教材・指導書コンテンツP.34〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜2Point資料活用力の育成P.18〜21第1章 中世社会の成立67❺ 上皇に準じる待遇をあたえられた女性。天皇の生母や,皇女にこの待遇があたえられることがあった。❻ 本家と領家のうち,より大きな影響力を荘園に行使する方を本ほん所じょといった。院いんの庁ちょう下くだす 紀き伊い国在ざい庁ちょう官かん人じん等 早く使者相共に、堺さかいの四しい至しに牓ぼう示じを打ち、立りっ券けん言上すべき、神こう野の・真ま国くにの山地弐箇処の事在り管那な賀か郡 壱処神野 四至〈東は岫くきの峯みねを限る 南は志し賀か良らの横よこ峯みねを限る/西は佐さ々さ少お河がわの西にしの峯みねを限る 北は津つ河がわの北きたの峯みねを限る〉 壱処真国 四至〈東は加か天て婆わの永なが峯みねを限る 南は津河北峯を限る/西は伯お父じの峯みねを限る 北は高たか峯みねを限る〉 使(使者名欠)右、権ごんの中ちゅう納な言ごん兼けん皇こう后ごう宮ぐうの権ごんの大だい夫ぶ侍じ従じゅう藤(成通)原朝臣家の去さんぬる十一月三日の寄よせ文ぶみに偁いへらく、「件くだんの所領は、当国の住人長なが依より友ともの先祖相伝の私領なり。(中略)しかるに今、非道の妨げを省かんがため、当家に寄せ与ふる所なり。次第の文書と謂いひ、調度の公く験げんと謂ひ、全く相違無し。誰か異論を致さん。(中略)望み請ふらくは庁裁、件の庄、限るに永代を以てし、不輸祖〔租〕田と為なすべし。永く国使幷ならびに寺(ママ)使を入るべからず。毎年貢に至りては、敢あへて懈怠有るべからず。(中略)」者てえれば、申請の旨に任せて、御領と為し、使者相共に堺の四至に牓示を打ち、立券言上すべし。御年貢能米拾斛に至りては、毎年高野御山①に運び進まいらし、預所においては、彼の家の譲状に任せて、執行せしむべきの状、仰おおする所、件の如し。在庁官人等、宜よろしく承知し、務〔違〕失すべからず。故ことさらに下す。 康こう治じ元(一一四二)年十二月十三日 主典代散位中原朝臣□□別当権大納言藤原朝臣 判官代高階朝臣(以下、署名省略)(『高野山文書』) ① この部分はのちに神野真国荘の領主となった高野山によって書き加えられた文言 鳥羽院庁下くだし文ぶみ案(高野山蔵) 院庁下文により荘園となることでどのような変化がもたらされただろうか。 荘園の景観(『神こう野の真ま国くにの荘しょう絵図』,神護寺蔵) 裏面には「康こう治じ二年五月廿五日立券」と書かれ,の下文を受けて立券(立荘)されたころに,作成された絵図とみられる。下文にみられる「堺さかいの四しい至し」に打たれた「牓ぼう示じ」を探してみよう。11世紀になると,地方豪ごう族ぞくや有力田た堵とは,現地での権限を強め,開かい発はつ領主へと成長した。開発した所しょ領りょう(開発私領)を支配する開発領主は,所領を中央の有力者に寄き進しんして,その権威を利用し,国こく衙がの干かん渉しょうに備えようとした。一方,中央の中下級の貴族らは開発領主の寄進を皇こう室しつ・大貴族・大寺じ社しゃに仲ちゅう介かいし,開発私領を中核にその周囲の土地を広く囲いこんだ荘園が,上皇や女にょ院いんによって設立(立りっ荘しょう)された。こうして11世紀半ばに,領域型荘園が各地に成立した。 開発領主は荘しょう官かん(多くは下げ司し)となって現地を支配し,寄進を仲介した中下級の貴族は領りょう家け(または預あずかり所どころ)として,皇室・大貴族・大寺社(本ほん家け)のもとで荘園の管理・経営にあたった。 荘園は,初めはすべての税を免めん除じょされたわけではなかったが,やがて本家・領家の権威を利用して,あらゆる税の免除(不ふ輸ゆ)の特権や,徴税にかかわる国衙の使者の立ち入り拒否(不ふ入にゅう)の特権を獲得する荘園もあらわれた。12世紀ごろからは,不入の特権は拡大され,国衙に対し,警察権の介かい入にゅうまでも拒否するようになった。 立荘を行うことができたのは上皇をはじめとするごく少数の有力者であったため,上皇のもとには大量の荘園が集まり,院政をささえる基盤となった。これらの荘園は上皇の近親の女性や寺院にあたえられ,鳥羽上皇が皇こう女じょの八はち条じょう院いんにあたえた八条院領荘園群,後白河上皇が長ちょう講こう堂どうに寄進した長講堂領荘園群はその代表である。荘園の発達➡p.57(かいほつ)➡p.57❺❻5101520 寛かん永えい12年(右)と寛永16年(左)の法令(『徳川禁令考』) 禁教と貿易の統制を目的とする鎖国令は,くりかえし発布され,しだいにその内容が強化されていった。一、日本人異国え遣つかわし申すまじく候そうろう。若もし忍び候て乗り渡る者これあるにおゐ(い)ては、其その者は死罪、其の船・船ふな主ぬし共に留め置き、言ごん上じょう(申しあげ)仕つかまつるべき事。一、異国え渡り住宅仕りこれある日本人来たり候はば、死罪申し付くべき事。一、日本国御ご制せい禁きん成なされ候そうろう切きり支し丹たん宗門の儀、其その趣おもむきを存じながら彼かの宗を弘ひろむる者、今に密々差し渡る(密航してくる)の事。一、宗門の族やから、徒と党とうを結び邪じゃ儀ぎを企くわだつれば①、すなわち御誅ちゅう罰ばつの事。 右これにより自じ今こん以後、かれうた(ポルトガル船)渡と海かいの儀、これを停ちょう止じせられをはんぬ。此この上若もし差し渡るにおゐ(い)ては、其の船を破は却きゃくし、ならびに乗り来たる者は速すみやかに斬ざん(斬罪)に処せらるべき旨むね、仰おおせ出いださるる所なり。 ①違法をくわだてる(島原・天草一揆をさす)。❺ 家康は,スペインとの貿易を開こうとし,京都の商人田た中なか勝しょう介すけをスペイン領のメキシコ(ノヴィスパン)に派遣した。仙台藩主伊だ達て政まさ宗むねは,家臣の支倉常長をスペインに派遣した(慶けい長ちょう遣けんおうしせつ 支はせ倉くら常つね長なが(1571~1622) 仙台藩はんから派遣されて,東回りでメキシコ,スペインを経由してローマに渡り,教きょう皇こうに謁えっ見けんした。1600(慶けい長ちょう5)年,オランダ船リーフデ号が豊ぶん後ごの臼うす杵きに漂ひょう着ちゃくした。家いえ康やすは,船員のヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムズ(三み浦うら按あん針じん)を江戸にまねき,外交・貿易の顧こ問もんとした。このころヨーロッパでは,スペインから独立したオランダと毛織物工業のさかんなイギリスが台たい頭とうし,国家の保護のもとでそれぞれ東インド会社を設立し,アジア貿易に進出していた。1609年,オランダ船が来航し,家康から貿易を許されて平ひら戸どに商しょう館かんを開き,1613年にはイギリス船が来航し,同様に平戸に商館を開いて日本との貿易を開始した。長崎には,マカオを本ほん拠きょ地ちとしたポルトガル人が,秀ひで吉よしの時代から引きつ禁教と貿易統制の強化1556?~16231564~1620515できます。書き下し文 教p.152書き下し文 教p.67
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