玉川大学 客員教授坂下 孝憲

肌で感じた世界のことば・文化(6)
魔女のイメージは?
~アメリカ・セーラム市の訪問から~

 「魔女」と聞いてイメージするものは? と尋ねると,どんな答が返ってくるだろうか。小学校外国語活動でよく利用されるイギリスの童謡集 Mother Goose (マザーグース)の歌にも魔女が登場する。

Ten Little Witches

1. One little, two little, three little witches,

Four litle, five little, six little witches,
Seven little, eight little, nine little witches,
Ten little witches’re flying.

Ten little, nine little, eight little witches,
Seven little, six little, five little witches,
Four little, three little, two little witches,
One little witch is flying.

 この歌を楽しく口ずさむ小学生にとっては,「魔女(witch)」はどのようなイメージだろうか。ちょっと古いが,「奥様は魔女」というアメリカの人気テレビ番組が日本でも放映されていた。その後,児童文学の「魔女の宅急便」がアニメ化されるなどして「魔女」はなじみの深い存在となってきた。最近は「美魔女」などという言葉もあり,何か神秘的で魅惑的な力をもつ女性に対しての呼称として使われている。この場合は,比較的肯定的な意味合いが強く感じられるが,歴史を遡ると,中世の時代の「魔女狩り」は決して明るいものではなかった。

 東京都の大田区に勤務していた時,中学生の海外派遣という制度があり,32の中学校より選抜された生徒を引率して,姉妹都市であるアメリカのマサチューセッツ州のセーラムという都市を訪れた。

 セーラム市はアメリカ合衆国マサチューセッツ州の州都ボストンの北東26㎞に位置し,鉄道で30分,車で40分ほどのところにある。人口は約4万人でボストンのベッドタウンになっている。1626年の入植によってできたアメリカで最も古い町の一つであり,18世紀末から19世紀初めにかけて,独立直後のアメリカを代表する貿易港でもあった。

 このセーラムを有名にしているものの1つとして「魔女」がある。本来「魔女狩り」という忌まわしく残酷なイメージを伴う負の歴史を背負っているものであるが,現在はそれをセールスポイントとしている。町の中には,魔女裁判を演ずる劇場があったり,様々な商品にも魔女のマークをつけて販売されている。この訪問をきっかけに改めて歴史の本を紐解き,「魔女狩り」について調べてみた。

セーラム高校の校門
セーラム高校の校門

魔女を利用したおみやげ品
魔女を利用したおみやげ品

 魔女狩りという現象は西欧で16世紀後半以降,そしてアメリカでは17世紀以降に本格化した。この時期は中世から近代への過渡期にあたり,キリスト教による異教や異端の弾圧,伝染病などからくる社会不安,近代的な思考の誕生など様々な要因が複合的に絡み合う中で起こったものである。以下セーラムでの魔女裁判 (Witch Trial) について概略を述べる。

 セーラムの悲劇は,1692年2月,セーラム村の教区牧師サミュエル・パリスの 家から始まった。パリス牧師の9歳の娘エリザベスと,姪で11歳のアビゲイル・ウィリアムズら数人の少女がオカルトまがいの占い遊びに興じていた。

 少女たちは,ガラスのコップの中に入れた卵白を水晶に見たて,結婚相手の職業などを占い楽しい時を過ごしていた。これはパリス牧師宅の西インド諸島出身の使用人ティチュバから教わったものであった。17世紀のニューイングランドの人々は,病気の治療や無くしたものを探し出す目的で活用したりするなど,占いや魔術の力を信じていた。

 ところが,この占いの中で,卵白の中に,棺の形をした亡霊のようなものが浮かび上がり,少女たちはパニックに陥った。エリザベスとアビゲイルにヒステリーの発作(痙攣=けいれん,金切り声,恍惚状態など)が起こり,医者の診察の結果,魔術のせいだとされた。そのうち,他の少女たち(1人は婦人)にも同じような発作が現れ始めた。パリス牧師が,少女たちに魔術をかけている者の名前を聞いたところ,初めのうち少女たちは答えられなかったが,やがてティチュバと他の2人の婦人の名前を出した。

 2月29日,3人の婦人に対して逮捕状が出された。予備尋問はジョン・ホーソーン (作家ナサニエル・ホーソーンの4代前の祖先)とジョナサン・コーウィンによって行われた。ティチュバは魔女であることを認めたが,他の者は否認した。

 その後,さらに多くの人々が告発され,懐疑と恐怖の増幅した雰囲気が,近隣の町や村にも広がっていった。こうして,結局200名が逮捕され,27人が裁判で魔女(男性も含む)とされ,有罪となり,うち19人が絞首刑になった。このほか4人が刑務所内で死亡,また起訴状に答えることを拒否したため,体の上に石の重りを乗せる拷問で,1人の老人が圧死した。

 この魔女旋風は翌年の5月まで続いたが,人々が裁判への不信や不満を抱く中で終息に向かっていった。

 ここで大田区とセーラム市が姉妹都市になった理由を述べたい。2つの都市を結ぶ人物は大森貝塚を発見したとして有名なモースである,モースは1877年(明治10年)横浜から東京に向かう途中,大森駅を過ぎたあたりで線路際の切り割に貝殻が堆積しているのを窓ごしに発見し,発掘を行った。

 1984年に大田区郷土博物館とセーラム・ピーーボディ博物館が姉妹館提携を結び刊行物や資料の交換,特別展の開催など交流を深めてきた。これを土台に1991年大田区とセーラム市は姉妹都市となり,中学生や市民の交流へと発展させてきた。

 モースは1838年にメイン州ポートランドで生まれ育ったが,1868年セーラムに家を建て,ここが彼の生涯の「ホーム」となった。日本に出発する8年ほど前のことである。モースはアメリカの動物学会ではかなり名前の知られた存在であり,1867~1870年にピーポディ科学アカデミー(後のセーラム・ピーボディ博物館)の学芸員,その後1880年に館長に就任した。大森貝塚を発見した1877年はモース39歳の時であり,この年から2年間東京大学の動物学の教授として講義を担当した。モースは生涯日本を愛し,アメリカでも日本でも人々を惹きつける力をもった,まさに「磁石のような人」と言われている。

七破風の屋敷
七破風の屋敷
(セーラム生まれの作家ナサニエル・ホーソンの作品の
題名となっている)

セーラムの港
セーラムの港

 このようにセーラムは,モースを通して私たち日本と深い関わりをもつが,歴史をたどって驚いたことがもう一つあった。それは,江戸時代の鎖国の時期にあたる1801年に,なんとセーラムで建造された船,マーガレット号が長崎を訪れていることであった。社会科の時間には,長崎の出島に入港を許されているのはオランダと中国のみと習ったが,オランダ東インド総督府の傭船として,オランダの旗のもと長崎に向かったものである。実際はアメリカとの交易が行われていたということである。その時に,日本から絵や版画,西洋のデザインで作られた漆づくりの家具などを持ち帰っている。そこで運ばれたものがセーラムのピーボディ博物館やボストン美術館に数多く残されているのである。

 今回は,小学生が授業で口ずさんでいる歌に登場するwitch「魔女」にまつわる文化や歴史について取り上げてみた。外国語活動においては,外国語の学習を通して感じ取ることができる言語や文化の違いについて,教師がより強い意識や視点をもつことによって,子どもに異なる文化への気付きを与えるとともに,異なる言語を学ぶことの喜びを感じさせることができると考える。

6回にわたって「肌で感じる歴史・文化」と題してエッセイを書いてきたが,様々な視点から言語や文化の違いを感じることができることに気付いていただければ大変光栄である。

<参考文献>

「私たちのモース」(1990年)大田区立郷土博物館編集・発行(1973)

「セーラムの歴史」(1993年)同上

「図説 魔女狩り」(2011年)黒川正剛著 河出書房新社

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