「新選歴史総合」ダイジェスト版
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125102章 2節 結び付く世界と日本の開国長崎の出島は復元が進んでいて,カピタン部屋や各種の蔵くらなど当時の姿をしのぶことができるよ。貿易は,決められた場所で!118世紀の東アジアはどのような国際関係をきずいたのだろうか。18世紀の東アジア貿易・限定このページのキーワードこのページのキーワード28清シンの統治体制と国際関係女じょ真しん(のちの満まん洲しゅう)の王朝である清は,伝統的な華か夷い秩ちつ序じょを意識して周辺諸国の朝ちょう貢こうを受け入れたが,日本や東南アジア島とう嶼しょ部の人々,イギリスなどヨーロッパ勢力に対しては朝貢関係や儀式・儀礼にはこだわらず,商人どうしの貿易を認めた。清の冊さく封ほうを正式に受けた国は朝鮮・琉りゅう球きゅうなど数か国にとどまった。 18世紀なかばになると,キリスト教の布ふ教きょう禁止や治ち安あん維い持じの目的から,清はヨーロッパ勢力との貿易の場を広こう州しゅうに限定した。ヨーロッパ商人は広州で中国産の茶や生き糸いとを大量に仕入れはじめたが,満足のいく取り引き量にはなかなか達せず,また産地や原価の情報などが隠かくされたために,不満をつのらせていった。清代の経済発展とほころび長ちょう江こうの中・下流域では海外向け主力輸出品である茶や生糸,綿めん布ぷなどの産業が発展し,18世紀には空前の好景気をむかえた。蘇そ州しゅう・寧ニン波ポーなど人口1636~1912結び付く世界と日本の開国2節4清代の東アジア 寧ニンポー波や福ふく州しゅう,厦アモイ門,広州などは,諸外国の朝ちょう貢こう使節や貿易船を受け入れる港であったが,同時に,中国の商人が海外貿易に出るための窓口でもあった。キャフタ条約(1727)による境界ネルチンスク条約(1689)による境界黒竜江ラサ漢城江戸広州カシュガルデリーコータンイリ厦門福州武昌北京盛京愛琿キャフタネルチンスク成都西安寧波蘇州天津シ ベ リ ア台湾四川雲南貴州回部広西ウリャンハイハルハチャハルジュンガルチベットルソン日本ロシア帝国ムガル帝国マラータ同盟ビルマベトナムシャム琉球朝鮮清清の直轄地清の藩部清への朝貢国2000km01釜プサン山の倭わ館かん 朝鮮との貿易を独どく占せんした対つしま馬藩はん関係者の居きょ留りゅう地ち。17世紀はじめに朝鮮が開設したのち,17世紀後半に移転・拡大した。広さはもとの面積の10倍の約33万m2となった。2長崎の出で島じまと唐とう人じん屋敷 出島(右下,1万3千m2)は,17世紀前半以降オランダ商人の居留地とされ,唐人屋敷(左上隅,約3万m2)は,17世紀後半,それまで市中で雑ざっ居きょしていた華人(中国人)商人を囲い込むためにつくられた。3広こう州しゅうの商館(ファクトリー) 18世紀なかば,ヨーロッパ勢力との貿易のために清シンが設置した13棟の商館群(敷地全体で約6万m2)。貿易の期間のみ滞たい在ざいが認められ,長期の滞在はポルトガル人居留地のマカオで許された。18世紀の中国は,朝鮮・日本と同様に,特定の場所に商しょう館かんを設置し,そこに外国人を滞在させて貿易を行った。なぜこのようなしくみが必要だったのだろうか。よみとり世界が近代化に向かって大きく動いた18世紀から19世紀に、諸地域やそれらの関係はどのように変化したのだろうか。「なぜ?」から出発する,2ページの冒険ですね。節の問い単元を通して考えたい問いを提示しています。メイン資料Qに関連する資料を読み取りのポイントとともに提示しています導入のQ(クエスチョン)この項の中心的な問いです。これが,「考える歴史学習」のしくみ3

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