日本史A ダイジェスト版
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34 第1章 近代日本の形成ペリー来航と条約調印 世界経済とのつながりが国内の社会・経済におよぼした変化について考えよう。1この条約の批ひ准じゅん書を交換するために,1860年幕府使節がアメリカに派遣された。このとき随ずい行こうした勝かつ海かい舟しゅうらは軍艦咸かん臨りん丸まる(→p.51コラム)に乗り,日本人の操船によってはじめて太平洋を横断した。【黒船】 「黒船」は江戸時代には一般に外国船のことをさしたが,ペリー艦隊の黒っぽい巨大な艦影は人々を驚かせ,「黒船」は対外的な危機のシンボルとなった。【黒船見物】 黒船をのんびり見物する人々。【琉球に上陸したペリー】 ペリーはアメリカ船の中継基地として琉りゅう球きゅうや小お笠がさ原わら諸島にも関心を持っていた。再来日する前,ペリーは琉球王国に開港をせまり,日米和親条約の締結後に,首しゅ里り城じょうで琉球との和親条約を結んでいた。絵は首里城を訪れたペリー一行の様子。 1853(嘉か永えい6)年,アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは,日本に開国を求める大統領の国書を持ち,4隻せきの軍艦をひきいて浦うら賀がにやってきた。この直後にロシア使節のプチャーチンも長崎に来航した。 老ろう中じゅう阿あ部べ正まさ弘ひろは,事態の重大性から大統領国書を京都の朝ちょう廷ていに報告するとともに,諸大名ほか広く庶しょ民みんにも意見を求めた。阿部は前水み戸と藩主徳とく川がわ斉なり昭あきを幕政に参与させ,越えち前ぜん藩主松まつ平だいら慶よし永なが,薩さつ摩ま藩主島しま津づ斉なり彬あきらなどの有力大名と協調して,この事態をのりきろうとした。  ペリーは翌1854年,ふたたび来日し,幕府は神奈川で日米和親条約を結んだ。その内容は,下しも田だ・箱はこ館だての開港,アメリカ艦船への物資の補給,漂流民・渡来船員の救助などであり,将来日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を許したときには,ただちにアメリカにも同じ権益を許すという,最さい恵けい国こく条項もふくまれていた。ついで幕府は,イギリス,ロシア,オランダともほぼ同様の条約を結んだ。 1856(安あん政せい3)年,下田にやってきた初代の駐日アメリカ総領事ハリスは,通商条約の締結を求めた。阿部のあとをうけた老中堀ほっ田た正まさ睦よしは通商条約を認める政策をとり,彦ひこ根ね藩主井い伊い直なお弼すけら譜ふ代だい大名もこれを支持した。このため,外国との貿易に反対し,攘じょう夷い(外国を日本から排除すること)を主張していた徳川斉昭らとのあいだに対立が生じた。また,朝廷も条約調印に強く反発し,ここに外交問題の処理をめぐり,深刻な政治的危機が出現した。 これをのりきるために,1858年,井伊直弼が大たい老ろうに就任した。井伊は,外交問題の処理に十分な議論を求める大名の意見をしりぞけ,また勅ちょっ許きょ(天皇の許可)を得ないまま,日米修好通商条約に調印した。幕府はひきつづきオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも通商条約を結んだ(安政の五か国条約)。「黒くろ船ふね」来航1794~18581804~831819~57(→p.32)1828~901809~58(→p.52)安政の五か国条約1804~781810~641815~6015101520254⬆指導用デジタルブック画面教科書紙面をそのままデータ化(PDF)しています。さらに,映像資料と図版アニメーションが満載です。デジタルならではのコンテンツで,ご指導の幅が広がります。指導用デジタルブック映像資料教科書の内容に関連した映像資料(MP4)を全22点収録しています。教科書の内容をより一層身近に感じながら学習できます。→本書p.6豊富なデジタルコンテンツが指導の幅を ペリー来ー来条約調印条約調印条約調印条約調印条約調印条約調印条約調印 世界経済とのつながりが国内の社会・経済におよぼした変化について考えよう。1この条約の批【琉球に上陸したペリー】リーはアメリカ船の中継基地として琉りゅう球きゅうや小関心を持っていた。再来日する前,ペリーは琉球王国に開港をせまり,日米和親条約の締結後に,首しゅ和親条約を結んでいた。絵は首里城を訪れたペリー一行の様子。デジタルならではのコンテンツで,ご指導デジタルならではのコンテンツで,ご指導デジタルならではのコンテンツで,ご指導航と航と条約調印条約調印条約調印 世界経済とのつながりが国内の社会・経済におよぼした変化について考ち,のプチャーチンも長崎に来航した。 老ろうするとともに,諸大名ほか広く庶1804~83クリック!クリック!「指導用デジタルブック」から,「デジタル板書」(→本書p.8~9)も開くことができます1853(嘉永ペリーは,日本に開国を求める大統領の国書を持隻せきの軍艦をひきいて浦うらのプチャーチンも長崎に来航した。中じゅう阿あ部べ正まさ弘ひろは,事態の重大性から大統領国書を京都の朝するとともに,諸大名ほか広く庶藩主徳とく川がわ斉なり昭あきを幕政に参与させ,越などの有力大名と協調して,この事態をのりきろうとした。 ペリーは翌1854年,ふたたび来日し,幕府は神奈川でを結んだ。その内容は,下しも田だ補給,漂流民・渡来船員の救助などであり,将来日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を許したときには,ただちにアメリカにも同じ権益を許すという,最さいは,イギリス,ロシア,オランダともほぼ同様の条約を結んだ。1856(安あん政せいメリカ総領事阿部のあとをうけた老中堀ほっ田た藩主井い伊い直なお弼すけら譜ふ代だい大名もこれを支持した。このため,外国との貿易に反対し,攘じょう夷い(外国を日本から排除すること)斉昭らとのあいだに対立が生じた。また,朝廷も条約調印に強く反発し,ここに外交問題の処理をめぐり,深刻な政治的危機が出現した。 これをのりきるために,1858は,外交問題の処理に十分な議論を求める大名の意見をしりぞけ,ま許きょ(天皇の許可)を得ないまま,府はひきつづきオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも通商条約を結んだ(安政の五か国条約)船船船ふねふね」来」来」来」来」来航航航航1794~18581804~831819~57(→p.32)(→p.52)は,イギリス,ロシア,オランダともほぼ同様の条約を結んだ。(→p.52)は,イギリス,ロシア,オランダともほぼ同様の条約を結んだ。安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約安政の五か国条約1810~641815~60指導用デジタルブック画面指導用デジタルブック画面

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