「新選歴史総合」ダイジェスト版
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25ポイント3 その先の学びへつなげる5101520清と日本がそれぞれ欧米諸国と結んだ条約の類るい似じ点と相そう違い点はどこだろうか。西洋諸国の進出は,東アジアにどのような影響を与えたのだろうか,説明してみよう。トライチェック47も南下していた。アメリカでは,捕鯨船の補給,遭そう難なん時の救助の必要に加え,西海岸領りょう有ゆうをきっかけに,太平洋を横断する対清交こう易えきへの期待が高まっていた。そこで,アメリカ政府は,ペリーを日本に派は遣けんし,1854年に日米和わ親しん条約を締てい結けつした。ペリーに少し遅れてロシア使節プチャーチンも来航し,同年に日露和親条約を締結した。 続いてアメリカ総領りょう事じハリスは,1858年,日米修しゅう好こう通商条約の締結にこぎつけた。幕府はこれに続いてオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも条約を締結し(安政の五か国条約),自由貿易がはじまった。この条約も不平等条約であったが,清と欧米の条約と異なり,外国人の国内旅行や,アヘン貿易は認められておらず,貿易は居きょ留りゅう地ち内に限定された。 開港によって,これまで日本の内部でほぼ完結していた経済が,日本列島の外部と結び付くようになった。日本からは主に生糸や茶が輸出され,欧米からは毛け織おり物もの・綿織物など工業製品が輸入された。輸出品となった蚕さん糸し業は大きく発展したが,絹織物業は生糸価格高こう騰とうの打だ撃げきを受けた。安価な綿糸・綿織物の輸入は国内の綿めん作さくに打撃を与えた一方,輸入綿糸を使用することで一部の綿織物産業は発展した。さらに,海外における金銀の価格と,国内の金貨と銀貨に含まれる金銀含がん有ゆう量りょうの違いから,海外へ金貨が流りゅう出しゅつした。これを防ぐために幕府は貨か幣へいを改かい鋳ちゅうしたが,その結果,物価が急激に上昇した。 清と日本の開港によって,東アジアには,新しい貿易のネットワークが生まれた。このネットワークの内と外で欧米商人が活動することで,東アジアの経済は世界の資本主義経済のなかへと組みこまれていった。1794~18581804~831804~78➡p.29 ■日本の輸出品(1867年)■日本の輸入品(1867年)輸出輸入生糸53.7%綿織物25.3%その他40.6%毛織物22.4%綿糸9.0%艦船 2.7%蚕種22.8%その他 6.8%茶16.7%■清の輸出品(1868年)■清の輸入品(1868年)輸入アヘン33.1%その他36.4%綿製品29.0%綿糸 2.5%輸出茶53.8%39.7%絹・絹製品その他 6.6%3清シンと日本における貿易構造 よみとり開かい港こう後の清と日本の輸出品・輸入品には,どのような特徴があるだろうか。4アヘン戦争 1841年にイギリスの軍ぐん艦かん(右奥の帆ほをたたんでいる鉄製蒸気船)が広こう州しゅう沖で清朝のジャンク船を攻撃しているようすをえがいている。実際にはイギリス軍は右端の小型ボートから砲ほう撃げきしていたが,のちにえがかれた絵の同じ箇所(下の図)では,蒸気船の優位を強調するために,ボートが消されたと考えられる。 1837年アメリカ海軍最初の蒸気軍艦の艦かん長ちょうとなり,のちに「蒸気船海軍の父」とよばれた。東インド艦かん隊たい司令長官に任命され,1853年,4隻の軍艦をひきいて来らい航こう。久く里り浜はまに上陸し,アメリカ大統領フィルモアの国こく書しょと,来航の目的を記したみずからの手紙を幕府に差し出した。その手紙には,アメリカの開国要求に応じなければ「必要ならば来春遥はるかに大なる艦隊をもって江戸に帰航せんと計画し居おれり(アメリカの目的は実現されるだろう)」と記してあった。5ペリー[1794-1858]通商章しょう程ていや虎こ門もん寨さい追加条約などをイギリスと締結した。その後,清はイギリスとの諸条約を整理して,ほぼ同内容の条約をアメリカ合衆国(望ぼう厦か条約),フランス(黄こう埔ほ条約)とも締結した。これらの条約により,清は英・米・仏3国に片へん務む的な最さい恵けい国こく待たい遇ぐうとともに,治外法権および領事裁判権を与え,また,一定の関かん税ぜい率を定めてからは,清が単独で税率を変更できないことになった(関税自主権の喪そう失しつ)。ただし,これらの条約は当時,不平等だとは意識されず,周辺諸国との冊さく封ほう・朝ちょう貢こう関係も存続した。また,イギリスの対清貿易も,イギリスが期待したほどには増大しなかった。 1856年,アロー号事件を口実に,イギリスは広こう西せいでの宣せん教きょう師し殺害事件で清に抗議していたフランスとともに清と開戦した(アロー戦争,第2次アヘン戦争)。英仏軍は天てん津しんに迫って天津条約を締結したが,その批ひ准じゅん書交換に来た英仏使し節せつの入京を清軍が阻そ止しすると,ふたたび戦せん端たんが開かれた。英仏軍は北ペキン京に攻め入り,離り宮きゅうである円えん明めい園えんを略りゃく奪だつし,清と北京条約を締結した。これらの条約により,清は,外交使節の北京常駐,天津,漢かん口こうなど11港の開港,長江などの航行権,キリスト教の内地布ふ教きょう権,外国人の内地旅行権などを認め,九きゅう竜りゅう半島の南部をイギリスに割かつ譲じょうし,アヘン貿易も公認した。この間,ロシアは清の苦く境きょうに乗じょうじて沿えん海かい州しゅうに領土を拡大した。 1861年,清は北京に開設された,英・仏・米・露の公使館との対応窓口として,総そう理り各国事務衙が門もん(総理衙門)を設けたが,その組織は高官が軍機処大臣などとの兼任者で占められるなど,非公式で臨時性の高い状態を示していた。(1844)(1844)(1856~60)(1858)(→p.198, 259写真)(1860)(→p.288)0500km芝罘北京(P)桂林金田村広州汕頭厦門香港瓊州台南福州淡水マカオ(B)長沙武昌九江杭州漢口南京鎮江西安漢中開封天津営口寧波上海太平天国軍の進路太平天国のおもな活動範囲英仏連合軍の進路南京条約の開港場天津・北京条約の開港場広西雲南貴州四川湖北江蘇福建浙江江西広東陝西甘肅山西山東直隷河南湖南安台湾治外法権は条約国民に清の司法権が及ばないこと,領事裁判権は条約国民に関する裁判を外国領事が行うことをいう。広州で米貿易に従事していたイギリスが香港船籍だと主張するアロー号(船長はイギリス人)の清人船員が海かい賊ぞくの容疑で逮捕された際に,船にかかげていたイギリス国旗が侮ぶ辱じょくされたことを口こう実じつにした(実際には香港船籍の期限は切れていた)。アヘン戦争 1841年1月,イギリス軍艦に撃げき破はされる清のジャンク型軍船。イギリス軍艦のほぼ半数が蒸気船であった。ただし,この絵のなかで実際に大砲を用いて中央の軍船を撃破しているのは,右端の小型船である。なお,のちに改変されて小型船が描かれていない絵も存在する。アロー戦争と太平天国(→p.287)図p.195, 290 アヘン戦争における清の敗北は,日本を含む周辺諸国に大きな衝しょう撃げきを与えた。武力で条約締結をせまる姿勢(砲艦外交)への警戒が各地の攘じょう夷い論や海防論,軍備強化論に結びついた。一方で,中国で編へん纂さんされた『海かい国こく図ず志し』などの世界地理書などが東アジア各地で広く読まれるようになり,近代国家建設への希き求きゅうにも結びついた。アヘン戦争の衝撃アヘン合法化アヘン戦争アヘンの国内生産化(万ポンド)15001000500018102030405060708090(年)インド産アヘンの対清輸出額の推移(加藤祐三『東アジアの近代』ほか)2712715101520254 清における開発の限界と二つのアヘン戦争 |これらの仕組みが先の学びにもつながるんですね。❸本文:近現代史の大きな流れをわかりやすく記述。探究科目での深い内容理解へとつながります。東京書籍『世界史探究』 p.271教科書 p.46-471日々の学びが,探究科目の土台に世界史探究へ❶❸

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