一体化に向かう世界4スペインは,なぜアメリカやアジアに進出し,それは世界の交易のあり方をどのようにかえたのだろうか。世界周航の達成ポルトガルの海外進出に刺激されたスペインは,1492年,グラナダ陥かん落らくの年に,ジェノヴァ出身のコColumbusロンブスの船隊を大西洋に送りだした。コロンブスは,地球球体説をもとに大西洋を西航すればインドや日本により早く到とう達たつできるとするトToscanelliスカネリの主張を信じ,イサベル女王の後援のもとで大西洋を横断してカリブ海周辺の現在のサン・サルバドル島に到達した。コロンブスはその後も3回の航海を重ね,カリブ海諸島や中南米沿岸を探検した。彼は,発見した地を最後までインディアス(アジア)の一部だと信じ,この地の住民をイIndioンディオ(インドの人)とよんだ。 コロンブスの航海以後,ヨーロッパ人の西まわり航路によるアメリカ大陸への進出は活発になり,ポルトガルとスペインの対立も激化した。両国はローマ教きょう皇こうの仲ちゅう介かいにより,1494年のトTordesillasルデシリャス条約で両国の勢力範囲を定め,ポルトガル人カCabralブラルが漂ひょう着ちゃくした南アメリカのブラジルは,ポルトガル領とされた。1513年,スペインのバBalboaルボアがはじめてパナマ地ち峡きょうを横断し,太平洋に到達した。また,ポルトガル人マMagellanゼラン(マガリャンイス)は,スペイン王の援えん助じょを受けて1519年,西まわりのアジア航路を発見するために大航海に出発した。マゼランは南アメリカ大陸南なん端たん(現在のマゼラン海かい峡きょう)を通過して太平洋に出て,さらに3か月の航海のすえ,1521年にフィリピン諸島に到達し,ここをスペイン領と宣言した。彼は現地人との戦いで戦死したが,部下はインド洋から喜き望ぼう峰ほうをまわって,1522年にスペインに帰き還かんした。ここに最初の世界周しゅう航こうが達成され,大地が球体であることが確認された。アメリカの征服スペインは,コロンブスの探検以後,アメリカ大陸への進出を本格化した。1521年,コCortésルテスはメキシコのアステカ王国を滅ぼしてヌNueva Españaエバ・エスパーニャを建設し,1533年にはピPizarroサロがペルーのインカ帝国を征せい服ふくした。これらの新しい領土にはエencomiendaンコミエンダ(→p.140)(1451ごろ~1506)(1397~1482)(→p.140)(→p.170地図)(1460ごろ~1526ごろ)(1475ごろ~1519)(1480ごろ~1521)(1485~1547)(→p.104)(1478~1541)(→p.104)バルボアはたんに南の海と命名した。現在の太平洋はマゼランが「平和の海」と名づけたことにもとづく。1493年,ローマ教皇アレクサンデル6世は,スペインに有利な教皇子し午ご線を設定し,東をポルトガル,西をスペインの勢力圏としたが,ポルトガル王ジョアン2世がこの線を大幅に移動させ,トルデシリャス条約で教皇やスペインに認めさせた。ジェノヴァ出身のカボット(父,1451ごろ~98ごろ)は,イギリス王ヘンリ7世の命令で北西航路を探検し,1497年には北米大陸の海岸に到着した。西インド諸島というよび方は,これに由ゆ来らいする。その後,フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチ(1454~1512)の探検によって,これがヨーロッパ人には未知の大陸(新大陸)であることがわかり,彼の名にちなんでアメリカと名づけられた。サン・サルバドル島に上陸するコロンブス(16世紀の本の挿さし絵え) コロンブスや島民は,どのように描かれているだろうか。理由もあわせて考えてみよう。アメリカ植民地の銀鉱こう山ざん インディオたちの過か酷こくな労働によって採さい掘くつされた,ボリビアやメキシコの銀は,世界に価格革命(→p.181)をひきおこした。1791795101520254 一体化に向かう世界 | 習を各節に設定された問いを追究することで,事象の背景や影響,因果関係をしっかりと考えることができますポイント豊富な資料と歴史の流れがわかる記述1解答例は『指導書』にご用意しています(→p.52)11
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