ーGutsherrschaftツヘルシャフト)を形成した。こうして,東欧では商工業都市や市民層の成長がおさえられることになった。南シナ海・東シナ海の国際交易と東南アジア島嶼部の活況南シナ海と東シナ海の交易圏は,ポルトガル・スペインの参入と日本産・アメリカ産の銀の大量供きょう給きゅうにより,大きく発展した。16世紀後半,明ミンの海かい禁きんが緩かん和わされると,マニラや長崎などに中国産の生き糸いとや絹きぬ織おり物ものが運ばれ,かわりにメキシコ銀や日本銀が大量に中国に流入した。 南シナ海・インド洋・東南アジアの流通網もうを結びつけていたマラッカは,1511年にポルトガルに占領された。しかし,マラッカ王家は同じマラッカ海かい峡きょう沿いの島に交易拠きょ点てんを移してムスリム商人を集めたために,ポルトガルのマラッカは孤立した。また,ムスリム商人たちもポルトガルの支配するマラッカ海峡をさけて,スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡をぬけてインド洋からジャワ海に入るルートを開拓した。この結果,インド洋に面するスマトラ島北ほく端たんのアAcehチェ王国や,スンダ海峡の出口に位置し胡こ椒しょう生産のさかんなジャワ島西部をおさえたバBantenンテン王国が栄えた。両者ともイスラーム国家で,アチェはオスマン帝国と直接交易を行い,東南アジアのイスラームの中心ともなった。同じころ,ジャワ島中部でもイスラーム国家であるマMataramタラム王国がおこり,ジャワ島の米生産地とジャワ海の交易路を結んで栄えた。東南アジア大陸部の政治的再編南シナ海の交易が拡大し,東南アジアの諸港こう市しが繁はん栄えいにむかうとともに,諸港市に米や熱ねっ帯たい産品を供給する内陸部で政治的な再編が進んだ。 タイでは,14世紀中ごろ,チャオプラヤ川中流域にアAyutthayaユタヤ王国がおこり,内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め,これを中国や琉りゅう球きゅうに供給して発展し(→p.176)(15世紀末~1904)(16世紀~1813)(16世紀半ば~1755)(1351~1767) アチェは東西交易路の要よう衝しょうにあたるスマトラ島北ほく端たんに位置する。アチェ王国は,ポルトガルのマラッカ占領後,ムスリム商人を受けいれ,香こう辛しん料りょう交易で繁はん栄えいし,17世紀前半に最盛期を迎えた。その後,植民地支配をめざすオランダに抵抗したがやぶれた(アチェ戦争,1873~1912)。インドネシア独立後は,大幅な自治を認められた特別州となっている。アチェにぎわうバンテンの市いち場ば(16世紀末のオランダの航海書の挿さし絵え) バンテンの市場は,胡椒を求めてインド洋や南シナ海を渡ってきたアラブ人やトルコ人,インド人や中国人でにぎわった。182| 第11章 大交易時代と世界の一体化5101520❹ 学習内容の定着をうながす仕掛け学習で重要となる用語・事項を解説したミニコラム14
元のページ ../index.html#7