第1章 中世社会の成立67❺ 上皇に準じる待遇をあたえられた女性。天皇の生母や,皇女にこの待遇があたえられることがあった。❻ 本家と領家のうち,より大きな影響力を荘園に行使する方を本ほん所じょといった。院いんの庁ちょう下くだす 紀き伊い国在ざい庁ちょう官かん人じん等 早く使者相共に、堺さかいの四しい至しに牓ぼう示じを打ち、立りっ券けん言上すべき、神こう野の・真ま国くにの山地弐箇処の事在り管那な賀か郡 壱処神野 四至〈東は岫くきの峯みねを限る 南は志し賀か良らの横よこ峯みねを限る/西は佐さ々さ少お河がわの西にしの峯みねを限る 北は津つ河がわの北きたの峯みねを限る〉 壱処真国 四至〈東は加か天て婆わの永なが峯みねを限る 南は津河北峯を限る/西は伯お父じの峯みねを限る 北は高たか峯みねを限る〉 使(使者名欠)右、権ごんの中ちゅう納な言ごん兼けん皇こう后ごう宮ぐうの権ごんの大だい夫ぶ侍じ従じゅう藤(成通)原朝臣家の去さんぬる十一月三日の寄よせ文ぶみに偁いへらく、「件くだんの所領は、当国の住人長なが依より友ともの先祖相伝の私領なり。(中略)しかるに今、非道の妨げを省かんがため、当家に寄せ与ふる所なり。次第の文書と謂いひ、調度の公く験げんと謂ひ、全く相違無し。誰か異論を致さん。(中略)望み請ふらくは庁裁、件の庄、限るに永代を以てし、不輸祖〔租〕田と為なすべし。永く国使幷ならびに寺(ママ)使を入るべからず。毎年貢に至りては、敢あへて懈怠有るべからず。(中略)」者てえれば、申請の旨に任せて、御領と為し、使者相共に堺の四至に牓示を打ち、立券言上すべし。御年貢能米拾斛に至りては、毎年高野御山①に運び進まいらし、預所においては、彼の家の譲状に任せて、執行せしむべきの状、仰おおする所、件の如し。在庁官人等、宜よろしく承知し、務〔違〕失すべからず。故ことさらに下す。 康こう治じ元(一一四二)年十二月十三日 主典代散位中原朝臣□□別当権大納言藤原朝臣 判官代高階朝臣(以下、署名省略)(『高野山文書』) ① この部分はのちに神野真国荘の領主となった高野山によって書き加えられた文言 鳥羽院庁下くだし文ぶみ案(高野山蔵) 院庁下文により荘園となることでどのような変化がもたらされただろうか。 荘園の景観(『神こう野の真ま国くにの荘しょう絵図』,神護寺蔵) 裏面には「康こう治じ二年五月廿五日立券」と書かれ,の下文を受けて立券(立荘)されたころに,作成された絵図とみられる。下文にみられる「堺さかいの四しい至し」に打たれた「牓ぼう示じ」を探してみよう。11世紀になると,地方豪ごう族ぞくや有力田た堵とは,現地での権限を強め,開かい発はつ領主へと成長した。開発した所しょ領りょう(開発私領)を支配する開発領主は,所領を中央の有力者に寄き進しんして,その権威を利用し,国こく衙がの干かん渉しょうに備えようとした。一方,中央の中下級の貴族らは開発領主の寄進を皇こう室しつ・大貴族・大寺じ社しゃに仲ちゅう介かいし,開発私領を中核にその周囲の土地を広く囲いこんだ荘園が,上皇や女にょ院いんによって設立(立りっ荘しょう)された。こうして11世紀半ばに,領域型荘園が各地に成立した。 開発領主は荘しょう官かん(多くは下げ司し)となって現地を支配し,寄進を仲介した中下級の貴族は領りょう家け(または預あずかり所どころ)として,皇室・大貴族・大寺社(本ほん家け)のもとで荘園の管理・経営にあたった。 荘園は,初めはすべての税を免めん除じょされたわけではなかったが,やがて本家・領家の権威を利用して,あらゆる税の免除(不ふ輸ゆ)の特権や,徴税にかかわる国衙の使者の立ち入り拒否(不ふ入にゅう)の特権を獲得する荘園もあらわれた。12世紀ごろからは,不入の特権は拡大され,国衙に対し,警察権の介かい入にゅうまでも拒否するようになった。 立荘を行うことができたのは上皇をはじめとするごく少数の有力者であったため,上皇のもとには大量の荘園が集まり,院政をささえる基盤となった。これらの荘園は上皇の近親の女性や寺院にあたえられ,鳥羽上皇が皇こう女じょの八はち条じょう院いんにあたえた八条院領荘園群,後白河上皇が長ちょう講こう堂どうに寄進した長講堂領荘園群はその代表である。荘園の発達➡p.57(かいほつ)➡p.57❺❻51015209最新の研究動向も反映しています。資料を読み取るときのポイントを問いかけの形で示した「読み取りの視点」を設置しています。文字資料の現代語訳を参照できます。教材・指導書コンテンツP.34〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜因果影p.18〜19p.20〜21習得できます。
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