た。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり,ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。13世紀末のパガン王国の崩ほう壊かい以来,分ぶん裂れつしていたビルマでは,16世紀前半にタTounguウングー(トゥングー)王国が全国統一に成功した。この王国は,東南アジア内陸部とベンガル湾を結ぶ交易を行うとともに,16世紀後半にはアユタヤ王国を攻こう略りゃくしたが,まもなく分裂した。16世紀末に再独立したアユタヤ王国は,東南アジアの諸港市に米を供給する一方,日本や中国,ポルトガル,そして17世紀には,オランダ,イギリス,フランスとも通商を行い,商業国家として繁栄した。タウングー王国もアユタヤ王国も,米を港市国家に供給するなど,大たい河がを通じて領域内の産物の海外輸出をすすめた。 ベトナムでは15世紀はじめ,胡こ朝が明に併へい合ごうされたが,まもなく黎れい朝のもと独立を回復した。黎朝は,儒じゅ教きょうを積極的に導入し,中国にならった官かん僚りょう制的な中央集権国家を建設した。16世紀中ごろから国内が分裂したが,世紀末に黎朝の実力者鄭てい氏しがハノイに入って大だい越えつ国を再建した。また,チャンパー王国を併合して,17世紀までには,ほぼ現在のべトナムの領域にまで広がった。一方,鄭氏と対立した阮げん氏しが中部のフエに移って広南(クアンナム)国を建設し,両勢力はともにポルトガル船やオランダ船,日本の朱しゅ印いん船せんとさかんに通商した。オランダ東インド会社交易を王室の独占下に置いたスペインとポルトガルに対して,オランダ,イギリス,フランスは,17世紀はじめごろ,それぞれ東インド会社を設立し,アジア進出を本格化した。オランダ東インド会社は,喜き望ぼう峰ほう以東の植民地経営と交易の独占を政府に特許され,固有の軍隊や要よう塞さい,貨か幣へい制度をもつ特権会社だったが,商人たちによって自由に投資され,また管理される機能的な組織でもあった。 オランダ東インド会社は,1619年にジャワ島のバタヴィアに要塞をきずいて東南アジア交易の根こん拠きょ地ちとすると,1623年のアAmboinaンボイナ事件を機に,この地域からイギリスの勢力を駆く逐ちくし,マラッカ,スリランカをポルトガルから奪った。また,アフリカ南なん端たんにケープ植民地を開いたオランダは,喜望峰からインド洋を直航し,スンダ海峡を通過してバタヴィアにいたる新航路を開拓した。さらに台湾を領有して,東シナ海交易の拠点とした。とくに鎖さ国こく下の日本では,唯一交易を許されるヨーロッパ勢力として,中国の絹や生糸と日本の銀,銅とを交こう換かんし,大きな利益を得た。また,インドにも拠点をきず(→p.166)(1531~1599,1605~1752)(1400~07)(1428~1527,1532~1789)(1558~1777)(→p.177)タウングー王国は,1599年に一度瓦が解かいするが,1605年に再建された。スマトラ島ボルネオ島ミンダナオ島スールー諸島ルソン島モルッカ諸島太 平 洋イ ン ド 洋スンダ海峡ジャワ海バンダ海アラフラ海セレベス海スールー海タイランド湾メコン川川ィデワヤーーエ南 シ ナ 海ベンガル湾台湾バンテン王国マタラム王国アユタヤ王国アチェ王国琉球王国タウングー王国大越国広南国明マカオハノイ広州福州フエホイアンマニラアユタヤジョホールパレンバンバタヴィアバンテンマタラムアンボイナプノンペンマラッカ01000km日本町の所在地クローブやナツメグの特産地であるモルッカ諸島のアンボイナで,オランダ東インド会社が競きょう合ごうするイギリス人らを虐ぎゃく殺さつした事件。イギリスは1600年,オランダは1602年にそれぞれ設立し,フランスは1604年の設立ののち一時解散し,1664年に再建。オランダ東インド会社は株式会社の形態をとり,イギリス東インド会社の10倍の資本金をもち最大だった。なお,オランダは1621年に西インド会社を設立して,大西洋地域での貿易や略りゃく奪だつにあたった。大交易時代の東南アジア図p.166, 168, 268陳ちん朝にかわって14世紀末に成立した胡朝は,短命に終わったが,科か挙きょ官かん僚りょうを登用して独自の官僚制国家の整備に努めた。また,チューノム(→p.165)の使用を奨しょう励れいして,漢籍の翻ほん訳やくをすすめた。51015202530351835 大交易時代の世界 | イギリスがインドにおける経済活動や統治を円えん滑かつに行ううえで,現地インド人の協力は不可欠であった。イギリス人と協働するなかで,一部のインド人は西欧の知識や教養を身につけるようになり,彼らの間から,インド社会の因いん習しゅうを批判し,社会を変革しようとする動きもあらわれた。インド大反乱とインド帝国の成立1857年,北インドで東インド会社のインド人傭よう兵へい(シパsipahiーヒー)の反乱がおこった。シパーヒーはデリーを占せん拠きょし,ムガル皇帝を盟めい主しゅとして擁よう立りつした。旧支配層や旧地じ主ぬし層,農民,手工業者など,さまざまな理由でイギリス支配に不満をもつ幅広い社会階層の人々が参加し,反乱は北インド全域に広がった(インド大反乱)。しかし,反乱は全体としての連れん携けいが十分にとれないまま,イギリス軍に個別に鎮ちん圧あつされていった。1858年,イギリスはムガル皇帝を廃し(ムガル帝国の滅めつ亡ぼう),東インド会社を解散させ,旧会社領をイギリス政府の直ちょっ轄かつ領に移行させた。はんおう(1857~59)イギリスは,1840年代から機会があれば藩はん王おう国こくをとりつぶして併へい合ごうする政策をとったので,旧支配層は強い不満をもっていた。なお,インド大反乱後は,藩王を存続させて植民地支配の維持に協力させる方針に転換された。19世紀前半の東南アジア 図p.183, 284マ ラ ッ カ 海 峡数字はイギリスによる獲得年などを示すイギリス領(B)オランダ領スペイン領ポルトガル領18191826(B)17861824フィリピンシャム(タイ)清海峡植民地オランダ領東インドビルマカンボジアアチェボルネオジャワスラウェシモルッカティモールス マ ト ラべトナムスールー諸島マラッカシンガポールサイゴンバンコクバタヴィアハノイペナンマニラフエ01000km東南アジアの「華人の世紀」シパーヒー(英語名セポイ)は,おもに上層カーストのヒンドゥー教徒と上層のムスリムからなり,イギリスの支配により没ぼつ落らくした中小地主や官かん僚りょうなどの中流階層出身者も多かった。インド大反乱 シパーヒーの間に雇用条件や勤務内容をめぐって不満が高まりつつあったときに,新しく支給された銃の弾だん薬やく包ほうに,ヒンドゥー教徒が神しん聖せい視しする牛の脂あぶらとムスリムが不ふ浄じょう視する豚ぶたの脂がぬられているという噂うわさが流れ,弾薬を装そう填てんする際にこれを口でかみきらなければならなかったことから,彼らは反英感情を爆発させた。510地図リンクで同一地域の前後の時代の状況を確認できます▲ 教科書p.268ポイント豊富な資料と歴史の流れがわかる記述115
元のページ ../index.html#8