「新選歴史総合」ダイジェスト版
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27ポイント3 その先の学びへつなげる31 東アジアには,「華か夷い秩ちつ序じょ」とよばれる世界観がある。漢かん民族を中心とする伝統中国は,みずからを「華」,つまり文明の中心と考えた。「夷」とよばれる「未み開かいでおとった」諸民族は,中国の文明に憧あこがれて貢みつぎ物ものを使者にもたせ,皇帝に「朝ちょう貢こう」するものとされた。皇帝は天命を受けた世界唯一の支配者「天てん子し」であり,「朝貢」してきた権力者をその国の王と認めて「冊さく封ほう」することもあった。 どの民族であっても,中国文明を身につければ「華」に近づくことができるとされ,周辺諸国は,それぞれを中心に小さな華夷秩序をつくりあげていった。日本も,遣けん唐とう使しを送って唐とうに学びながら,独自の律りつ令りょう制をつくった。日本にとっての「夷」は,隼はや人とや蝦えみ夷しだった。 中国と周辺国を結ぶ「冊封・朝貢」関係の多くは形式的なもので,中国が他国の内政に干かん渉しょうすることはほとんどなかった。皇帝の冊封を受けて国王に任命されても,その君主が冊封儀礼を決まり通りに行わなかったり,国内で皇帝のようにふるまったりするといったこともあった。中国との関係を各国がそれぞれ都合よく解かい釈しゃくできることで,無用な争いが避さけられていたともいえる。 実際のところ,中国との関係における東アジア諸国の最大の関心事は「互ご市し」,つまり貿易だった。これを逆さか手てにとったのが明ミンで,朝貢使節だけに貿易を許す形で互市を制限した。華夷意識が特に強かった明は,モンゴル帝国ですら服ふく属ぞくさせられなかった日本を冊封することでみずからの権けん威いを高めようとし,室むろ町まち将軍も貿易を目当てに明の冊封を受け入れ,積極的に朝貢した。 清シン代にはふたたび朝貢儀礼を必要としない互市の関係が主流となり,江戸時代の日本やヨーロッパとの間でも行われた。19世紀なかばのアヘン戦争は,本質的には互市のルールをめぐる争いであったし,欧米との間で結ばれた通商条約なども,中国は互市関係の延長として解釈していた。 清の考える華夷秩序はこうして守られていたが,ヨーロッパ勢力にとって,中国の伝統的な外交体制は理解しにくいものだった。清は欧米の影響を受けつつも冊封・朝貢関係を維い持じしようとしたが,しだいに冊封・朝貢国は減り,やがて近代的な外交体制を採用せざるをえなくなってゆく。東アジアの伝統的な華夷秩序~われらこそが,世界の中心前近代の世界21天下と華か夷い秩序 中国では,森しん羅ら万ばん象しょうをおさめる「天」が徳のある人間を「天下」の統とう治ち者として「天てん子し」(皇帝)に任命し,その支配領域である「中華」の外側(「化け外がいの地」)には,未開な異民族(北ほく狄てき・東とう夷い・南なん蛮ばん・西せい戎じゅう)が住むとされた。2万ばん国こく来らい朝ちょう図ず 18世紀後半,乾けん隆りゅう帝ていのもとに集まる朝ちょう貢こう使節をえがいた,虚きょ構こうの作品の一部。オランダ(荷蘭国)やフランス(法蘭西),イギリス(英吉利国)など,現実には朝貢関係にない国々が登場する。5101520占領したり,長ちょう安あんを攻めたりするほどに成長した。チベットは,中国から公主(皇女)を迎えいれるなどして中国文化を受容したが,全体としてはインドの文明の強い影響のもとで,チベット文字やチベット仏教が生みだされた。雲うん南なんでは,チベット・ビルマ系の南なん詔しょうが自立し,唐の冊封を受けて漢字やその他の中国文化を受けいれる一方,チベットと関係を結んで唐に対抗することもあった。 ベトナム北部は唐の安あん南なん都と護ご府ふの治ち下かにあったが,漢字はまだ独立後ほど社会には浸しん透とうしていなかった。ベトナム中部のチャンパー(林りん邑ゆう),その西のクメール(真しん臘ろう),スマトラ島のシュリーヴィジャヤなどはインドの文明の影響下にあったが,それぞれ唐とも朝貢の関係をもった。唐の国際秩序唐は,辺へん境きょう地域では,服ふく属ぞくした部族の首長に通常の統治をゆだね,要よう所しょに都と護ご府ふや都と督とく府ふを置いて,部族長の統治を監かん督とく・統とう括かつさせる間接統治の方策を用いた。一方唐に隣りん接せつする諸国には,朝貢してきた国の首長に爵しゃく位いや官位を与え,君臣関係を結んだうえで,その地域の統治を承認した。これを冊封体制という。またウイグル,チベット(吐と蕃ばん)などの強国に対しては,盟めい約やくを結んだり,婚姻関係を結んだりした。また,交易のみを望んで来航する遠えん隔かく地ちの諸民族に対しては,伝統的な朝貢の方式が採用された。(→p.75)(→p.77)(→p.76)(→p.96)(→p.94)遣唐副使として日本に帰国した大おお伴ともの古こ麻ま呂ろはつぎのように報告した。「大唐の天てん宝ぽう12年(西暦753年),唐の天子は蓬ほう莱らい宮きゅうの含がん元げん殿でんで元旦の朝賀を受けました。この日,我々の席次は西側の二番目で吐蕃(チベット)の下にあり,新羅の使者は東側の一番目で大たい食じき国こく(アラブの国)の上にありました。そこで私は,こう言いました。新羅は我が日本国に長らく朝貢してきた国なのに,いま東の上位に席を取り,かえって我々がその下にあるのは納得がいかないと。その時,唐の将軍の呉ご懐かい実じつは,私が絶対に譲らないのをみてとり,新羅の使者の席を西の吐蕃の下に置き,我々日本の使者の席を東の一番目の大食国の上に設けました。」(『続しょく日に本ほん紀ぎ』) 外国の君主が中国の冊封を受けるメリットには,中国の皇帝の後ろ盾を得て自国での権けん威いを高めることや,中国と外交関係を締結して文化や情報を導入しやすくすることがあった。しかし,それとともに重要なのは,中国から与えられる官かん爵しゃくで示される地位が周辺諸国との関係にも及んだということである。 日本は,倭の五王の時代にさかんに使者を送って冊封を求めたが,その目的は,高句麗や百済と同等の地位を得て,朝鮮への影響力を確保することにあった。また唐の時代には,朝貢はするものの,冊封は受けなかった。これは唐に対して日本が自尊の感情をもっていたというよりも,当時の国際環境のなかでは,日本が唐から新羅や渤海より高い地位をもらうことはありえなかったからである。大伴古麻呂の席次争い安西北庭単于安南安東安北日本天子(皇帝)渤海ウイグルチャンパーシュリーヴィジャヤチベット突厥南詔真臘新羅百済高句麗唐の領域都護府冊封関係家父長制的関係の応用朝貢冊封体制と東アジア(唐代)    唐は周辺諸国との関係をどのように結んだのだろうか。朝貢は,中国からみれば,周辺の諸民族(夷い狄てき)が,中華の君主の徳を慕したって貢みつぎ物を献けん上じょうしに来るもので,皇帝の徳とく治ちの証明とされた。ただし,使節の接待には莫ばく大だいな費用がかかり,朝貢に対しては回かい賜しという返礼もしなくてはならなかったので,中国側が朝貢の回数を制限することもあった。牛馬をつなぐような政策という意味で,羈き縻び政策といわれた。95510152025303 隋唐帝国と東アジア |中国の冊封体制の理解は世界史でも日本史でも必須の内容だね。中国を中心とした東アジアの伝統的な国際体制を,根底にある考え方から丁寧に解説。世界史探究の内容理解が深まります。東京書籍『世界史探究』 p.95教科書 p.31探究科目の内容理解もいっそう深まります。

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