上智大学 名誉教授笠島 準一

生徒の見方,教師の見方

 催眠術ではどのようなことができるのだろうか。子供時代に戻って,初めて英語に接したり新しい表現を学んだりしたときの自分に戻してもらえるのだろうか。もしできるのなら,そのときの気持ちを糸口にして,教師としてどのような指導をすればよいのかを考えたいと思うことがある。

 催眠術にかからない状態で思い出してみることにする。小学生時代,休憩時間に聞いたある英語は鮮明に覚えている。当時は小学校で英語は学ばなかったのだが,ひょうきんな男子生徒が英語で話していた。その英語は,

 Sit down. I am a boy.

 半世紀,50年以上前の日本の小学生でもstand upやsit down,I am a boy.くらいの英語は知っていた。その男子生徒が言いたかったのは,「そこの君,座れ」だった。

 当時の私には,その英語が正しいかどうかを判断することができなかったと思う。恐らく,なるほど英語はそのように言うのかと思ったような気がする。一笑に付されてしまうエピソードだ。

 でも笑い話で終わらせてしまうにはもったいない気がする。もしかすると,英語を学んだ経験のない子供,学習者はこのような考えをしているのかもしれない。そこで教師としての大人目線からではなく,できるだけ学習者目線に立ち戻ってみようと考えた。興味をもった内容を思い出し,その後で教師目線でその内容を利用してみたいと考えた。

 最初に思い浮かぶのは太陽の色だ。

 The sun is yellow.

 日本語では真っ赤に燃える太陽だけど,英語では黄色に燃えている。なぜ同じ太陽が異なる色に見えるのかが不可解だった。でも生徒としてはただ聞くだけで,そのようなものだと考えておくしかなかったと思う。

思い出を教師目線で利用すると

 黄色い太陽は言葉だけの説明だったのだが,視覚的な資料もあればもっと興味深かったと思う。当時は外国で描かれた太陽の絵を見つけるのは容易ではなかったはずだ。でも今ではインターネットで検索すれば例は見つかる。先生が最初に黄色で描かれた太陽の絵やイラストを見つけて,そこから関心を引き出して指導を進めることができる。あるいは先生が先に見つけて示すのではなく,生徒に英語では太陽は何色かを調べさせることもできる。

 この話題をもう一歩進めたい。言語が異なると考え方も異なるのだろうか。言語は文化や思考に影響を与えるとするサピア=ウォーフの仮説は有名だ。日本では7色の虹でも文化によって色の数が異なることや,雪の多いエスキモー文化では雪を表すことばが多いことなどはよく聞く例だろう。さて,この仮説の妥当性は別にして,言語によって認識や思考が異なる可能性は興味深い。

 この仮説に関しては様々な観察や実験がなされているのだが,実験方法の一つに文章完成法がある。例えば,アメリカに住んでいて堪能な英語を話す日本人女性に,次のような未完成文を提示したとしよう。

 (1) 自分の希望が家族の希望と対立する時は ______

 (2) When my wishes conflict with my family’s, ______

 このような文に対し,日本語の場合,その内容はit is a time of great unhappinessだった。しかし同じ被験者であっても英語の場合は I do what I wantだった(Ervin-Tripp)。

 経験的にはアメリカの大学に留学中,日本語を専攻しているある女子学生は日本語で話すときには仕草まで日本人のようにおしとやかに振る舞っていたのを思い出す。

 日本人の小学生はジェスチャーは真似をするかもしれないが,言語の違いで考え方まで変わることは想像しがたい。でも,雑談として,英語では太陽は黄色と知った生徒に,後日何の脈絡もない状況で,不意に次の文を完成させてみるとどうなるだろうか。

 (1) 太陽の色は ______

 (2) The color of the sun is ______

 もし(1)で「赤」,(2)で“yellow”と答えたら,感心してあげたい。大げさに聞こえるかもしれないが,異文化理解に基づいて,実際に英語を使っていることになる。

シンプルな英語で思考を深めてみる

 また学習者としての自分に戻る前に,一つ確認したいことがある。猫は家の中でペットにして飼っても心配ないのだが,虎はそうはいかない。ことわざには「猫は虎の心を知らず」がある。このように猫と虎は全く異なる動物だ。

 さて,ある時,すでに子供時代を過ぎて大学生になっていたのだが,外国で出版された子供用の絵本に興味をもち,手当たり次第に眺めていた。すると衝撃的な文が目に入った。

 A tiger is a cat.

 これを見て何と思ったのだろうか。面白いと思って引かれたことは間違いない。英語話者は虎と猫では,日本人以上に共通性を見出しているのかもしれないと思った可能性はある。大人の場合は不可解なことに対しては,正しいかどうかは別にして,何か理屈をつけて筋が通るような解釈を試みることがある。さて子供の場合はどうだろうか。

 誤りだと思うのだろうか。冗談だと思うのだろうか。論理的な考えをする生徒は猫の仲間を思い浮かべるだろう。英語に関心のない生徒は英文として理解しようとはしないで,単に動物のtigerとcatだけを拾って何とも思わないかもしれない。

 辞書で確認すると,catには「ネコ」と同時に「ネコ科の動物」も示されている。日本語なら「虎はネコ科の動物です」となり,これでは知識を伝える理科の授業になる。英語の表現だからこそ面白さが加わる。このような英語の授業ならではの特色は出したいものだ。

 ネコ科の動物は他にもいるのでA lion is a cat.とも言える。そうすると,もしcatに「ネコ科の動物」の意味があることを理解できない生徒にとっては,二つの動物をつないだA tiger is a lion.も正しいように聞こえてしまうかもしれない。いずれも獰猛な動物であることは共通している。

 さてここで,学習者の視点から教える側の視点に立場を変えてみたい。このシンプルな英語を使って,英語で論理的な思考をさせてみたくなった。例えば,次の英語を聞いて正しいか誤りかを判断させることはどうだろうか。

A tiger is a cat.
A lion is a cat.
So a tiger is a lion.

 よりわかりやすくして,次のような論理立てにしてはどうだろうか。

A tiger is an animal.
An animal is not a plant.
So a tiger is not a plant.

 いずれにしても,このような簡単な英語でも論理的思考をさせることができそうな感じがする。

 だれでも英語を学んでいた時には興味をそそられたことがあるはずだ。それを思い出して利用しない手はない。それは個人的なことかもしれないが,生徒と共有し,更に自分が感じた以上に興味をそそるようにする工夫も考えられそうだ。生徒としての見方と教師としての見方を結び付けたいものだ。

■引用文献■
Ervin-Tripp, S. M. (1968). An analysis of the interaction of language, topics, and listener. In J. A. Fishman (Ed.), Readings in the sociology of language. The Hague: Mouton.

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