玉川大学 客員教授坂下 孝憲

肌で感じた世界のことば・文化(2)
実感した英語の存在の大きさ!!
~ヨーロッパ3週間バックパッカーの旅を通して~

 大学生時代から実現したいこととして思い続けていたことの1つに,バックパッカーとして世界の好きな場所を思いのまま訪ねることがあった。この思いは中学校の教員になって20年近く経ってから実現することとなった。

 学生であれば数カ月世界中を周ってみることもできたと思うが,教員となっていた私に与えられた日数は3週間ほどであった。限られた日数ということで交通網の発達しているヨーロッパを選んだ。ユーレイルパスを使えば,ヨーロッパの決められた地域をすべて列車で自由に乗り降りができ,特急列車(Intercity)で国から国への移動も簡単にできるというメリットがあった。

 この旅では,英語だけでコミュニケーションを取りながら,様々な問題にどう立ち向かうかという課題にトライするとともに,自分の思いのままに各地を訪ね色々な人と触れ合いをもちたいという思いを実現することにした。現在,学校教育において生徒に「生きる力」を育むことが課題となっている。このような教育を行うには教師自身が課題解決力やコミュニケーション能力などの人間力を身につけることも重要である。ぜひ先生方にも様々なことにチャレンジしてもらいたいと思い,24年前の体験を思い出しながら綴ってみることにする。

 旅の基本的な方針として,事前に宿泊場所は予約しない,経費を抑え人との出会いを楽しむためにユースホステル(YH)をできるだけ利用する,宿泊場所が確保できない場合は夜行列車に乗って次の目的地に行くことを決めた。あとは気ままに見たいところ,行きたいところへ行く。具体的には,映画で観たり,本で読んだゆかりの地を訪れたり,中世の建物が残された町で当時の雰囲気を感じ取ることがあった。気に入ったところは滞在を延ばすことにした。色々な国を列車や市内電車だけで周るための課題は以下の通りである。

① 時刻表を見て,接続を考えながら乗る列車を決定すること。

② 国ごとに異なる交通システムを理解すること。

③ 国が変わる時に,カード,トラベラースチェックとの使い分けをして,現地通貨に両替する金額を決めること。(当時は,通貨がユーロに一本化されていなかった。)

④ 大都市では,国際列車の出発駅が異なるため,確認して行動すること。

⑤ ホテルは駅のインフォメーション(i)で予約。またはリストをもらい直接交渉する。

 行程はパリをスタートし時計回りに周ることとした。大まかには,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,オーストリア,イタリア,スイス,そしてフランス(パリ)に戻るという風に円を描いてみた。後はその時々で考えることにした。持ち物はできるだけ軽くし,リュック1つに,トーマスクックの時刻表,情報誌を持った。安心のため,パリへの到着日と最終の出発日前日のみホテルを予約した。それでは,行程を順にたどってみる。

1992年7月30日パリの空港に到着し市内のホテルで一泊。

【第1日 ブリュッセル(ベルギー)】

 パリのノード(北)駅からブリュッセルに向かう。特急に乗りわずか2時半で到着。あまりにも速く,国が変わった気がしない。広場を中心に広がっているヨーロッパの町の作りを把握する。初めてYHに宿泊する。

【第2日 ブリュージュ(ベルギー)】

 中世の趣を残した町並みは赤色で美しい。自転車を借りて,町をかけめぐった。


ブリュージュの風景

【第3日 アントワープ(ベルギー)】

 大聖堂で「フランダースの犬」の主人公ネロが憧れたルーベンスの絵を鑑賞。老夫婦から聖堂内でのコンサートのチケットをもらって楽しむ。

【第4日 アルクマール(オランダ)】

 本物の風車を探し求めて散策した。

【第5日 アムステルダム(オランダ)】

 アンネフランクの家に向かった。隠れ部屋へと続く,本棚兼ドアなどを見て,改めて戦争による悲劇を感じ取った。

【第6日 ケルン(ドイツ)】

 教科書によくでてくるゴシック様式の大聖堂の高さに圧倒される。塔に昇り,ライン河の流れと町を一望。予定変更でライン川の船旅を決意した。

【第7日 ライン川(ドイツ)】

 コブレンツからマインツまで8時間の船旅で,ゆっくりとした時の流れを堪能した。沿岸の小高い丘に古城が時々見えてくる。途中ローレライの岩山を見て,しばし小・中学校時代の音楽の時間に思いをはせた。夜8時,マインツからフランクフルトまで移動し,夜行列車(簡易寝台)に乗るため切符を買おうしたが,当日券は発売しないとの冷たい返事が返ってきた。ここであきらめず,列車の車掌のところに行き直接交渉した結果OKがでた。簡易寝台といえども,普通の座席とは大違いだ。向かい側の寝台にいる,東独出身のエンジニアとの話がはずんだ。ドイツ統一の話などで盛り上がった。寝るまでのしばらくの間,とても有意義な時間を過ごすことができた。

【第8日 ベルリン(ドイツ)】

 朝早く到着し,ベルリンの壁が残されている場所へ向かう。崩壊後3年しかたっておらず,一部が元のまま残っていた。壁には年号と乗り越えようとして射殺された人の数が書かれている。東西冷戦時代の悲劇を思い起こした。急遽プラハに行くことに決め,情報誌を参考にベルリンにあるチェコスロバキア大使館でビザの取得にトライする。書類の提出後1時間ほどで取得できた。(現在は必要なし)


ベルリンの壁

【第9日 ドレスデン(ドイツ)】

 夕方着いたため,ホテルリストをもとに自分で探すことになった。幸い空き部屋のあるホテルが見つかりホッとした。ドレスデンは,第二次世界大戦では爆撃によって町は破壊されたということだが,戦後そのまま修復されずに残っている建物があり,大戦の悲惨さと東独時代の経済の厳しさを感じた。

【第10日 プラハ(チェコスロバキア)】

 プラハ城を散策した後,1968年プラハの春の改革運動の中心となった広場を訪れる,そこで抗議をして命を失った青年の墓碑が,民主化への道の困難さを感じさせた。午後2時頃駅のレストランで遅い昼食をと思ったが,ビール以外はすべて売り切れとそっけない返事が返ってきた。人々の意識の変革にも時間がかかるような気がした。夜行列車でドイツのローテンブルクに向かった。

【第11日 ローテンブルグ(ドイツ)】

 城壁に囲まれた町で,中世に思いを馳せる。

【第12・13日 ザルツブルグ(オーストリア)】

 高校生の頃から何度も見ている映画の場面を思い出し,ドレミの階段や修道院などを訪ねる。翌日,サウンドオブミュージックツアーに参加し,住居として使われた建物,結婚式の教会を見学。感激して連泊する。

【第14日 ウィーン(オーストリア)】

 シェーンブルン宮殿でハプスブルグ家の栄華を感じ取る。プラーター公園で映画「第三の男」にでてくる観覧車に乗る。見学の後,夜行列車に乗り込む。寝台車は満席のため,コンパートメントの座席で眠ることになる。六人掛けの座席には,コロンビア人,アメリカ人母娘,メキシコ人が座り,少しずつ打ち解けてきて,話がはずんだ。椅子を伸ばし,うなぎの寝床風に足を交差させて11時頃寝る。

【第15日 ベネチア(イタリア)】

 朝8時にベネチアのサンタ・ルチア駅に着く。ゴンドラでの市内(島)めぐり。ベネチアングラスづくりを見学。海洋交易の中心の地を実感。

【第16日 ミラノ(イタリア)】

 ミラノドーモ(大聖堂)の大きさに圧倒される。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のレオナルドダビンチの最後の晩餐の壁画をゆっくり鑑賞。YHの庭では,ベルリン在住のトルコやオランダの青年たちと会話を楽しむ。出身国の話やベルリンのことなど話がはずんだ。

【第17日 チューリヒ(スイス)】

 チューリヒ湖を取り囲む景色が美しい。ペスタロッチの銅像を見て少し教育のことを考える。YHまで親切な青年が案内してくれる。

【第18日 サンモリッツ(スイス)】

 氷河急行の出発点となる駅で保養地として有名。駅で翌日の予約席を買ったが,残念ながらユーレイルパスは使えないとのこと。スイスパスは別途購入が必要とのこと。YHに泊まる。一部屋は2段ベッド2つの4人部屋。年配のドイツ人3人が相部屋。一人だけ英語が通じたが,ドイツ語もできたらと思った。

【第19日 サンモリッツ→ツェルマット(氷河急行の旅)】

 列車は8時半発。8時間の旅で車窓の風景を楽しむ。昼食は大奮発して,食堂車でフルコースを注文。ワインを飲みながら,前の座席のブラジルの大学教授と話す。ツェルマットでは,紹介してもらったホテルに電話し,5つ目でなんとか部屋を予約。ここでは環境保護のためガソリン車は走っていない。電気自動車でホテルから迎えにきてもらった。窓に飾ってある赤い花が美しい。ホテルでベッドに横になりマッターホルンに見とれる。

【第20・21日 ツェルマット(スイス)】

 ケーブルカー,ロープウェイを乗り継いで展望台へ。マッターホルンの素晴らしい眺めに魅せられる。ハイジの世界を求めて山を歩く。散策中,イギリス人グループと出会いしばし会話を楽しむ。山に魅せられ連泊。


マッターホルン

【第22日 ベルン(スイス)】

 スイスの首都ベルンの町を散策。ベルンの名は熊に由来とのこと。日数がなくなり,南フランスはあきらめ,TGVに乗車しパリに直行する。

【第23日 パリ(フランス)】

 パリ市内見学。オルセー美術館でマネ,モネ,ルノワールの絵を堪能。夕方,飛行機に乗り込み帰国の途につく。


ユーロ以前の旧紙幣 フランス・フラン/ドイツ・マルク/チェコスロバキア・コルナ/イタリア・リラ

 以上,大ざっぱに各都市の印象を書いたが,どこの国においても英語によるコミュニケーションが成立し,改めて英語の存在の大きさを感じた。また,小学校外国語活動の目標にある「積極的にコミュニケーションを図ること」の必要性や楽しさも実感した。この旅行の後20数年経って,ドイツ,チェコを再び訪れる機会があった。EUとして通貨が統一され,国境もないに等しい状態になっていた。また,旧東ドイツのドレスデンの復興が進み,プラハでの人々に意識の変化も見られた。しかし,インターネットが普及して情報が得やすくなっている一方で,流動する世界情勢の中,ヨーロッパも新たな課題と向き合っている。私自身も,新たな課題を設定しながら,再度,ヨーロッパ以外の国も含めてチャレンジングな旅をしたいと考えている。

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