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大阪城落城之図屏風、通称「最上屏風」。寛政11年、小俣七郎模写。「寛政11年9月東都桂林舎蔵」。富岡鉄斎旧蔵。寸法一扇90.5×92.5(センチメートル)、白黒写真、名古屋市秀吉清正記念館蔵。
名古屋市秀吉清正記念館
家康・秀頼二条城会見、昭和時代の作。山田秋衛筆、寸法40.0×52.0(センチメートル)、カラー写真、名古屋市秀吉清正記念館蔵。
名古屋市秀吉清正記念館
教室の窓 中学校社会 2007年9月号より。学校の教科書で「朝鮮通信使」を取り扱った箇所は少ない。せいぜい江戸時代の「鎖国」の項か、新井白石の「正徳の政治」の項で簡単に言及されるに留まっているのが現状である。しかし「朝鮮通信使」と呼ばれる使節は、実は室町時代から日本に派遣されていた。写真1:江戸城に入る朝鮮通信使の一行(江戸図屏風 国立歴史民俗博物館蔵)、写真2:朝鮮王朝の回答兼刷還使派遣から400年を記念して,2007年4月にソウルで行われた行事(PANA通信社)。
共立女子大学非常勤講師 米谷均
日本の絵師宮川長春(1682~1752)が、通信使一行中の馬上の人物を生き生きと描いたものである。煙管を片手に煙草を燻らせ休憩している場面で、ウマにはウサギ・ニワトリ・手桶などがくくりつけられ、馬子は蹄に草鞋を付けている。くつろいでいる通信使人物画は珍しく、また当時の風俗もよく表現されている。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。
佐賀県立名護屋城博物館
1711(正徳元)年の通信使として来日した一行の人物、衣服、楽器、武器、曲馬の様子などを記したもので、この資料は江戸時代後期に写されたものである(原本は不明、類例は東京国立博物館蔵『朝鮮聘使詳解』)。一行中のさまざまな階級の人々の衣装・様子・道具類などが、博物学的に詳細にかつ色彩豊かに描写・記録されている。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。
佐賀県立名護屋城博物館
「通信使」とは、朝鮮国王が書契(国書)及び礼単(進物)をもたせて将軍のもとに派遣した外交使節団で、「朝鮮通信使」「(朝鮮)信使」「(朝鮮)来聘使」「御代替わり信使」ともよばれた。江戸時代には12回来日し、3使(正使・副使・従事官)のもとに300~500人の大使節団を編成した。通信使の行列を画題としたものは多数描かれたが、本資料は1682(天和2、<朝鮮暦>粛宗8)年か、1711年(正徳元<朝鮮暦>粛宗37)年の通信使を描いたものと推定されている。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。
佐賀県立名護屋城博物館
通信使一行には、3使(正使・副使・従事官)のほかに製述官(文才者)や画員、曲楽(楽隊)などさまざまな超一流の文化人が含まれていた。1636(寛永13)年の通信使から加わった「馬上才」もその一つで、馬乗り曲芸を披露する人々である。この資料は、1711(正徳元)年の通信使として来日した馬上才「池起澤」「李斗興」の妙技を描いたものである。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。
佐賀県立名護屋城博物館
教科書に名前が掲載されている老中の数は限られ,掲載されていても十分な説明があるものはごくわずかであるが,老中の役割を知ることは江戸時代の家格制度を考える上で興味深いと述べている。
東京大学教授 山本博文
高等学校の学習指導要領の改訂があり,平成26年度版教科書からは,近世の日本と世界に「歴史の説明」という項目が導入された。東京書籍の『新撰日本史B』では,「江戸幕府は「鎖国」をしていたか」というテーマを選んだ。近年,江戸時代の限定的な外交・貿易体制を指す「鎖国」という用語に批判がなされ,「江戸時代は鎖国ではなかった」というような文章も散見されるところであるが,この項目に即して,説明を加えておきたい。
東京大学史料編纂所教授 山本博文