[本文より] 近代的な制度や理念が,なべてそうであるように,教育には神話や誤解や軽信が,びっしりがっちり付着している。
例えば,学校・教室という空間,教科と曜日によって分断された時間割,さらには教師と生徒という関係の絶対性など。私たちは,これらを学校や教育を成立させている不可欠な要件のごとく受忍している。ここでは,その条件が必須のものかを問うことは,構成要件自体を否認する無効な論議として忌避されることになる。すなわち,「学校」や「教科」や「教師」の存在を前提としない「教育」のパラダイムは構想しえないという固着した観念によって神話も実態も延命してきた気がする,これまでは。
でも一方では,神話の由来や現状の内実に深く降下することにより,未だ陰謀のようにではあるが,いわゆる構造改革のようなものが模索されている。例えば,地域に拡がるオープンスクール,柔らかなカリキュラム編成,子ども主体の授業観…のような。
「美育文化」編集長 穴澤秀隆