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310 世界史A4節 冷戦の終結

指導資料

  • 教室から考える現代国際社会(4-2)「第二次世界大戦後の世界情勢~冷戦からポスト冷戦へ・構造理解~2」
    2003年10月10日
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    教室から考える現代国際社会(4-2)「第二次世界大戦後の世界情勢~冷戦からポスト冷戦へ・構造理解~2」

    1989年12月,アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が会談し「冷戦終結」を世界に宣言した。これが,マルタ会談である。その後,1991年のソ連崩壊をもって冷戦は完全に消滅するが最盛期では米ソ両国の合計で広島型原爆の110万倍という膨大な核兵器が配備されており,全面核戦争の危機にさらされ続けた人類にとって,両国の和解は大いに歓迎すべきものであった。また,91年12月のソ連分裂・消滅後,旧社会主義国のほとんどが資本主義への道を歩みはじめた。現在でも社会主義体制を堅持している国は存在するが,その最大勢力である中国でさえ,1978年末,鄧小平が主導権を握って以来,改革開放を進めており,もはやその内実はほとんど資本主義化しているといってよい。このように,ポスト冷戦期の世界は資本主義がほぼ世界共通の体制となり「大競争(メガコンペティション)」の時代に突入したともいわれる。さらに,90年代に入っても死者1,000人以上を数える戦争・内戦が毎年30以上も発生し,冷戦終結は必ずしも平和の到来を意味しなかった。しかもこの混乱は終息に向かうどころか一層混迷の度合いを深めつつある。その最大の原因は唯一の超大国となったアメリカの動向にある。

    立命館慶祥高等学校 斎藤忠和

  • [ドイツ]チェックポイント・チャーリー
    2007年03月08日
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    [ドイツ]チェックポイント・チャーリー

    [ドイツ]チェックポイント・チャーリー、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。 東西ドイツ時代、西側の旅行者が東ベルリンへ入るためには、二つの通り道しかなかった。そのうちの一つがこのチェックポイント・チャーリーと呼ばれる地上のゲートである。ここはベルリン市の中心部にある、いわば厳戒態勢の国境だ。ここで手続きをすれば、徒歩または自動車で東側市街へ入ることができた。このゲートの近くには「壁博物館」があり、壁建設以来の歴史的な写真等を展示していた(現在もある)。いま一つの通路は、地下鉄のフリードリヒ・シュトラーセ駅で、それは戦前に造られた、西側からいったん東側を経由して再び西側へ戻る地下鉄路線の、東側にあった駅の一つであり、ただ一つ開いている駅であった。地下鉄の駅構内で国境検問を済ませた人々が地上に出ると、そこは東ベルリンの市街地であった。

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  • [ドイツ]壁で寸断された線路
    2007年03月08日
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    [ドイツ]壁で寸断された線路

    [ドイツ]壁で寸断された線路、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。 第2次世界大戦前に造られた線路が、壁によって寸断されている。路面電車の跡であろうか。擦り減った石畳が、時間の経過を感じさせる。

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  • [ドイツ]壁で寸断された通り
    2007年03月08日
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    [ドイツ]壁で寸断された通り

    [ドイツ]壁で寸断された通り、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。 壁ができるまでは一つの通りとしてつながっていたところが、無残にも寸断されている。第2次世界大戦前に造られた線路の跡も見える。左に置かれた台に上れば、東側をわずかながら眺望することができるようになっている。このような台が、西側にはいくつか設置されていた。

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  • [ドイツ]壁のようす
    2007年03月08日
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    [ドイツ]壁のようす

    [ドイツ]壁のようす、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。 西ベルリンから見た壁のようす。ベルリンの壁は、高さ3mほど。向こう側はさすがに見えないが、壁のすぐ傍らまで近づくことができた。壁の反対の東側では、東から西へ亡命する人を防ぐための柵などが造られており、容易には壁に近づけないようになっていた。

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  • [ドイツ]壁の向こうは東側の建物
    2007年03月08日
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    [ドイツ]壁の向こうは東側の建物

    [ドイツ]壁の向こうは東側の建物、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。ベルリンの壁のすぐ向こうに、東ベルリンの建物が建っている。市街地を寸断するように壁が造られたことが分かる。

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  • [ドイツ]壁の周辺の空き地
    2007年03月08日
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    [ドイツ]壁の周辺の空き地

    [ドイツ]壁の周辺の空き地、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。ベルリンの壁があった当時、壁に近いあたりは開発が進められることはなく、がらんとした空き地になっているところが多かった。街の中心部でありながら、このような寂しげな場所が多くあった。

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  • [ドイツ]夜のブランデンブルク門(東側より)
    2007年03月08日
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    [ドイツ]夜のブランデンブルク門(東側より)

    [ドイツ]夜のブランデンブルク門(東側より)、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。夜のブランデンブルク門を東ベルリン側より見る。ライトアップされていたのは、ここが東西に分断されたベルリンを象徴する場所だったからだろうか。ベルリンの壁は門の向こう側にあるが、手前に柵およびもう一つ低い壁もあって、門に近づくことはできない。門は東ドイツ兵士が常時警備を行っていた。歩きながら周辺の監視をする兵士の姿が写っている。門の左右に警備兵の待機所があった。

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  • [ドイツ]旧フランス管理地を示す表示
    2007年03月08日
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    [ドイツ]旧フランス管理地を示す表示

    [ドイツ]旧フランス管理地を示す表示、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。西ベルリン市街地での壁のようす。立て札には“FIN DU SECTEUR FRANCAIS”(ここまでがフランス管理地)と書かれている。ベルリンは第2次世界大戦後、英・米・仏・ソビエト連邦の4か国によって統治されていた。このうち英・米・仏の3か国統治地域が西ベルリンとなり、ソ連統治地域が東ベルリンとなった。その境界線上に、壁が築かれたのは1961年のことである。

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  • [ドイツ]東ベルリン・大聖堂とタワー
    2007年03月08日
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    [ドイツ]東ベルリン・大聖堂とタワー

    [ドイツ]東ベルリン・大聖堂とタワー、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。ベルリン市街の中心部だったところは、戦後東側に属することになった。ペルガモン博物館をはじめとする博物館群、大学やいくつかの教会などである。写真のベルリン大聖堂の巨大ドームは、1905年に完成した。第2次世界大戦で破壊され、大きな被害を受けたが、戦後に改修された。その背後に見えるのは、東ドイツによって、共産圏の力と繁栄を誇示するために造られたベルリン・タワー。完成は1969年、現在の高さは368mである。

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  • [ドイツ]東ベルリン市内のようす
    2007年03月08日
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    [ドイツ]東ベルリン市内のようす

    [ドイツ]東ベルリン市内のようす、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。東ベルリンの中心部の風景。モニュメントや壮麗な建造物の前に、あまり高級そうには見えない東ドイツ製の車が並ぶ。当時、西側の旅行者は1日ビザをもらって1日だけ東ベルリン内を観光することができた。その際、西ドイツの通貨25マルクを、東ドイツの25マルクに強制的に両替させられた。当時25マルクは日本円で約1700円。東ベルリンでは、そのお金でレストランに入り、店のいちばん高い料理を食べてもおつりがきた。そのぐらい東西では生活レベルに格差があった。しかしそれでも、東ベルリンは共産圏の中で、他の都市よりずっと豊かなところだと言われていた。

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  • [ドイツ]東ベルリン(ウンター・デン・リンデン通り)
    2007年03月08日
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    [ドイツ]東ベルリン(ウンター・デン・リンデン通り)

    [ドイツ]東ベルリン(ウンター・デン・リンデン通り)、撮影年月:1989年2月、撮影場所:ドイツ、ベルリン。ブランデンブルク門の東、現在の地下鉄(Uバーン)「ウンター・デン・リンデン」駅の付近である。前方にブランデンブルク門が見える。ウンター・デン・リンデン通りは、この先、数キロにわたって真っ直ぐに伸びている(もちろん途中、壁で寸断されていた)。この当時はがらんとして寂しいようすだったが、現在このあたりには、みやげ物店やブランドショップ、デパート、各国大使館などが立ち並び、多くの観光客や市民でにぎわっている。

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  • 教室から考える現代国際社会理解(7)「紛争から考える冷戦期とポスト冷戦期」
    2004年04月14日
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    教室から考える現代国際社会理解(7)「紛争から考える冷戦期とポスト冷戦期」

    本稿は「現代国際社会理解」で用いるために作成したテキストを整理・改訂したものである。第7章においては,冷戦期の紛争とポスト冷戦期の紛争を比較し,さらに詳細に冷戦期の位置づけを考えてみた。

    立命館慶祥高等学校 斎藤忠和

  • 教室から考える現代国際社会(4-1)「第二次世界大戦後の世界情勢~冷戦からポスト冷戦へ・構造理解~1」
    2003年10月02日
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    教室から考える現代国際社会(4-1)「第二次世界大戦後の世界情勢~冷戦からポスト冷戦へ・構造理解~1」

    第二次世界大戦が終わると,敗戦国のドイツや日本だけでなく,戦勝国のイギリスやフランスも植民地を失って急速に力を弱めた。これらの諸国にかわって世界の覇権を確立したのが,アメリカ合衆国であった。2回の世界大戦を通じ,アメリカは戦勝国であっただけでなく,いずれの世界大戦でもその国土はほとんど戦場とならなかった。そのため生産力は破壊されなかった上,同盟関係にある連合国の諸国に武器援助などを行い,生産力と技術力をさらに伸ばした。また,第二次大戦末期には世界で初めて原子爆弾を開発し,核時代の先鞭をつけ,軍事力でも圧倒的な優位を確立した。

    立命館慶祥高等学校 斎藤忠和

  • 教室から考える現代国際社会(5-2)「現代の地域紛争の概略・分析及び紛争の構造的変化2」
    2003年12月01日
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    教室から考える現代国際社会(5-2)「現代の地域紛争の概略・分析及び紛争の構造的変化2」

    米ソ直接の武力衝突は伴わなかったものの,冷戦下の世界では両者の厳しい緊張関係から各地で流血事件や“熱戦”が起こった。その代表例が,ドイツ,朝鮮半島,そしてベトナムをめぐる対立であり,キューバ危機である。第二次大戦後,敗戦国ドイツの占領管理・戦後処理をめぐって,米・英・仏の西側3国とソ連との間で対立が激化した。その結果,1949年,ドイツは首都ベルリンも含めて国土が東西に分割されたまま別々に独立し,同じ民族が2つの国家に分断された。さらに52年には,東ドイツにおける農業集団化の強行や労働者に対する規律の強化によって,西ドイツへの大量の逃亡者が発生し,その数は1960年にはおよそ20万人に達し,東ドイツは深刻な労働者不足に見まわれた。そこで東ドイツ国家評議会議長ウルブリヒトは,ソ連・東欧諸国の同意を得て,1961年8月13日,東西ベルリンの境界線に「ベルリンの壁」を築き,自由な往来を遮断した。この「ベルリンの壁」は長く冷戦の象徴的存在となった。

    立命館慶祥高等学校 斎藤忠和

プリント資料

  • [世界史A一問一答]第9章 3.地域紛争と市場経済の世界化(2),4.冷戦の終結とソ連の崩壊
    2007年11月30日
    • 地歴・公民・地図
    • 授業プリント・ワークシート
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    [世界史A一問一答]第9章 3.地域紛争と市場経済の世界化(2),4.冷戦の終結とソ連の崩壊

    世界史A・一問一答問題集より。それぞれのファイルは,問題1ページ,解答1ページの2ページ構成になっています。ご指導の中でご活用ください。[キーワード]南北問題 南南問題 第三世界 アフリカ統一機構(OAU) ソマリア アパルトヘイト パナマ運河 アジェンデ ゴルバチョフ ペレストロイカ グラスノスチ ワレサ 1989年 マルタ会談 ブッシュ(父)  ゴルバチョフ 1990年 バルト三国 エリツィン 独立国家共同体

    東京書籍(株) 社会編集部

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