「新選歴史総合」ダイジェスト版
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2451015202章 2節 結び付く世界と日本の開国ペリーは日本にやってくるにあたり,実物の約4分の1の大きさの蒸じょう き気機関車の模型や,電信機などを持参して,日本人を驚おどろかせたよ。欧米がやってきた!619世紀の東アジアと西洋諸国はどのようなかかわりがあったのだろうか。東アジア国際関係の変化と日本の開国46東アジアの国際秩ちつ序じょの変化イギリスはアヘンを清シンに輸出していたが,清がアヘン貿易取りしまりの方針を打ち出したことに反発し,1840年,アヘン戦争が勃ぼっ発ぱつした。軍事力で優位に立つイギリスは,清軍を破り,1842年に英清間で南ナン京キン条約が結ばれた。これによって清は広こう州しゅうに加え,上シャン海ハイなど全5港の開かい港こうを認め,また香ホン港コン島をイギリスに割かつ譲じょうした。 ついで,1856年には,英・仏両国と清との間にふたたび戦争がおき(アロー戦争),清は1858年の天てん津しん条約,1860年の北ペキン京条約で,開港場の増加と,公こう使しの北京常じょう駐ちゅう,貿易の自由化,外国人の内地旅行などを認めた。これらの条約は清の関かん税ぜい自主権を認めず,領りょう事じ裁判権や最さい恵けい国こく待たい遇ぐうを一方的に欧米諸国に与える不平等条約であった。清への輸入品はアヘンと綿めん製品が中心で,清からはおもに生き糸いとと茶が海外市場へ輸出された。 これと並行して,1851年から,民衆反乱である太たい平へい天てん国ごくの乱が清国内に広がった。その鎮ちん圧あつにあたっては,地域社会の住民が武ぶ装そうして自じ衛えいしたり,地方官僚が独自の軍隊を組織したりして,これがのちの清の軍備増強の背景となった。日本の開国と開国後の社会の変化一方,太平洋では,19世紀前半にはイギリスやアメリカ合衆国の捕ほ鯨げい船の活動が活発となっていた。また,サハリンや千ち島しま列島には,ロシアの勢力1アメリカの捕ほ鯨げい船数と太平洋における捕鯨漁場数2太平洋航路の開設14001200100080060040020007006005004003002001000(隻)(箇所)1806~101811~151816~201821~251826~301831~351836~401841~451846~501851~551856~601801~05捕鯨船の数(左軸)捕鯨漁場の数(右軸)■アヘン戦争~アロー戦争の諸条約こう         しゅうこう こうホン コンぼっ しゅうへん むかん ぜいりょう じさい けい こくペ キ ンじょうちゅうない ちひ じゅんきゅうりゅうほ しょうばい  しょうかつ じょうシャン ハイ南京条約 1842年,対イギリス広州,上海など5港の開港公行の廃止香港島の割譲没収アヘンの補償,軍事賠償片務的領事裁判権協定関税片務的最恵国待遇ナン キン五港通商章程,虎門寨追加条約 1843年,対イギリスしょう ていこ もん さい外交使節の北京常駐キリスト教の公認と保護外国人の内地旅行権開港場の増加と貿易の自由イギリスとフランスへの賠償金支払い天津条約 1858年,対イギリス,フランス,アメリカ,ロシア天津条約の批准交換賠償金の増額天津の開港九竜半島の一部をイギリスに割譲北京条約 1860年,対イギリス,フランスてん しん資料1や2をもとに,なぜアメリカ合衆国が日本に開国を求めたのか考えてみよう。よみとり不平等条約このページのキーワードこのページのキーワード江戸モントレーワシントンニューヨークニューオーリンズ上海広東日本清ロシアアメリカ合衆国カナダパナマハワイ諸島近代社会の幕開け第章1開国と開港どのような経緯で,日本は世界の経済のなかに組みこまれていったのだろうか。第4編 近現代の地域・日本と世界188 アヘン戦争 イギリス軍艦(右奥)に砲撃される中国のジャンク船(中央)。❶ 太平洋で活発に活動していたアメリカやイギリスの捕ほ鯨げい船などが,食料や水・燃料を求めて日本に上陸するなどの事件がたびたびおこり,幕府は沿岸諸藩はんに,外国船の監かん視しを強め,船が接近した場合には追い返すことを命じた[➡p.180]。あいぐん1661151016391877168618861819188715571842185815711898マドラス(英)(ポ)(ポ)サイゴンシンガポールマカオ香港上海南京長崎浦賀(   アメリカ)根室ウラジヴォストク愛琿カルカッタゴアボンベイ北京フィリピンイギリス領インドイギリス領ビルマフランス領インドシナイギリス領マレーロシア領(英)イギリス領フランス領スペイン領オランダ領(ポ)ポルトガル領ペリーの航路 数字は領有年日本シャムロシア清朝鮮→→→→→→→→01000km 欧米列強のアジア進出 19世紀に入ると,イギリスはインド,ビルマ,マレーなどに進出した。1792180418081825家斉ラックスマン根室来航レザノフ長崎に来航フェートン号事件異国船打払令18371842184418461853家慶モリソン号事件天保の薪水給与令オランダ国王開国勧告ビッドル浦賀に来航ペリー浦賀に来航プチャーチン長崎来航185418561858家定日米和親条約調印ハリス下田に着任日米修好通商条約調印 列強の接近 18世紀後半のイギリスにつづき,19世紀には西ヨーロッパの国々やアメリカ合衆国でも産業革命がおこり,資本主義の社会は広がりをみせた。これらの国々は列れっ強きょうとよばれ,その経済力や軍事力を背景に,海外の市場や原料・資源の獲得をめざして,しだいにアジアに進出してきた。 イギリスは,アヘン戦争の勝利によって南ナン京キン条約を結び,清しんを開国させ,香ホン港コンを獲得したほか,上シャン海ハイなど5港を開港させた。この情報をえて危機感を強めた幕府は,1842(天てん保ぽう13)年に従来の外国船を打ち払う方針 をあらため,燃料や食料を求める外国船にはこれをあたえることにした(薪しん水すい給きゅう与よ令れい)。しかし,幕府は1844(弘こう化か元)年にオランダ国王が親書を送って開国をうながす勧かん告こくをしても,これを拒否し,新たに国交を結んだり通商を行ったりはしないという従来の対外方針を変えなかった。列強の東アジア進出1840~421842➡p.183❶➡p.139510NSTK_188_197_4C.indd 1882021/12/24 16:06❷問い:日本と世界の動きを一体的にとらえる視点からの問いは,探究科目でも求められる多面的・多角的な見方・考え方を育てます。❶資料:多種多様な資料をもとに身につけた資料活用能力は,探究科目でも大きな力を発揮します。東京書籍『日本史探究』 p.188その先の学びへつなげるPoint3日本史探究へ❶❷❸

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