教科書の単元から資料を探すページです。
ニューサポート高校地歴・公民Vol.6(2006年秋号)より。古代史に限らず,歴史上の人物をどのように表記するかは,存外難しい問題である。この問題で,すぐに思い浮かぶのは,外国人の人名表記であり,例えばチンギス・ハン(カン)とチンギス・ハーン(カーン)では,その称号に大きな違いがあることなど(前者は王,後者は皇帝),不勉強な筆者はごく最近になって知った。
東京書籍『日本史B』編集委員) 佐々木恵介(ステータス:聖心女子大学教授
撮影年月:1999年3月、撮影者:逸見修、撮影場所:埼玉県秩父市黒谷聖神社境内。和銅山から採掘された自然銅を、西暦708年、元明天皇に献上したところ、元明天皇はたいそう喜ばれ、銅製の百足(むかで)雌雄1対を下賜された。雄は長さ13.9cm、足20対、雌は長さ14.4cm、足22対。自然和銅石2個(大17.6kg、小0.48kg)と共に聖神社の御神宝とされている。
埼玉県秩父市 逸見修
5世紀後半の台付長頸壺で、台部に四角形の透かし孔があり、口縁部と胴部に櫛状工具により波状文を描いている点は新羅系の陶質土器の特徴である。頸部から肩部にかけて自然柚がかかっている。慶尚南道洛東江西岸地域の古墳から類似した資料が多く出土している。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。写真は佐賀県立名護屋城博物館提供。
佐賀県立名護屋城博物館
水鳥をかたどった土器で、4世紀頃朝鮮半島南東部にあった伽耶とその周辺でもちいられた。2点1組で儀式や死者への副葬品に用いられたと考えられる。中国の歴史書『魏書』東夷伝によると、朝鮮半島南東部では鳥は死者の魂を霊界へ運ぶものと信じられていたという記述があり、この鳥形土器はそのような思想を反映していると思われる。ご注意:このPDFファイルのデータはセキュリティーがかかっていて、編集・加工・印刷は禁止になっています。閲覧専用です。資料説明は、佐賀県立名護屋城博物館総合案内による。写真は佐賀県立名護屋城博物館提供。
佐賀県立名護屋城博物館
撮影年月:1999年3月、撮影者:逸見修、撮影場所:埼玉県秩父市黒谷聖神社境内。武蔵国秩父郡から、西暦708年に朝廷に献上された自然銅をもとに、鋳造された日本最古の通貨が「和同開珎」である。その銅は、露天掘りによる純度の高い自然銅であったが、当時は「和」は「熟している」「やわらかい」という意味の文字が当時は「和」であり、熟していてやわらかく割合簡単に鋳造できる銅なので「和銅」とよんだ。
埼玉県秩父市 逸見修
撮影年月:2000年3月、撮影者:逸見修、撮影場所:埼玉県秩父市黒谷 秩父鉄道黒谷駅付近。秩父市の北方、黒谷にある和銅山。秩父鉄道黒谷駅の目の前に ある和銅山の中腹に、和同開珎の原料である自然銅の採掘跡、和銅遺跡がある。ふもとには、西暦708年、銅を元明天皇に献上したときに、その銅から造られ天皇から賜ったと言われる、百足(むかで)2体を御神宝とする聖神社が存在する。
埼玉県秩父市 逸見修
撮影年月:1999年3月、撮影者:逸見修、撮影場所:埼玉県秩父市黒谷。和銅を採掘した露天掘跡である。和銅山頂に抜ける裂け目が、この遺跡の下を流れる銅銭掘という沢まで、総長100mを超す2条の断層亀裂面となって、露天掘跡が今に昔の面影を残している。地質学的には、第三紀層(秩父盆地)と秩父古生層との接触部に当たり、そこの露出面より自然銅が採掘された。この露天掘跡が、「和銅遺跡」中心地である。
埼玉県秩父市 逸見修
撮影年月:1999年3月、撮影者:逸見修、撮影場所:埼玉県秩父市黒谷聖神社境内。西暦708年(和銅元年)2月13日創建。創建当時、和銅山から採掘された和銅石13個(現存するのは2個)と、献上した銅から造られ、元明天皇から下賜された百足(むかで)の雌雄一対が御神宝として納められ、今に伝えられている。社殿の奥の扉のある宝庫に、当時の自然銅と共に保存されている。
埼玉県秩父市 逸見修
今からおよそ1300年前(奈良時代始め)、全国60余国に、それぞれの国における地方政治の中心となる国庁がつくられました。国庁の周りには様々な公的施設がつくられており、これらをまとめて「国府」と呼んでいます。出雲国府は現在の松江市大草町に置かれ、国庁は六所神社境内周辺にあったことが分かっています。『出雲国風土記』の記載から、付近には意宇郡家(おうぐうけ)、黒田駅(くろだのうまや)、意宇軍団などの、国府以外の施設もあったことが知られますが、詳細は分かっていません。
愛知県名古屋市 井上隆夫
出雲国分寺は、741年、奈良時代の中頃、聖武天皇の詔により全国に作られた国分寺・国分尼寺の1つで、当時の国分寺には20人の僧侶がいたとされる。一辺約150メートルの寺域の中に、南門・中門・回廊・金堂・塔・講堂・僧坊等が揃った東大寺式の伽藍配置であったことが判明している。また、瓦が国庁や寺院など一部の建築物にしか使用されなかった時代に、新羅の影響を受けた流麗な文様を持つ軒先瓦が使用され、文化と技術が結集された建築物だった。写真(1)は、出雲国分寺跡の石碑と全体の現在の景観。写真(2)は国分寺の南門跡。「南門」の階段があって、先に「中門」の階段が見える。さらにその先に、金堂があった。
愛知県名古屋市 井上隆夫
古代・飛鳥文化の代表的な寺院の伽藍配置と模型です。講堂・金堂・塔(五重塔)・中門・南大門の模型から,飛鳥寺式,四天王寺式,法隆寺式,薬師寺式,東大寺式,大安寺式などの説明と伽藍の変遷を辿ることができます。模型の作り方や教材の扱い方について簡単に解説しました。(資料としてGIFファイル,PDFファイルを添付)
和歌山県立橋本高等学校 岩倉哲夫
(栃木県立田沼高等学校の植物写真)万葉植物の花を探して庭を散策し、コヒルガオに出会いました。保健室前の花壇の縁に数輪咲いていました。ヒルガオを、大伴家持はこう詠んでいます。「高円(たかまど)の 野辺の容花(かほばな) 面影に 見えつつ妹は 忘れかねつも(巻八-1630)」
栃木県立田沼高等学校 川島基巳
撮影年月:1986年8月、撮影者:木村裕保。トルファン・鳴沙山(めいさざん)の月牙泉(げっかせん)付近です。いにしえからのシルクロードの砂漠を行く隊商の様子です。現在は、観光用として行われていて、ラクダに乗ることができます。鳴沙山は、風に舞う砂が鳴いているように聞こえるという砂山です。月牙泉は三日月(月牙)の形をしたオアシスの名前です。
愛知県 木村裕保
ニューサポート高校「社会」vol.18(2012年秋号)より。歴史を組み立てる素材を資料と呼ぶ。そのうち文字で書かれたものを,特に史料と称する。
奈良文化財研究所史料研究室長 渡辺晃宏
[本文より]唐の都だった長安(現在の西安)も私の想像力を刺激し感動を与えてくれる町だった。この町は「長安城」といわれたぐらいで、町のまわりが高い石垣でずっと囲まれている。
茨城県水戸葵陵高等学校 菊池美佐江