「日本史探究」ダイジェスト版
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27海を渡った安土の屏風歴史を探る127cヴァチカン宮殿「地図の間」c安土城跡5101520253035 織お田だ信のぶ長ながが天下統一の拠きょ点てんとして,琵び琶わ湖このほとりに安あ土づち城を建て始めたのは1576(天てん正しょう4)年,居住を開始したのは1579年である。わずか3年後の1582年,明あけ智ち光みつ秀ひでは信長を本ほん能のう寺じの変で倒して安土城を占領したが,ほどなくして山やま崎ざきの戦いで羽は柴しば秀ひで吉よしにやぶれると,原因不明の火災によって城の主要部分は炎上し,焼失した。1585年に領りょう主しゅとなった羽柴秀ひで次つぐ(秀吉の甥おい)が安土の城下町を近きん隣りんの八はち幡まんに移し,安土城は廃城となった。近年,安土城は本格的な発掘調査が進み,さまざまなことが明らかとなってきたが,天てん守しゅがどのような姿をしていたかについては諸説あり,定まっていない。 安土城の当時のようすを考察するうえで注目されるのが,ポルトガル出身の宣せん教きょう師しルイス・フロイスが書いた『日本史』である。これはイエズス会の指令により,フロイスが日本で見聞きしたことや獲得した知識にもとづいて執筆した長大な書物である。フロイスは1560年代から90年代にかけてほとんどの時期,日本に滞在しており,『日本史』は当時の日本のようすを知るうえで,重要な史料となっている。 フロイスは信長に何度も会っており,安土城の内部も実際にみている。「信長は,中央の山の頂いただきに宮殿と城を築いたが,その構造と堅けん固ごさ,財宝と華か麗れいさにおいて,それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比ひ肩けんしうるものである。…(城の)真中には,彼らが天守とよぶ一種の塔があり,我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り,内部,外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実,内部にあっては,四方の壁に鮮やかにえがかれた金色,その他色とりどりの肖像が,そのすべてを埋めつくしている。」(『日本史』) ヴァリニャーノが信長に会いに来たとき,フロイスは通訳を担当したが,『日本史』の記述から,このとき信長がヴァリニャーノに安土城と城下町をえがいた屏びょう風ぶをあたえたこともわかっている。また,日本とヨーロッパに残されたほかの記録から,屏風が狩か野のう永えい徳とくのえがいたものであること,天てん正しょう遣けん欧おう使し節せつによってローマ教きょう皇こうにおくられたこと,ヴァチカン宮殿の「地図の間ま」にかざられたことが,ほぼ確実視されている。 この屏風はその後,残念ながら行方不明となってしまった。もしふたたび発見されることがあれば,安土の城と町に関する研究は格段に進むだろう。➡p.128➡p.132タイトルページタイトルページ縄文人の生活を探る─三内丸山遺跡 13江戸時代の村の生活148奈良時代の貴族と庶民48岩倉使節団213全国に展開する御家人の所領97義務教育が定着したのはいつか?229自力救済の抑制─暴力の連鎖を断ち切るために115沖縄戦269狂言がものがたる中世社会121戦後の子どもの世界290海を渡った安土の屏風127戦後日本の保守と革新299歴史を探る(12か所)時代のさまざまな側面を深く広く提示する内容を適宜扱っています。 沖縄戦歴史を探る269c墓のなかに避難した幼い姉弟(1945年4月) 亀きっ甲こう墓ばか(沖縄に多くみられる形式の墓)の入り口で助かった。cアメリカ軍による艦かん砲ぽう射撃(1945年3月) 沖縄への上陸作戦に先立ち,多数の艦かん艇ていによる艦砲射撃を行った。航空機による爆ばく撃げきとあわせて「鉄の暴風」とよばれ,多くの住民が犠牲となった。c沖縄戦 4.114.204.194.194.14.134.133.264.84.16~216.116.205.145.314.14.84.54.74.6安波辺戸名護屋嘉読谷普天間喜舎場嘉手納首里糸満摩文仁那覇(陽動作戦)知念岬勝連岬ホワイト=ビーチ屋嘉ビーチ伊江島伊是名島伊平屋島石川ビーチ本部半島久高島慶良間列島津堅島け ら まい え しまもと ぶき や ん喜屋武半島い ぜ な じまい へ や じまち ねん く だかじま つ けんじま かつれんみさき  いとまんしゅ りま ぶ にな はふ てん まき しゃ ばか で なよみたんや かな ごな ごあ はあ はへ ど015kmアメリカ軍の上陸アメリカ軍の進路アメリカ軍の到達月日飛行場数字5101520253035 1945(昭和20)年3月下旬から始まった沖縄での地上戦は,多数の住民をまきこんだ悲ひ惨さんなものであった。沖縄戦とはどのようなものだったのだろうか。◉圧倒的な戦力差 1945年3月26日にアメリカ軍は慶け良ら間ま列島に上陸し,4月1日には沖縄島中部西海岸に上陸を開始した。アメリカ軍の兵力は,1000余よ隻せきの艦かん船せん,上陸部隊18万人余,後方支援部隊を加えると約55万人であった。対する日本軍の兵力は約10万人であり,戦力差は圧倒的だった。 アメリカ軍のはげしい攻撃を前に敗退を重ねた日本軍は,5月下旬に司令部を置いていた首しゅ里りから南部の喜き屋や武ん半島に退たい却きゃくし,戦闘を継続することにした。すでに沖縄戦の勝敗は決しており,戦闘の目的は,本土決戦準備のための時間をかせぐことだった。 日本軍の主義である「最後まで戦い,捕ほ虜りょとなってはならない」との軍命令を発したのち,日本軍司令官は自じ決けつした。日本軍の組織的な抵抗がおわった6月23日は,現在「沖縄慰い霊れいの日」とされている。ただし,この日をもって戦闘が完全に停止したわけではなく,沖縄島をふくむ南西諸島の全日本軍が降伏文書に調印したのは,9月7日のことである。◉戦場の惨状と犠牲者数 沖縄戦の特徴は,多数の住民が戦力不足をおぎなうために軍に動員されたり,戦闘にまきこまれたりして亡くなったことである。動員は現在の中高生の年代にあたる男女にもおよんだ。男子生徒は「鉄てっ血けつ勤きん皇のう隊たい」に組織され,兵士と同様の任務を担わされた。女子生徒も「ひめゆり学徒隊」などに組織され,負傷兵の看護要員となった。戦場に動員された学徒隊の犠ぎ牲せいは大きく,そのうちの約50%が亡くなっている。ゲリラ戦を目的とした「護ご郷きょう隊」に組織された少年たちもいた。 軍事が優先され,住民は,避難していた避ひ難なん壕ごうから日本軍によって追い出されたり,「集団自決」に追いこまれたりした。日本軍がスパイの嫌けん疑ぎなどで住民を殺害することもあった。住民が強制的に山中に疎そ開かいさせられたことで,大量のマラリア患者と死者を出した地域もあった。 沖縄戦における日本人全戦せん没ぼつ者しゃ数は約18万8000人(そのうち,沖縄県出身軍人軍属は約2万8000人,一般県民は約9万4000人)で,アメリカ軍戦没者も約1万2500人におよんだ。「歴史を探る」の掲載ページ教材・指導書コンテンツP.34〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜

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