歴史に学ぶ319318開国と感染症 感かん染せん症しょうの流行は,古来よりくりかえし発生し,人々の命をうばってきた。感染症をひきおこす細さい菌きんやウイルスは,人や動物によって運ばれるため,それらの往来がさかんになると感染症も拡大する。交通機関が発達し,貿易や旅行がさかんになれば,感染症の流行も世界的規き模ぼとなり,伝でん播ぱのスピードもあがる。 たとえば,インドに起源を持つコレラの場合,1822(文ぶん政せい5)年夏に日本に初上陸し,西日本で流行したが,開国後にはたびたび大流行を引きおこした。1858(安あん政せい5)年夏には,上シャン海ハイから長崎に入港した米艦ミシシッピー号の船員を介かいしてコレラが侵入した。感染は各地に拡大し,江戸でも約3万人の死者が出たと推定されている。 1877(明治10)年,中国厦アモイ門でコレラが流行した。明治政府は,検けん疫えき,患かん者じゃの隔かく離り,人の集まりや移動の禁止,消毒など,近代的な感染症対策の基本を定めて対応したが,治ち外がい法ほう権けんの存在によって外国人に直接適用することができず,対策を徹てっ底ていできなかった。結局,長崎と横浜からコレラが侵入し,感染が拡大した。 患者を隔離する施設として「避ひ病院」が設置された。しかし,コレラの致ち死し率りつの高さによる恐怖から,設置に反対したり,収容を拒否したり,治療にあたった医師を逆さか恨うらみしたりする動きがあり,暴力事件に発展することもあった。感染症対策の進展 コレラなどの予防には衛生的な水が有効とされ,ろ過によって汚れを除去し,鉄管で送水する近代的な水道の建設が開港場を中心に進められた。1887年に横浜で日本初の近代的な水道が完成している。 科学の発達により感染症対策も進んでいく。感染症を引きおこす病原体がつき止められ,1883年にはドイツのコッホがコレラ菌きんを発見した。日本人も貢こう献けんし,1894年にはコッホの弟子である北きた里さと柴しば三さぶ郎ろうが,フランス人のエルサンとほぼ同時にペスト菌を発見し,1897年には志し賀が潔きよしが赤せき痢り菌を発見した。 1894年に調印された日英通商航海条約により,日本は欧米諸国とのあいだで治外法権の撤てっ廃ぱいに成功した。こうして改正条約が施行された1899年からは,日本独自の検疫が行えるようになった。 1899年には日本でペストが流行した。ペスト予防を目的として,ペストを媒ばい介かいするネズミの駆く除じょのために市がネズミを買いあげるという政策が行われたり,1901年には警視庁が屋外でのはだし歩行を禁止したりしている。➡p.190➡p.223結核の流行と「スペイン風邪」の世界的流行 コレラやペストなどの急性感染症の流行は,次第におさえこまれていった。一方で,日本に古くからあった慢まん性せい感染症である結けっ核かくが,近代化が進むなかで急速に拡大した。都市への人口集中,工場・学校・軍隊などでの集団生活,人の移動の活発化がその理由であった。当時は特とっ効こう薬やくがなく,結核は長く日本人のおもな死亡原因の一つであった。 第一次世界大戦末期の1918(大正7)年から戦後の1920年にかけて,新型インフルエンザが世界的に大流行した。感染は欧米における軍隊の移動とともに各地に拡大した。兵士が集団で生活し,衛生環境・栄養状態の悪い戦場で集団感染が発生し,さらに市民へも感染が広がった。交戦各国では自国の感染状況に関する報道を規制したが,中立国のスペインでは報道されたため,新型インフルエンザは「Spanish Flu」,日本語では「スペイン風邪」または「流行性感かん冒ぼう」として知られるようになった。 インフルエンザの病原体は,細菌よりも小さなウイルスで,当時の科学のレベルではウイルスを正確にとらえることはできず,効果的な予防・治療法はなかった。マスクをする,うがいをする,感染者との接触や人ひと混ごみを避けるなど,新型コロナウイルス対策と同様なことが行われた。この「スペイン風邪」の死者数は,正確にはわからないものの,世界で5000万人前後,日本でも40万人前後とされている。結核対策と新たな感染症 「スペイン風邪」の突発的な大流行はあったが,当時の日本における感染症対策の重点は,年々拡大をつづける結けっ核かくに置かれていた。「スペイン風邪」が流行中の1919年3月には,結核予防対策を強化するための結核予防法が制定され,11月から施行された。 さらに1930年代の戦時体制下では,兵士や国民の体位低下が問題とされ,おもな原因の一つである結核の対策強化が求められた。こうして,広く国民の体力向上を目的とし,衛生行政を一元的にあつかう官庁の設立がめざされ,1938(昭和13)年に厚生省が設置された。しかし,その後も戦争の激化,戦局の悪化で十分な対策は講じられず,栄養状態の悪化は結核をふくむ感染症の患者を増やした。 第二次世界大戦中にアメリカで,結核の特効薬となる抗生物質ストレプトマイシンが開発された。それが戦後に日本にも普ふ及きゅうすることで結核死亡者は劇的に減少した。しかし,結核は現在でも警戒すべき感染症である。 近年,グローバル化の進展や開発・環境破壊の進行により,新たな感染症の流行が懸け念ねんされていたが,2019(令和元)年末から始まった新型コロナウイルス感染症の大流行により,それが現実のものとなった。過去の感染症について探究することで,現在や未来の参考となることがみつかるだろう。Cコレラ流行の風ふう刺し画 コレラの症状は急な激しい下げ痢りと脱水症状をともなうため,虎とらのイメージをもって受け止められ,多くのコレラ絵がえがかれた。これは1886年のもので,衛生隊が消毒薬を噴ふん射しゃしているようすがえがかれている。C感染予防の啓けい発はつポスター 1918年から流行したスペイン風邪は日本でも猛もう威いをふるった。感染症対策には,一人ひとりが予防のための行動をとる必要がある。このポスターは1920年に内務省が作成して広く各地方に配ったもので,人々に予防の主しゅ旨しを徹底させようとした。歴史に学ぶ❷感染症の歴史5101520253035510152025303525 四国の農書地域の窓169c『農家須知』(国立国会図書館蔵) c藍玉づくり(『藍作及および製藍図会』,三木文庫蔵) 藍の葉が紺こん色の染せん料りょうの原料となる。阿波の藍が有名である。 『農のう業ぎょう全ぜん書しょ』は,1697(元げん禄ろく10)年に刊行されて以来,江戸時代を通じて全国の農家で広く読まれ,農業技術の発展に大きな影響をあたえた。ただし,江戸時代に書かれた農業技術書(農書)は『農業全書』だけではない。日本列島のなかには気候や土ど壌じょうの性質などの異なるさまざまな地域があり,農業や農産物を使った商工業の性格も多様であった。このことを反映して,江戸時代には全国各地で,地域性の強い農書が多く書かれた。なかには,広く読まれることをめざして刊行されたものもあるが,手書きのまま現代に伝えられたものが多い。四国の事例を紹介してみよう。 伊い予よ国(愛媛県)の『清せい良りょう記き』は,戦国時代の地元の武将である土ど居い清きよ良よしの一代記とされており,そのなかの第7巻が『親しん民みん鑑かん月げつ集しゅう』といって,農業技術を伝えた書物となっている。成立年代は不明だが,17世紀なかごろとみられており,『農業全書』よりも古い。刊行はされておらず,写本が伝わっている。研究が進んだ結果,戦国末期から近世初期にかけての農業技術が反映されていると考えられている。 土と佐さ国(高知県)では1840(天てん保ぽう11)年,医師の宮みや地じ太た仲ちゅうが『農のう家か須す知ち』をあらわした。専門の漢かん方ぽう医学の知識にもとづきながら,農業について考察し,稲いねや麦,甘かん藷しょなどの栽培方法,肥料のほどこし方,土壌の性質,除じょ虫ちゅう方法などについて広く解説している。 『農家須知』は刊行され,世に広まったとみられているが,刊行されていない文書からも,その土地の農業技術を読みとることが可能である。 讃さぬ岐き国(香川県)の『西にしの谷たに砂糖植うえ込こみ地ち雑ざつ用よう並ならびニ出で人にん足そく控ひかえ』は,大地主の大おお喜き多た家がたずさわった甘かん蔗しゃ栽培と地元の特産物である製糖について,製造技術と人足の出入りについて記した農業日記である。 阿あ波わ国(徳島県)の『藍あい作さく始し終じゅう略りゃく書しょ』は筆者未み詳しょうだが,1789(寛かん政せい元)年の➡p.165成立と考えられており,吉よし野の川中下流域の藍作地帯における藍の製造技術について詳細に記している。藍は阿波国の特産物であった。 このように,農業技術について記した書物といってもさまざまな特色があり,それをていねいに探ることで江戸時代の地方の産業や人々の労働のようすを理解することが可能となる。四国の農書にかぎっても,ここで記したのは一部にすぎず,全国各地で同様にさまざまな書物が書かれている。身近な地域の農書について調べてみよう。510152025303540NSTK_169_4C.indd 1692021/12/17 17:25義務教育が定着したのはいつか?歴史を探る2291875年8085909519000510100%80604020学制公布小学校令公布(義務教育4年)教育勅語国定教科書制度小学校令改正(義務教育6年)7286900307男子女子0c義務教育の就学率(『学制百年史』) c未卒業児童の割合(『東京の近代小学校』) 1895-981896-991897-001898-011899-19021900-031901-041902-051903-061904-071905-101906-111907-121908-131909-141910-151911-161912-171913-181914-191915-201916-211917-221918-231919-241920-251921-261922-271923-28(%)0102030405060男子女子5101520 上のグラフと右のグラフの二つから何が読みとれるだろうか。 右のグラフからは,当初は低かった義務教育の就しゅう学がく率が,1910(明治43)年ごろには100%近くとなったことが読みとれる。学校に通う子どもが増えたことはまちがいない。 しかし,上のグラフからは,多くの子どもが小学校に通うようになったからといって,その全員が,卒業するまで小学校に通いつづけたわけではないことがわかる。グラフが示しているのは,ある年に入学した子どものうち,そのまま毎年進級して卒業する年を迎えたときに,卒業していない者の割合である。たとえば,1905年に入学した子どもは1910年に卒業の年を迎えるが,グラフをみると,女子で約4割,男子でも約2割が,その年に卒業していない。つまり,それだけの割合の子どもが,中ちゅう途と退学したか,途中で進級できずに卒業する年がおくれたのである。 また,長野県五ご加か村(現在の長野県千ちくま曲市の一部)の村役場には,1910年に村役場が行った長期欠席児童の調査に関する書類が残されている。この年の長期欠席児童は男子が8人,女子が41人だった。欠席の理由としては,子こ守もりとして働いていること(9人),製せい糸し工場で働いていること(7人)などがあげられている。 二つのグラフの時期による変化や,男女のちがいに注目しながら,その背景を考えてみよう。また,近代日本で義務教育が定着したのはいつごろといえるか,考えてみよう。■参考文献土方苑子『近代日本の学校と地域社会』(東京大学出版会,1994年)➡p.208NSTK_229_4C.indd 2292021/12/17 17:54地域の窓(9か所)歴史を探る(12か所)歴史に学ぶ(3か所)教材・指導書コンテンツP.34〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜p.27p.29p.28
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