「世界史探究」ダイジェスト版
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ポイント大学入試への対応も万全301500kmボルネオチベットモンゴル西域ガンダーラジャワ日本新羅高句麗百済中 国ビルマタイカンボジアスリランカ仏教成立トルファンバーミヤンサーンチーボロブドゥール敦煌竜門麥積山ばくせきアジャンターラサ雲崗飛鳥(6世紀)(4世紀)(1世紀)(前3世紀)チベット仏教上座部(南伝)仏教の広まった地域上座部(南伝)仏教伝来の経路大乗(北伝)仏教伝来の経路おもな仏教美術の遺跡仏教文化の広がりと東大寺の大仏文 8世紀, 8世聖しょう武む天皇が巨大な毘び盧る遮しゃ那な仏を本ほん尊ぞんとする東とう大だいいだい寺じを,奈良に造ぞう営えいした。天皇による積極的な仏教の受容は,当時のユーラシアにおける権力者と仏教の緊きん密みつな結びつきの一つのあらわれとしてみることができる。毘盧遮那仏の開かい眼げん供く養ようでは,インド出身の菩ぼ提だい僊せん那な(ボーディセーナ)が導どう師しをつとめたほか,林りん邑ゆう(→p.75)出身の僧も参加した。宮中の雅が楽がくには「林邑楽」があったし,弘こう法ぼう大だい師しが中国に渡って最初についた師はジャワ人だったようである。日本が仏教で結ばれたユーラシアの一部であったことにあらためて目を向けさせられる。仏教の歴史をアジアの諸地域ごとに整理しよう。深める大乗仏教には,ヒンドゥー教の諸神が仏ぶっ法ぽうの護ご持じ神としてとりこまれている。仏典が漢訳されたときに諸神は「天」とよばれて,漢訳仏典とともに日本に渡と来らいしてきた。川の神で学問・技芸をつかさどるサラスヴァティーが七しち福ふく神じんの弁べん財ざい天てんになり,もともとはガンジス川のワニを神格化したクンビーラが,航海や漁業の神,金こん毘ぴ羅ら様になったのは有名である。また,大だい黒こく天てんはシヴァの異い名みょうマハーカーラの漢訳だ。「寅とらさん」で有名な柴しば又またの帝たい釈しゃく天てんは雷らい神じんインドラである。薬やく師し寺じ所蔵の吉きち祥じょう天てん像ぞうが有名な吉きっ祥しょう天てんは,シヴァとならぶヒンドゥー教の主しゅ神しんヴィシュヌの妻で,富とみと豊かさをつかさどるラクシュミーである。速くかけることを「韋い駄だ天てん走り」というが,韋駄天はシヴァの子スカンダである。速はや足あし伝説は,鬼が仏ぶっ舎しゃ利りを盗んだときに,スカンダがこれを追って取りもどしたという故こ事じにもとづいている。 ヒンドゥー教聖典の言葉であるサンスクリット語も,大乗仏教の経典の多くがサンスクリット語であったため,仏教用語として日本語のなかに根づいている。たとえば「奈な落らくに落ちる」の奈落は地獄を意味するナラカ,墓の後ろに置かれる塔とう婆ばは仏ぶっ塔とうを意味するストゥーパ,「刹せつ那な的」の刹那は瞬間を意味するクシャナが語源である。誰もが日本語だと思っている瓦かわらは,実は祭式の皿を意味するカパーラが語源である。日本のなかのヒンドゥー教の神々仏教の伝でん播ぱくしてアジア諸地域に伝わった。各地の支配者は自らと国家の繁はん栄えいを願って大規き模ぼな仏教寺院をつくらせた。紀元前後から数世紀の間,仏教を信仰する商人や僧が海と陸の道を通じてユーラシアの東半をさかんに往来し,地域間の交流を促進した。チャンドラグプタ2世期の5世紀初頭にインド,スリランカを歴れき訪ほうした東とう晋しんの僧法ほっ顕けん,7世紀前半にナーランダー僧院で学び,ハルシャ・ヴァルダナの宮廷も訪れた唐とうの僧玄げん奘じょう,7世紀後半に海路でインドに渡り同僧院で学んだ義ぎ浄じょうはとくに有名である。この間,インドからも数多くの僧が仏教布ふ教きょうのために東方に向けて旅立ち,中国やチベットでは仏ぶっ典てんの翻ほん訳やくにも従事した。中国で漢訳された大だい乗じょう仏教の経きょう典てんを通して,仏教はさらに朝鮮半島や日本へと広がった。こうしたなかで,ガンダーラ様式やグプタ様式も東方に伝わり,中国や朝鮮半島,日本の仏教美術に影響を与えた。グプタ朝期に確立したヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸もインドをこえて広がり,とくに東南アジアではその伝統文化の一部を構成することとなった。 このように,ユーラシアの東半では,仏教やサンスクリット語などのインド生まれの文明を共有することで地域間の交流が促進された。しかし,インドでヒンドゥー教の優位と仏教の衰すい退たいが明らかになったころ,イスラームの成立とムスリム商人の台頭もあって,そうした状況は大きく転換した。(→p.69)(→p.87)(→p.89)(→p.91)(→p.119, 161)72| 第3章 南アジア5101520253035「歴史総合+世界史探究」となる大学入学共通テストにも対応できます令和4年度の大学入学共通テスト「世界史B」では,リード文に日本との関連を意識した形の問題が出題されました▲ 教科書p.281▲ 教科書p.280 教科書p.72同時代の世界の歴史と関連づけながら日本の歴史を理解することができるコラムを,全17箇所に設置しています(→p.6)。日本との関連コラム▶ 大学入学共通テスト (令和4年度・ 世界史B 本試験) 第3問 (大学入試センター作成)あると宣言きずいたマ滅ぼされるは,独自にーム世界で法は停止さトルコ戦争で勢力を伸しん対する抵抗リーフ)がを退けてき法を制定す保護国とな約を結んだ貿易が拡大絹きぬ織物業は生産が成長せず,70年権をイギリ 名目的な国家主権を残し,国内自治は認められるが,外交・軍事権は宗そう主しゅ国こくに奪われる。19世紀後半から帝国主義政策をとる宗主国が,植民地行政の負担をさけ,民族抵抗を封じ込め,ライバルの列強諸国の反発をさけるために用いた。保護国マフディーは救きゅう世せい主しゅを意味する。ムハンマド・アフマドは,自らをマフディーと称することで,エジプト副王とオスマン帝国スルタン(カリフ)の権けん威いを否定し,民衆を結集した。明治の日本人の見たエ治のジプトジプト 日本の柴しば四し朗ろう(ペンネーム東とう海かい散さん士し)は,ヨーロッパ視察旅行の途上,イギリス占領下のエジプトの状況を目撃した。帰国後に著あらわした『埃エジプト及近世史』では,ウラービー革命が日本の自由民権運動とも共通する,民主化を求める運動だったと認識されている。また,イスラームは立憲政治と両立しうるものであるとも記されている。そして,そのような運動を武力で抑よく圧あつしたイギリスの横暴を指摘したうえで,日本も警戒すべきだとうったえている。エジプトの挫折オスマン帝国から朝のエジプトは,施などの近代化政策をおしすすめ,186スエズ運河を開かい削さくした。19世紀後半も綿め基礎を置くモノカルチャー経済が形成さ しかし,運河建設などの経費のためににスエズ運河会社の株をイギリスに売却に1876年からは国家財政もイギリスとフた列強の内政干かん渉しょうとエジプトの支配体制(オラービー)を指導者としてはじまっーから村落指導者層にいたるまで広こう範はんな開設を求める運動に権を主導して改革をインドへの道の確保ってこの政権をくつ護国とした。 エジプトに支配さ(→p.226, 297)(→p.250)フランス人レセップス(1805~94)の提案を受けてエジプト政府が実施した運河開削工事は,数万人ともいわれるエジプト人労働者の犠ぎ牲せいのうえに完成した。宣言した。ウラービーらがかかげたスローガン「エジプト人のエジプト」は,その後の民族運動の基点となった。イギリスは,1890年代にクウェートなどペルシア湾岸の首長国を保護国とし,ペルシア湾に勢力を確保した。日露戦争における日本の勝利戦日露戦争は,その戦況が電信によって世界中に即時に伝日露えられた。「東洋」の日本が「西洋」のロシアに対してつぎつぎと勝利をおさめていくことが報道されると,オスマン帝国やエジプト,イランなどで日本への関心が急速に高まり,日本を紹介する本が刊行され,日本をたたえる詩が発表された。そして日本の立憲制度が注目され,大日本帝国憲法がペルシア語やアラビア語に翻ほん訳やくされた。280| 第16章 アジア・アフリカ諸国の統治再編と世界分割の進行31

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