中世社会の展開第章31武家政権の成立と朝廷鎌倉幕府の誕生鎌倉幕府はどのような過程を経て,どのような政権として成立したのだろうか。第2編 中世の日本と世界80国府勝浦粟津木曽平泉渡部京都福原宇治富士川蛭島鎌倉石橋山厳島大宰府屋島 利伽羅峠一の谷壇の浦屋島の戦い1185.2一の谷の戦い1184.2 利伽羅峠の戦い1183.5衣川の戦い1189.閏4富士川の戦い1180.10石橋山の戦い1180.8福原遷都1180.6壇の浦の戦い1185.3宇治川の戦い1184.10200km源義仲の進路源義経の進路源範頼の進路く り か らとうげうるうよしなかよしつねのりより 源平合戦と奥おう州しゅう合戦 平氏の都落ち(『春かすが日権ごん現げん験げん記き絵え』,宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 源義仲の軍勢が迫り,安あん徳とく天皇を連れて西さい国ごくへ都落ちする平氏の武士たち。1180年(治承4)4月以仁王の令旨,源頼朝に届く6平氏,福原に遷都8頼朝,伊豆で挙兵10富士川の戦い11侍所が設置される12平氏,南都を焼く1181(養和元)閏2平清盛死去1183(寿永2)7平氏の都落ち,源義仲入京10後白河法皇,頼朝の東国支配を公認1184(元暦元)1義仲,粟津で戦死2一の谷の戦い1185(文治元)2屋島の戦い3壇の浦の戦い,平氏ほろぶ11文治勅許11872源義経,奥州藤原氏のもとにいたる1189閏4藤原泰衡,義経を討つ9頼朝,泰衡を討ち,奥州平定1190(建久元)11頼朝,右近衛大将就任11913建久新制11927頼朝,征夷大将軍就任 源げん平ぺい合戦と鎌倉幕府の成立 奉公● 軍役合戦への参加, 謀叛人の追討むほんにん● 番役勤仕京都大番役, 鎌倉番役,異国警固番役 ごんじ● 関東御公事内裏・幕府・寺社などの修造だいりじしゃかんとうおんく じ●●● 本領安堵 新恩給与 朝廷の官職への推挙地頭職補任の形をとるじとうしきぶにん御恩鎌倉殿(将軍)御 家 人 鎌倉殿と御家人の関係 御家人がさまざまな奉公をはたしたはなぜだろうか。1180(治じ承しょう4)年,源みなもとの頼より政まさは後ご白しら河かわ法ほう皇おうの子の以もち仁ひと王おうを擁ようして平へい氏し打倒の兵をあげた。頼政と以仁王は敗死したが,これをきっかけに伊い豆ずの源頼より朝ともや木き曽その源義よし仲なかなどが挙きょ兵へいした。彼らは,自己の所しょ領りょうの支配権を強化しようとする武士(在ざい地ち領りょう主しゅ)の勢力にささえられていた。戦いは全国に広がり,5年にわたってつづいた(治承・寿じゅ永えいの内乱)。 平たいらの清きよ盛もりは,頼朝を攻めるために大軍を送ったが,富ふ士じ川がわの戦いで敗北した。戦いに勝利した頼朝は,周囲の武士のすすめで京都には向かわず,関東の平へい定ていを優先した。平氏は建設中の福ふく原はら京きょう(摂せっ津つ)を放ほう棄きして京都に帰るとともに,畿き内ないの鎮ちん定ていをはかり,以仁王に味方した南なん都とに出兵し,このとき,東とう大だい寺じ大だい仏ぶつ殿でんなどが炎えん上じょうした。しかし,清盛が亡くなり,大飢き饉きん(養よう和わの飢饉)が発生源平合戦と奥州合戦 1104~80➡p.711151~801147~991154~84➡p.71したことで,平氏は深刻な打撃を受けた。そして,11濃のから北陸道を進んだ源義仲が平氏を西さい国ごくにしりぞか義仲が後白河法皇と対立すると,頼朝は弟の源範のり頼よりとる軍を派遣し,義仲をほろぼした。 つづいて範頼と義経の軍勢は,平氏を一いちの谷たにで打ち1185(文ぶん治じ元)年2月,義経は屋や島しまを急きゅう襲しゅうし,長なが門とに平3月,壇だんの浦うらでの海戦にやぶれた平氏一門は,安あん徳とく天た。 平氏滅亡後,頼朝と対立することとなった義経は,衡ひらにかくまわれたが,秀衡の死後,その子の泰やす衡ひらによ一方,頼朝は,1189(文治5)年に自ら大軍をひきいて藤原氏をほろぼした。これによって,武家の棟とう梁りょうとし確かっ固こたるものになった。富士川の戦いのあと,頼朝は平氏処分と,味方となった武士への論ろんまた,鎌かま倉くらに御ご所しょを新造し,鎌かま倉くら殿どのとよばれて実力でを支配した。 頼朝は,武士の所領支配を保証したり(本ほん領りょう安あん堵ど),戦せん功こうに応じて所領をあたえたりする(新しん恩おん給きゅう与よ)ことなど(御ご恩おん)によって,彼らと主しゅ従じゅう関係を結んで家け来らいとした。鎌倉殿の家来を特に御ご家け人にんとよび,御家人は鎌倉殿の御恩に報いるために,合戦への参加や経済的な奉ほう仕しなど(奉ほう公こう)を行った。 所領を介するつながりを基礎とした,御恩と奉公からなる鎌倉殿と御家人との緊きん密みつな主従関係は,それまでの貴族社会にはみられない強固なものだった。生没年不詳➡1155~89➡p.70鎌倉殿と御家人❶❷510152025510151612Point各項目冒頭の「課題」を,本文記述や資料,コラムなどから探究していく学習が展開できます!問い・仮説を立て,表現する活動を通して,内容を中世社会の展開第章31武家政権の成立と朝廷鎌倉幕府の誕生鎌倉幕府はどのような過程を経て,どのような政権として成立したのだろうか。国府勝浦粟津木曽平泉渡部京都福原宇治富士川蛭島鎌倉石橋山厳島大宰府屋島 利伽羅峠一の谷壇の浦屋島の戦い1185.2一の谷の戦い1184.2 利伽羅峠の戦い1183.5衣川の戦い1189.閏4富士川の戦い1180.10石橋山の戦い1180.8福原遷都1180.6壇の浦の戦い1185.3宇治川の戦い1184.10200km源義仲の進路源義経の進路源範頼の進路く り か らとうげうるうよしなかよしつねのりより 源平合戦と奥おう州しゅう合戦 平氏の都落ち(『春かすが日権ごん現げん験げん記き絵え』,宮内庁三の丸尚蔵連れて西さい国ごくへ都落ちする平氏の武士たち。1180年(治承4)4月以仁王の令旨,源頼朝に届く6平氏,福原に遷都8頼朝,伊豆で挙兵10富士川の戦い11侍所が設置される12平氏,南都を焼く1181(養和元)閏2平清盛死去1183(寿永2)7平氏の都落ち,源義仲入京10後白河法皇,頼朝の東国支配を公認1184(元暦元)1義仲,粟津で戦死2一の谷の戦い1185(文治元)2屋島の戦い3壇の浦の戦い,平氏ほろぶ11文治勅許11872源義経,奥州藤原氏のもとにいたる1189閏4藤原泰衡,義経を討つ9頼朝,泰衡を討ち,奥州平定1190(建久元)11頼朝,右近衛大将就任11913建久新制11927頼朝,征夷大将軍就任 源げん平ぺい合戦と鎌倉幕府の成立 1180(治じ承しょう4)年,み王おうを擁ようして平へい氏し打倒敗死したが,これをきっかけに伊い豆ずの源した。彼らは,自己の所しょ領りょうの支配権を強の勢力にさ広がり,5永えいの内乱) 平たいらの清きよ盛もり送ったが,に勝利した京都には向平氏は建設都に帰ると以仁王に味東とう大だい寺じ大だい仏ぶ盛が亡くな源平合戦と奥州合戦 11➡p.71「日本史探究」の学習③考察・表現する第3章では,第1章の後の時代の展開(例:鎌倉幕府の成立から室町文化まで)を学習します。どのような時代であったのかを理解し,歴史の諸事象の解釈や画期などを考察・表現します。
元のページ ../index.html#9