東京書籍2003年5月作成
昔,国語の時間に詩を暗誦〈あんしょう〉させられた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」,高村光太郎の「千鳥と遊ぶ智恵子」などである。北原白秋の「落葉松〈からまつ〉も覚えているので,教室で何度も読みあげさせられたのだろう。よく考えてみれば(よく考えなくても),教室以外のところで覚えたはずの詩はみなうろ覚えである。三好達治の「甃〈いし〉の上」や中野重治の「しらなみ」は完璧に覚えているのに(これらは短い!),私の好きなはずの中野重治の「雨の降る品川駅」は,李と金ともう一人の金(李だったか?)の順番がよくわからなくなるし,三好達治の「牛島古藤歌」は「何をうしじま千とせ藤/はんなりはんなり」のリフレインしか出てこない。暗誦や暗記は肉体的訓練であり,頭脳労働とは少し違っていることを実感せざるをえないのである。
法政大学教授,文芸評論家 川村湊