「詳解歴史総合」ダイジェスト版
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49❶条約では,この3港に続いて,兵庫(神戸),新潟を開港することなどが定められていたが,両港の開港は1868年まで遅れた。芝罘北京桂林金田村広州汕頭厦門瓊州台南福州淡水(P)マカオ香港(B)長沙武昌九江杭州漢口南京鎮江西安漢中開封天津営口南京条約の開港場太平天国軍の進路太平天国の活動範囲英仏連合軍の進路天津・北京条約の開港場寧波上海(B)イギリス領(P)ポルトガル領0500km■ 4太たい平へい天てん国ごくとアロー戦争 南ナン京キン条約の開港場と天てん津しん条約・北ペキン京条約の開港場を比較してみよう。■ 3アヘン戦争 1841年にイギリスの軍ぐん艦かん(右奥の帆をたたんでいる鉄製蒸気船)が広こう州しゅう沖で清シンのジャンク船を攻撃している様子を描いている。実際にはイギリス軍は右端の小型ボートから砲撃していたが,のちに描かれた絵の同じ箇所(右の図)では,ボートが消されたと考えられる。ボートはなぜ消されたのか考えてみよう。■ 5琉球の守しゅ礼れい門もんでのペリー一行 1853年,ペリーは浦うら賀が来航に先立ち琉球をおとずれ,翌年,琉球国と琉りゅう米べい修しゅう好こう条約を結んだ。■日本の開国と開国後の社会の変化 一方,目を太平洋に転じると,19世紀前半にはイギリスやアメリカ合衆国の捕ほ鯨げい船の活動が活発となっていた。この背景には,産業革命にともなう照明用鯨げい油ゆの需じゅ要よう増大があった。また,樺から太ふと(サハリン)や千ち島しま列島には,ロシアの勢力が南下していた。 19世紀初期の江え戸ど幕府は,これら外国船に対して打ち払いの方針で臨んでいたが,アヘン戦争の報が日本に伝わると,危機感をつのらせて方針を転換して薪しん水すい給きゅう与よ令を発し,海防強化のために幕府権力の強化策をとろうとした(天てん保ぽうの改革)。しかし,改革は国内勢力の反発により失敗に終わった。 太平洋対岸のアメリカでは,捕鯨船への補給,遭そう難なん時の救助の必要に加え,カリフォルニアを領有したことをきっかけに,太平洋を横断する対清交易への期待が高まり,日本への使節派遣の動きが生まれた。これを受けてアメリカ政府は,東インド艦かん隊たい司令長官ペリーを日本に派遣した。ペリーは1853年,浦うら賀がに来航し,翌年には日米和親条約を締結した。ペリーに少し遅れてロシア使節プチャーチンも長崎に来航し,1854年に日露和親条約が締結された。 日米和親条約にもとづいて来日したアメリカ総領事ハリスは,1858年,日米修好通商条約の締結にこぎつけ,幕府は続いてオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様の条約を締結した(安あん政せいの五か国条約)。翌年,条約にもとづいて横浜,箱はこ館だて,長崎の3か所が開港され,自由貿易がはじまった。安政の五か国条約も不平等条約であったが,清と欧米の条約と異なり,外国人の国内旅行や,➡p.51❶5101520『詳解歴史総合』から問い:日本と世界の動きを一体的に捉える視点からの問いは,探究科目でも求められる多面的・多角的な見方・考え方を育てます。「世界史探究」へ27Point 3入試・探究に対応する力を「つける」先の学びにつながる,さまざまな仕組み。教科書p.48〜49東京書籍『世界史探究』p.271

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