「世界史探究」ダイジェスト版
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働者による運動が高こう揚ようするなか,1848年2月にパリ民衆が蜂起して市街戦となった。国王ルイ・フィリップは退位し,共和派による臨時政府が樹立された(二月革命と第二共和政の成立)。 臨時政府には社会主義者のルイ・ブランも参加し,失業者救きゅう済さいのための国立作業場を設置するなど改革に努めたが,男性普通選挙による1848年4月の国民議会選挙では,社会主義派はやぶれ,穏健共和派が大勝した。保守化した政府に抗議した労働者の武装蜂起は鎮圧され(六月蜂起),新憲法のもとで実施された12月の大統領選挙では,ナポレオンの甥おいであるルイLouis Napoléon・ナポレオンが当選した。彼は1851年にクーデタによって権力を握ると,翌52年に国民投票によって皇帝になり,ナポレオン3世と称した(第二帝政)。 二月革命の報が伝わると,オーストリアの首都ウィーンでも三月革命がおこり,メッテルニヒが追放された。帝国内の諸民族も自由と自治を求めて立ちあがり,ハンガリーでは,マジャール人がコKossuthシュートの指導下に独立政府を樹立し,ベーメンではチェック人の自治が認められた。プロイセンの首都ベルリンでも三月革命がおこり,王は憲法制定を約束し,自由主義者の内ない閣かくが誕生した。1848年5月には全ドイツの代表が集まってフランクフルト国民議会が開かれ,ドイツの統一と憲法制定が討議された。ポーランドの独立運動はロシアによって弾だん圧あつされたが,ベルギー,オランダ,スイス,北欧でも改革運動が高まり,イギリスではチャーティスト運動が最後の高揚をみせた。北イタリアのミラノでは臨時政府が樹立され,ヴェネツィアでも共和国が復活した。こうして「諸民族の春」が到とう来らいしたかにみえた。 時代の転換革命が急進化の動きをみせると,自由主義者の姿勢は各地で保守化した。プロイセンの自由主義内閣は自国内のポーランド人による独立要求を弾圧し,独立したハンガリーが領内の他民族を抑よく圧あつしたためクロアチア人がオーストリア皇帝側につくなど,諸民族間の利害対立や矛む盾じゅんも表面化した。各地の革命運動はその目的を達成しないうちに鎮圧され,崩壊した。フランクフルト国民議会も,ドイツ統一をめぐって,オーストリアを含む大ドイツ主義をとるか,オーストリアを除いたプロイセン中心の小ドイツ主義をとるかで対立し,結局は解散をよぎなくされた。ドイツの自由主義的統一は失敗に終わった。 1848年の諸革命では,その推進者たちの社会変革や独立の夢は実現しなかった。しかし各国の指導者は,政治がもはや民衆の動向を無視することは困難であると痛感した。保守的なドイツのユンカーですら,世論を誘導するために新聞が必要なことをさとり,フランスのルイ・ナポレオンは,それまで革命と同一視されていた普通選挙や国民投票を積極的に活用する政治手法を(1848~52)(1808~73)(1852~70)(→p.127, 219)(1802~94)(→p.126)(→p.218)マッツィーニらは,1849年にローマ共和国を樹立したが,ローマ教きょう皇こうから要請されたフランス軍の介かい入にゅうで倒された。パリの二月革命 パレ・ロワイヤル広場における市街戦。パリ市内の各地で戦闘がくりひろげられた結果,革命側が首都制圧に成功した。フランクフルト国民議会は,立憲君主政のドイツ憲法を作成し,プロイセン王を皇帝に選出したが,王に拒否された。1848年にヨーロッパ各国でおこった出で来き事ごとをまとめよう。また,1848年に提てい起きされた政治的問題について考えよう。深める51015202530352474 自由主義の台頭と新しい革命の波 |❷ 学習課題「深める」で論述型入試問題にも対応問いの内容を考えながら本文を読み直すことで,歴史的思考力を養います歴史の理解をさらに深めるための課題「深める」を全22箇所に設置解答例は『指導書』にご用意しています(→p.53)28

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