玉川大学 客員教授坂下 孝憲

肌で感じた世界のことば・文化(4)
ハンガリー滞在記
~ハンガリー人のルーツは?~

Jo napot kivanok! ヨーナポト キヴァーノク(ハンガリー語:「こんにちは」)

 今から8年前,ハンガリーの大学で日本語を教える機会を得た。場所はハンガリーの首都ブダペストとオーストリアの首都ウィーンのほぼ真ん中に位置するジュールという都市である。外国語としての日本語教授法について学んでいたこともあり,東欧のどこかの国で日本語を教えたいという気持ちを漠然ともっていたが,縁がありハンガリーに決まった。当初,ハンガリーについては東欧の国,ハンガリー舞曲程度の知識しかなく,ほとんど無知の状態であった。ましてやジュールという地名を聞いたのも初めてであった。決定から渡航日まで2カ月ほどしかなく,情報誌と,観光局で情報を得ながら,ビザの取得,大学とのメールでの打ち合わせ等あわただしい日が続いた。

 まず基本情報として次のようなことを知った。地理的には,ほぼヨーロッパの真ん中に位置し,現在では中欧ヨーロッパと呼ばれるようになっている。また,スロバキア,ウクライナ,ルーマニア,スロベニア,クロアチア,セルビア,オーストリアの7か国と国境を接した内陸の国であり,ハンガリー平原の中に東京23区を包み込むほどの大きさのバラントン湖がある。また.国土面積は日本の4分の1ほどで,人口は約1,000万人である。主要言語としてハンガリー語が話されている。

 出発までにハンガリー語に少しでも慣れたいと思い,テキストを買い読み始めたが,今までに学んだ言語との関連性が感じられず,挨拶の表現を覚える程度で終わり,現地で継続することとした。なんとかハンガリー大使館でのビザの取得も間に合い,出発の日を迎えた。大学では初めての日本語授業の立ち上げということで,日本語の教科書,日本文化に関する資料,書道の道具そしてコンピュータと小型のプリンターをもって成田を飛び立った。

 ハンガリーへの入国の方法は,直行便がないため,滞在先のジュールがウィーンから列車で約2時間ほどの距離であることを踏まえ,ウイーンへの直行便を選択した。

 2008年9月に,ジュールに到着した。駅では,大学関係者とともに,日本に留学経験のあるJ夫妻も迎えてくれた。J夫妻は大学の日本語の科目設置に向けて尽力してくれただけでなく,私の滞在期間中も様々な面で生活を支えてくれた。まずは夫妻の車で,大学が用意してくれたアパートまで送ってもらった。その後,近くのミニスーパーで基本的な生活用品や食材,ビールやワインを購入した。アパートは住宅街にあり周りには食事をできるレストランなどはなく,初日から学生時代以来の自炊生活が始まった。部屋には,冷蔵庫,テレビ,洗濯機,台所用品などは揃えてあったので当面の生活は困ることはなかった。

ジュール市庁舎
ジュール市庁舎

セーチェニ広場
セーチェニ広場

 到着の翌日,大学で学長・副学長に挨拶をした。副学長が窓口となって丁寧に対応してくれ,大学内を案内してくれた。到着して一週間後授業が開始となった。果たして何人の学生が履修するか心配していたが,20人ほどの学生が集まった。動機はアニメ,日本の歴史,スポーツ等様々であるが,日本語に興味をもっていてくれることがうれしかった。なんとか興味を持続させたいと思い,独自のシラバスを考え,時々折り紙,書道,箸の使い方など日本の文化に関する指導も組み入れた。日本語指導においては,できるだけ日本語を使うこととしたが,必要に応じて英語を使用した。ハンガリーの学生は英語とドイツ語の履修者が半々ということで,ドイツ語の履修者には英語の履修者がサポートしてくれた。

 しばらくして,大学からの要請で市民向けの講座も担当した。インターネットの募集ということであったが,説明会には50人近くが集まった。学生,主婦とともに,様々な職業の人も含まれ,日本語への関心の高さを改めて感じた。人数が多いということで2グループに分け週1回ずつ夕方授業を行うことにした。最後まで続いたのは各グループ10人ほどずつとなったが,年齢的には15歳から60歳まで広範囲で,隣国スロバキアからの参加もあった。数カ月してから,副学長より教員の希望者にも指導をしてほしいということで,数人ではあるが週1回教えることになった。このように,日本語を学びたいという様々な人々と楽しく過ごすことができた。

日本語履修の大学生
日本語履修の大学生

日本語を学ぶ中学生・高校生
日本語を学ぶ中学生・高校生

 日本語指導の他に,ハンガリー生活を充実させてくれる多くのことがあった。最も思い出 深いのが,同僚教師との触れ合いである。特に大学の外国語学科ということで,同僚教員の中にはハンガリー人の他にイギリス,ドイツ,フランス出身の教員もいた。その中のドイツ語教師のStefanとフランス語教師Ericとは特に気が合い懇親を深めた。この二人とは金曜日の夕方,ドナウ川の支流ラーバ川に浮かぶシップレストランで色々なことを語り合った。共通の言語は英語であった。食べ物はピザが中心で,ワインとビールを飲み交わした。時には,他の教員やその友人などが加わり毎回大変にぎやかな会となり,1週間の疲れを吹き飛ばし,一人暮らしの単調な生活に刺激を与えてくれた。また,この仲間で,小旅行やハイキングも楽しんだ。この他日常の生活を潤してくれたことには以下のようなことがある。

大学の周年行事やクリスマスパーティに参加した。

ハロウィーンなどでは,大学の教員同士も家族ぐるみで集まり楽しい時を過ごした。

大学では授業に参加し,ロシア語の授業や児童英語の授業を学生となって受けた。課外学習として,近隣の小学校での英語の授業の見学,英語学科の町のガイド実習などにも同行させてもらった。また,ウィーンのインターナショナル校訪問にも同行させてもらい,学校見学とともにクリスマスマーケットでの買い物も楽しんだ。

前述したJ夫妻の自宅に招待してもらい,家庭料理を味わった。郊外のパンノンハルマへの小旅行,夫妻が勤務する会社の見学,コンサートやバレーにも招待してくれた。

ブダペストにある国際交流基金事務所での日本語教育に関する研修会に数回参加した。周辺国で教えている日本語指導者が集まり,教授法について意見交換をしながら交流を深めた。

大学の秋休みや休日を利用して,ハンガリー国内と周辺の国の小旅行に積極的にでかけた。ブダペスト,ショプロンなどの国内旅行だけでなく,ブラスチラバ(スロバキア),ザルツブルグ,インスブルック(オーストリア)まで足を延ばした。

同僚教師と乾杯
同僚教師と乾杯

貴腐ワインとパプリカ
貴腐ワインとパプリカ

 次にハンガリーにおける日常生活について書きたい。単身での自炊生活のため,授業後に スーパーマーケットで食材を買い,アパートで毎日調理した。スーパーマーケットには冬の間も様々な野菜,果物が並べられており,食べ物に変化をもたらしてくれた。その中でハンガリー特産の黄緑色のパプリカ(写真)は頻繁に食材として使った。主食は日本と同じように,朝食はパン,夕食はライスと決め,日本の米にできるだけ近いものを選択し鍋で炊いた。肉を買う時は,日本のようなパック詰めはなく,大きなブロックを切ってもらう必要があった。そのため,ハンガリー語の注文の仕方,肉の種類,グラム数を言うための数字を必死に覚えた。また,行先やトイレなどの場所を尋ねるために「どこに~はありますか」という表現も必須であった。

 ハンガリーで過ごしたのは9月から3月であり,冬を越さねばならなかった。どの程度の寒さになるのかと心配していたが,寒い時でも東京の冬の最も厳しい時の寒さと同程度であり,ほっと一安心であった。部屋の中は,大きなガスストーブがあり,種火をつけておくと常に20度程度を保つことができ,温かく過ごすことができた。

 ハンガリーの生活を潤してくれたのはなんといってもワインである。日本ではあまり見かけることはないが,ハンガリーはワイン王国であり様々なワインが売られている。家庭でもワインを作っているとのことである。ワイン店やスーパーマーケットで毎回違う種類のワインを購入し,味わいながら日本語教材を作成した。有名なワインの1つとして熟したブドウから作られる甘く芳酵な香りが特徴の貴腐ワインがある。フランスのルイ14世をして「王のワインにして,ワインの王」と言わしめたという逸話がある。月1回は購入して王様の気分を味わった。

 ハンガリーはEUに加盟はしているが,使用通貨はフォリントである。1フォリントは0.64円(当時)であり,通常の3分の2程度の価格で様々なものを買うことができたのは幸運であった。

 ハンガリーのことを知るにつれ,最も驚いたことは,ハンガリーはアジア系の民族だと いうことである。歴史をひもとくと,紀元前5世紀ごろ,ハンガリー人の祖先はウラル山脈あたりから西への移動を始め,カルパチア山脈を越え,896年ごろこの地を征服し定住したとのことである。西暦1000年にイシュトバーン一世が初代国王となり,キリスト教を国教としてハンガリー王国を樹立した。騎馬民族の名残はいくつかの町で観ることができる。このことを知ってから会う人ごとに目の色を観察させてもらったが,日本人と同じく茶色の人を多く見かけた。

 アジアのルーツを示すものの一つとして言語がある。ハンガリー語(自称は「マジャール語」)は,アルファベットに近い文字を使用しているため,他のヨーロッパの国で使用されている言語と似ていることを期待したが,私の知る限り周辺の国の言語との関連性はあまり感じられなかった。ところが,少し学んでいくと,語順が日本語と同様のものがあることに気付いた。改めて調べてみるとウラル・アルタイ系の言語で日本語,朝鮮語(ハングル語),モンゴル語,トルコ語などと共通の特徴をもつことがわかった。日本語の「わたしは学生です」を英語とハンガリー語で表すと次のようになる。

英語

I

am

a student.

「私は

です

学生」

ハンガリー語

En

diak

vagyok.

エン

ディアク

バジョク

「私は

学生

です」

 このような文構造とともに,姓名や日付(年・月・日)なども日本語と同じ順であることもわかった。

 このように楽しくハンガリー生活を送っていたが,日本での仕事の都合もあり3月末で去ることになった。学生や同僚が別れを惜しんでくれ送別の会を開いてくれた。改めて国や民族を超えた人と人との触れ合いの大切さを噛みしめた。

 しかし,いよいよあと数日で帰国という段になって,予期しないことが起こった。なんと鉄道局のストライキで列車の運行が止まってしまったのである。ウィーン発の航空便の日時は決まっているのでなんとかそこへたどりつくことが絶対条件である。駅に行って尋ねても返ってくる言葉は “Nobody knows.”という返事だけであった。「神のみぞ知る」というところだろうか。ここで腹を立ててみても何も始まらない。様々な情報を集める中で,本数を限定して運行している普通列車を乗り継いでウィーンに行くことができることを知った。通常の倍近い時間がかかったが,なんとかウィーンまで到着することができた。人と人とのつながりを大切にすること,可能性を信じてあらゆる角度からトライすることの重要性を最後の最後まで痛感させてくれた。

Viszontlatasra! ヴィソントラーターシュラ(「さようなら」:ハンガリー語)

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