中世社会の成立第章1朝廷政治の変容朝廷のもとでの政治や土地支配のしくみは,どのように変容していったのだろうか。第2編 中世の日本と世界66❶ 有力な神社である石いわ清し水みず八はち幡まん宮ぐうでは,34か所の荘園のうち,13か所の権利をとめられた。❷ 上皇のぼう大な土地・財産を管理する役所が院庁で,貴族たちが院司となって奉仕した。❸ 出家して信西と名のった。❹ その代表は,白河や鳥羽の地に建てられた,白河殿・鳥羽殿などであった。〔延えん久きゅう元(一〇六九)年二月〕廿(二十)三日、寛かん徳とく二(一〇四五)年以後の新しん立りゅう荘園を停ちょう止じすべし、たとひ彼の年以い往おう(寛徳二年以前)と雖いえども、立りっ券けん分ぶん明みょうならず①して、国務に妨さまたげあるものは、同じく停止の由よし、宣せん下げす。閏うるう二月十一日、始めて記録荘園券契所を置き、寄より人うど(係官)等を定む。(『百ひゃく練れん抄しょう』) コノ後三条院位くらいノ御時、……延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ、宣せん旨じ・官かん符ぷ(天皇の命令・太だい政じょう官かんの指令)モナクテ公く田でんヲカスムル事、一天四し海かいノ巨こ害がいナリトキコシメシツメテアリケルハ②、スナハチ宇う治じ殿(関白藤原頼より通みち)ノ時、一ノ所(摂関家)ノ御領御領トノミ云いいテ、荘園諸国ニミチテ、受ず領りょうノツトメタヘガタシナド云ヲキコシメシ、モチタリケルニコソ③。(『愚ぐ管かん抄しょう』) ① 荘園設置の証拠文書が不確かなもの ② 大害だと即位前からお聞きになっていたから ③記録所新設を採用されたものである 後三条天皇の荘園整理 院政関係系図 鳥羽院政白河院政師実藤原 道長頼通嬉子 子三条 ご すざく後朱雀後三条禎子内親王忠実師通賢子忠通頼長茂子堀河白河鳥羽 すとく崇徳 このえ近衛後白河得子璋子苡子重仁親王 ごれいぜい後冷泉太字は枠内の時期の院政の中心。数字は皇統譜による即位の順。67697071727374757776 鳥と羽ば院像(『天てん子し摂せっ関かん御み影えい』,宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 1068(治じ暦りゃく4)年,後ご三さん条じょう天皇が即そく位いした。宇う多だ天皇以来170年ぶりの,藤ふじ原わら氏を外がい戚せきとしない天皇であった。後三条天皇は,荘しょう園えんの増加が公領を圧あっ迫ぱくして朝ちょう廷ていの税収の減少をまねいていると判断し,1069(延えん久きゅう元)年に厳しい内容の荘園整理令を発した。記き録ろく荘しょう園えん券けん契けい所じょ(記録所)が設けられ,そこでの審査の結果,基準にあわない荘園は停止され,摂せっ関かん家も経済力をそがれた。 後三条天皇の皇おう子じである白しら河かわ天皇は,1086(応おう徳とく3)年に退たい位いして上じょう皇こうとなり,幼い子孫を次々に皇こう位いにつけ,43年間も上皇(のち法皇)の御ご所しょで政治を行った。天皇家の家長である上皇が,子や孫である天皇にかわって政治を行う体制を院いん政せいという。こののち院政は鳥と羽ば上皇,後ご白しら河かわ上皇, 後ご鳥と羽ば上皇によって継けい承しょうされていった。 上皇は院いんの庁ちょうを設けて多数の院いん司しを任命し,彼らは院の家政の処理を仕事とした。国政は,上皇の権威のもとで太だい政じょう官かんに指示して,実行させた。白河上皇のとき,直属の軍事力を組織するため,上皇の御所に北ほく面めんの武士が置かれ,源げん氏じや平へい氏しなどの武士が登とう用ようされた。 また,上皇は旧来の秩序や慣かん習しゅうにとらわれず,お気にいりの中小貴族,僧そう侶りょ,武士,財力のある受ず領りょうなどを重用した。彼らは,上皇との個人的な関係をもとに院いんの近きん臣しんとなり,政治に活躍し始めた。その代表は,鳥羽 上皇や後白河上皇の信任をえた信しん西ぜい(藤ふじ原わらの通みち憲のり)であった。また,豪ごう華かな離り宮きゅうが建てられ,上皇の権威の象徴となった。院政の始まり1034~73867~931➡p.55❶➡p.551053~1129➡p.71院政1129~56院政1158~79,81~92院政1198~1221❷(だじょうかん)➡p.561103~561127~92?~1159➡p.71❸❹510152081出来事の因果関係と,その後の影響を記述した,理解のしやすい本文です。ルビを多用しており,本文をスムーズに読み進められます。重要語句は太字にしています。因果影平易な本文記述で,歴史の基本的な流れを確実にp.4基礎基本の確実な理解1Point入試
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