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「世界遺産」写真資料2004年11月中学校社会編集部作成より。写真提供:PPS通信社。アンゴラ奥地からもモザンピーク海峡へ流れるザンベジ川の中流域に位置する。イグアス滝、ナイアガラ滝と並んで「世界の三大瀑布」と呼ばれるこの滝は、幅が最大1700mを超え、最大落差も110~150mにおよぶ。ビクトリアの滝は、台地の隆起によって、ザンベジ川の流れが変わり、もとからある窪地に川の水が流れ込んだことによって生成された滝である。1855年にイギリス人探検家リビングストンに発見されたことでヨーロッパにも知られるようになった。なお世界遺産リストに登録されているモシ・オ・トゥニャとは、滝を指す現地の人々の言葉で、「雷鳴がとどろく水煙」を意味する。
写真提供 PPS通信社
ニューサポート高校地歴・公民Vol.4(2005年9月)より。ナミブとはコイサン語で「何もない土地」「人のいない土地」を意味する。確かに人間の居住には適していない土地である。しかし海岸砂漠であるナミブ砂漠は、降水量の少なさを補うべく、海霧による水分補給が動植物の棲息を可能にしている。
埼玉県立所沢西高等学校教諭 岡雅行
ニューサポート高校地歴・公民Vol.6(2006年秋号)より。この写真は東アフリカ、ウガンダの首都カンパラにあるタクシーターミナルである。タクシーといっても乗用車ではなく、トヨタのハイエースという大型ワゴンを使ったミニバスである。
筑波大学附属駒場中・高等学校 大野新
[エジプト写真資料]クフ王のピラミッド、撮影月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ、撮影者:東京都 大山。一番大きなピラミッド。入り口のようにみえるところから、少し右に下がったところに現在の入り口がある。この入り口は、盗掘によって開けられたものである。石でできているので、中は涼しいのではないかと思われがちだが、実際は太陽の熱と人の熱気とで、蒸し暑い。
東京都 大山
[エジプト写真資料]クフ王の冠、撮影月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ、撮影者:東京都 大山。三大ピラミッドで、いちばん大きなクフ王のピラミッドの上にあり、避雷針のようにも見える。建造当初の高さを表すものである。建造当初は、146メートルあったが、現在は崩壊、風化などで、137メートルになっている。現在は寂しい冠がのっている。
東京都 大山
[エジプト写真資料]スフィンクス、撮影月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ、撮影者:東京都 大山。この最も有名なスフィンクスは、カフラー王のピラミッドの参道横にあり、太陽が昇る東を向いている。胴体はライオン、顔はファラオ(王)をしており、昔はあごひげがついていた。エジプトには、これ以外のスフィンクスもあり、胴体はライオン、顔は羊のものもある。
東京都 大山
[エジプト写真資料]三大ピラミッド、撮影月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ、撮影者:東京都 大山。右から、メンカウラー王、カフラー王、クフ王のピラミッド。高さはそれぞれ、65.5メートル、143メートル、137メートル。建造から4500年経っているが、そのようには見えない。近くから撮影したように見えるが、ピラミッドから車で10分ぐらい走った所から撮影したものである。
東京都 大山
撮影月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ。スフィンクスの大きさは高さ21メートル 長さ57メートル。すぐ近くにカフラー王のピラミッドがあるので、あまり大きく感じない。長い年月が経っているため、だいぶ崩れているところもある。スフィンクスが見つめている先には、すぐ町があり、真正面は店(今はファーストフード店)がある。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ギザ。スフィンクスが見つめる先にあるお店です。歩いて数分の場所に位置しています。町のすぐ近くにスフィンクスがそびえ立っています。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ダハシュール、撮影者:東京都 大山。途中から角度が変わっている、不思議なピラミッドです。なぜ、角度が変わってしまったのかは諸説があります。その一つに、当初の角度で作り続けた場合に、石の重さでピラミッドがつぶれてしまうことが判明して、角度を変えて重さを軽減したといわれる説があります。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト ダハシュール、撮影者:東京都 大山。カイロから車で1時間ぐらいのところに位置しています。スネフェル王が作ったといわれています。高さ104メートルもあり、有名なクフ王、カフラー王のピラミッドに次ぐ大きさのピラミッドです。砂漠の真ん中にそびえたっています。赤色の石灰岩で造られているため「赤のピラミッド」と呼ばれています。
東京都 大山
[世界文化遺産]撮影年月日:2005年06月20日、撮影場所:エジプト ダハシュールとメンフィスの間、撮影者:東京都 大山。ダハシュールからメンフィスへ向かう途中の電車の窓から見える風景。熱く乾燥した国ではあるのですが、川の周りは木が繁り周りに畑らしきものが存在しています。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月20日、撮影場所:エジプト メンフィス、撮影者:東京都 大山。約13メートルもあるラムセス2世の巨像の顔です。頭にはエジプトの象徴でもあるコブラをつけています。作られてから3000年以上も経っているとは思えないくらい美しい顔をしています。ラムセス2世の像であることは、彼の腰に彼を表す象形文字が刻まれていたことから判明しました。花崗岩製。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月20日、撮影場所:エジプト メンフィス、撮影者:東京都 大山。約13メートルもあるラムセス2世の巨像の全身です。ほとんどの像の左足が前に出ているその理由の1つに、権力の象徴である軍隊が左足から踏み出すことからそうなったのではないかと考えられています。花崗岩製。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月21日、撮影場所:エジプト アブシンベル、撮影者:東京都 大山。アブシンベル神殿の大神殿です。紀元前1250年頃にラムセス2世によって造られた神殿で、高さ33メートル、幅33メートルあります。正面には20メートルあるラムセス2世の座像が据えられています。アブシンベル神殿はアスワンハイダムの建築により、水没の危機となり、約60メートル上の丘に移築されました。このことが、世界遺産創立のきっかけとなりました。砂岩でできた岩窟神殿。アブ・シンベル神殿、世界文化遺産に登録。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月21日、撮影場所:エジプト アスワン、撮影者:東京都 大山。アスワンハイダムの下流方面。このあたりには、軍事施設があるため、写真撮影が禁止されている場所が多々あります。アスワン・ハイ・ダム。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月21日、撮影場所:エジプト アスワン、撮影者:東京都 大山。写真は、1970年にアスワンハイダムが完成し、その 完成を記念して湖畔に建てられた塔。アスワンハイダムはナイル川の氾濫防止と灌漑用水確保のために造られた、高さ111メートル、全長3600メートルある巨大なロックフィルムダムです。このダムの完成により、エジプト中に農業用水と電力を安全供給できるようになりましたが、各地の遺跡への悪影響も出ています。アスワン・ハイ・ダム。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月21日、撮影場所:エジプト アスワン、撮影者:東京都 大山。12基の水力発電装置があり、210万キロワットの電力をエジプト各地に供給しています。そして、この電力を利用した化学肥料や鉄鋼などの工場が建設されて、地域の工業化が進められました。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト サッカラ、撮影者:東京都 大山。エジプトで最初に造られたとされる高さが62メートルあるピラミッドです。この後に造られたピラミッドは、通常正方形の底面をしているが、この階段ピラミッドは底面が125×109メートルと長方形をしています。これは、現在の姿になるまでに数回の拡張が行われたためです。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト サッカラ、撮影者:東京都 大山。最古のピラミッドが砂漠の中にあるかと思えば、車で少し行ったところには一面の緑地があります。暑いところなのでヤシの木が似合っています。
東京都 大山
撮影年月日:2005年06月20日、撮影場所:エジプト アブシンベル、撮影者:東京都 大山。1970年に完成したアスワンハイダムによりできた人造湖。湖の名前はダムの建設を決定したアブデル・ナセル大統領の功績からつけられました。全長500キロメートル、幅は平均10キロメートルある巨大な湖です。この湖のおかげで、エジプト中に農業用水と電力を安定供給できるようになりました。
東京都 大山
撮影年月日:2005年6月20日、撮影場所:エジプト アブシンベル。アブシンベル神殿の小神殿です。ラムセス2世が第一王妃ネフェルタリのために築いた神殿です。ハトホル女神に捧げられたものなので、ハトホル神殿ともよばれています。正面には10メートルくらいある2体のネフェルタリ像と4体のラムセス2世像が交互にたっています。
東京都 大山
北アフリカにあるチュニジアの写真資料を紹介します。2010年2月に撮影したチュニジアの、古代中世のイスラム歴史の遺跡を中心に撮った資料です。世界遺産に指定されている文化遺跡、カルタゴ遺跡や、その周辺の遺跡を、写真と解説とともに紹介します。。
大阪府立久米田高等学校 山本武志
ニューサポート高校「社会」vol.16(2011年秋号)より。ザフィマニリの村の入口には、こうした柱状立石が立っていることが多い。現地の言葉でヴァトゥラヒvatolahyと呼んでいる。直訳すれば「男石」である。
放送大学教授・東京書籍『地理A』『地理B』編集委員 内堀基光
ニューサポート高校「社会」vol.14(2010年秋号)より。写真は、エチオピア西南部低地の熱帯林における焼畑の伐採風景である。短い乾季が始まると、まず山刀で低木を刈り払った後に、写真のように斧で高木を伐り倒す。
九州大学大学院比較社会文化研究院准教授 佐藤廉也
[チュニジア]「レザード・ルージュ号」という観光列車、撮影年月:2001年6月、撮影場所:メトラウイ、撮影者:野町亘。写真(1)中西部のオアシス、メトラウイからアトラス山脈中の鉱山町セルジャまで、週に3回、「レザード・ルージュ号」という観光列車が走っている。片道32キロ、往復約2時間でアトラス山中の渓谷美を観光する。写真(2)レザード・ルージュ号は、かつての統治時代にフランスから贈られたもので、各車両とも当時の贅を尽くした豪華なものである。車内はフランス人などの観光客で大賑わい。写真(3)始発駅メトラウイは、チュニジアの重要な輸出品、リン鉱石の集積・積出駅である。レザード・ルージュ号の出発直前、セルジャ方面からリン鉱石を積んだ貨物列車が到着した。写真(4)アトラス山脈への急勾配を登っていくレザード・ルージュ号。車窓は見渡すかぎりの大砂漠。写真(5)レザード・ルージュ号は途中の見所で停車し、乗客はしばし下車して風光を楽しむことができる。「ミニ・グランドキャニオン」とも称される渓谷美は実にすばらしいものである。写真(6)下車地のひとつ。かつての陸水による大規模な侵食を物語る地形。この付近には突然の大洪水によって破壊され、見捨てられた集落も見ることができる。写真(7)終着駅セルジャ。駅構内ではリン鉱石の積み込み作業が行われていた。レザード・ルージュ号はここからメトラウイまでひき返す。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ある邸宅、撮影年月:2001年6月、撮影場所:シディ・ブ・サイド、撮影者:野町亘。とある邸宅を背景に記念撮影。このような美しい家々が延々と続く。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]アトラス山脈とサハラの景観、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ドゥーズ、撮影者:野町亘。写真(1)サハラ砂漠東端のオアシス、ドゥーズの市内風景。サハラのオアシスの象徴、ナツメヤシの並木が延々と続く。、写真(2)ショット・エル・ジェリド西方のオアシス、トズールには、サハラ砂漠からアトラス山脈を越え、アルジェリア国境の町タメルザまで行く4WDのツアーがある。これはアトラス山脈への登り口から見たサハラの景観。、写真(3)アトラス山中に入ると、砂漠同様の乾燥地帯ではあるが、随所に小規模なオアシス集落が見られる。同時にかなり大規模かつ急激な浸食作用があったことをうかがわせる地形が目立つ。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]アントニウス・ピヌスの門、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スベイトラ郊外、撮影者:野町亘。写真(1)スベイトラ遺跡中央に位置する公共広場および神殿群への入口、「アントニウス・ピヌスの門」である。2世紀前半の建造。写真(2)アントニウス・ピヌスの門をくぐると手前が公共広場、奥が巨大な神殿群となっている。ここに見えているのは全てオリジナルで、創建当時の壮麗さが偲ばれる情景である。写真(3)アントニウス・ピヌスの門に至るメイン・ストリートには数多くの商店が軒を連ねた。この囲いが一つの商店のスペース。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]アントニヌスの浴場、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。写真(1)カルタゴでもっとも有名な遺跡、「アントニヌスの浴場」である。2世紀、ローマ帝国五賢帝の一人とされるアントニヌス・ピウスによって建設された。ローマ人の風呂へのこだわりが感じられる広大な遺跡である。写真(2)アントニヌスの浴場は総2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、談話室など100以上の部屋がその2階部分に左右対称に配置されていた。これはその各部屋をつなぐ通路である。写真(3)この豪華絢爛のローマ浴場は、5世紀ヴァンダル人の侵入によって破壊され、廃材の大理石などはオスマン・トルコやイギリスのカンタベリーなどに建築資材として持ち出された。当時の破壊のようすを物語る情景である。写真(4)浴場1階への入口には当時の日時計が残されている。写真(5)アントニヌスの浴場は、1980~88年にユネスコの支援で部分的修復が行われている。これは修復された通路のようす。写真(6)アントニヌスの浴場の復元模型。遺跡の入口付近に置かれている。規模壮大であるとともに、現代の「健康ランド」などの施設としても少しも違和感のないモダンなものであったことがわかる。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]エル・ジェムのコロセウム(円形闘技場)、撮影年月:2001年6月、撮影場所:エル・ジェム、撮影者:野町亘。写真(1)3世紀に建設された「エル・ジェムのコロセウム(円形闘技場)」である。チュニジアに残るコロセウムではもっとも保存状態がよく、有名なローマのコロセウムよりはるかによく当時の面影を伝えているとされる。写真(2)コロセウム上部のスタンドの跡。最上部まで36メートルの高さがあった。コロセウムの大きさは、縦149メートル、横124メートル、アリーナの直径65メートルである。写真(3)エル・ジェムのコロセウムは、現在でも民族舞踊や音楽会、演劇などに使われていて、3万人を収容できるという。画面右にその観客席が見えている。写真(4)観客席下部の通路。当時この壁には全て美しい大理石が張付けられていた。写真(5)観客席は3階建てで、各フロアはこのような連絡階段で結ばれていた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]オリーブ油の製造装置、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スベイトラ郊外、撮影者:野町亘。上段の臼状の部分でオリーブをしぼり、下段の囲いの中にオリーブ油が流れ込む仕組み。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]オリーブ畑、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スファックス郊外、撮影者:野町亘。ナツメヤシとともに、乾燥地帯ではオリーブ畑が特徴的である。これはチュニジア第二の都市スファックスから内陸の砂漠地帯に向かう途中で見かけたもの。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カイルアンで見かけた豪邸、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。住宅などのようすから、貧富の差はかなり大きいものと思われる。これはカイルアンで見かけた豪邸であるが、防犯を兼ねた出窓の装飾の豪華さに驚かされた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カイルアンの家族、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。カイルアンの絨緞商の親子。このように西欧的な容貌が一般的。このような場合でも母親が顔を見せることは少ない。表向きのこと、たとえば客人の接待などもすべて男性が行う。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カルタゴが建設した軍港、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。古代カルタゴは地中海を制圧した海洋国家であった。これはカルタゴが建設した軍港である。画面右奥に地中海に続く水路があり、地中海側からは水路横の丘のために停泊している軍艦の姿が見えないようになっていた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カルタゴ人の住居跡とローマ人住居の土台、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。ローマ帝国はカルタゴ人の建造物を破壊し、その上に自らの住居などを建設した。画面手前はカルタゴ人の住居跡、奥の角柱はローマ人住居の土台と考えられている。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カルタゴ博物館、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。写真(1)カルタゴ、ピュルサの丘の頂上にあるカルタゴ博物館。かつてのアフリカ宣教会の神学校を改造したもの。カルタゴからの出土品が充実。いかにもチュニジアらしい美しい建物である。写真(2)カルタゴ博物館でもっとも重要な展示物のひとつ、BC4世紀ごろの男女の石棺である。故人の生前の容姿を写した棺の蓋の彫刻にはイタリアのエルトリア美術の影響が見られるという。写真(3)これはBC3世紀ごろの石棺。やや薄れかけてはいるが、側面には立派な彫刻が施されている。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]カルタゴ郊外「シディ・ブ・サイド」の石畳の小道、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。チュニジアでもっとも名高いリゾート、カルタゴ郊外「シディ・ブ・サイド」の石畳の小道である。フランス植民地時代、ボーヴォワール、ジイド、クレーらの愛した地であった。今もヨーロッパ各国の観光客で賑わう。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]グラン・モスク、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スース、撮影者:野町亘。写真(1)スースのメディナにあるグラン・モスクの中庭。当時のモスクは外敵侵入の際の避難所としての役割も担っていた。この鐘楼は見張り台も兼ねていたであろう。外壁もきわめて頑丈なもの。写真(2)スースのグラン・モスクを上方から見たところ。彼方にはメディナと新市街とを分ける城壁が見えている。写真(3)スース、グラン・モスクの内部。正面がメッカの方角である。敷物の一区切りが信者一人分の祈りのスペース。この左右にも信者用の部屋が続いていて、祈りのスペースが大きくとってある。写真(4)一日5回の祈りを呼びかけるモスクの尖塔。トルコなどに見られる尖塔は細い円筒状だが、チュニジアでは頑丈な角柱状が多い。これは地中海に面したボン岬半島にあるリゾート都市ハマメットのグラン・モスクのもの。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ザグーアンの水道橋、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ラ・マハマディア、撮影者:野町亘。写真(1)当時、ローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市に成長したカルタゴの町やアントニヌスの浴場に水を供給したのが「ザグーアンの水道橋」である。水源からの総延長距離132キロに及ぶ長大なものであった。写真(2)ザグーアンの水道橋は現在約20キロ分が残っている。これは復元された水道部分のようす。上部のトンネル部を水が流れた。煙突のように見えるのは水路の清掃のための出入り口で、一定距離をおいて設けられている。写真(3)修復された橋脚の傍らには崩れ落ちたオリジナルの石材が放置されていた。写真(4)これは水道橋のもっとも高い部分で、20メートル以上の高さがある。反対にもっとも低い部分は2.5メートルであったという。この水道橋は、2世紀の建造であるが、修復を重ねてアラブ時代まで使われた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]シェビカの町の廃墟、撮影年月:2001年6月、撮影場所:シェビカ、撮影者:野町亘。タメルザまであと数キロのところにあるシェビカの町の廃墟。1969年の大洪水で水没した町である。町はこの近くのオアシスにそっくり移転した。当時の町の姿がそのまま残っていて、異様な光景である。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]シディ・ブ・サイド、撮影年月:2001年6月、撮影場所:シディ・ブ・サイド、撮影者:野町亘。写真(1)シディ・ブ・サイドの商店街。リゾートとあって名産品のお土産店が多い。写真(2)シディ・ブ・サイドは、全体がゆるやかな坂道になっていて、上りきったところが展望台になっている。ここからの地中海の眺望もすばらしい。写真(3)シディ・ブ・サイドには海に面した眺望のよいレストランが多い。これはそのひとつ、「ラ・ファレイズ」からの眺めである。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]スベイトラのローマ遺跡、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スベイトラ、撮影者:野町亘。チュニジア内陸中部に位置するスベイトラのローマ遺跡。建設は2世紀に始まり、7世紀の東ローマ帝国時代まで続いた。当時は「スフェトゥラ」と呼ばれた。砂漠の中の廃墟という印象である。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]スーク、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。写真(1)メディナには「スーク」と呼ばれる建設当時からの古い市場がある。価格は全て交渉による。外国人には大変疲れる商習慣だが、現地では人気が高く常に賑わう。これは中部の古都カイルアンの絨毯店。写真(2)同じくカイルアンのスーク、これは皮製品店の店先。写真(3)同じくカイルアンのスーク、造花の出店。写真(4)スース、メディナのスーク風景。このような路地が延々と続く。ありとあらゆるものが商われている。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]チュニジアの塩湖、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ショット・エル・ジェリド、撮影者:野町亘。写真(1)チュニジアの内陸部にはかつての内海の名残である塩湖が見られる。砂漠の景観そのもののようであるが、ところどころに帯状の白い部分が見える。これは塩湖の干上がった跡である。写真(2)塩湖は、ひとつの大きな湖ではなく、このような無数の「水溜り」として見られる。したがって「塩湖地帯」と呼ぶほうが適当かもしれない。これは最大の塩湖「ショット・エル・ジェリド」の一部。写真(3)塩湖の水中や周辺で塩が析出しているようす。塩はミネラル分を多量に含むせいかマイルドな「うまい」塩である。採取自由なので多量に持ち帰る観光客も多い。写真(4)塩湖は、土の成分などによって微妙に色合いが異なる。写真(2)、(3)では赤味が強いが、このように緑味を帯びたものもあり、さまざまである。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]チュニジアン・ブルーの家々、撮影年月:2001年6月、撮影場所:シディ・ブ・サイド、撮影者:野町亘。ブーゲンビリア、ハイビスカス、ジャスミンなどの花が咲き乱れ、木々の緑、白とチュニジアン・ブルーの家々。その美しさは例えようもない。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]チュニス市内・イギリス大使館、撮影年月:2001年6月、撮影場所:チュニス、撮影者:野町亘。チュニジアの建物は白とブルーが基調。このブルーが有名な「チュニジアンブルー」であり、「国色」としてこの色を使うよう行政の指導がある(強制力はない)。この建物はチュニス市内のイギリス大使館。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ナブール、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ナブール、撮影者:野町亘。写真(1)ボン岬半島の南に位置するナブールは、オレンジの産地として、また鮮やかな色彩が特徴の陶器の産地として知られる。これは中心部のロータリーにある町の象徴、「オレンジ・パフェ」と呼ばれる陶器のモニュメント。写真(2)ナブールは地中海に面した古くからのリゾートでもあり、ヨーロッパの観光客が多い。これは観光客相手の市内遊覧馬車である。写真(3)ナブールの街の中心部にある陶器工場の正門。色鮮やかなチュニジアン・ブルーが目を引く。写真(4)ナブールの街角の喫茶店。国内どこでもそうだが、女性客の姿はまったく見られない。これはイスラム圏特有の現象らしい。写真(5)ナブールの果物店の店先。このように商品を斜めに立てかけて見せるのが特徴。果物の産地とあって品揃えは豊富。写真(6)ナブールの雑貨店の店先。昔懐かしのアカすり用のヘチマが売られていた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ハマメットのビーチ風景、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ハマメット、撮影者:野町亘。ボン岬半島の南部にある古くからのリゾート、ハマメットのビーチ風景。これはアラブ時代に建造された当時の要塞「カスバ」の城壁からの眺め。バカンスには程遠い5月末にもかかわらずヨーロッパの観光客で賑わっていた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]バルドー博物館、撮影年月:2001年6月、撮影場所:チュニス、撮影者:野町亘。写真(1)チュニスのバルドー博物館は「チュニジアのルーブル」とも言われ、先史時代からの貴重な出土品、美術品の宝庫であるが、ローマ時代のモザイクタイルのコレクションでは断然世界一を誇る。これはギリシア神話の一場面。写真(2)モザイクタイル画は、神話・宗教を素材にしたものより、身近な生活の場面を描いたものの方が多い。このリアルかつ迫力十分の描写は見るものを圧倒する。写真(3)このモザイクタイル画は当時の富豪の一室を飾っていたもので、ローマ時代の人々の生活がよく描かれている貴重なものである。かなり近づいて見ないとモザイクタイルであるとわからないほど精巧なものである。写真(4)モザイクタイル画には、当時の食材をテーマにしたものも多い。ローマ時代はまだ肉食の習慣はなく、魚が主たるタンパク源であったという。現代の魚類図鑑にも匹敵するほどの精密な描写に一驚した。写真(5)バルドー博物館2階の「バルドー・パレス」と呼ばれるコーナーのようす。壁面の幾何学模様、アーチ型の支柱、華麗な噴水など、イスラム建築の特徴がよく表われている。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ピュルサの丘、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。写真(1)「ピュルサの丘」からのカルタゴ市街の眺望。カルタゴは首都チュニスから10キロほどのところに位置する高級住宅地。この丘には古代カルタゴ、ローマの遺跡が多数残っている。この円柱はローマ時代のもの。写真(2)ピュルサの丘にある古代カルタゴ(BC3世紀ごろ)の住居跡。ローマ帝国の征服後徹底的な破壊を受けているが、比較的当時の姿が偲ばれるもの。写真(3)カルタゴ、ピュルサの丘には、イスラム国には大変珍しいカトリック教会、「サン・ルイ教会」がある。1890年、フランスによって建てられたものである。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ベルベル人の生活、撮影年月:2001年6月、撮影場所:メトラウイ・マトマタ、撮影者:野町亘。写真(1)サハラ砂漠の東端近くのマトマタに見られるベルベル人の穴倉住宅のようす。ベルベル人はアフリカの先住民族であるが、過激なアラブ民族の侵攻を受け、外敵から身を守るためこのような特異な住居形態をとるようになった。「身内意識」が強く、集落を作って他民族との混血を避け、ひっそりと暮らしている。写真(2)ベルベル人の夫婦。壁は白く塗られていて大変清潔な印象。写真(3)ベルベル人の主婦が小麦を石臼で挽くところを実演してくれた。この小麦粉で作ったパン(いわゆる「ナン」のようなもの)をふるまわれたが、実に美味であった。写真(4)ベルベル人の住居の内部。外は40℃の暑さであるが、穴倉の部屋は涼しく意外に調度なども立派。写真(5)ベルベル人の娘。画面奥が住居の入口である。写真(6)ベルベル人の家畜。家畜にも専用の穴倉がある。写真(7)ベルベル人の集落タメズレの情景。地上に見えるのはほとんどが公的建築物であり、各家庭は穴倉住居で暮らしている。サハラ砂漠付近の乾燥地帯で、一面の砂色、乾燥に強いナツメヤシが僅かに緑の彩りを添える。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ムハンマド生誕祝日の人出、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。同じくカイルアンのメディナ、ムハンマド生誕祝日の人出。路上マーケットが大変な人気を呼んでいた。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]ムハンマド通り、撮影年月:2001年6月、撮影場所:チュニス、撮影者:野町亘。写真(1)首都チュニスの目抜き通りの一つ、「ムハンマド通り」の情景。チュニスは人口200万の近代的な美しい都市である。この街路樹は乾燥地帯や砂漠のオアシスによく見られるナツメヤシである。写真(2)チュニジアでは、国民の99%がイスラム教徒で、そのほとんどがスンニー派に属する。画面の中央はムハンマド通りにあるイスラム寺院写真。写真(3)モスク。このように都市中心部でもいたるところにモスクが見られる。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]メディナ、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スース、撮影者:野町亘。チュニジアの主要都市は、ふつう城壁に囲まれたメディナ(旧市街)とそれをとり巻く新市街とから成る。メディナは13~17世紀に建設されたイスラム市街で、大規模なモスクを持つ。これは地中海沿岸のリゾート都市スースのメディナ。
神奈川県 野町亘
[チュニジア]メディナの日没風景、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。カイルアン、メディナの日没風景。たまたま翌日がムハンマド(モハメッド)生誕の祝日に当たり、大変な賑わいであった。
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[チュニジア]ラクダツアー、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ドゥーズ、撮影者:野町亘。ドゥーズの町には、サハラ砂漠の砂丘を観光する「ラクダツアー」があり、人気を呼んでいる。
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[チュニジア]リン鉱石の町メトラウイの街角風景、撮影年月:2001年6月、撮影場所:メトラウイ、撮影者:野町亘。サハラ砂漠の東端近くに位置するリン鉱石の町メトラウイの街角風景である。地方都市では、イスラムの伝統的衣装をまとった女性が目立つ。40℃近い暑さであるが、人前では肌をさらさない。
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[チュニジア]休日のフリー・マーケット、撮影年月:2001年6月、撮影場所:メトラウイ、撮影者:野町亘。メトラウイの街で見かけた休日のフリー・マーケット情景。地方都市ではごく一般的に行われている。このような店が延々200メートルほど続いていた。
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[チュニジア]地中海沿岸のリゾート、ポート・エル・カンタウイ、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ポート・エル・カンタウイ、撮影者:野町亘。写真(1)地中海沿岸のリゾート、ポート・エル・カンタウイのヨット・ハーバー近くのペンション。別荘風の邸宅も多い。写真(2)ポート・エル・カンタウイの海岸にあるお土産店。手前の棚に置かれているのは通称「砂漠のバラ」。内陸の塩湖地帯の地中で塩水が砂と混合したまま結晶して、バラの花状の塊となったもの。人気のあるお土産のひとつ。写真(3)ポート・エル・カンタウイのヨット・ハーバー。写真(4)ヨット・ハーバーの周辺にはホテル、ペンションなどが軒を連ねる。きわめてヨーロッパ的なリゾート風景である。
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[チュニジア]映画「スター・ウォーズ」のロケに使われた場所、撮影年月:2001年6月、撮影場所:マトマタ、撮影者:野町亘。写真(1)ベルベル人の穴倉住宅で知られるマトマタには、「シディ・ドリス」という有名なホテルがある。これはその入口。穴倉住宅を改装してホテルとしたもの。映画「スター・ウォーズ」のロケに使われ、一躍有名になった。写真(2)「スター・ウォーズ」を見た人は画面右壁面のアクセサリーに見覚えがあろう。さまざまな遊星人が情報交換する「溜まり場」として使われた中庭である。左の入口はバーなどに通じているが、やはりロケに使われた。
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[チュニジア]民族音楽、舞踊のショウ、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ドゥーズ、撮影者:野町亘。サハラ砂漠東端の町ドゥーズでは、砂漠の騎馬民族ベドウィンの民族音楽や舞踊、ウマの曲乗りなどのショウが見られる。、写真(2)舞踊団の長老が横笛を吹く。南米のケーナに似た素朴な音色であった。
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[チュニジア]浴場の談話室跡、撮影年月:2001年6月、撮影場所:スベイトラ郊外、撮影者:野町亘。モザイクタイルが非常によく残っている。ところどころ白く見えるのは復元された部分。
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[チュニジア]砂漠の動物、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ドゥーズ郊外、撮影者:野町亘。写真(1)砂漠の途中で休息するラクダ。サハラのラクダはいわゆる「ふたコブラクダ」で、乗り手はコブの間ではなく、後ろに乗る。ゆっくりとではあるがかなり揺れ、「砂漠の舟」を実感できる。写真(2)乾燥地帯に生息するキツネの仔。耳が大きく、大変愛らしい。観光客用に飼育されているもの。
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[チュニジア]神々の像、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カルタゴ、撮影者:野町亘。写真(1)ローマ時代の神々の像である。惜しいことに破損が多いが、5~6世紀、チュニジアに侵入したヴァンダル人の意図的破壊によるものとされている。写真(2)同じくギリシア神話の神々の頭部である。
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[チュニジア]製塩工場、撮影年月:2001年6月、撮影場所:ショット・エル・ジェリド、撮影者:野町亘。ショット・エル・ジェリドにある製塩工場。ごく小規模なもの。
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[チュニジア]豪商一族の墓地、撮影年月:2001年6月、撮影場所:カイルアン、撮影者:野町亘。チュニジアでは土葬である。これはカイルアンの豪商一族の墓地である。一基の墓標が一人の故人に対応する。定期的に白く塗り替えるのでどれが古いものかは遠目にはわからない。古いものは数百年も経っているという。
神奈川県 野町亘
ニューサポート高校「社会」vol.21(2014年春号)より。ドゥッガ遺跡Dougga は、チュニジアの北西部、アルジェリア国境近くの小山のほぼ頂上にある。65 ヘクタール(東京ドーム14 個分)という広大な敷地の古代都市がそっくり残されていて、北アフリカでもっとも保存状態の良いローマ時代の都市遺跡として1997 年に世界遺産に登録された。
熊本県立済々黌高等学校 牛嶋秀政
最新「世界と日本の白地図」(2)<世界:大陸,州規模>(2021年11月版)編より。本データは,最新の地図情報のもとに、高画質・高品質で作成しています。教材プリント作成やワークシート作成などで,自由に加工・編集してご利用いただけます。
東京書籍(株) 社会編集部
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