▲教科書p.312▲教科書p.213▶東京大学 (2019年前期・世界史) 第1問していった。 戦いに疲れた諸国は,1648年にウェストファリア条約を結んでようやく戦争を終結させた。宗教については,ドイツではルター派のほかにカルヴァン派が公認された。国際関係においては,国家主権の不ふ可か侵しん性せいが確認され,スイスとオランダの独立が承認され,ドイツ諸しょ侯こうの独立性も強まった。そのため神しん聖せいローマ帝国は有名無実化し,ヨーロッパの主権国家体制が固まった。フランスはアルザスなどライン川左岸の一部を手に入れ,スウェーデンも北ドイツに要地を獲得して,北欧の大国となった。当時は傭兵隊が軍隊の中心を占めていたため,略りゃく奪だつが横行し,戦場となったドイツは荒こう廃はいした。17世紀のヨーロッパは,気候が寒かん冷れい化した。イギリスのテムズ川も凍結することがあるほどで,疫えき病びょうや凶きょう作さくが波状的に来らい襲しゅうした。疫病や凶作は,地域によって程度の差はあるが総じて人口の停てい滞たいをもたらし,16世紀に大きく成長したヨーロッパの経済は,17世紀の前半には不ふ振しんにおちいった。さらに,三十年戦争をはじめとする戦乱は,重税をともなって人々を苦しめ,17世紀半ばには各地で反乱や農民一揆が集中的におきた。 こうした危機への対応は,国によって異なった。絶対王政が危機におちいっていたイギリスでは,革命がおこって絶対王政がとりはらわれ,資本主義の発展に有利な情勢が生まれた。これに対して,領主勢力の根強いフランスでは,彼らをおさえこむ必要から,絶対王政の強化がはかられた。そして両国とも,国家が経済活動に介入する重商主義政策をとって,危機に対処するとともに,オランダの商業覇権に対抗していった。「危機の17世紀」アウクスブルクの宗教和議が再確認された。マスケット銃 歩兵が装備できるように,銃身を短くした銃。三十年戦争では,槍やりとならぶ歩兵の装備であった。213101520252 オランダの繁栄と英仏の国家形成 |ほかにも・イスラーム世界と十字軍 (教科書p.131)・「航海王子」の真の目的 (教科書p.171)など概念のしっかりとした理解は大学入試でも求められています!の民族運動資の供きょう給きゅうによって協力し,大きな犠ぎ牲せいを払ったが,戦後それに対する十分な見返りを得ることはできなかった。パリ講こう和わ会議では,民族自じ決けつの原則がかかげられたものの,それはアジア·アフリカには適用されなかった。そのため,各地で独立をめざす民族運動がさかんになった。 民族運動を主導したのは,しばしば,欧米式の近代的教育を受けた官かん僚りょう,軍人,弁護士,教師,医師,ジャーナリストなどであった。彼らは新しい政治思想を唱えたり,あるいは民族の伝統を再評価したりすることで,ナショナリズムや民族独立の理念を広めるとともに,組織的な政治運動の担にない手となっていった。こうした運動は第一次世界大戦後には,農民をもまきこんだ,幅広い階層を動員した大衆的運動に発展した。大戦中,欧米の勢力が戦争に集中している間に成長をとげた民族資本家も,民族運動を支し援えんするようになった。また,コミンテルンの指導のもと,共産主義の理念による国家建設をめざす運動もはじまり,既き存そんの民族運動と競きょう合ごうするようになった。 アジア・北アフリカの各地では,20世紀はじめごろから,女性たちが雑誌の刊行や団体の設立を通じて,女性を不公平にあつかう慣かん習しゅうや制度の改革,女子教育の普ふ及きゅう,女性参政権などをうったえるようになっていた。第一次大戦後にその活動はさらに拡大し,民族運動への参加もみられるようになった。トルコ共和国とイランの独立列れっ強きょうの取り決めた大戦後の秩ちつ序じょに挑ちょう戦せんし,その変更をかちとったのはトルコであった。かつての大国,オスマン帝国は大戦での敗北によって占領され,1920年のセーヴル条約によって領土の分割が決定された。ギリシア軍は,この条約でオスマン帝国に認められたアナトリア内陸部にも侵しん攻こうした。これよりさき,オスマン帝国軍人のムスMustafa Kemalタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)は,アンカラでトルコ大国民議会を開催して臨時政府を樹立し,アナトリアにトルコ人の国民国家建設をめざした。ケマルは,1922年にギリシア軍をやぶり,イズミルなどを回復するとともに,スルタンを追放して,オスマン帝国を滅めつ亡ぼうさせた。 1923年に連合国とローザンヌ条約を締てい結けつし,独立の確保に成功したムスタファ・ケマルはトルコ共和国を宣言し,自ら大統領に就任した。スルタンにかわって統治権の(→p.306)(→p.304)(→p.305)シリアはフランスの,イラクとパレスティナはイギリスの委任統治領とされた。アナトリアは分割され,南東部はフランスの,南西部はイタリアの勢力圏,東部は独立アルメニア国家とされ,イズミルとその周辺はギリシアに与えられた。 現在のトルコ,シリア,イラク,イランにまたがる地域に住んでいたクルド人は,いったんは大戦後のセーヴル条約で自治領構想を認められた。しかし,トルコ共和国の建設によって,この構想は無視され,クルド人はトルコ,シリア,イラク,イランなどの国家のなかに少数民族として取り残されることになり,各国内での民族問題が現在までつづいている。クルド人オスマン帝国の統合理念として,タンジマート以降,宗教・民族を問わず平等なオスマン国民としてまとめるオスマン主義が基本となったが,アブデュルハミト2世の時代には,ムスリムの統合と連帯をめざすパン・イスラーム主義が強調された。中央アジアに起き源げんをもつトルコ人という民族意識は19世紀後半に生まれ,1910年代にトルコ人を中心に置くトルコ民族主義が帝国の方針となった。第一次大戦での敗北により,アラブ人や,ロシア(ソ連)支配下のトルコ系ムスリムとの連帯の理想は放ほう棄きされ,トルコ共和国はアナトリアを祖国とするトルコ民族主義をかかげた。オスマン主義からトルコ民族主義へローザンヌ条約に先立ち,トルコ·ギリシア住民交こう換かん協定が結ばれ,イスタンブルを除くトルコ国内のギリシア正せい教きょう徒ととギリシア国内のムスリム住民との交換が合意された。なお,オスマン帝国領のアナトリアに住むアルメニア人は,第一次大戦中シリア方面に強制移住させられ,その過程で多くが虐ぎゃく殺さつされた。312| 第17章 第一次世界大戦の展開と諸地域の変容31251015202530大学入試にもつながる幅広いテーマ本文とは異なる面から事象をとらえるポイントさまざまな角度から歴史を考える223
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