日本史A ダイジェスト版
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3 立憲国家の成立 73に地主と中小農民の利害が対立し,自由党の諸事件が起こる中で,結成3年後の加波山事件直後に解党した。1890年,第1回帝国議会開催を前に,立憲自由党(のち再び自由党)として再出発することになる。 立憲改進党 大隈重信を中心に1882(明治15)年3月に結成された政党。総理は大隈,副総理は河野敏鎌。主に都市の実業家,知識層及び地方の資産家を地盤とし,イギリスの立憲政治を模範とした。君民同治,二院制,制限選挙を主張したが,1884年12月,大隈,河野が脱党し,事実上解散した。 板垣退助の遭難(p.56) 自由党結成ののち,板垣退助は各地で遊説を行った。1882(明治15)年4月,岐阜の金華山麓の神道中教院での演説会のあと玄関を出たところで,愛知県の士族で小学校教員であった男に短刀で切りつけられ,胸部,両手などを負傷した。 自由党史には「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと書かれているが,実際には「退助がこのまま死んでも自由の精神が滅びることはない」と語った言葉を,側近がアピールするよう言い換えたものと考えられる。なお犯人は,「勤王の志止み難くして国賊板垣を斃す……」と遺書に書いた保守主義の心酔者であった。p.58-59松方財政と民権運動 松方財政 1881(明治14)年10月に大蔵卿となった松方正義は,歳出を減らし歳入を増大させることによって不換紙幣を回収する一方,正貨準備金を積み立て,紙幣流通量と正貨準備高を近づけて兌換券を発行するとともに,国家財政を安定させる財政政策を実施した。 まずそのために,松方は行政費削減と官業払い下げを実施した。一方,酒税の増徴,売薬印紙税・醤油税・菓子税などを新設することによって歳入の増大を図り,その差し引き分を紙幣償却と正貨準備に充てていった。 日本銀行 1882(明治15)年に日本銀行条例が公布され,紙幣整理と近代的貨幣・信用制度確立のために設立された中央銀行。唯一の発券銀行で兌換銀行券発行の権利を与えられていたが,はじめはもっぱら紙幣整理に当たり,紙幣流通量と正貨準備高が接近した1885年5月に兌換銀行券を発行し,1886年1月から正貨(銀貨)兌換を実施した。 福島事件と三島通庸 福島事件は,自由党員と藩閥政府の最初の大規模な衝突事件であった。1882(明治15)年に福島県令に着任した三島通庸(鹿児島出身)は,「自分の管下には自由党と火つけ泥棒は一人たりとも置かぬ」と豪語し,「自由党の撲滅,帝政党の援助,道路の開鑿」の三つの政府の内命を宣言し,地方税の地租割によ2 4000万円を超える西南戦争の軍事費は,政府紙幣と国立銀行券の濫発によってまかなわれた。このため紙幣流通高は1880(明治13)年には1億7000万円を超えた。その結果,物価騰貴(「西南インフレ」ともいう)と紙幣価値の下落を招き,政府は深刻な財政危機に直面していた。1874.11875.11876.11877.11878.11879.11880.11881.11882.1 9887万円 9847万円10228万円10704万円14640万円16646万円17015万円15913万円14977万円1877.41878.41879.41880.41881.41882.41883.41884.41885.41034円1076円1247円1549円1795円1542円1362円1091円1065円各種紙幣流通高の統計 太政官札以下政府不換紙幣・新紙幣・藩札・銀行紙幣総計(『貨幣考要』附録表による)銀貨壱円に対する紙幣毎月平均価格(『紙幣整理始末』日本銀行調査局編『日本金融史資料 明治・大正編』)補充資料補充資料インフレの進行  ヨーロッパの不況と繭価の暴落   自由民権運動激化の一因として,松方財政下の繭価の暴落が養蚕地帯に影響したことが挙げられる。当時の繭価の暴落の背景には,ヨーロッパの不況という問題があった。1860年代を通じて高い水準にあったヨーロッパの物価は,1870年代に入ると下落に転じた。そのため,生糸などの日本の輸出品価格も下落していた。特に日本産生糸の輸出先であったフランスでは,1882年に恐慌が起こっており,これが生糸価格・繭価を下落させる直接的な原因だったのである。余話指導資料Dマイスター(指導用DVD-ROM)とセットです価格 本体23,000円(税別)事項解説,図版解説,補充資料,エピソード的な余話で構成しています83

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