「詳解歴史総合」ダイジェスト版
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「イスラーム」とはアラビア語で,すべてを神(アッラー)にゆだねることを意味し,イスラーム教徒(ムスリム)は,神の言葉が記された啓けい典てん「クルアーン(コーラン)」などにもとづくイスラーム法(シャリーア)のもとで行動することが求められる。イスラーム法は社会や国家のあり方なども規定しているため,イスラームは,心の救いを求める通常の宗教をこえるものとして理解される。7世紀初頭のアラビア半島で,ムハンマドによりはじまったイスラームは,ムハンマドの死後,その出身のクライシュ族から選ばれた者が,後継者である正統なカリフ(代理人)としてイスラーム教徒の共同体(ウンマ)を政治的にまとめた。4代目カリフのアリーが殺され,ムアーウィヤが属するウマイヤ家がカリフ位を世せ襲しゅうするウマイヤ朝が成立すると,その権威を認めない勢力があらわれ,シーア派とよばれた。ウマイヤ朝滅亡後アッバース朝が成立するが,やがてアッバース朝カリフの権威を認めず自らカリフを名のる王朝が出現し,理念的には政治的に統一されるべきウンマの分裂は決定的となった。アッバース朝では有力軍人が権力を握り,カリフは次第に実権を失ってその支配は名目的なものとなった。11世紀にバグダードに成立したセルジューク朝の支配者は,カリフから「スルタン」の称号を得て,世せ俗ぞくの権力者として大きな力を持った。このように,カリフは政治的実権をかなりの程度失ったものの,理念的にはムハンマドの後継者としてウンマを指導する立場であり続けた。そのためカリフはその後,王朝支配の正当性を示すために利用された。アッバース朝滅亡後,カリフはカイロでマムルーク朝の保護を受けた。そのため,カリフを擁ようし,メッカとメディナの二つの聖地を支配するマムルーク朝は,イスラーム世界の盟主としてふるまった。一方,イスラーム世界と異教徒の世界との関係については,中国の華か夷い秩序と同様,対等な関係は想定されなかった。16世紀はじめにマムルーク朝を滅ぼし,両聖地をふくむ広大な領域を支配したオスマン帝国もこのような秩序観にもとづき,非対等を前提としてヨーロッパ諸国と関係を結んだ。イスラーム的秩序観と現実が一致していたオスマン優位の時期,スルタンは,特にカリフの地位を強調することなくイスラーム世界の中心的な存在としてふるまった。しかし18世紀後半にロシアの圧迫を受け劣れっ勢せいに立たされるようになると「カリフ」の称号が持ち出され,対ヨーロッパ外交に関しても,理念的には非対等の建たて前まえをつらぬきながらも,実質的にはヨーロッパの国家間システムにとりこまれ,そのなかで勢力を後退させた。19世紀後半,アブデュル・ハミト2世は,ヨーロッパ諸国に対抗すべくイスラーム教徒の団結を訴えるパン・イスラーム主義を唱えるなかでカリフの称号を用いたが,十分な成果はなく,第一次世界大戦後オスマン帝国は崩壊し,ムスタファ・ケマルによりカリフの称号は廃止された。■1装そう飾しょくされた「クルアーン」の写本■316世紀の条約文書 19世紀にヨーロッパ諸国の特権を定めた不平等条約として知られるカピチュレーションも,もとは劣おとったヨーロッパ諸国に対し恩おん恵けいとしてオスマン皇帝が与えた権利であった。■210世紀なかごろのイスラーム世界2000km0カ ス ピ 海地中海黒 海アラル海アラビア海コルドバカイロダマスカスバグダードイスファハーンブハラベラサグンサーマッラークーファコンスタンティノープル756~1031750~1258932~1062875~999940ごろ~1132909~1171後ウマイヤ朝ファーティマ朝アッバース朝ブワイフ朝サーマーン朝カラ・ハン朝ビザンツ帝国チュニジアイスラーム世界におけるカリフと秩序前近代の世界─❸22 前近代の世界5101520253035中学校までの学習では触れることが少ないイスラーム世界。近現代史で重要になる中東の歴史の基礎となる部分を押さえます。ほかに「日本の幕藩制社会と身分制」「ヨーロッパにおける主権国家体制の形成」「世界をめぐる銀の流れ」を取り上げています(全5テーマ)。15Point 1詳しい記述で歴史の流れを「つかむ」重要トピックを深く知る〈前近代の世界〉。

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