上智大学 名誉教授笠島 準一

忘れられない雑談と授業

 授業中の雑談や何気なく言われたコメントには心に残るものがある。

 日本では昔は変わった先生が多かったようで,音声学の授業での雑談は忘れることができない。その先生曰く,教育学を教えていたある先生の試験では,いつも,「生徒にはどのようにして教えるべきか」と出題されたそうだ。忘れるように教えると書けば合格だったとか。それ以外の答案は不合格だったらしい。古き良き時代だったのだろう。

 でも先生は教えたことを忘れてしまわれると困るはずだ。真意は何なのだろうか。特に英語教育の話ではなかったと思うが,自分なりに次のように解釈する。

 文法を例にとると,私たちは中学校の授業で代名詞の変化表を暗記した。I my me mine,you your you yours,he his him his ... と復唱して覚えた。でも今ではこの変化表を思い浮かべなくても正しく使える。この表を忘れてしまっている。忘れるように教えるとはこのようなことかと思っている。

留学中の授業から

 アメリカの大学に留学中,言語学の先生が類人猿の言語について説明をしていた。手話を使ったり,コンピュータを使ったりして人間とある程度のコミュニケーションはできる。大いに興味を抱いたある学生が細かい内容を質問しはじめた。先生は答えることができず,正直にわからないと言って降参してしまった。でもその後の小さな声での一言が忘れられない。I don’t have friends among monkeys.クラスは爆笑の渦だった。負け惜しみをウィットで返したこの先生のことは今でも楽しく思い出す。

 外国語教育法の授業ではRobert Ladoの一言はショックだった。何と言っても教授法の世界的な権威なので,授業からは効果的・効率的に外国語が身につく,これぞという外国語教授法が見つかると期待していた。若気の至りということか。

 教授法とは言語学や心理学などの知見から実験や実践に基づく深遠な理論と思っていたのだが意外な一言。教授法は誰にでも簡単に作ることができるとのことだった。結局,「一つの原則をすべての指導に当てはめればよい」とのコメント。目からうろこの感を得た。

 定期試験では様々な教授法について出題される。その答案の書き方のアドバイスも納得した。一般的には,短い答案なら知識や理解が不十分と見なされてしまうので,知っていることをできるだけ詳しく書こうとする。しかし詳しい記述は避けるように指導された。評価のポイントは各教授法の本質をできる限り短く書いてあるかどうかだった。今から考えると,知識力よりは思考力・判断力が求められたのだろう。そのような指導者だった。

 配布されたハンドアウトも的を射ている。今でも文法を教えることが議論になるが,「文法は教えてはいけない」あるいは「文法は教えるべきだ」との立場から,それぞれの根拠を主張し合っても,最終的には決着しない。その時は授業で配布されたハンドアウトにあった次の図を思い浮かべる。

Ladoにとっての文法の指導

Ladoにとっての文法の指導

 図では「教えるな の立場」を「付随的」とし,「教えよ の立場」を「計画的」としてある。この考え方は小学生に文法を教えてはいけないのかとの悩みから解放してくれる。

 例えば次の歌を授業で歌ったとしよう。

 One potato
 Two potatoes
 Three potatoes
 Four!
 Five potatoes
 Six potatoes
 Seven potatoes
 More!

 もう1曲。

 One little, two little, three little Indians
 Four little, five little, six little Indians
 Seven little, eight little, nine little Indians
 Ten little Indian boys.
 Ten little, nine little, eight little Indians
 Seven little, six little, five little Indians
 Four little, three little, two little Indians
 One little Indian boy.

 数の数え方を指導するために選ばれたのだろう。でもここでは複数を示す s も付随的に扱っていることになる。2つ以上のときは[z]がつくと言ったとする。そうすると文法を教えたことになるのだろうか。

 もしたまたま歌に含まれていたので説明を加えたくらいなら,上記の表では「付随的」となり,これは「教えるな の立場」と考えることになる。

 でも,もし複数の説明をしないで,ただ歌っただけで,文法については何も言わなかったとする。その場合は文法を教えなかったことになるのだろうか。

 必ずしも教えてないと言えない場合がある。図の中にある「暗黙的」に相当する場合もある。少なくとも2曲歌ったので,何らかの気付きがあったとしても不思議ではない。この「暗黙的」は「教えよ の立場」と考えることになる。

 一般的には文法を教えると聞くと「計画的」「明示的」「演繹的」の授業風景を思い浮かべがちだが,それ以外にも文法を扱う道があることを心に留めておきたい。

 ちなみに,「帰納的」と「演繹的」とではどちらが効果的かの論争もなつかしい。「明示的」で「演繹的」に教えるとすると,ポテトが1個の場合はpotato,2個以上の場合はesをつけてpotatoesとする,といった旨の説明を先生が先にすることになる。もし「明示的」でも「帰納的」に教えるとすると,1個の場合のpotato,2個以上の場合のpotatoesを対比させ,その違いから生徒が自ら文法規則に気づくように指導することになる。

 「演繹的」は効率的に学べるが忘れやすい,「帰納的」は時間がかかるが自ら発見した規則なので忘れにくいと指摘される。この2つのアプローチは相反するものだがLadoは「同時」を勧めている。当時の記憶は定かではないのだが,恐らく,最初は「帰納的」に提示するが,続いて「演繹的」な指導をすることを意味していたと思う。いずれの場合にも強みと弱みがあるので,同時に用いることは現実的だろう。

「同時」を超えて

 もう一歩踏み出したい。次のような英語を扱うことになったとしよう。

(1)

This is Taro’s potato.

(所有を表すs)

(2)

Taro likes potatoes.

(三人称単数形を表すs)

(3)

He bakes potatoes in the microwave.

(前置詞句)

 このような英語が一文だけだったり,当該授業の目標でなかったりする場合は,特に言及する必要はないだろう。でも,もしこのような英語を扱う状況になった場合にどのような対処の仕方があるのだろうか。

 上述の「帰納的」と「演繹的」を同時に行うこと自体は現実的な考え方と思われるが,授業のレポートとして選んだ論文で目にした次の図も忘れがたい。ごく簡潔に言えば,日本語と英語の規則が似ている場合は「帰納的」に,日本語にはない,難しい規則の場合は「演繹的」に教えることを示している。(Fischer, 1979, p. 101)

言語構造

外国語の規則は母語と似ている

外国語の規則は母語と異なるが,
母語より簡単

外国語の規則は異なり,母語と同様,
あるいはそれ以上複雑

教え方

帰納的。母語から正の転移を促すため,
母語の構造と比べる。

演繹的。負の転移を避けるため,
母語の構造に言及しない。

 なお,「正の転移」とは,母語の規則を当てはめても外国語を正しく言えること,「負の転移」とは母語の規則を当てはめてしまい,外国語では誤ったことを言うことを意味する。

 同じsでも上記の(1)なら「太郎の」の「の」なので母語の規則と似ているため,日本語からの正の転移となる。でも(2)の三人称単数形のsは母語にはなく,(3)の前置詞句は日本語の語順でmicrowave inと言いがちで,これは母語から負の転移となる。結局,文法事項によりその都度考えればよいことになる。この考え方にも限界があるのだが,授業で指示された課題のおかげで目についた考え方だった。

 以上,一部だが昔受けた授業を振り返ってみた。書き終えてこれまでにない気分になっている。内容確認のため読み返していると何か学生時代に若返った感触を瞬間的に感じる。雑談と同様,この雑感も忘れたくない。

■引用文献■
Fischer, R. A. (1979) The inductive-deductive controversy revisited. The Modern Language Journal, 63(3), 98-105.

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