第1章 中世社会の成立69⓫ 八はっ角かく九く重じゅう塔を擁ようする法ほっ勝しょう寺など,「勝」の字のつく六つの大寺院が建てられ,六ろく勝しょう寺と称された。⓬ 住坊・院家のなかでも有力なものは門もん跡ぜきとよばれた。⓭ 武装した僧兵や神人が,暴力を背景に,寺院や神社の要求をききいれるよう,朝廷に迫った行為を強訴といった。神仏の権威を前面におし立ててくるので,朝廷は対処に苦しんだ。⓮ 興福寺は春かすが日社(藤ふじ原わら氏の氏うじ神がみ)の神木を,延暦寺は日ひ吉え社(比ひ叡えい山ざんの地主神)の神輿を入京させた。白しら河かわ上皇は,賀か茂も川の水(洪水),双すご六ろくのさい,山やま法ほう師し(延暦寺の僧兵)をさして,自分の意のごとくならないものとなげいたという。 蓮れん華げ王院(三さん十じゅう三さん間げん堂どう)の千せん体たい千せん手じゅ観かん音のん立りゅう像ぞう(妙法院提供) 熊野那な智ち山さん宮みや曼まん荼だ羅ら(熊野那智大社蔵) 室むろ町まち期の作。中世に熊野参詣がさかんだった背景を考えてみよう。 強訴する僧兵と神じ人にん(『大だい山せん寺じ縁えん起ぎ絵え巻まき』,模本 東京大学史料編纂所蔵) 強訴する一行の先頭には僧兵が,中央部の神輿の周囲には神人がえがかれている。僧兵と神人がともに強訴しているのはなぜだろうか。神しん秘ぴ的な呪じゅ法ほうや修法によってさまざまな願望をかなえるとされた密教は,平安時代から貴族たちの信仰を集め,国家と仏教は相互にささえあう存在であるという考え方が生まれてきた。 上皇は仏教をあつく信仰し,大寺院をつくって盛大な法ほう会えをもよおし,何度も紀き伊いの熊くま野の三山や高こう野や山さんに参さん詣けいに出かけた。 上皇たちの帰き依えを受けた大寺院は,地方の寺院を支配下に置き,多くの荘園をたくわえ,僧そう兵へいを組織した。また,神しん仏ぶつ習しゅう合ごう思想により結びついた神社も支配下に置き,神じ人にんを組織した。天皇家や貴族出身の僧そう侶りょは寺院内でも高い地位につき,住じゅう坊ぼう・院いん家げを中心に独立的な勢力を築いた。こうして寺じ社しゃは社会のなかで大きな勢力を持つようになった。 大寺社は国司やほかの荘園領主と争い,神しん木ぼくや神しん輿よを先頭に立てて朝ちょう廷ていに強ごう訴そを行った。なかでも興こう福ふく寺と延えん暦りゃく寺の勢力は強大で,南なん都と・北ほく嶺れいとよばれた。京都で乱暴をはたらく僧兵や神人に対処するため,朝廷は武士の組織につとめた。寺社の勢力拡大⓫➡p.53➡p.53⓬⓭➡p.46➡p.53⓮5101511習得できます。必要な用語解説や補足説明を側注で取り上げています。できる限り本文記述がページをまたがないよう配慮しています。教材・指導書コンテンツP.34〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜
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