、長い尾を引いて、ほうきの形に見えることからほうき星とも呼ばれます。彗星は見かけ上、頭部と尾部に分けられます。彗星が太陽から遠く離れているときは、太陽光を反射して見えていますが、太陽から3天文単位くらいの距離に近づくと凍った物質が太陽熱を受けて蒸発を始め、ボーッと広がって見えます。その後、尾の部分はダストの尾とイオンの尾に分かれます。
東京都立北多摩高等学校 大桐
撮影年月:2001年1月、撮影場所:山梨県北巨摩郡山。小屋の冬の楽しみは、薪ストーブの暖かさと冬の星座たちとの星空散歩です。写真はおよそ5時間、カメラのシャッターを開放状態にして撮影したものです。中央の等間隔の3本線はオリオン座の三つ星です。それぞれの星が描く光跡の正体を星座早見盤を使ってさがすこともまた冬の夜の楽しみのひとつです。
東京都立北多摩高等学校 大桐
撮影年月:1999年4月、撮影場所:山梨県北巨摩郡。山梨を代表する甲斐駒ヶ岳(2966m)に沈む冬の星の色がきれいです。右のオレンジ色の線はオリオン座のベテルギウスです。途中で切れている線はこいぬ座のプロキオンです。中央部にはオリオン座の三つ星・小三つ星の線が見えます。左のくっきりとした白い線は全天で最も明るいおおいぬ座のシリウスの線です。星座早見盤(いつ、空のどこにどの星座が見えるかを知る道具)を片手に星の軌跡をたどってみるのも面白いと思います。
東京都立北多摩高等学校 大桐
[千葉県]利根川河口堰、撮影年月:1993年03月、撮影場所:千葉県香取郡東庄町新宿。利根川河口堰は、銚子河口から18.5kmの地点。左岸は茨城県鹿島郡波崎町宝山、右岸は千葉県香取郡東庄町新宿。昭和40年12月に堰本体の工事に 着手し6箇年の工期と、総事業費125億円(黒部川水門の改築も含む)を かけ昭和46年3月竣工しました。参考URL:http://www.water.go.jp/kanto/tonekako/。
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[千葉県]利根川河口堰の魚道、撮影年月:1993年03月、撮影場所:千葉県香取郡東庄町新宿。河口堰左右岸各1箇所に設けられた魚道です。写真は千葉県側です。
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撮影年月:1996年09月、撮影場所:山梨県足和田村・青木ヶ原樹海。一歩樹海の中に入ると太古の自然に包まれた感覚になります。溶岩流の上に樹木が密生しています。撮影時は大雨でしたが樹海の中ではほとんど濡れることはありませんでした。方位磁石が狂って迷いやすいと言われますが、中は意外と明るく、歩道から逸れなければ危険ということはありません。
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[栃木県]ニッコウキスゲ、撮影年月:1994年7月、撮影場所:栃木県・奥日光赤沼。栃木県を代表する花でもあるニッコウキスゲです。栃木県・群馬県・福島県・長野県などの高原でよく見られます。
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[栃木県]山あげ祭り(5枚)、撮影年月:1997年7月、撮影場所:栃木県烏山町市街。烏山町で7月第3金・土・日に行われる「山あげ祭り」のようすです。国の重要無形民俗文化財に指定されています。450年の伝統を誇る野外劇で写真は当番町が中町のときの常磐津「戻橋」です。山は烏山の特産である和紙をつかった巨大な舞台背景を指します。詳しくは http://www.mirubenet.co.jp/kankou/karasu/yamaage1.htm。
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[東京都]三宅島、噴火 1、撮影年月:2000年7月8日、撮影場所:三宅島三宅村坪田。地震は続いていたが、だれしもがもう噴火はないと思っていた時に、思いがけず、雄山が突然噴火した。夕方であったため夕日に照らされて噴煙がオレンジ色に見える。この噴火で坪田地区の三池浜へ始めての降灰があった。茶色っぽくざらざらした粒であった。
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[東京都]三宅島、噴火 10、撮影年月:2000年8月18日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校より。8月18日の大噴火。噴煙があまりにも高く大きいため、雄山全体が灰色になり、薄暗くなってきている。噴煙は徐々に左側の阿古地区方向へ広がっていっている。
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[東京都]三宅島、噴火 11、撮影年月:2000年8月18日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校校庭より。8月18日の大噴火。噴煙はますます高くあがり、坪田小学校の真上の空まで暗灰色の噴煙が迫ってくる。
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[東京都]三宅島、噴火 12、撮影年月:2000年8月18日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校校庭より。8月18日の大噴火。噴煙であたりが暗くなり、灰も降り始めたため、避難する人たちは傘を差して歩いている。この後、真っ暗になり、ビー玉大の噴石が降り始めた。幸い避難した後だったので事なきを得たが、このような傘は、すぐにでも破られていたところだ。
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[東京都]三宅島、噴火 13、撮影年月:2000年8月18日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校校庭より。8月18日の大噴火。真っ暗な中で避難する車の交通整理をする小学校の教員。夏のまだ夕方の5時半頃である。このあと、降った噴石がいくつもヘルメットをたたきつけた。体にかすった石は「たいへん痛かった」そうだ。本当に命がけの仕事であった。
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[東京都]三宅島、噴火 2、撮影年月:2000年7月11日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校。8日の噴火のあとから連日のように白い噴煙が上がるようになった。心配しながら休み時間のたびに子どもたちと雄山を見ていた。
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[東京都]三宅島、噴火 3、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村神着 七島信用金庫前。早朝より雄山が噴火。1500倍メートルまで噴煙が上がり、島の北東部(神着地区全体)に降灰があった。神着の七島信用金庫前ではNHKの中継車が雄山の様子を報道していた。
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[東京都]三宅島、噴火 4、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校校庭。この日は夕方から、また噴火が始まった。坪田小学校のすぐ上の山から、次々に黒い噴煙を上げた。1800メートルまで噴煙を上げた噴火は、1時間あまりも続いた。放課後なので、学校近くの子どもたちもいっしょに、この噴火を見ていた。
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[東京都]三宅島、噴火 5、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校校庭。この日は夕方から、また噴火が始まった。坪田小学校のすぐ上の山から、次々に黒い噴煙を上げた。1800メートルまで噴煙を上げた噴火は、1時間あまりも続いた。放課後なので、学校近くの子どもたちもいっしょに、この噴火を見ていた。
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[東京都]三宅島、噴火 6、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村神着 民宿前。1800メートルまで噴煙を上げた、この噴火を、神着方面から見る。
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[東京都]三宅島、噴火 7、撮影年月:2000年8月10日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅支庁下の民宿前。7月15日以来、雄山が三度目の噴火を始めた。早朝から夕方まで続き、降灰した坪田地区(三池と沖ヶ平)の住民は、坪田公民館へ避難した。この日から断続して8月29日まで噴火が続くことになる。車と人物は、民宿に宿泊して取材を続けているNHKの取材車と関係者。
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[東京都]三宅島、噴火 8、撮影年月:2000年8月10日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校付近の丘。7月15日以来、雄山が三度目の噴火を始めた。早朝から夕方まで続き、降灰した坪田地区(三池と沖ヶ平)の住民は坪田公民館へ避難した。この日から断続して8月19日まで噴火が続くことになる。
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[東京都]三宅島、噴火 9、撮影年月:2000年8月10日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校付近の丘。活発な噴火は7時頃から10時頃まで続いた。噴煙は8000メートルまで上がった。噴煙が上方から左下にかけて斜めに灰になって落ちてくるのが見える。
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[東京都]三宅島、地震の被害 1、撮影年月:2000年6月30日、撮影場所:三宅島三宅村伊ヶ谷の都道。6月26日からはじまった地震による被害。崖崩れ、都道のひび割れ、数センチほどの段差もできている。
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[東京都]三宅島、地震の被害 2、撮影年月:2000年7月30日、撮影場所:三宅島三宅村阿古 湯の浜。震度5強と震度6弱の地震のため、崖が崩れ、敷かれていた温泉のためのパイプラインが切断された。この日以来、温泉にはいることはできなくなってしまった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 3、撮影年月:2000年7月30日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校理科室。震度5強と震度6弱の地震のため、理科室のフラスコやビーカーが落ちて割れた。普通教室では花瓶や飾っている人形などが落ちていた。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 4、撮影年月:2000年7月31日、撮影場所:三宅島三宅村伊ヶ谷 都道。地震のため、都道の側壁が崩れている。崖崩れは、島の西部に位置する伊ヶ谷地区に多かった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 5、撮影年月:2000年7月31日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 長太郎池上の道。地震のため、子どもたちのよく遊ぶ長太郎池へ行く道路には、たくさんの石が崩れ落ちた。そのため、この日から子どもたちが海水浴をすることもできなくなった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 6、撮影年月:2000年8月2日、撮影場所:三宅島三宅村伊ヶ谷 伊ヶ谷港。震度5強、震度6弱などの地震が続いたため、大きく崩れた伊ヶ谷港横の崖。上にある建物はもう少しで落ちそうになっている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 7、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村阿古 ふるさとの湯付近より撮影。震度5強・震度6弱の地震のため、大きく崩れた陸稲履修宅裏の山。もう少しで近くの住宅に迫る。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、地震の被害 8、撮影年月:2000年8月4日、撮影場所:三宅島三宅村阿古 新澪池園地。地震のため、新澪池の上にある園地全体にひび割れが入り、フェンスなどが今にも崩れ落ちそうになっている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、学童避難、撮影年月:2000年8月29日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 三池浜。噴火が続き、子どもたちは三宅島から集団疎開することになった。このストレチア丸で灰色の三池港をあとにした。右下は、涙で子どもたちを見送る家族。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 1、撮影年月:2000年7月27日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 三池港へ行く道路。前日の雨によって泥流が発生し、このような、とてつもなく大きな大木を道路へと押し流した。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 2、撮影年月:2000年7月29日、撮影場所:三宅島三宅村神着 島下地区。降灰と泥流で押しつぶされそうになっているレストラン。泥が窓の軒下まで押し寄せている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 4、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 逢の浜温泉付近。泥流のため、都道にあふれた土砂。フェンスはグニャグニャに折れ曲がっている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 5、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 逢の浜温泉付近。泥流のため、周りにあった木々はすべてなぎ倒され、見る影もない。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 6、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 逢の浜温泉付近。泥流のため、周りにあった木々はすべてなぎ倒された。小さな沢の周りが削り取られ、このような大木が流される大きな沢となった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 7、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 三七山付近の都道。地震と泥流のため、くずれた都道。道路の半分以上が崩れ落ちたため、しばらく通行止めになった。この場所は、修理してもすぐに泥流で流されるため、通行止めを何度も繰り返した。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 8、撮影年月:2000年8月3日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 赤場暁。赤い溶岩の平原だったところが、泥流のため、泥と流された木々の散乱するゴミ捨て場のようになっている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、泥流 9、撮影年月:2000年8月15日、撮影場所:三宅島三宅村神着 赤場暁・椎取陣社前。泥流が前の都道を越えて、直接工場の中まで流れ込んでいる。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、灰除去作業 1、撮影年月:2000年7月16日、撮影場所:三宅島三宅村神着。道路や屋敷内の灰を除去する作業が続く。灰は、水を含むとコンクリートのように堅くなる。そして重い。乾くと細かいホコリとなって舞い上がる。灰除去作業はやっかいな作業である。屋根の灰は降り積もると、重さで屋根が壊れる危険もある。滑り落ちる危険もある。作業である。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 1、撮影年月:2000年6月27日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅小学校体育館。避難から一夜が明けた朝の三宅小体育館。テレビもないので、一番近くにいながら、三宅島がどんな状況なのかほとんど分からない。時々揺れる地震のため不安になる。特別にすることもないので、ぼんやりと寝ころんでいる。銀色のビニルらしき袋は、緑の毛布が入っていた入れ物である。飲料水はペットボトルが支給されたので、いつでも飲める。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 10、撮影年月:2000年6月29日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆三宅中学校体育館。東京都の石原都知事が視察にやってきて、避難している島民を励ました。このあと間もなく「避難解除」が発表され、避難している島民から歓声が上がった。自宅へ引きあげるために片づけをする島民。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 2、撮影年月:2000年6月27日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅小学校体育館。まだ朝の5時半である。体育館のか堅い床に毛布を敷いただけなので、とても眠れない。いつ噴火が起きるのかとの心配もあり、興奮ですぐに目が覚める。避難所となっている体育館の周りを散歩したり、何人かが集まっては「どうなるだろう」と、不安を話し合っている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 3、撮影年月:2000年6月27日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校体育館。上は朝食の「かんぱん」。朝食はこのカンが1個だけである。あとはペットボトルの水を飲んで流し込む。下は、昼食に出た「五目ご飯」。中に水を入れるだけで温かい五目ご飯になる。昼食はこれだけであった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 4、撮影年月:2000年6月27日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校 裏の駐車場。三宅中学校駐車場から見える海には、自衛隊の艦船が十数隻待機している。三宅島は狭い島なので、いざ噴火が始まると逃げる場所はない。この艦船は大噴火が始まったら、ただちに島民を全員避難させるための準備である。この船がいるだけで「いつでも逃げられる」と思うと、少しは安心であった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 5、撮影年月:2000年6月27日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅小学校体育館。左上と左下 緊急用の衛星通信設備を組み立てる人。電話回線は噴火によって切断されてしまう可能性もある。 右上 炊き出し用の大きなかまど。大鍋やフライパンも用意された。 右下 緊急用の給水車。炊き出し用などの緊急の飲料水に使うことができる。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 6、撮影年月:2000年6月28日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅小中学校。避難所となっている三宅小学校と中学校のそばには救急車と消防車が待機している。噴火や地震による火災や病気やけがの人が出た場合に備えている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 7、撮影年月:2000年6月28日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校。自衛隊の炊事車輌がやってきた。この車輌で温かい料理などができる。ご飯や料理を作る自衛隊員の手際がいい。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 8、撮影年月:2000年6月28日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅中学校体育館。食事の時間になると、できたご飯をパックに盛りつける。この日もまた「五目ご飯」だった。体育館の中まで郵便を届けてくれる。島の人たちは知り合いなので、顔を見ただけで配達ができる。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、避難所での生活 9、撮影年月:2000年6月29日、撮影場所:三宅島三宅村伊豆 三宅小学校体育館。避難も3日目に入った。みんなもそろそろ疲れが出てきた。テレビも入って情報が分かるようになってきた。体育館の中の場所もきちんと整理されるようになった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 1、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村神着 旧観光ホテル付近の都道。朝からの噴火で、都道は車が通るたびに誇りが舞い上がる。道ばたの植え込みはすっかり灰に覆われていた。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 10、撮影年月:2000年8月14日、撮影場所:三宅島三宅村阿古 ふるさとの湯入り口、。前日からの噴火で、阿古地区にもはじめての降灰があった。
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[東京都]三宅島、降灰 11、撮影年月:2000年8月28日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 坪田小学校前より。降灰が続き、山の緑は消え、すっかり灰色に変わった。
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[東京都]三宅島、降灰 12、撮影年月:2000年8月28日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 三池浜付近。噴石よけのために設置されたシェルター。石が降ってきたら、すばやくこの中に入って身を守る。
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[東京都]三宅島、降灰 2、撮影年月:2000年7月14日、撮影場所:三宅島三宅村神着 旧観光ホテル前。神着地区を中心にした降灰のため、車もすっかり灰だらけになった。
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[東京都]三宅島、降灰 3、撮影年月:2000年7月16日、撮影場所:三宅島三宅村神着 漁協前。7月10日から断続的に噴火を繰り返し、神着方面に灰が降り積もった。
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[東京都]三宅島、降灰 4、撮影年月:2000年7月16日、撮影場所:三宅島三宅村神着 釜ヶ尻。灰の重さに耐えきれず、大きな木も折れ曲がったり、垂れ下がったりしている。夕方にはお化けのように見える。
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[東京都]三宅島、降灰 5、撮影年月:2000年7月19日、撮影場所:三宅島三宅村神着 三七山園地。降灰のため、赤茶色だったひょうたん山(右下)も灰色になってしまった。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 6、撮影年月:2000年7月19日、撮影場所:三宅島三宅村神着 三七山園地。灰色の砂漠のようになってしまった三七山と三七山園地の駐車場。この日は灰の表面が固まっていたため、子どもたちも山を走り回った。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 7、撮影年月:2000年7月24日、撮影場所:三宅島三宅村神着 旧観光ホテル前。降り積もった灰は、土のう袋に詰めて道路脇に積み上げられる。神着地区は行く道みちに土のう袋が積み上げられていた。真向かいにある観光ホテルの建物は、元の色がまったく分からないくらいに灰で覆われて黒くなっている。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 8、撮影年月:2000年7月23日、撮影場所:三宅島三宅村神着 旧観光ホテル前。灰の入った土のう袋が至る所に積み上げられている。いつもは中が見える道路脇の電話ボックスも、灰のためにまったく見えない。
東書Eネット事務局
[東京都]三宅島、降灰 9、撮影年月:2000年8月11日、撮影場所:三宅島三宅村坪田 三池地区。降灰のひどかった坪田・三池地区の畑は厚い灰に覆われてしまった。
東書Eネット事務局
1967年12月9日、都電銀座線の「さよなら都電」を特集しました。東海道新幹線と交差する1系統、さよなら都電 三田車庫、西銀座風景、交通局三田電車営業所、鉄道友の会横断幕、名残惜しむ人・人、美濃部都知事の挨拶、終電の雑踏(銀座)など。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
国際都市、千葉県成田市の成田山新勝寺で行われる夏の風物詩「成田山祇園会」は、ご本尊不動明王の本地仏(ほんじぶつ)である奥之院大日如来のお祭りです。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
江戸の下町の祭りは、「喧嘩と祭りは江戸の華」といわれたほど、江戸っ子の年中行事として気合の入ったものになっていました。江戸の三大祭りは、「赤坂山王、神田明神、浅草三社」という説と「赤坂山王、神田明神、深川富岡八幡宮」という説がありますが、深川富岡八幡宮は江戸の祭りのなかではいちばん気合が入っています。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
撮影年月:2006年12月19日、撮影場所:東京都台東区浅草寺境内。東京浅草の師走の風物詩「羽子板市」は、江戸時代から続く伝統の市で、観音様のご縁日「納めの観音」の前後に行われます。12月17日から19日まで開かれ、大勢の人でにぎわいます。
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撮影年月:2005年5月22日、撮影場所:東京都台東区浅草 雷門付近。「祭りと喧嘩は江戸の華」と言われたほど、江戸町人の祭りにかけるエネルギーは半端なものではなかったようです。浅草神社の祭礼である三社祭(さんじゃまつり)は神田祭、山王祭と並んで江戸三大祭りと称されました。
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撮影年月:2007年3月30日。撮影場所:薬王院祈祷殿前広場。 真言宗智山派(ちざんは)大本山である高尾山薬王院有喜寺(ゆうきじ)は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東の三大本山の一角を占める名刹です。大火渡り祭りは、高尾山恒例の行事として長く伝承されてきたもので、山伏の水の行、火の行の荒行のうち、火の行を一般公開したもので、毎年3月の第2日曜日に行われます。
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東京都調布市にある深大寺、春を呼ぶ風物詩、「深大寺のだるま市」は「厄除(やくよけ)元三(がんさん)大師大祭」に併せて開かれてきました。毎年3月3日、4日に開催され、東京をはじめ近県から多くの善男善女が訪れます。だるま市は、江戸時代中期に始まった縁日に由来するといわれています。
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撮影年月日:2007年11月23日、撮影場所:鷲神社・長國寺境内。「酉の市」の起源発祥の地、浅草鷲神社の酉の市が盛大に行われました。11月の酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭りが執り行われます。11月に酉の日が二回あるときは二の酉、三回あるときは三の酉といわれています。
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「大根は清浄、淡泊な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。
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神田祭は浅草三社祭、山王祭(または富岡八幡大祭)と共に江戸三大祭りとして盛大に行われてきました。とくに神田祭は天下一の祭礼として「天下祭」と称され、江戸市中あげての祭礼として盛大に執り行われ、祭りの格式もかなり高かったようです。
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1972年4月と8月、都電錦糸堀営業所管内の「下町の足」を特集しました。永代橋を走行する28系統、門前仲町駅付近、旧汽車会社脇の専用軌道を走行する38系統、国鉄越中島線の鉄橋をくぐる38系統、都電廃止反対の横断幕、亀戸駅前停留所の29系統、深川木場付近の橋を渡る28系統、国鉄錦糸町駅前の混雑ぶりなど。
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1972年の都電錦糸堀電車営業所管内の「下町の足・都電」を特集しました。江東区大島3丁目付近の専用軌道、江東区大島3丁目停留所、竪川を渡る38系統、葛西橋停留所の29系統、東砂4丁目付近を走る29系統などの景観写真です。
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都電廃止の1972年11月11日当日、花で飾られた車体は次々に営業所を後にし、最後の花道を飾りました。都電のラッシュアワー、さよなら花電車、錦糸堀電車営業所前の人出、いかだを見ながら走る38系統、最終日の錦糸堀電車営業所(夜)などです。
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[撮影年月日:2007年9月23日、撮影場所:栃木県鹿沼市樅山町生子神社。栃木県鹿沼市樅山(もみやま)町の「生子(いきこ)神社の泣き相撲」は国選択無形民俗文化財に指定されています。首のすわった6か月から3歳くらいまでの幼児を、力士に扮した地区の氏子が東西から「ヨイショ、ヨイショ」と掛け声をあげながら頭上高く振り上げ、先に泣いた幼児を勝ちとする相撲です。
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撮影年月:2007年5月28日、撮影場所:下曽我駅前通り・曽我谷津城前寺境内。日本三大あだ討ちの一つ、曾我兄弟のあだ討ちにちなんだ祭りで、兄弟の菩提寺である神奈川県小田原市曽我谷津の城前寺で毎年5月28日に「曽我の傘焼き祭り」が行われます。
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撮影年月:2004年2月12日、2007年2月13日。撮影場所:茨城県桜川市真壁町内。茨城県桜川市は、2005(平成17)年10月、真壁郡真壁町・大和村、西茨城郡岩瀬町の三町村が合併してできた市で、市名は霞ヶ浦に注ぐ桜川に由来します。
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撮影年月:2003年9月7日、撮影場所:土浦学園線 まつりパレード会場。つくば市は1987年11月30日、筑波郡谷田部町、大穂町、豊郷町、新治郡桜村の4町村が合併し、誕生しました。1963年9月10日に研究学園都市を筑波に建設することを閣議で了解し、それまで陸の孤島とまで言われた上記町村は急速に近代化へ歩みだしていました。そして、2005年8月24日、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線が開業し、遠くて不便といった悪評を一掃し、東京に更に一歩近づきました。
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撮影年月:2006年10月9日、撮影場所:龍ケ崎市歴史民俗資料館前広場・龍ケ崎市文化会館付近・愛宕神社境内。茨城県龍ケ崎市は独眼流政宗として知られる、伊達政宗が率いる仙台藩の領地でした。今から400年前、慶長11(1606)年3月3日、徳川家康から仙台藩の初代藩主伊達政宗に、常陸国河内郡龍ケ崎村ならびに砂地、および信太郡の13の村、合計1万石あまりの領地が与えられました。
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撮影年月日:2007年7月27日、撮影場所:龍ケ崎市八坂神社・根町撞舞通り・商店街通り「龍ケ崎市の撞舞」は平成11年12月3日、「国選択無形民俗文化財」(記録作成などの措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択されました。撞舞は、龍ケ崎市上町の八坂神社で祇園祭の最終日に奉納される神事です。
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わら干し・わらの再利用、撮影年月:2003年9月17日、撮影者:茨城県牛久市 坂弘毅、撮影場所:千葉県印旛郡栄町。機械化された近代農業は多くの経済効果をもたらしました。しかし、本来の日本農業のよさというものも見直さなければなりません。コンバインは稲わらを切り刻んで土に戻してしまいますが、刻まないで農業資材として多くの活躍の場がありました。
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元日を中心とした「大正月」に対し、1月15日を中心とした数日を「小正月」と呼びます。「月」を暦の基準にしていたころは、満月の十五夜を年の境とすることが分かりやすかったため、予祝的な農耕儀礼として伝わってきました。茨城の県南では、古くから「鳥追い」という田畑の害鳥を追い払うという小正月の行事を伝承してきました。
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「昭和20年3月の東京大空襲は浅草の町並みを一変させてしまった。もとよりその中心であった浅草寺も本坊(伝法院)や二天門などを除く多くの伽藍は消失し、その復興は地元にとって大きな祈りであった。
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撮影日:2008年4月13日、撮影場所:茨城県桜川市雨引観音。しばらく途絶えていた日本二大鬼祭の一つ「魔多羅(マダラ)鬼神祭」が、4月13日(日曜)、桜川市の雨引山楽法寺(雨引観音)で8年ぶりに復活しました。明4年(1472)春3月、当山炎上の際(一説に応永3年ともいわれている)、魔多羅鬼神現れ玉いて、鬼類を督して七日七夜にして荘厳な観音堂を建立したといわれている。魔多羅鬼神祭は、この鬼神の恩徳に報謝せんがために、永18年(1641)、当寺住職尊海が時の老中松平伊豆守信綱の庶弟であった縁を以て、幕府に願い出て許され、同年3月より、当山の年中行事の大祭として修行し来ったものであり、実に350年の伝統を有する北関東随一の大祭である。
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水郷筑波国定公園の表玄関、水郷佐原水生植物園は、約6ヘクタールの園内に、品種数400種150万本のハナショウブが咲く東洋一の水生植物園として知られています。
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朝顔まつり(朝顔市)は、毎年7月6日から8日までの三日間開催されます。今年は洞爺湖サミットがあったため、7月18日から20日となりました。この朝顔市というのは、入谷鬼子母神を中心として、言問通りに120軒の朝顔業者と100軒の露店(縁日)が並び、毎年40万人の人出でにぎわいます。
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JR桜木町駅前に広がる横浜市野毛町は、戦後は「闇市」としてごった返し、また、桜木町駅がJR根岸線の終点だったころまで、活気にあふれた飲食店・商店街が並んでいました。しかし、線路の延伸、近郊の開発・発展などにより、年々寂れていきました。
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茨城県の阿見町は土浦市・牛久市・稲敷市・美浦(みほ)村に隣接し、特に、美浦村にはJRA(日本中央競馬会)のJRA美浦トレーニングセンターがあるため、周辺地域には数多くの牧場があり、競走馬の育成・調教・休養を手がけています。トレーニングセンターに近い阿見町の武田牧場ではトレーニング用の1200mコースを利用して、毎年、春・秋の年2回、チャリティーの草競馬を開催しています。
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撮影年月:2007年11月、撮影場所:茨城県北茨城市大津漁港。「雨情の里港まつり」が、好天に恵まれて10万人もの人出となりました。今年は19回目を迎え、年々訪れる人が増え、北茨城市で最大の祭りとして定着しています。
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阿波大杉神社(あんばおおすぎじんじゃ)は茨城県稲敷市阿波(旧桜川村阿波)にあり、萩本欽一さんの茨城ゴールデン・ゴールズの球場に近い高台にあります。主祭神は倭大物主櫛甕玉大神(やまとおおものぬしくしみかたまのおおかみ)です。
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「石岡のおまつり」は茨城県石岡市に古くから伝わる伝統のある祭りで、9月中旬に行われます。「石岡のおまつり」は常陸国總社大祭で、紀元8世紀ごろ、武家の祭りとして「武運長久」を祈願したのが始まりといわれています。やがて、江戸時代元禄期に町人が参加して「家内安全」「無病息災」を祈願するようになり、現在に至っています。
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武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)を御祭神とし、武運の神様として知られる鹿島神宮では、毎年3月9日に行われる祭頭祭(さいとうさい)は、数ある鹿島神宮の行事の中で、最も規模が大きく、勇壮な祭りとして知られています。
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2008とちぎ・熱気球インターナショナルチャンピオンシップが栃木県の茂木町で開催されました。熱気球は朝方と夕方の安定した気流条件の元に行われる競技で、天候が少しでも不安定であれば中止となります。日本では安いプロパンガスを燃料にして、球皮(きゅうひ)内の温度を調節しながら飛行します。
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撮影年月日:2009年4月28・29日/5月2日、撮影場所:茨城県牛久市・牛久自然観察の茨城県鹿嶋市鹿島神宮境内境内。、市街地に近い里山でフクロウの巣立ちが見られます。ここは牛久市にある牛久自然観察の森で、1990年に開園以来、里山の保全に努め、フクロウやオオタカが生息できる自然環境を整備しています。観察の森の人気者、フクロウは毎年ゴールデンウイークに合わせるかのように、ひなが巣立ちをするので、家族連れやカメラマンでにぎわいます。
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撮影年月日:2009年5月1日、撮影場所:茨城県鹿嶋市鹿島神宮境内境内。鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市にある神社です。式内社、常陸の国一宮(いちのみや)、旧社格は官幣大社で、鹿島神社の総本社です。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
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撮影年月日:2009年5月10日、撮影場所:茨城県笠間市笠間稲荷神社。日本三大稲荷のひとつで、創建は社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2(651)年とされ、1350年余りの歴史を有する由緒ある神社です。笠間稲荷神社では、5月10日(日)に御神饌田(ごしんせんでん)において古式ゆかしく御田植祭が行われました。
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撮影年月日:2009年7月3日、撮影場所:神奈川県平塚市湘南スターモール。平塚は海軍火薬廠(かやくしょう)があったことから昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け、中心市街地の約70%が焼け野原と化してしまいました。しかし、復興は早く、「戦災復興五か年計画」も一段落した昭和25年7月に「復興祭り」が開催されました。
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火星食 潜入・出現、撮影年月:1987年2月、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:東京都日野市。明るさ+1.0等級・視直径5.8″の火星が月齢4.4の月の裏側を通過する火星食の写真です。写真は月の欠けている側から潜入し、月の裏側を通過して出現したときの写真です。東京では潜入時刻が20時58分20秒頃で、月から抜け出る出現時刻が21時51分頃でした。撮影方法は、口径5.5cm・焦点距離440mmのフローライト望遠鏡に焦点距離12.5mmのアイピースを入れて拡大撮影(リレーレンズ式)したものです。
東京都立北多摩高等学校 大桐
1964年の東京オリンピック前後の東京都内の街の風景の写真資料です。オリンピックで湧く東京とその街並み、そして当時の風俗が見えてくるかもしれません。「西銀座の三菱電機広告」「銀座三愛ビル」「西銀座の松下電器広告」「日劇ビル」「数寄屋橋交差点」「西銀座東映会館付近」「有楽町そごう遠望」「]銀座の街角」「新宿三越」「新宿西口全景」「新宿小田急デパートから」。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
1964年の東京オリンピック前後の東京都内の街の風景の写真資料です。オリンピックで湧く東京とその街並み、そして当時の風俗が見えてくるかもしれません。「開通したばかりの首都高速4号線」「首都高速外苑入り口」「オリンピック代表選手選考会看板」「明治神宮水泳場正面」「明治公園整備工事」「都市整備が進む東京体育館周辺」「国立競技場掲示板」「改装中の国立競技場(FLASH版)」。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
1964年東京オリンピック直前の東京の風景をお届けします。旧東京都庁舎の聖火リレー到着式場から、皇居前の特設聖火台まで、また東京オリンピックの入場券などをとらえてみました。「東京オリンピック入場券」「100円記念硬貨交換日の銀行」「新宿駅ビル名店街のオリンピック広告」「旧東京都庁舎全景」「オリンピック聖火リレー到着を待つ都庁舎」「オリンピック聖火リレー到着式場」「皇居二重橋前に点火された聖火」「皇居前の聖火を見物に来た人々」「皇居前で外国人を案内する輪タク」。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
撮影年月:1964年10月、撮影場所:国立競技場内。今回は、オリンピック開会式予行のようすをまとめました。聖火の点火式から仕掛け花火のフィナーレまで、本番さながら70、000人が燃えた一時でした。開会宣言、聖火到着、聖火点火、聖火台のセレモニー、バトントワリング、マスゲーム(五輪音頭)、マスゲーム、フィナーレ(仕掛け花火)。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
1964年の東京オリンピック前後の東京都内の街の風景の写真資料です。オリンピックで湧く東京とその街並み、そして当時の風俗が見えてくるかもしれません。{新宿駅西口の京王百貨店の全景」「新宿西口、安田生命ビルの壁面広告」「1964年正月の銀座4丁目交差点」「西銀座のビル屋上のオリンピック広告」「都庁前の首都美化の横断幕」「池袋西武百貨店のオリンピック広告」「池袋駅前オリンピックデコレーション」「]池袋駅前全景とトロリーバス」「国立競技場の電光掲示板、マラソンの記録掲示」「国立競技場、マラソンの最終選考会の表彰式」。
茨城県牛久市うしく里山の会 坂弘毅
全天の空 冬、撮影年月:1998年12月、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:山梨県北巨摩郡。オリオン座の「ベテルギウス」・おおいぬ座の「シリウス」・こいぬ座の「プロキオン」で作る「冬の大三角形」は有名ですが、もうひとつの形があります。それは、ぎょしゃ座の「カペラ」・おうし座の「アルデバラン」・オリオン座の「リゲル」・おおいぬ座の「シリウス」・こいぬ座の「プロキオン」・ふたご座の「ポルックス」の6つの一等星を結んだ六角形で「冬の大六角形」とよんでいます。
東京都立北多摩高等学校 大桐
全天の空 春、撮影年月:1998年3月、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:山梨県北巨摩郡。おおぐま座の北斗七星の柄の部分のカーブに合わせて延長していくと、うしかい座のアークトゥールスをへておとめ座のスピカまでの曲線が描けます。この曲線を「春の大曲線」といいます。
東京都立北多摩高等学校 大桐
M8 干潟星雲、撮影年月:1997年8月、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:長野県 奈川村。いて座の南斗六星の柄杓の部分のσ星とλ星を結ぶ方向を延長していくと、ボーッとしたその存在に気づきます。M8は「干潟星雲」ともよばれ、カラー写真では赤く写ります。この星雲を光らせているのはスペクトルがO型で4万度という高温星です。多少の光害の中でも双眼鏡があれば見ることができます。M8の1.5度北にあるのがM20「三裂星雲」です。
東京都立北多摩高等学校 大桐
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月の海 しめりの海、撮影年月:1989年1月20~21日、撮影者:北多摩高校 大桐、撮影場所:東京都日野市。月面の黒い部分を「海」と名付けたのはドイツの天文学者ヘベリウスです。月の海は大きな隕石によってつくられた円形の凹地に月内部からしみだしてきた溶岩流が溜まり、冷えて固まったのと考えられています。海を作っている溶岩の主成分は、鉄およびマグネシウムに富む粘性の低い玄武岩です。そのため、光の反射率が低く黒く見えます。湿りの海の面積は11、300k㎡で直径はおよそ380kmあります。
東京都立北多摩高等学校 大桐