第3章 中世社会の展開81❶ こうした関係を封ほう建けん関係,封建関係にもとづく社会の制度を封建制度ということもある。❷ 摂せっ関かん家け出身の僧そう慈じ円えんは,その著書『愚ぐ管かん抄しょう』に,大雨をものともせず頼朝を警護する御家人の姿を「驚くべきこと」と記している。 源頼朝像(甲斐善光寺蔵) の (花押)(源頼朝)下す 伊い勢せ国波は出ぜの御み厨くりや 補ぶ任にんす 地じ頭とう職しきの事 左さ兵ひょう衛えの尉じょう惟これ宗むねの忠ただ久ひさ右、件くだんの所は、故出で羽わの守かみ平信のぶ兼かねの党類の領なり。しかるに信兼謀む反ほんを発おこすに依より、追討せしめ畢おわんぬ。仍よって先例に任せて公役を勤仕せしめんがため、地頭職に補ふするところなり。早く彼かの職しきとして、沙さ汰たを致すべきの状件のごとし。以もって下す。 元げん暦りゃく二年①六月十五日 ①一一八五年 源頼朝袖そで判はん下くだし文ぶみ(東京大学史料編纂所蔵) 文書の袖(右側部分)には源頼朝自筆の花か押おう(サイン)が書かれている。83(寿永2)年に信しなせ,都を占せん拠きょした。源義よし経つねを大将とすやぶった。さらに,氏を追いつめた。皇とともにほろび奥おう州しゅう平ひら泉いずみの藤ふじ原わらの秀ひでって殺害された。奥州に進み,奥州ての頼朝の地位は方となった武士の功こう行こう賞しょうを行った。関東の荘しょう園えん・公こう領りょう1159~89p.72第2編 中世の日本と世界82❸ 和田義盛は相さがみ模国の武士,大江広元と三善康信は朝ちょう廷ていの下級官かん人じんだった。❹ 従来,守護の職務の総そう称しょうとされていた「大だい犯ぼん三か条」という言葉が確実に登場するのは南なん北ぼく朝ちょう時代以降であり,戦国時代に成立した『日にっ葡ぽ辞書』では,それを放火・殺人・盗みとしている。守護は,実際は治ち安あんを維持するために広く警察権を行使し,地方行政にも関与して,しだいに国司の権限も担うようになっていった。 平へい氏しが朝ちょう廷ていの内部で成長して政権を掌しょう握あくしたのに対し,鎌かま倉くら幕ばく府ふは,朝廷への反乱軍として登場した点に大きな特徴がある。鎌倉幕府の成立過程には,いくつもの画かっ期きが存在する。① 1180(治じ承しょう4)年末……頼より朝ともが鎌倉に居きょをかまえ,侍さむらい所どころを設け,南関東と東とう海かい道どう東部の実質的支配に成功したとき② 1183(寿じゅ永えい2)年10月……頼朝の東とう国ごく支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき③ 1184(元げん暦りゃく元)年10月……鎌倉に公く文もん所じょ(政まん所どころ)と問もん注ちゅう所じょが設けられたとき④ 1185(文ぶん治じ元)年11月……頼朝が全国的な軍事態勢の構築を朝廷から承認されたとき⑤ 1190(建けん久きゅう元)年11月……頼朝が上じょう洛らくして右う近この衛え大たい将しょうに任命されたとき⑥ 1191(建久2)年3月……頼朝が全国の治ち安あん維持の担い手として,朝廷から位置づけられたとき⑦ 1192(建久3)年7月……頼朝が征せい夷い大たい将しょう軍ぐんに任命されたとき ⑤と⑦,特に⑦は,幕府という語の意味(将軍の政府)に着目したもので,古くから幕府成立時期として主張されている。これに対して,①から④と⑥は軍事政権としての幕府の成立過程を問題にしており,現在では④を最も重要な画期とする研究者が多い。しかし,東国の支配政権としての性格を重視すれば②が有力になり,軍事力による実力支配を重視すれば①が主張されることになる。 頼朝をはじめ当時の人々に鎌倉幕府の「完成形」のイメージがあったわけではない。現在の私たちが幕府の本質をどうとらえるかによって,その成立時期も変わってくるのである。鎌倉幕府の成立過程 頼より朝とものちと氏を人にんいとがた鎌活問注所侍 所評定衆京都守護鎮西奉行奥州総奉行九州の御家人統率,軍事・警察奥州の御家人統率,幕府への訴訟取り次ぎ守護(諸国)地頭(荘園・国衙領)執権連署将軍引付衆六波羅探題鎮西探題公文所政 所中央地方(鎌倉)数字は設置年11841180122511851221118411911185118912931249 鎌倉幕府の機構 富ふ士じ川がわの戦いのあと,鎌かま倉くらには御ご家け人にんを統制する侍さむらい所どころが設けられ,和わ田だ義よし盛もりが長官に任じられた。つづいて公く文もん所じょと問もん注ちゅう所じょが開かれた。公文所(のちに政まん所どころと改かい称しょう)は,大おお江えの広ひろ元もとが長官に任じられ,政務や財政をとりあつかった。問注所は,三み善よしの康やす信のぶが長官に就しゅう任にんし,裁判に関与した。 頼より朝ともは当初,実力で関東の荘しょう園えん・公こう領りょうを支配していたが,1183(寿じゅ永えい 2)年10月,義よし仲なかと対立する後ご白しら河かわ法ほう皇おうとの交渉によって,東とう海かい道どう・東とう山さん道どう諸国に対する支配権の公的な承認(寿永二年十月宣せん旨じ)をえた。平氏滅亡後,法皇が義よし経つねに頼朝の追つい討とうを命じると,頼朝はこれに強く抗議し,1185(文ぶん治じ元)年11月に追討令を撤てっ回かいさせ,全国に義経捜そう索さくのための軍事態勢を構築することを承認させた(文治勅ちょっ許きょ)。 頼朝は挙兵以来の合戦のなかで,国ごとに軍事指揮官を任命していった。また,味方になった武士にはその所領を保証し(本ほん領りょう安あん堵ど),敵となった武士の所領は没ぼっ収しゅうして味方の武士にあたえた(新恩給与)。 守しゅ護ごは,各国に1名ずつ,主として東とう国ごく出身の有力御ご家け人にんが任命され,その任務は京都大おお番ばん役やくの催さい促そく,謀む叛ほん人にんの逮たい捕ほ,殺害人の逮捕(関東御おん下げ知ち三箇条)にかぎられていた。地じ頭とうは荘園や公領に置幕府の成立1147~12131148~12251140~1221❸➡p.68❹かれ地を決まは下げあらしくにか朝ちょう廷てけら 1ると長の立し 一や荘いたしてと朝であ➡幕51015205101520 第3章 中世社会の展開83❻ 新制は,朝廷が政治の刷さっ新しんや秩序の再構築をかかげて定めた。のちには,幕府も新制を定めるようになる。 鎌かま倉くら幕ばく府ふは女性も地じ頭とうに任命した。頼より朝ともの乳めのと母で,下しも野つけの有力武士小お山やま政まさ光みつとのあいだに朝とも光みつを産んだ女性(寒さむ河かわの尼あま)は,1187年に頼朝から下野の寒河郡と阿あ志じ土と郷の地頭に任命されている。彼女たちは地頭職をみずからの意志で子や養子などに譲ゆずることもできた。また,所しょ領りょうの支配も行い,安あ芸きの小こ早ばや川かわ氏の一族の女性は,地頭として所領内での訴そ訟しょうの裁さい決けつを行い,判決書(裁さい許きょ状じょう)に署名している。肥ひ前ぜんの御ご家け人にんの妻であった女性は,京都大おお番ばん役やくのために在京していたことが確認できる。この女性が自身で大番役をつとめたのか,代だい官かんにつとめさせたのかは確定できないが,越えち後ごの城じょう氏の一族には,鎧よろいを着けて合戦に参加した女性がおり,弓の腕前は百発百中であったという。鎌倉時代には,地頭や御家人として男性と同じような活動をする女性が多くみられたのである。女性の地頭国中央地方公領(国衙領)郡郷地頭在庁官人(京都)院天皇摂関家社寺(鎌倉)(預所)荘園地頭領家本家将軍国司知行国主 公武二元支配 永えい仁にん5(1297)年10月22日地じ頭とう尼あま某なにがし裁さい許きょ状じょう(東禅寺文書) ❺ 従来,守護の職務の総そう称しょうとされていた「大だい犯ぼん三か条」という言葉が確実に登場するのは南なん北ぼく朝ちょう時代以降であり,17世紀に成立した『日にっ葡ぽ辞書』では,それを放火・殺人・盗みとしている。守護は,実際は治ち安あんを維持するために広く警察権を行使し,地方行政にも関与して,しだいに国司の権限も担うようになっていった。かれ,その任務は,年ねん貢ぐを徴ちょう収しゅうして荘園領主や国こく衙がに納入すること,土地を管理すること,治ち安あんを維持することなどであった。収益には一定の決まりがなく,各地における先せん例れいの遵じゅん守しゅが原則であった。それまで多くは下げ司しの地位にあった武士(在地領主・荘しょう官かん)は,頼朝に臣しん従じゅうすることで,あらためて地頭に任じられた。しかし,荘園領主たちはこの事態にはげしく反対したので,地頭の設置範囲は当面,平氏などから没収した所領にかぎられた。奥おう州しゅう藤ふじ原わら氏をほろぼした頼朝は,上じょう洛らくして後白河法皇と対面した。1191(建けん久きゅう2)年には新制とよばれる朝ちょう廷ていの法令が発せられ,幕ばく府ふは,全国の治安維持の担い手として位置づけられた(建久新制)。 1192年,後白河法皇が亡くなり,頼朝が征せい夷い大たい将しょう軍ぐんに任じられると,これ以後,この職は江戸時代の末にいたるまで長く武士の長の指し標ひょうとなり,ここにのちの武家政権に引きつがれる幕府が成立した。 一方,幕府の成立後も,朝廷のもとでは貴族や寺じ社しゃが知ち行ぎょう国こく主しゅや荘園領主として,多くの土地や,御家人以外の武士を支配していた。幕府も知行国(関東知行国)や荘園(関東御ご領りょう)を経済基き盤ばんとしており,朝廷と幕府には支配者としての共通点もあった。幕府と朝廷による二元的な支配が行われていたのが,この時代の特徴であった。➡p.67幕府と朝廷❻➡p.5117説明だけでは理解が難しい内容も,模式図を用いて丁寧に説明しています。色にメリハリを付けるなどして,カラーバリアフリーを含むユニバーサルデザイン(UD)に配慮した工夫をしています。鎌倉幕府の成立過程についてのコラムを掲載し,その画期を考察できます。1項「鎌倉幕府の誕生」では,鎌倉幕府がどのような経緯で成立したのかと,幕府の特徴について学びます。 提示している教科書p.80-81では,源氏が平氏を倒すまでの過程や,源頼朝が武家の棟梁となって御家人との間で結んだ主従関係について学習します。 続く教科書p.82-84では,鎌倉幕府の成立,幕府と朝廷の関係,武士の生活について学び,冒頭の「課題」に対する答えを導き出せます。確実におさえます。第1章第2章第3章仮説考察問いp.12〜13p.14〜15教材・指導書コンテンツP.34〜3Point興味・関心を高めるページの充実P.24〜2Point資料活用力の育成P.18〜1Point基礎基本の確実な理解P.8〜教p.83教p.82
元のページ ../index.html#10