上智大学教授池田真

―ロンドンから日本の教育を考える (2)―
「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」の大切さと難しさ

 ロンドンは楽しく心地よく暮らせる都市である。その要因を思いつくままに列挙すると,歴史的建造物や統一された街並み,緑滴る広い公園や庭園,世界有数の博物館や美術館や劇場,魅力ある無数のレストランやパブやショップなどなど,文化的生活を享受するための要素がすべてそろっている。
 18世紀の文人サミュエル・ジョンソン博士が「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者である (When a man is tired of London, he is tired of life.) 」と言ったのはつとに有名であるが,たしかにロンドンには誰をも魅了する条件がそろっている。

 だが,私自身にとっては,そのような生活環境の豊かさ以上に,人の暖かみにロンドンの居心地の良さを感じる。これだけの大国際都市でありながら,特に東京に比べると,ロンドンに暮らす人々には心の余裕がある。
 地下鉄では,お年寄りだけでなく小学校低学年くらいまでの子供ならばまず席を譲ってもらえるし,ベビーカーで階段を昇り降りする際には周囲の何人もの人たちが運んでくれる。
 そして何よりも,知らない人同士の対話がある。スーパーのレジでもクリーニング店でもパブでも,混んでいない時には,お店の人が話しかけてくる。二言三言,何気ない言葉を交わすだけであるが,心的交流が生まれ,心が温かくなる。
 こういうこともある。私事で恐縮だが,私の妻はロンドン中心部に着物で頻繁に出没する。すると,道でも駅でも車内でも,どんどん声をかけられる。ある時など,「そのコスチュームがとっても素敵 (absolutely stunning) と伝えたくて」とわざわざ追いかけてきた人もいた。その光景を目にした時,ふと脳裏に浮かんだのが,「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」という学習指導要領の文言である。

 ご存知のように,小学校学習指導要領(外国語活動)は,「コミュニケーション能力の素地」を養う手段として,「言語や文化についての体験的理解」や「外国語の音声や基本的な表現への慣れ親しみ」と並び,「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成」を掲げている。それは,同解説によると,次のように説明されている。

コミュニケーションへの積極的な態度とは,日本語とは異なる外国語の音に触れることにより,外国語を注意深く聞いて相手の思いを理解しようとしたり,他者に対して自分の思いを伝えることの難しさや大切さを実感したりしながら,積極的に自分の思いを伝えようとする態度などのことである。現代の子どもたちが,自分の感情や思いを表現したり,他者のそれを受け止めたりするための語彙や表現力及び理解力に乏しいことにより,他者とのコミュニケーションが図れないケースが見られることなどからも,コミュニケーションを図ろうとする態度の育成が必要であると考える。

 これは確かに大事なことで,伝統的な日本の英語教育では,言語知識(語彙・発音・文法・談話)や言語技能(聞く・話す・読む・書く)という,元来は手段であるはずのものばかりに注意が向かってしまい,本来の目的であるコミュニケーションそのものへの関心は,学習者の中に自然に備わっているものとして,意識的に取り上げることはなかった。以前,ある授業研究会の講評で,「これからの英語教育では,目や耳や口や手だけでなく,心を育てることが大切だ」と発言された先生がいらしたが,言いえて妙だと思う。

 日本人の英語コミュニケーション力が総じて低いのは,言語的要因(英語と言語構造が異なる),歴史的要因(英語国の一部になったことがない),地理的要因(他言語話者との接点が少ない),環境的要因(学校外で英語に触れない),社会的要因(仕事や生活で英語が必要ない),教育的要因(文法訳読による受験型指導)などが複雑に複合的に絡み合っているからだろうが,この心理的要因(英語でのコミュニケーション回避)も大きい。それが端的に現れているのが,英語国の駐在員コミュニティーである。
 一般に,英語国に住めば誰もが英語が上達すると思われているが,それは誤解である。説明のため,父,母,中学生,小学生の4人で構成される家族が父親の転勤によりイギリスに赴任するケースを想定してみよう。父親はロンドンにある日本企業のオフィスに出勤し,母親は家で家事をまかない,子供たちは現地の学校で学ぶとする。このうち,数年後の帰国時に劇的に英語が身についているのは,子供たちだけであろう。
 なぜならば,父親の仕事の多くは(企業や職種によって異なるが)日本語で行われ,母親の交友関係のほとんどが他の駐在員妻に限られるのに対し,子供たちは,俗に言う‘sink or swim’(沈むか泳ぐか)という,大量の英語にさらされ,英語で物事を全て理解し,英語で意志や考えを伝えざるを得ないサバイバル環境に置かれるからである。
 卑近な例で言うと,私の母は父の仕事の都合でニューヨークに4年住んだが,同上の理由により英語がまったくできない(私を生んだ頃に暮らしたサンパウロでは生活のためにポルトガル語を使わざるを得なかったため,今でも多少は話せる)。
 また,今住んでいるロンドン北部には多くの日本人駐在員が住んでいるが,ほぼ全員と言っていいほど,英語が上達しない。もちろん,この機会に英語を何とかしたいとか,より英国生活を楽しむために会話力を伸ばしたいという潜在的欲求はある。近所の教会が提供している日本人対象の英語教室は満員だし,日本語のコミュニティー誌には英会話学校や英語の家庭教師の広告が踊っている。それも無駄ではないだろうが,それよりも近所のお年寄りたちと日常的に話した方がよほど手軽で経済的で実践的と思われるのだが,例の心理的要因が邪魔をして,せっかくの英語習得の機会を逃している。
 在英5年のある方などは,「わたし,外人(筆者注:発言通りの表現)は苦手なんです」と公言するほどである! イギリスで「外人」はどちらなのだろうかという素朴な疑問はさておき,「心」を育てなかった教育のつけがそういう形で出てしまう。
 ゆえに,「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」の育成は,英語教育の最重要課題と言ってもよいのだが,その達成にはまたしても,国民性やら歴史的経緯やら社会環境やらが複雑に絡んでいて,一筋縄ではいかない。

 日本人の英語コミュニケーションに関連して,今回の英国生活でもうひとつ気づいたことがある。それは,一回当たりの発話量(質問に対する返答や物事の説明など)が,ネイティブスピーカーと比してはもちろんのこと,他の非ネイティブの人たちと比べても,極端に短いのである。
 語用論(対話での意味のやり取りを扱う研究分野)の基本理論に,「会話の原理」(conversational maxims)というのがある。簡単に言うと,スムーズな会話が成り立つには,

①量(十分な情報量を与えるが必要以上の情報は与えない),
②質(間違っていると思うことや根拠が薄弱なことは言わない),
③関連(関係のあることを話す),
④様式(曖昧さを避け簡潔かつ順序よく話す)

という4つの原則を話者が守らなければならない,というものである(現実には意識的ないし無意識にこれらの条件が満たされず,その結果としてミスコミュニケーションが生じる)。
 このうち,私自身も含め,一般的な日本人は何かを英語で語る際に,①の必要とされる情報量を満たしていないことが多い。その主たる原因が英語の語彙力や表現力の不足にあるのは確かだが,それだけでなく,どの科目の授業でも教師の問いに対して簡潔に答えることが求められるのも一因ではないかと私には思われる。というのも,北京で小学校の算数の授業を視察した際,児童がとうとうと解法を説明し,教師や他の児童がじっと耳を傾ける場面を見たことがあるからだ。また,イギリスでもヨーロッパ各国でも,教科に関わらず,生徒の発話量が少ないと,教師がより詳細に説明するように仕向ける姿を何度も目の当たりにした。

 結論として申し上げたいことは,「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」や「英語での円滑なコミュニケーションに必要な一定量の情報量の産出」は,英語の授業だけで達成できるものでなく,全教科での言語コミュニケーション力そのものを伸ばすことにより育成できるものであるということだ。
 現学習指導要領での「全教科での言語活用」に加え,新学習指導要領におけるアクティブ・ラーニング型の授業により,日英両言語でのコミュニケーションの意欲と効果が高まることを期待したい。

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