「日本史探究」ダイジェスト版
1/6

24長期留学の経験をいかした二人の若者64c吉備真備の乗る遣けん唐とう使し船せん(『吉備大臣入唐絵巻』,ボストン美術館蔵) c則そく天てん文字を記す9世紀の墨ぼく書しょ土器(赤外線画像) 則天文字「缶千」(=正)を用いて「正舎」(中心建物の意味)と記す。秋田県払ほっ田たの柵さく跡出土。c井せい真しん成せい墓ぼ誌しの拓たく本ほん(部分) 真備と同じ717年に18歳で渡唐し,734年に客きゃく死しした「井真成」とよばれた日本人の墓誌。玄げん宗そうに重ちょう用ようされた阿あ倍べの仲なか麻ま呂ろも,真備や真成といっしょに16歳で唐に渡った。●遣唐使の役割 遣けん唐とう使しとして唐に渡った人々がもたらした情報や文物は,律りつ令りょうにもとづく国づくりや,日本の文化形成に大きな役割をはたした。しかし,彼らが唐に滞たい在ざいした期間は,必ずしも長くはない。 日本仏教展開の基礎を築いた最さい澄ちょうは9か月ほど,空くう海かいも留学を2年で切りあげている。律令国家建設を担った藤ふじ原わらの不ふ比ひ等とや藤原仲なか麻ま呂ろも入にっ唐とう経験がない。そうしたなかで,長期の留学経験を帰国後にいかし,国家の建設に力をつくした二人の若者がいた。●粟田真人と律令国家の建設 粟あわ田たの真ま人ひとは,まだ10代だったとみられる653年,学問僧として唐に渡った。帰国後還げん俗ぞくし,藤原不比等らと大たい宝ほう律令の編へん纂さんにたずさわったあと,702年に大使として律令国家「日本」の「完成」を報告するため再度入唐する。白はく村すき江のえの敗戦でとだえていた外交の再開である。この遣唐使がもたらした新しい情報は,平へい城じょう京きょう遷せん都とや和わ同どう開かい珎ちん発行など,律令国家建設の軌き道どう修正を導いた。真人は719年に中ちゅう納な言ごんで亡くなるまで国政に関与し,その学問と人ひと柄がらは高く評価された。●吉備真備と多彩な文化移入 吉き備びの真まき備びは,717年に遣唐留学生として22歳で唐に渡った。備びっ中ちゅう国の地方豪ごう族ぞく下しもつ道みち氏の出身で,父圀くに勝かつは右う衛え士じ府ふに勤務した下級官かん人じんである。「圀」は則そく天てん武ぶ后こう(唐の高こう宗そうの皇こう后ごう,中国史上唯一の女じょ帝ていとなる)が定めた則天文字の一つで,最新文化導入の進しん取しゅの気き風ふうがうかがわれる。 734年に天てん平ぴょうの遣唐使とともに帰国した真備は,礼制・暦こよみ・測量・音楽・軍事など多た彩さいな分野の文化を日本にもたらした。また役人養成機関である大だい学がく改革に着ちゃく手しゅするなど,文ぶん人じん官かん僚りょうとして,僧そうの玄げん昉ぼうとともに橘たちばなの諸もろ兄えのブレーンの役割をはたす。その活躍ぶりは,740年の藤原広ひろ嗣つぐの乱の標ひょう的てきになるほどだった。その学才と経験をかわれ,752年には遣唐副使として再度渡と唐とうしている。 その後,唐の政せい情じょう混乱や新しら羅ぎとの関係悪化で国際的緊張が高まると,九州に怡い土と城を造ぞう営えいするなど,軍事的な才さい覚かくも発はっ揮きする。そして恵え美みの押おし勝かつの乱を収しゅう拾しゅうした功績でさらに抜ばっ擢てきされ,766年に74歳で右う大だい臣じんに昇進し,771年に引退するものの,775年に亡くなるまで政治生命をまっとうした。●真人と真備の共通点 粟田真人は中央貴族,吉備真備は地方豪族という出身のちがいはあるものの,共通するのは若いころに唐に長期留学して学問をおさめ,しかもそれを後年自ら国政にいかせたことである。二人がともに政せい争そうを生きぬき,また再度渡唐を経験したのは偶然ではないだろう。➡p.53➡p.38➡p.41➡p.35➡p.43510152025303540興味・関心を高めるページが充実しています。3Point世界を見た日本人(4か所)日本だけでなく世界にも目を向けて交流を行っていた人物を取り上げています。タイトル人物ページ長期留学の経験をいかした二人の若者粟田真人・吉備真備64中国滞在を経て自信を強めた禅僧画家雪舟122ロシアと単独交渉高田屋嘉兵衛186日本人初と2番目のノーベル賞受賞者湯川秀樹・朝永振一郎307「世界を見た日本人」の掲載ページ教p.64

元のページ  ../index.html#1

このブックを見る