道徳授業,こうすればできる!

比治山大学准教授 森川 敦子

まとめにかえて
子どもの本音を大切に ~子どもとともに考える道徳授業を目指して~

道徳授業の本音と建前

 以前,『道徳授業の“失敗あるある”』の項でも少し触れたが,先生方の悩みの一つに道徳授業における「本音と建前」の問題がある。「道徳授業で,子どもは建前的な意見しか言わない」「よいと分かっているようなきれいごとしか言わない」「道徳授業と日常生活は別物。だから道徳授業は道徳的実践に結びつかない」など,建前的な意見に関する悩みがある一方で,「本音が出されると収拾がつかなくなる」「子どもが調子に乗ってしまうのではないか」「本音を認めると道徳でなくなってしまう」など,道徳授業で子どもたちの本音を出させることへの不安もうかがえる。
 最終回となる本項では,子どもの本音を大切にすることの意味について考えてみたい。

本音に隠された“鍵” ~「できない理由」に目を向ける授業づくり~

 小学校現場に勤め始めた頃,私は道徳授業に悩んでいた。毎時間,善い行いや道徳的価値の大切さをどう子どもに伝え,どう理解させるか,そればかり考えていた。そう思えば思うほど,子どもは自分の中にある弱さや醜さ,疑問など素直な思いを出せなくなり,授業が硬直化してしまうことに,私自身が気付いていなかったのだ。
 道徳について勉強するようになって,子どもの本音の中にこそ,道徳性を高める鍵が隠されていることに気付いた。特に,「できない理由」を大切にする姿勢は,私の授業を大きく変えた。子どもの「できない理由」に耳を傾け,教師も友だちもその思いにしっかりと共感していく。子どもの考えは,「なるほど。そう考えたんだね」と受け止め,「今の考えを他の人はどう思いますか」と,子どもたちに戻していく。教師は子どもの考えを引き出し,繋いでいけばよいのである。
 どの子の中にも「できない自分」,「弱い自分」とともに「できるようになりたい自分」,「よりよくなりたい自分」が存在している。授業で本音を出させることが良くないのではない,出させ方が問題なのだ。

 授業中,本音を出し合う中で,「自分も同じだ」と出された本音に寄り添う雰囲気ができてくるにつれ,子どもは安心して自分の思いを語り,道徳授業を楽しみにするようになった。不思議なことに,授業では本音とともによくなりたい自分,目指したい自分の姿も多く語られるようになり,子どもの考えが自然と高まっていった。何より教師自身が,子どもの素直な思いや考えに触れられる道徳授業を楽しみにするようになった。

 「できない理由」も大切にしながら,子どもとともに生き方について考えていく,そんな道徳授業を楽しめる教師になってほしい。

参考文献:森川敦子「コラム5 私と道徳授業」,鈴木由美子・宮里智恵編『やさしい道徳授業のつくり方』渓水社,2013年,p117。

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