世紀の世界88世紀は,ユーラシアの諸地域においてそれぞれどのような面で転換期であったのだろうか。また,ユーラシア諸地域の転換はどのように関連していたのだろうか。 東アジアでは,唐とうから周辺諸国に律りつ令りょう,漢字,儒じゅ教きょう,仏教などが伝でん播ぱした。日本では701年に大たい宝ほう律令が制定され,中国からとりいれられた諸制度や仏教にもとづく律令国家体制が確立した。唐の首都の長ちょう安あんは,諸外国の使し節せつや留学生のほか,ソグド人,アラブ人などの商人が訪れ,仏教,ゾロアスター教,マニ教,ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられ,国際都市となった。長安をモデルに日本で平へい城じょう京きょうがつくられたのも8世紀である。その一方で,唐では均きん田でん制にもとづく体制が維持できなくなり,節せつ度ど使しが藩はん鎮ちんとして各地で自立するようになった。安あん史しの乱は,このような社会の転換を象徴している。 西アジアでは,ウマイヤ朝からアッバース朝にかわって税制面でのムスリム平等化が実現し,イスラーム法にもとづく統治がめざされた。ムスリム商人は,ユーラシアやアフリカの各地を結ぶ陸上交易や海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに,世界各地の物産が市いち場ば(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。 ヨーロッパでは,ビザンツ帝国において絹きぬ織おり物ものなどの手工業や商業が発展し,貨か幣へい経済が繁はん栄えいをつづけ,首都コンスタンティノープルは国際的な交易都市として栄えた。他方,ビザンツ皇帝が聖像崇すう敬けいを禁じると,ローマ教会がビザンツ皇帝の保護から離れ,イスラーム勢力の侵しん攻こうを防いだフランク王国と提てい携けいするようになった。教きょう皇こうによるカロリング朝の承認とピピンによるラヴェンナ地方の教皇への寄き進しん,およびカールの戴たい冠かんは,ローマ・カトリック教会とフランク王国の結びつきによる西ヨーロッパ世界の形成,すなわちビザンツ皇帝が実質的にギリシア正せい教きょう会かいを支配する東ヨーロッパ世界とは異なる世界の形成を象徴している。 以上のように8世紀には,いずれの地域においても首都が国際都市として繁栄する一方,世紀半ばに時代の転換を象徴する出で来き事ごとがおきたのである。大西洋海地中アーヘンローマコルドバフランク王国後ウマイヤ朝ガーナ王国スラヴ人ノルマン人アングロ・サクソン七王国カール大帝の戴冠800トゥール・ポワティエ間の戦い732カロリング朝の成立7510°0°20°20°2040°唐の領域アッバース朝の領域ビザンツ帝国の領域フランク王国の領域アーヘンの大聖堂 ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し,王おう宮きゅう,大聖堂を建てた。9898| 8世紀の世界2ポイントさまざまな角度から歴史を考えるこの時代の特徴をつかむための問いを設置18
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