「詳解歴史総合」ダイジェスト版
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地 域 の 歴 史現在のパレスティナは,イスラエル,およびパレスティナ自治区(ヨルダン川西岸地区とガザ地区)をふくむ領域であるが,歴史的なパレスティナは,その周辺をふくむより広い領域をさす。そこにはかつて,他の民族とともにユダヤ教を信仰するユダヤ人が居住し,イェルサレムは歴代王国の中心都市として繁栄した。紀元1世紀にパレスティナをローマ帝国が支配すると,ユダヤ人は次第に迫害の対象となり,多くがヨーロッパなど各地に離散した。信仰の中心であったイェルサレム神殿も破壊されたが一部の外壁が残り,現在「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の礼拝の場となっている。キリスト教が公認されたローマ帝国では,イエスが没したイェルサレムはキリスト教の聖地となった。また7世紀にイスラーム勢力がパレスティナを支配すると,預言者ムハンマドがイェルサレムから天にのぼったという伝承にもとづき,ここはイスラームでもメッカ,メディナにつぐ聖地とされた。こうして三つの宗教の聖地となったイェルサレムを擁ようするパレスティナは,16世紀以降オスマン帝国の領土となった。オスマン統治下では,ユダヤ教徒とキリスト教徒にも一定の自治とともに信仰が保障されたため,パレスティナで大きな紛争はおこらなかった。ユダヤとアラブが対立する「パレスティナ問題」があらわれたのは20世紀に入ってからである。19世紀後半,ヨーロッパのユダヤ人を中心に,故地にユダヤ国家建設をめざすシオニズム運動が高まり,パレスティナへの移住がはじまった。ユダヤ人は第一次世界大戦時のバルフォア宣言により,戦争協力と引きかえにイギリスからユダヤ人居住地(ナショナル・ホーム)建設支援の約束を取りつけると,大戦後,イギリス委任統治領パレスティナとして設定された現在のパレスティナの領域に次々に移住し,国家建設に向けた動きを見せた。そのため,「パレスティナ人」とよばれるようになった現地のアラブ人との間に緊張が高まり,衝突が生じた。第二次世界大戦後の1947年,国連総会で,この地をアラブとユダヤの2国家に分割するパレスティナ分割決議が採択された。人口比よりも多くの領域をユダヤ人に与えるこの決議にアラブ側が強く反発して内戦となるなか,ユダヤ人たちは1948年にイスラエルの建国を強行し,第1次中東戦争が勃ぼっ発ぱつした。この過程で大量のパレスティナ人が居住地を追われて難民となった(パレスティナ難民)。「ナクバ(大災さい厄やく)」とよばれるこの出来事のあと,アラブ諸国はイスラエルと四度の戦争を行うが,イスラエルはこれらの戦争を通じてパレスティナのアラブ人地域を占領し,占領地への積極的な入植を進めるなどして実効支配を強めた。1964年,パレスティナ人を代表する抵抗運動組織としてパレスティナ解放機構(PLO)が結成された。1969年に議長に就任したヤーセル・アラファトは,PLOをパレスティナ唯一の代表として国際的な承認を得ることに尽力する一方,武力闘争による占領からの解放をめざした。アラファトは1987年にはじまったパレスティナ人によるイスラエルへの抵抗運動(インティファーダ)を支援したが,冷戦終結後は平和共存路線に転換し,1993年にイスラエル側とパレスティナ暫ざん定てい自治協定(オスロ合意)を結んだ。この協定によりパレスティナ人国家建設の可能性が生まれたが,その後和平を推進したイスラエルのラビン首相がユダヤ教右派に暗殺され,パレスティナ側でも,イスラエルに対し強硬な姿勢を取るハマースが民衆の支持を得て台頭し,交渉は挫ざ折せつした。ヨルダン川西岸地区内に高い分離壁を建設して囲いこみを行い,支配領域の拡大と固定を試みるイスラエル政府に対して,パレスティナ人はテロなどの手段で抵抗し,イスラエル側もそれに報復するなど,両者の衝突は継続しており,和平実現の道筋は見えていない。➡口絵6➡口絵61929-2004➡p.201■4■1イスラエル軍兵士に抗議するパレスティナ人学生(2005年,ヨルダン川西岸地区)パレスティナ問題177510152025今に至るまでの歴史的な背景を,丁寧に説明します。中南米の多様性アフリカの分割と自立バルカン問題と第一次世界大戦太平洋・オセアニアの歴史東南アジアの独立運動パレスティナ問題6375107117151177タイトル掲載ページ〈地域の歴史〉 掲載箇所21Point 2資料をもとに近現代史を「考える」Point 2 資料をもとに近現代史を「考える」❹ 地域の歴史に関わる課題を,じっくり解説教科書p.177

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