「日本史探究」ダイジェスト版
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朝廷の政治のなかで,武士はどのようにして力をもつようになったのだろうか。武士の政治進出第2編 中世の日本と世界70❶ 義家の行為は私わたくしの合戦とみなされ,朝ちょう廷ていからの恩おん賞しょうはあたえられなかった。❷ 家来のことを家人,従者といった。 武士の戦い(『平へい治じ物語絵巻』,ボストン美術館蔵) 平治の乱で源みなもとの義よし朝ともが後ご白しら河かわ上じょう皇こうの御ご所しょ三さん条じょう殿どのをおそい,焼き払った場面をえがいたもの。武士や戦いにまきこまれた人々のようすから何が読みとれるだろうか。よしちか義親よしくに義国よししげ義重よしやす義康ためよし為義よしとも義朝よりとも頼朝よしかた義賢ためとも為朝よしなか義仲ゆきいえ行家つねもと経基清和天皇さだずみ貞純親王みつなか満仲よりみつ頼光よりまさ頼政よりのぶ頼信よりよし頼義よしいえ義家よしみつ義光(木曽)源新田氏祖足利氏祖 源げん氏じ系図 先祖の天皇にちなんで清せい和わ源氏とよばれる。宇う多だ源氏・村むら上かみ源氏などもある。源げん氏じと東国との結びつきは,東北地方での合戦を経て強まった。当時,陸む奥つでは豪ごう族ぞくの安あ倍べ氏が勢力をもち,しばしば国こく司しと争っていた。源みなもとの頼より信のぶの子の頼より義よしが陸む奥つの守かみ・鎮ちん守じゅ 府ふ将軍として現地にくだると,安倍氏は乱をおこした。頼義は子の義よし家いえ とともに,東国の武士をひきいて戦い,出で羽わの豪族である清きよ原はら氏の援助をえて,安倍氏をほろぼした(前ぜん九く年ねん合戦)。 こののち,安倍氏にかわって勢力をえた清原氏一族の内部で争いがおきると,陸奥守・鎮守府将軍であった義家はこれに介かい入にゅうし,清原氏一族のうち藤ふじ原わらの清きよ衡ひらを助けて,争いを平定した(後ご三さん年ねん合戦)。これらの戦いを通じて,源氏は東国の武士と主しゅ従じゅうの関係を結び,武家の棟とう梁りょうとあおがれるようになった。各地の領主として成長しつつあった武士たちは,私し領りょうの拡大や保護を必要とした。その求めに応じることで,義家は彼らを家け人にんとして組織したのである。 陸奥守の任期をおえた義家の去った東北地方では,藤原清衡の力が強大になった。清衡は平ひら泉いずみを拠きょ点てんとし,陸奥と出羽の2国に勢力をのばした。清衡は,金と馬に代表される奥おう州しゅうの富や,アザラシの皮などの北方交易で入手した品物を用いて摂せっ関かん家けや上じょう皇こうたちとの関係を築き,都の文化を受けいれた。それによって,奥州藤原氏は,子の基もと衡ひら,孫の秀ひで衡ひらまで,3代100年にわたってさかえた。源義家の子の義よし親ちかが出いず雲もで反乱をおこすと,白しら河かわ上皇は,伊い賀がや伊い勢せを地じ盤ばんとする桓かん武む平へい氏しの一族で,伊賀国の荘しょう園えんを白河上皇に寄き進しんして政界進出の足がかりとしていた平たいらの 正まさ盛もりに,これを討とう伐ばつさせた。武士の成長➡p.58988~1075➡p.511039~11061051~10621056~11281083~1087❶❷?~1157?1122~87➡p.73平氏の台頭?~1108➡p.58生没年不詳510152012問い・仮説を立て,表現する活動を通して,内容を12Point各項目冒頭に「課題」を示すことで,学習内容を見通すことができます。第1章では,時代の転換期(例:院政や保元・平治の乱などを通じて権力の主体が変わっていくことなど)を学習し,そこからこの後どのような時代となっていくのかについての問いを立てます。問いを立てだろうか。古習をふまえ,係,などの観う。たとえば「日本史探究」の学習①問いを立てる教p.73章の終末部で,問いを立てる際の観点を例示しています。『教師用指導書』では,「課題」の解答例を掲載しています。p.53

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