29しっかり解説しています。タイトル地域の例ページタイトル地域の例ページ出雲国意宇郡中心部の古代の景観島根県40四国の農書愛媛県・高知県169古代・中世の日本の玄関口 博多福岡県59香川県・徳島県伯耆国東郷荘鳥取県85福島県喜多方市域の変遷福島県221自治都市としての堺大阪府109新潟の米づくりと近代農業技術新潟県245城下町 飯田長野県155旧軍用地の戦後東京都291 出いず雲も国意お宇う郡中心部の古代の景観地域の窓40第1編 先史・古代の日本と東アジアc古代出雲国中心部の復元模型c意宇郡家・出雲国府周辺のようす(拡大)山陰道出雲国守館十字街意宇郡厨意宇郡家政庁黒田駅家意宇郡家正倉院出雲国府政庁意宇軍団 古代の人々にとって,律りつ令りょう国家とのもっとも身近な接点は,郡の役所である郡ぐう家けであった。全国に約600あった郡は,国くにの造みやつことして大やまと和王権をささえた地方豪ごう族ぞくの拠点や,大和王権の直ちょっ轄かつ地ちだった屯みやけ倉[➡p.28]を,7世紀半ば以降に「評こおり」という支配単位として整備したものに始まる。 出雲国意宇郡は,現在の島根県松江市南部と安やす来ぎ市にあたる。7世紀半ばにこの地域に評をつくるにあたっては,出いず雲もの臣おみ・日ひ置きの造みやつこなどの在地豪族の拠点を中心に,評の役所を設けたとみられる。彼らはその後,評の役人(のちの郡ぐん司じ)として大和王権の地方支配を担うことになった。 7世紀末ごろ,複数の評をたばねて国が置かれ,中央から国こく司しが派遣されるようになると,国司が常駐し,行政を担当する拠点として国こく府ふが置かれた。国府は国内の新しい場所につくられることもあったが,初めは中心的な郡の役所に併へい設せつする形で設けられることも多かった。発掘された出雲国府は意宇郡の中心地にあり,その例の一つであろう。 国府には政務や儀式の場である国庁,実務を行う役所や工房群,国司の住まいの館たち,台所空間の厨くり家やなどが置かれた。一方,郡家は,郡庁,厨家,館のほか,租そとしておさめられた稲を収納する倉庫が建ちならぶ「正しょう倉そう院いん」があるのが大きな特徴だった。 出雲国府と意宇郡家の北側には,古代の幹線道路の山さん陰いん道どうが通っていた。733(天平5)年に完成した『出雲国風ふ土ど記き』[➡p.47]によると,意宇郡家のそばには,山陰道の駅うま家やの一つである黒田駅家や,兵士が交替で勤務する軍団の一つである意宇軍団があった。これらは「十字街」とよばれる交差点に面しており,「十字街」付近は,役所が軒のきを連ねる意宇郡の中心地だった。 ここからはなれた平野の北端では,聖しょう武む天皇[➡p.43]が全国で建こん立りゅうを進めた国分寺と国こく分ぶん尼に寺じの遺い構こうが発掘調査で確認されている。意宇郡が出雲国府所在郡だったことによるものだが,郡家のそばに附ふ属ぞく寺院が建てられることも多かった。 周辺には在地の豪族たちの居館のほか,集落や神社などもあったはずである。平野の大部分には条じょう里り制にもとづいて整然と区画された土地が広がり,口く分ぶん田でんなどとして稲作が行われていた。 出雲国意宇郡の場合は国府所在郡という特殊性があるが,全国の郡家のまわりにはよく似た風景が展開していたと考えられる。発掘調査成果にもとづく復元研究を行っている郡家や国府の遺跡は多いので,近くにある古代の役所について調べ,古代の景観を追体験してみよう。 旧軍用地の戦後地域の窓291cワシントンハイツ(1955年)B現在の東京東京品川新宿渋谷原宿巣鴨新橋中野三鷹立川調布府中池袋上野都庁日本橋皇居代々木公園04km 第二次世界大戦後,日本の陸海軍が解体されると,広大な軍用地が公共施設や工場用地,農地,アメリカ軍施設などに転用され,その後の地域のあり方に影響をあたえた。 戦前の東京は首都として政治の中心であるとともに,陸軍の二つの師し団だんが置かれた日本最大の軍事都市でもあった。司令部や兵へい営えい,訓練や演習を行うための施設などが多数置かれていた。現在,東京都渋しぶ谷や区の原はら宿じゅくに隣接する代よ々よ木ぎ公園となっている地域には,かつて陸軍の訓練施設「代々木練れん兵ぺい場じょう」があった。 敗戦後,代々木練兵場は日本占領のために進しん駐ちゅうしてきたアメリカ軍によって接収され,アメリカ軍関係者の宿舎「ワシントンハイツ」となった。サンフランシスコ平和条約発はっ効こう後も,日米安全保障 条約にもとづいてアメリカ軍が使用した。東京都心にありながら,許可なしでは日本人が立ち入れない広大な敷地内には,日本人がうらやむアメリカの豊かな暮らしがあった。 1959(昭和34)年,5年後に東京でオリンピックが開催されることが決まった。1961年にアメリカは,代替施設が用意されることを条件にワシントンハイツの全面返還に応じ,跡あと地ちにオリンピック選手村が建設されることになった。その後,敷地の一部にはNHK放送センターが建設された。 代替施設は,郊外の府ふ中ちゅう・三み鷹たか・調ちょう布ふの3市にまたがる調布水耕農園(アメリカ軍用の野菜栽培施設)に整備されることとなった。約100億円の住宅建設費は日本側が負担し,アメリカ軍関係者が移り住んだ。こうして東京都心にアメリカ軍施設➡p.281が残されたまま,オリンピックが開催される事態は回避された。 選手村内に設けられた「織お田だフィールド」(1928年アムステルダムオリンピックの三段跳とびで日本人初の金メダルを獲得した織田幹みき雄おにちなんで命名された陸上競技場)は,1964年の東京パラリンピックの開会式会場としても使われた。 その後,選手村は森林公園として整備され,1967年に,代々木公園が開園した。当時のオランダ選手の宿舎は,公園の一角に現在も残されている。 旧軍用地には,代々木公園の例のように別の用途に転じられたものが多いが,現在でもアメリカ軍施設や自衛隊施設として戦前の用途に近い形で利用されているものもある。旧軍用地という視点で,自治体史や,過去の地図・空中写真(航空写真)などを使って,地域の土地利用の歴史を調べてみよう。51015202530地域の窓(9か所)各時代のさまざまな出来事を,身近な地域に視点を置いた形で取り上げています。「地域の窓」の掲載ページ教材・指導書コンテンツP.34〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜探究学習でも活用できる内容です。教p.40
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