「新選歴史総合」ダイジェスト版
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13ポイント1 基礎・基本からサポート51015相互間の貿易品を矢印などで整理してみよう。₁₈世紀の東アジア諸国は,どのような経済発展をとげたのだろうか,説明してみよう。トライチェック29過か密みつな地域から,四し川せんや雲うん南なんなどの辺へん境きょうへ移住したり,東南アジア方面へ移い民みんしたりする者(華か僑きょう・華か人じん)も多数あらわれた。ただし,辺境の急激な開発は環境破壊とともに災害をまねきやすく,また生活も困難であった。社会不安が高じた結果,新開発地などで民衆の反乱がおこった。日本の「鎖さ国こく」と貿易・経済江戸時代の日本では,17世紀以来,キリスト教布教や外国人の入国,日本人の出入国が禁じられ,海外との交流は厳きびしく制限された。中国・オランダとの貿易は幕府の管理する長崎に限定され,朝鮮・琉球・アイヌとの貿易はそれぞれ対つしま馬藩はん・薩さつ摩ま藩・松まつ前まえ藩にゆだねられた。この体制を,一般に「鎖国」とよぶ。 17世紀後半以後幕ばく府ふは,金銀の流りゅう出しゅつを防ぐため貿易額を制限し,銅,ついで蝦え夷ぞ地産の海産物の輸出を奨しょう励れいした。また,輸入に頼たよっていた朝鮮人にん参じんや高品質な生糸などを,国内で生産する試こころみも本格化させていった。国内の商業経済が活発になる一方,災害の頻ひん発ぱつや格差の拡大など,社会の動どう揺ようがしだいにあらわになった。 18世紀後半以降,ロシア・イギリスなど欧米列強が日本に接近しはじめると,幕府は危機感をつのらせ,対外政策の見直しをせまられることとなった。 18世紀なかばから19世紀末にかけて,蝦夷地(北海道)~日本海沿岸~瀬戸内~大坂(大阪)を日本海経由・西廻まわりで結んだ北陸の廻かい船せん(商船)を,北前船とよぶ。 蝦夷地方面へは米や綿わた,反たん物もの,たばこ,稲わらなどの日用品・嗜し好こう品ひんや各地の特産品を運び,大坂方面へはニシン・サケ・昆こん布ぶなど蝦夷地の産物を積みこんだ。北前船の積荷は,船せん頭どうが各港で買いとってのせるものだったので,船頭の才さい覚かくで売買を行い利益をあげた。 積荷のニシンやサケ,マスからつくった〆しめ粕かすは,農業用の肥料とされた。また,昆布やナマコ,アワビなどの海産物は,長崎や鹿児島・琉りゅう球きゅうへもたらされ,中国にさかんに輸出された。北きた前まえ船ぶねと蝦え夷ぞ地8日本の貿易関係と海外情報収集ルート 江戸時代の日本は,松前・対馬・長崎・薩摩の4か所を通じて海外と貿易し,また国際情報を収集した。樺太江戸黒竜江(アムール川)山松前藩長崎蝦夷地対馬藩清朝鮮琉球摩藩オランダ400km0江差松前十三湊八戸能代酒田石巻新潟直江津江戸伏木敦賀堺大坂宮津境浜田広島馬関室積多度津琴平河野箱館小浜加賀200km05江戸時代の主要航路華か僑きょう・華か人じん 華僑とは,移住後も中国の出身地と関係を維い持じする人をさす。華人は,華僑および移住先で現地民化した人をふくめた中国系住民の総そう称しょうとして用いられる。 オランダ商館付医者として1823年に来日し,多くの日本人に医療や教育をほどこしたほか,動植物標本の収集に力を入れた。約6年日本に滞在し,帰欧後に『日本植物誌』『日本動物誌』『日本』などを刊行した。これらの著作は欧米の人たちにとって「鎖さ国こく」体制下の日本を知る貴き重ちょうな参考資料の一つとなった。開国後の1859年にふたたび来日したが,その前後には欧米諸国と日本の人々に数多くの助言を与えた。6シーボルト[1796-1866]7アメリカにわたる船につめこまれた中国人労働者ステップ・バイ・ステップで歴史理解を深めるぞ。チェック簡潔な問いを通して,学習内容をふり返ります。用語解説大切な用語を丁寧に解説しています。トライさらに理解を深める問いを提示しました。段階的な問いかけが,思考を支えます。

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